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V.I.Pにご用心
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Ⅸ
一方、嗄れ声の男は険しい表情で携帯電話を握り締めていた。
「私を…あまり怒らせないほうがいい」
電話の向こうで、由樹彦の笑い声がした。
『あなたは、脅迫の仕方を間違えましたね』
「何⁉」
男の眉がぴくりと跳ね上がった。
『我が家は根っからの悪党ですからね、怨嗟の声には慣れているんです。些細な醜聞に揺らぐような家ではありません。たいていは黙殺されるのがオチですよ。ただ…』
由樹彦は楽しげにクスクス笑って言葉をつないだ。
『我が家の不名誉についてご忠告くださったお礼に、いいことを教えましょう。我が家は気紛れが多いので、つまらない噂と黙殺してくれればよし、下手をすると我が家の総力をあげて発信源を狩りだしにかかるかもしれません。そうなると、ちょっと厄介ですよ』
淡々と話す彼に対して男は重苦しく押し黙り、一言も発さなくなっていた。
由樹彦はまた小さく笑った。
『僕は生憎そういうくだらないことには興味ありません。あなたがこれから何をしようと、それも僕には興味のないことです。でも…』
由樹彦の声に、くろうととは違う恐ろしい凄味が滲んだ。
『―――僕は、自分の愉しみの邪魔をするものを笑って赦せるほど寛容ではないんです。気に入ったおもちゃを横から取り上げられるのは非常に不愉快ですし、ましてこんな脅迫を受けるのは心外です』
男の背筋に冷たいものが走った。ごくりと息を呑んだ次の瞬間、乗っていた車が甲高いブレーキ音とともに急停車した。
「な…なんだ、ありゃあ!」
運転手の叫びに顔を上げると、目の前に、ちょうど道をふさぐような格好で横付けされた大型のド派手な長距離トラックがあった。その前には、悠然と煙草に火をつけるスーツ姿の長身の男が一人立っている。
運転手が車をバックさせようとミラーを覗くと、今度は後ろから猛スピードで近づいてくる一台の車が飛び込んできた。
「しゃ、社長! あれ…ッ‼」
真後ろで止まった車から降りてきたのは、捕えておいたはずの祐介だった。
思わず身を乗り出した嗄れ声の男の耳に、再び由樹彦の冷ややかな声が届いた。
『あなたが誰かは知りませんし、知りたいとも思いません。身の程をわきまえてくださるなら、今回のことは愚かな人間の戯れと忘れて差し上げます。ただし、このうえまだ僕を不快にさせるおつもりなら、そのときは…』
バックミラーに祐介の姿が映っていた。彼は、服の下からおもむろにY字型のスリングショットを引き抜くと、いきなり弾丸を至近距離からリア・ウインドーに打ち込んだ。
小さな鉄の弾丸はウインドーを突き破り、嗄れ声の男をかすめて前のシートの背もたれに突き刺さった。
『断じて、容赦はしません』
由樹彦の声を遠くのほうで聞いていた男の手から葉巻が滑り落ちた。
「オッサン、おれの携帯電話…」
ドアを開けた祐介が、通話中の表示を見て顔色を失った。ひったくるように携帯電話を奪い取った彼は恐る恐る言った。
「………あの………おれだけど…」
『ああ、有栖川さんですか。思いのほか元気そうですね』
「じ…実はゆーべ、ちょっとしくじって…」
『僕は、あなたのおかげで追試を受けるはめになったんです。こんな屈辱、生まれて初めてですよ。ちゃんと責任は取っていただきますからね』
取りつく島もない由樹彦の口調に、祐介はうっと呻いて押し黙った。すると、少し間を置いて由樹彦が言った。
『―――そこに、僕を脅迫した方はまだいらっしゃいますか』
