くちなしの姫君と破滅の楔

城間ようこ

文字の大きさ
19 / 29

母の情

しおりを挟む
 親王にはまだ分からないらしい。それでも母子で睦みあう姿を、女房達と乳母が笑みをたたえて見守っている。
「親王様は離れてあらせられる間も、中宮様をそれは慕っておいででございました。こうしてご対面が叶って、さぞやお嬉しくございますのでしょう」
「ほんにお似合いでいらっしゃること……中宮様も珍しくご機嫌であらせられますもの」
「やはり母の情というものは深うございますわね。後宮では主上へのお態度にひやりとさせられましたけれども」
 親王の乳母と姫君の女房が言葉を交わすなか、親王が姫君に抱きついた。
「おたあさま、よいにおいがします」
「そう? あなたも乳の甘い匂いがするわ」
「おたあさまと、おなじにおいになりたい」
 ねだる我が子の背を撫でながら、姫君は優しく「ならば、こうしていましょう。私の香りがうつります」と言った。親王は声を上げてはしゃいだ。
 姫君は親王の相手をしながら昼間をすごし、夜になってから夏木を呼び寄せた。姫君にまだ母としての顔が残っているのを見てとった夏木は近寄りがたさを感じたが、当の本人にはその自覚はない。
「夏木、背をさすって……気持ちが悪いわ」
「はい……今日は親王様のお相手をなさって、お疲れでございましょう」
「でも、子というものは可愛いわね……私と寝たいと、乳母の言うことも聞かないで……」
 親王の姿を思い起こす姫君は、遠い目をして微笑んでいた。夏木は返事ができずに黙って姫君の背をさする。子が母を慕うのは当然だと頭では理解していても、得体の知れない不安があった。
「夏木? どうかした?」
「いえ……」
 いつもならば姫君の言葉に必ず応える夏木の塞ぎがちな様子を訝しんで姫君が問いかけたのにも、頭が働かず返せない。夏木は、これではいけないと自分に言い聞かせて内心で首を振った。気持ちを入れ換える。
「親王様は清様によく懐いておいででございました……なかなかお会いになられずにいらっしゃいましても、やはり子は母君が一番なのでございましょう」
「お前の気持ちは分かっていてよ……夏木」
 姫君は夏木に向き直り、悪戯めいた笑みを浮かべた。その笑顔は入内前の大君の頃を思わせ、夏木の心臓が妖しくはねた。
「母は子を慈しむもの……けれど、奪われはしないわ。お前が私にとって特別なのは変わらない……前にも言ったでしょう?」
「……清様、私は……申し訳ございません……」
 姫君は気づいていない。気づかせてはいけない。このまま、親王に嫉妬しただけなのだと思わせていなければ。──夏木は、深く頭を垂れた。
 幸い、姫君には通用したらしい。姫君は夏木の本心を知らぬままに受け入れてくれた。
「いいのよ、お前が私だけを想ってくれる証だもの。お前はいくつになっても可愛らしい……私のことだけで一喜一憂する」
「……私の心を動かすのは、清様だけでございます……」
 姫君は満足そうに聞き、夏木を慈愛の眼差しで見つめた。夏木は親王への危惧と、姫君がもたらす甘い言葉による陶酔がない交ぜになって揺さぶられる。姫君のお心は幸せだし、疑うはずもない。けれど、不安は消えない。
「……夏木、今宵は存分にあやしてあげるわ……」
 姫君は、夏木が親王に妬心を抱いたと思い込んでいる。夏木はそれを表立って否定できない。自分の勘は杞憂であって欲しいと願う。胸の奥でちりちりと燃える燠火は姫君に悟られてはならない。姫君のためにも。
 夏木は黙して姫君に抱きしめられるまま、やがて躊躇いがちに姫君の背に腕を回してすがりついた。耳を打つ、くすくすと笑う声が、どうしようもなく切なかった。
 
 
 *
 
 
 多くの寺社への祈願と祈祷の験があってか、姫君は悪阻がおさまった後には順調に月を重ねていった。親王を産む前に次々と現れては姫君を責め苛んだ物の怪も、この度は到来の兆しも見せず、太政大臣家では胸を撫で下ろしていた。
 その頃、後宮では主上が姫君のいない寂しさを埋めようとするかのごとく女を求めるようになっていた。
「まろの後宮はつまらない。実りのない秋を見ているようだ」
 その主上の発言に、さこそとばかり女御や更衣が入内した。更には五節の舞姫までが主上の意向で宮中に留め置かれることとなり、あるものは更衣として、またあるものは典侍として宮仕えに上がった。
 結果、十二の殿舎のうち殆どが埋まることになり、後宮では主上の御寵を一層烈しく華麗に競いあうようになった。

「今までは、こなたの中宮様が押しも押されぬありようで諦めていたものを……主上も、やはり男でおわしたということかしら」
「あら、中宮様は中宮様で別格よ。右の大臣は内の大臣に左大臣の座を奪われるほど凡庸なお方……我が太政大臣様を脅かす手腕はないわ」
「でも、ねえ……中宮様も相変わらずですもの。せめて主上からの御使いには直々にお文を返さなければならないと思うのよ」
「まったくね。今日も夏木ばかりを傍に置いて……私達の立つ瀬がありませんもの」
 女房達は好き好きに語らい、夏木はこの話を聞いて激怒した。
「主上は清様を軽んじておいででございます……おれほどご執心あそばして清様を苦しめておきながら、清様がお里下がりでいらっしゃらなくなりました途端に……」
 けれど、姫君は真逆の心境で余裕をもって夏木をたしなめた。
「お前が怒ることはないのよ、むしろ清々するわ。それに私はすでに主上の男御子を産み、中宮にも立っているもの」
「その通りでございますが……」
 もうじき、親王は袴着を迎える。その後に春宮に立つよう太政大臣が動いている。

 しかし、夏木は自分から姫君の体を奪っておきながら奔放に女を集めている主上の浮つきに憤りを感じずにはいられない。奪った姫君に純情を誓うのは主上の義務だとさえ思う。──主上のことを憎みながらも。過ぎた御寵に眉をひそめていたものを。
 ──それでも、当の清様が清々するとおっしゃるのなら、私に言うべきことはない。
 口をつぐんだ夏木に、姫君は鷹揚に声をかけた。
「そのようなことは、どうでもいいわ……それよりも夏木、私の腹に手をあててみて」
 言われるに従って、夏木は吐息が交わるほど近寄り、姫君の大きくなった腹に触れた。瞬間、胎児がうごめいて怯む。
「動きました……」
「ふふ……赤子は何も気にせずに育つものね。産めば可愛いと知りながらも、やはり産むのは苦痛がひどいこと……」
 毒によって胤を孕むことが不可能となった夏木には、母としての心持ちは分からない。ただ、子を産むことで姫君は変わったと気づいている。強かさを得て、なよ竹のように荒風に揺さぶられても倒れない芯ができた。主上のうるさいばかりのご寵愛にも、懐妊にも、以前とは違って動揺しない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~

放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」 大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。 生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。 しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。 「すまない。私は父としての責任を果たす」 かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。 だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。 これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

処理中です...