「え……いるけど」
『替わってください』
祐介は言われるまま、車のシートで呆然としている嗄れ声の男に携帯電話を渡した。
由樹彦は男に向かって短く言った。
『これだけは間違えないでください。命拾いをしたのは、あなたのほうですからね』
ブチッと音をたてて着信が途絶えた。
男の手から携帯電話を受け取った祐介は、頭を掻いて溜め息混じりに呟いた。
「怒ってるなー…」
「ああ、怒ってるな」
トラックの前に立っていた浩平が、いつのまにか歩み寄ってきて頷いた。
「オッサン、由樹彦を強請ろうなんて無謀だぜ。見かけはガキだけど、あいつは正真正銘悪魔の申し子みたいなヤツなんだから」
「それは、もう充分わかっただろう」
二人の言葉にも男は青ざめた顔でうなだれているだけであった。祐介は肩を竦め、運転手に向かって車を出すように告げた。
雨は知らぬ間にあがり、アスファルトの路面には微かな乳白色の靄が漂っていた。
走り去る車を見送った祐介は、うんと伸びをし、後ろで煙草を燻らせている浩平を振り返った。
「お迎えごくろーさん」
「人騒がせなヤツだな」
浩平が渋い美声を低く響かせた。
「心配した?」
祐介が不敵に笑うと、浩平は呆れ顔で溜め息をついた。
「おまえの心配をして来たわけじゃない」
「まさか…由樹彦の命令…ってわけねーよな」
浩平は再び溜め息をつき、顔をしかめた。
「いくらおれでも、あんな機嫌の悪い由樹彦とホテルでカンヅメになっている気はない。ただ、それだけだ」
「言えてる」
笑い転げた祐介は浩平と肩を並べ、雨上がりの舗道を歩きだした。
そんな二人を背後から見守る一台の車があった。
運転席の平凡なサラリーマンふうの男はしきりに携帯電話で話し込んでいる。その相手は、2ブロック後ろを走行中だった。
その人物は報告を聞くと、抑揚のない落ち着いた口調で言った。
「そうか―――やはりな。由樹彦を甘く見るからだ」
足を組み替え、上質の革張りのシートに身を沈めるその顔はまったくの無表情だった。
「美樹彦がこの失態を赦すはずがない。その男の逃亡の手助けをしてやれ。航空券を手配してやるといい。…無論、海外だ」
彼はふと息をつくと、冷ややかな眼差しで呟いた。
「―――向こうに着いたら、始末しろ。奴はこの先、我が家のためにならない」
彼を乗せた車が、見張りの男の車の脇を静かに通り抜けた。
湿った舗道を歩いている祐介と浩平のすぐそばに、見慣れない高級外車が滑るように近づいてきた。
車が車体を舗道に寄せると後部座席の窓が音もなく開き、中の人物が二人に声をかけた。
「弟が世話になっている」
その横柄な物言いに、祐介が憮然とした顔つきで車を覗き込んで相手を見据えた。
「―――おたくは?」
相手は運転手に車を止めさせ、二人を鋭く見返した。
「大道寺亜樹彦。由樹彦の長兄だ」
祐介と浩平は顔を見合わせた。
「乗りたまえ。遅れ馳せだが、挨拶をしておきたい」
大道寺亜樹彦と名乗ったその人物は、車のドアを開け、自分の席を譲って向かい側の対面シートに腰を下ろした。その有無を言わさぬ様子に二人は肩を竦め、とりあえず車に乗り込んだ。
車は、静かに動きだした。
「由樹彦は、君たちを困らせているのではないか?」
「……どーゆう意味?」
祐介が上目遣いに聞き返した。
亜樹彦は静かに目を伏せ、吐息を洩らすように言った。
「我儘な子供の子守をさせるには、器が違いすぎるという意味だ」
亜樹彦は二人をじっと見据えた。それは、今までにない威圧感のある眼差しだった。
「とくに君は、国際的なエージェントの経験があるそうじゃないか」
鋭い眼差しを注がれた浩平は顎を上げ、黒いサングラスを鈍く光らせた。
「…あんたら兄弟は、おれたちのことを本当によく知っているようだな」
亜樹彦は再び黙って目を伏せた。
「―――由樹彦は、君たちにどんな条件を出した? 場合によっては、こちらはその倍、出す用意があるが」
「それって……あっちを見限って、こっちに乗り換えろってこと?」
祐介がクッと喉の奥を鳴らして言った。だが、亜樹彦は顔色も変えず祐介を見返して応えた。
「それなりの、相応しい地位を提供しようと申し出ているだけだ。…ロマノフ王朝の末裔の血が泣かぬようにな」
ふと祐介が不愉快そうに眉を寄せたとき、傍らの浩平が低く響く渋い美声で言った。
「―――止めてくれ」
サングラス越しの視線が鋭く亜樹彦を射抜いていた。
亜樹彦は、静かに運転手に停車を命じた。
「悪いがおれたちは今、雇われの身だ。身の振り方を勝手に決められる立場にはない」
そう言って、浩平は祐介を促すように顎をしゃくった。
「……残念だ。君たちほどの人物を埋没させておくのは惜しいのだが」
無表情の亜樹彦はシートに深くもたれたまま、身じろぎもせず淡々と言った。
浩平は、飄々と肩を竦めた。
「お飾りなら、ほかを当たってくれ。少なくとも、おれは男を飾りたててやる趣味はない」
「―――由樹彦は、よほど上手く君たちを手懐けたようだな」
溜め息をついて目を伏せた亜樹彦の言葉に、浩平はククッと笑った。
「あいつは、おれたちを手懐ける気などないらしい。とりあえず支配や服従を強要されるよりはマシだな」
二人が舗道に降り立つと、亜樹彦を乗せた高級外車は近づいてきたときと同じように、静かに遠ざかっていった。
Ⅹ
浩平は新しい煙草を取り出し、おもむろに火をつけた。
祐介は頭の後ろに両手を回し、うんざりした口調で言った。
「…あの兄にして、あの由樹彦ありって感じだな」
「ああいう家庭環境で育つと、ああいうとんでもない性格になるんだろう」
「真ん中ってのも、やっぱ、あーなのかな」
祐介の呟きに浩平は肩を竦めた。
「由樹彦が言うには今度の一件、その真ん中が一枚噛んでるらしい。狙われたのはおまえだけじゃないしな」
「えっ…じゃあ、おまえも…」
「昨夜、黒服に襲われた。おまえを拉致したのも連中の一味だろう」
浩平が面倒臭そうに言って煙草をくわえると、祐介は深い溜め息をこぼした。
「……どーりで……。出来すぎてると思ったんだよな~…けっこーすんなりホテルまで行けたから、ちょーラッキー♡って―――」
「それで一服盛られたわけだ」
浩平の容赦ないせりふに祐介はうなだれた。
「おまえは女を見る目がない。そうやって、女で人生棒に振るタイプだな」
浩平が意地の悪い口調で畳みかけると、祐介はがっくりと肩を落とした。
「…もっといたわれよ。東京湾に沈めるよりひどい目に遭わすって脅されたんだから」
「よかったな、外国に売り飛ばされなくて」
浩平は皮肉っぽい笑みを浮かべた。すると、祐介はいきなり顔を上げた。
「ちくしょークサクサするッ! こーなったら思いっきり憂さ晴らししてやる‼」
「憂さ晴らし?」
「コーヘイ、おまえ車で来たんだろ?」
「ああ、おれのは1ブロック向こうに止めてあるが…」
祐介は聞くまでもないというように手を挙げ、ニヤリと笑って言い放った。
「どーせ、ほとぼり冷めるまで戻れやしねーんだ。ナンパでもしまくって、ぱーっと遊んでやる」
浩平はクッと小さく吹き出し、目を細めた。
「懲りないヤツ…」
やがて、二人の姿は雨上がりの街角から消えた。それ以後、二人を乗せたベンツの行方も定かではない。
グランドセンチュリー・ハイアットの最上階で、冴子は困ったように溜め息をついた。
「…お二人とも、電源を切っていらっしゃるようですわね」
由樹彦は、にっこりと笑って言った。
「―――減俸!」
一方、嗄れ声の男は険しい表情で携帯電話を握り締めていた。
「私を…あまり怒らせないほうがいい」
電話の向こうで、由樹彦の笑い声がした。
『あなたは、脅迫の仕方を間違えましたね』
「何⁉」
男の眉がぴくりと跳ね上がった。
『我が家は根っからの悪党ですからね、怨嗟の声には慣れているんです。些細な醜聞に揺らぐような家ではありません。たいていは黙殺されるのがオチですよ。ただ…』
由樹彦は楽しげにクスクス笑って言葉をつないだ。
『我が家の不名誉についてご忠告くださったお礼に、いいことを教えましょう。我が家は気紛れが多いので、つまらない噂と黙殺してくれればよし、下手をすると我が家の総力をあげて発信源を狩りだしにかかるかもしれません。そうなると、ちょっと厄介ですよ』
淡々と話す彼に対して男は重苦しく押し黙り、一言も発さなくなっていた。
由樹彦はまた小さく笑った。
『僕は生憎そういうくだらないことには興味ありません。あなたがこれから何をしようと、それも僕には興味のないことです。でも…』
由樹彦の声に、くろうととは違う恐ろしい凄味が滲んだ。
『―――僕は、自分の愉しみの邪魔をするものを笑って赦せるほど寛容ではないんです。気に入ったおもちゃを横から取り上げられるのは非常に不愉快ですし、ましてこんな脅迫を受けるのは心外です』
男の背筋に冷たいものが走った。ごくりと息を呑んだ次の瞬間、乗っていた車が甲高いブレーキ音とともに急停車した。
「な…なんだ、ありゃあ!」
運転手の叫びに顔を上げると、目の前に、ちょうど道をふさぐような格好で横付けされた大型のド派手な長距離トラックがあった。その前には、悠然と煙草に火をつけるスーツ姿の長身の男が一人立っている。
運転手が車をバックさせようとミラーを覗くと、今度は後ろから猛スピードで近づいてくる一台の車が飛び込んできた。
「しゃ、社長! あれ…ッ‼」
真後ろで止まった車から降りてきたのは、捕えておいたはずの祐介だった。
思わず身を乗り出した嗄れ声の男の耳に、再び由樹彦の冷ややかな声が届いた。
『あなたが誰かは知りませんし、知りたいとも思いません。身の程をわきまえてくださるなら、今回のことは愚かな人間の戯れと忘れて差し上げます。ただし、このうえまだ僕を不快にさせるおつもりなら、そのときは…』
バックミラーに祐介の姿が映っていた。彼は、服の下からおもむろにY字型のスリングショットを引き抜くと、いきなり弾丸を至近距離からリア・ウインドーに打ち込んだ。
小さな鉄の弾丸はウインドーを突き破り、嗄れ声の男をかすめて前のシートの背もたれに突き刺さった。
『断じて、容赦はしません』
由樹彦の声を遠くのほうで聞いていた男の手から葉巻が滑り落ちた。
「オッサン、おれの携帯電話…」
ドアを開けた祐介が、通話中の表示を見て顔色を失った。ひったくるように携帯電話を奪い取った彼は恐る恐る言った。
「………あの………おれだけど…」
『ああ、有栖川さんですか。思いのほか元気そうですね』
「じ…実はゆーべ、ちょっとしくじって…」
『僕は、あなたのおかげで追試を受けるはめになったんです。こんな屈辱、生まれて初めてですよ。ちゃんと責任は取っていただきますからね』
取りつく島もない由樹彦の口調に、祐介はうっと呻いて押し黙った。すると、少し間を置いて由樹彦が言った。
『―――そこに、僕を脅迫した方はまだいらっしゃいますか』
「え……いるけど」
『替わってください』
祐介は言われるまま、車のシートで呆然としている嗄れ声の男に携帯電話を渡した。
由樹彦は男に向かって短く言った。
『これだけは間違えないでください。命拾いをしたのは、あなたのほうですからね』
ブチッと音をたてて着信が途絶えた。
男の手から携帯電話を受け取った祐介は、頭を掻いて溜め息混じりに呟いた。
「怒ってるなー…」
「ああ、怒ってるな」
トラックの前に立っていた浩平が、いつのまにか歩み寄ってきて頷いた。
「オッサン、由樹彦を強請ろうなんて無謀だぜ。見かけはガキだけど、あいつは正真正銘悪魔の申し子みたいなヤツなんだから」
「それは、もう充分わかっただろう」
二人の言葉にも男は青ざめた顔でうなだれているだけであった。祐介は肩を竦め、運転手に向かって車を出すように告げた。
雨は知らぬ間にあがり、アスファルトの路面には微かな乳白色の靄が漂っていた。
走り去る車を見送った祐介は、うんと伸びをし、後ろで煙草を燻らせている浩平を振り返った。
「お迎えごくろーさん」
「人騒がせなヤツだな」
浩平が渋い美声を低く響かせた。
「心配した?」
祐介が不敵に笑うと、浩平は呆れ顔で溜め息をついた。
「おまえの心配をして来たわけじゃない」
「まさか…由樹彦の命令…ってわけねーよな」
浩平は再び溜め息をつき、顔をしかめた。
「いくらおれでも、あんな機嫌の悪い由樹彦とホテルでカンヅメになっている気はない。ただ、それだけだ」
「言えてる」
笑い転げた祐介は浩平と肩を並べ、雨上がりの舗道を歩きだした。
そんな二人を背後から見守る一台の車があった。
運転席の平凡なサラリーマンふうの男はしきりに携帯電話で話し込んでいる。その相手は、2ブロック後ろを走行中だった。
その人物は報告を聞くと、抑揚のない落ち着いた口調で言った。
「そうか―――やはりな。由樹彦を甘く見るからだ」
足を組み替え、上質の革張りのシートに身を沈めるその顔はまったくの無表情だった。
「美樹彦がこの失態を赦すはずがない。その男の逃亡の手助けをしてやれ。航空券を手配してやるといい。…無論、海外だ」
彼はふと息をつくと、冷ややかな眼差しで呟いた。
「―――向こうに着いたら、始末しろ。奴はこの先、我が家のためにならない」
彼を乗せた車が、見張りの男の車の脇を静かに通り抜けた。
湿った舗道を歩いている祐介と浩平のすぐそばに、見慣れない高級外車が滑るように近づいてきた。
車が車体を舗道に寄せると後部座席の窓が音もなく開き、中の人物が二人に声をかけた。
「弟が世話になっている」
その横柄な物言いに、祐介が憮然とした顔つきで車を覗き込んで相手を見据えた。
「―――おたくは?」
相手は運転手に車を止めさせ、二人を鋭く見返した。
「大道寺亜樹彦。由樹彦の長兄だ」
祐介と浩平は顔を見合わせた。
「乗りたまえ。遅れ馳せだが、挨拶をしておきたい」
大道寺亜樹彦と名乗ったその人物は、車のドアを開け、自分の席を譲って向かい側の対面シートに腰を下ろした。その有無を言わさぬ様子に二人は肩を竦め、とりあえず車に乗り込んだ。
車は、静かに動きだした。
「由樹彦は、君たちを困らせているのではないか?」
「……どーゆう意味?」
祐介が上目遣いに聞き返した。
亜樹彦は静かに目を伏せ、吐息を洩らすように言った。
「我儘な子供の子守をさせるには、器が違いすぎるという意味だ」
亜樹彦は二人をじっと見据えた。それは、今までにない威圧感のある眼差しだった。
「とくに君は、国際的なエージェントの経験があるそうじゃないか」
鋭い眼差しを注がれた浩平は顎を上げ、黒いサングラスを鈍く光らせた。
「…あんたら兄弟は、おれたちのことを本当によく知っているようだな」
亜樹彦は再び黙って目を伏せた。
「―――由樹彦は、君たちにどんな条件を出した? 場合によっては、こちらはその倍、出す用意があるが」
「それって……あっちを見限って、こっちに乗り換えろってこと?」
祐介がクッと喉の奥を鳴らして言った。だが、亜樹彦は顔色も変えず祐介を見返して応えた。
「それなりの、相応しい地位を提供しようと申し出ているだけだ。…ロマノフ王朝の末裔の血が泣かぬようにな」
ふと祐介が不愉快そうに眉を寄せたとき、傍らの浩平が低く響く渋い美声で言った。
「―――止めてくれ」
サングラス越しの視線が鋭く亜樹彦を射抜いていた。
亜樹彦は、静かに運転手に停車を命じた。
「悪いがおれたちは今、雇われの身だ。身の振り方を勝手に決められる立場にはない」
そう言って、浩平は祐介を促すように顎をしゃくった。
「……残念だ。君たちほどの人物を埋没させておくのは惜しいのだが」
無表情の亜樹彦はシートに深くもたれたまま、身じろぎもせず淡々と言った。
浩平は、飄々と肩を竦めた。
「お飾りなら、ほかを当たってくれ。少なくとも、おれは男を飾りたててやる趣味はない」
「―――由樹彦は、よほど上手く君たちを手懐けたようだな」
溜め息をついて目を伏せた亜樹彦の言葉に、浩平はククッと笑った。
「あいつは、おれたちを手懐ける気などないらしい。とりあえず支配や服従を強要されるよりはマシだな」
二人が舗道に降り立つと、亜樹彦を乗せた高級外車は近づいてきたときと同じように、静かに遠ざかっていった。
Ⅹ
浩平は新しい煙草を取り出し、おもむろに火をつけた。
祐介は頭の後ろに両手を回し、うんざりした口調で言った。
「…あの兄にして、あの由樹彦ありって感じだな」
「ああいう家庭環境で育つと、ああいうとんでもない性格になるんだろう」
「真ん中ってのも、やっぱ、あーなのかな」
祐介の呟きに浩平は肩を竦めた。
「由樹彦が言うには今度の一件、その真ん中が一枚噛んでるらしい。狙われたのはおまえだけじゃないしな」
「えっ…じゃあ、おまえも…」
「昨夜、黒服に襲われた。おまえを拉致したのも連中の一味だろう」
浩平が面倒臭そうに言って煙草をくわえると、祐介は深い溜め息をこぼした。
「……どーりで……。出来すぎてると思ったんだよな~…けっこーすんなりホテルまで行けたから、ちょーラッキー♡って―――」
「それで一服盛られたわけだ」
浩平の容赦ないせりふに祐介はうなだれた。
「おまえは女を見る目がない。そうやって、女で人生棒に振るタイプだな」
浩平が意地の悪い口調で畳みかけると、祐介はがっくりと肩を落とした。
「…もっといたわれよ。東京湾に沈めるよりひどい目に遭わすって脅されたんだから」
「よかったな、外国に売り飛ばされなくて」
浩平は皮肉っぽい笑みを浮かべた。すると、祐介はいきなり顔を上げた。
「ちくしょークサクサするッ! こーなったら思いっきり憂さ晴らししてやる‼」
「憂さ晴らし?」
「コーヘイ、おまえ車で来たんだろ?」
「ああ、おれのは1ブロック向こうに止めてあるが…」
祐介は聞くまでもないというように手を挙げ、ニヤリと笑って言い放った。
「どーせ、ほとぼり冷めるまで戻れやしねーんだ。ナンパでもしまくって、ぱーっと遊んでやる」
浩平はクッと小さく吹き出し、目を細めた。
「懲りないヤツ…」
やがて、二人の姿は雨上がりの街角から消えた。それ以後、二人を乗せたベンツの行方も定かではない。
グランドセンチュリー・ハイアットの最上階で、冴子は困ったように溜め息をついた。
「…お二人とも、電源を切っていらっしゃるようですわね」
由樹彦は、にっこりと笑って言った。
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