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嵐の前の
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「……分かりました。話し相手くらいにはなりますから、お早く」
渋々頷くと、美矢乃さまは嬉々として言われた通りにリップクリームをたっぷり塗った。
「さあ塗ったわよ、千香」
……そう待ち構えられると、何を言っていいのか分からない。
「……ええと、静かですね」
「そうね、ふたりきりですものね」
……間がもたない。話題を変えなければ、あやうい方へ向かいそうで怖い。
「今日の舞台、頑張りましょうね」
「千香ったら、よほど気合いが入っているのね。でもね千香、役者が目の下にくまなんて作っては駄目よ? 唇を荒らした私が言えることではないけれど」
「……何だか、お互い様ですね……」
言われるまで忘れていた。朝、お肌のお手入れをしているときに気づいたのだけれど、寝不足のハイテンションで「メイクでごまかせる」と軽く考えてしまっていた。
「ふふ、私達役者失格ね」
「なぜそこで嬉しそうなのですか……」
「お揃いですもの、ひとつずつ」
美矢乃さまは何としても甘い方へもっていきたいらしい。
私はといえば、このまま流されそうで怖い。
でも、もし流されてみたら──激流だろうか、体を巡って命を守る血潮の流れのように自然なものだろうか?
いや、そんなふうに考えたら負けだ。美矢乃さまの思うつぼだ。
でも、──でも?
「──千香?」
「──えっ? あ、はい!」
「どうかしたの、ぼんやりして。眠いのではなくて? 寝不足なのでしょう? リップクリームを馴染ませている間だけでも長椅子に横になっていてちょうだい。舞台に響いたら千香が後悔するわ」
「い、いえ、眠くはないですから」
「いいえ、横になって目を閉じているだけでも体は休まるの。さ、いらっしゃい」
美矢乃さまが立ち上がり、部室の窓際に置かれている長椅子の端に腰をおろす。
「あの、それは……」
「枕がなくては辛いでしょう?
私の膝では不満なの?」
膝枕。
不満というより不安です、とはさすがに言えない。美矢乃さまは私の体を思いやってくださっているのだし。でも、膝枕……落ち着いて休めそうにない。
「千香、早く横になりなさい。休める時間がなくなってしまうわ」
美矢乃さまには他の選択肢や代替案はないらしい。急展開で、私の頭にも浮かばないけれど。
「ほら、いい子ね。大丈夫よ、千香が怖がることなんて何もしないわ。私はただの枕なのよ。枕を怖がるひとなんていて?」
美矢乃さまが手を差し伸べる。白く、すらりとした美しい手は体温がないかと想像させるほど透明感があって白磁のようだ。
ほんの、30分だけ。リップクリームが馴染むまでの、ほんの少しの間だけ。
私は美矢乃さまに流されて手を重ねた。
ついと引かれ、導かれる。目は合わせられない。美矢乃さまは、それに不満はないらしい。おずおずと私が横になると、それだけで満足そうに吐息だけの笑みをこぼした。
それが甘くて、手にはあまり体温を感じなかったのに太腿は温かくて柔らかくて、いい香りがして意想外に心地よくて、心地いいと感じてしまう自分に戸惑う。ほのかな香りに酔ってしまいそうだ。
「……ねえ、千香。目を閉じたまま聞いてちょうだい」
「……何でしょうか……?」
「舞台が終わったら、千香の教室を案内してちょうだい」
「私のですか? でも、キャンプファイヤーが……」
文化祭というと、クラスでの出し物が定番だが、菩提女学院の文化祭は部活動の出し物だけだ。部活動がとにかく多くて活発で、多岐に渡るので、全校生徒の部活動参加が義務づけられた翌年から、クラスでの出し物は手が回らないという理由でなくなった。
今日は、舞台の後に高等部の一般人コース校庭でキャンプファイヤーがある。明日は吸血鬼コース校庭でやる。このときだけは特別に、お互いのコースに関係なく校舎を往き来できるのだ。
「それは千香の教室から見ましょう」
「でも、皆さん参加なさるのに……」
「いいのよ、ふたりきり逃げてみましょう、舞台のふたりみたいに。……舞台のような終わりは私がさせないけれど、嫌かしら?」
美矢乃さまの声が控えめで穏やかで子守唄に聞こえてくる。赤ちゃんの頃に、きっと母が唄ってくれた子守唄。
「……嫌では、ないです……でも」
「嫌ではないなら、私のお願いを聞いてちょうだい? ふたりで見る炎は綺麗よ、きっと」
「でも……私は、美矢乃さまへの答えを、まだ出せて……」
うっすらと目を開き、美矢乃さまを見上げる。蜜色の瞳がとろけそうだ。美矢乃さまは手をかざして、私の瞼を覆った。
「いいのよ、待つと言ったでしょう? まあ、嬉しい答えならいつでも歓迎するけれど」
「……それは……美矢乃さまにとって嬉しい答え以外に聞く気がないのでは……」
精一杯の憎まれ口も、美矢乃さまは鈴を転がしたような短い笑いで打ち消した。
「千香の心からの答えなら聞くわ。それとも何? キャンプファイヤーのときに聞かせてくれるのかしら?」
「それは……」
揺れ動く自分の心も分からないまま、答えは出せない。迷っていると、美矢乃さまは少しだけ切なそうに笑みを浮かべた。それが私の脈拍を加速させる。
「いいのよ、答えを急かすつもりではなかったの。ただ、普段の千香が学んでいる教室の空気を吸ってみたかったのよ。感じてみたかっただけなの。いいかしら?」
美矢乃さまは、こういうとき羨ましいほど素直に言葉を口にする。私が根負けするまで。
「……分かりました、いいですよ」
「本当? 嬉しいわ、舞台より楽しみかもしれないわ」
「……舞台を優先してくださいね。それが条件ですからね?」
教室を見せる。ただそれだけで舞い上がる美矢乃さまを少しだけ可愛いと思いながら釘をさす。美矢乃さまは舞い上がったまま元気に頷いた。
「ええ、ええ、素晴らしい舞台にしましょうね。──さ、もうおやすみなさい。話しかけてしまってごめんなさいね」
美矢乃さまの細く長い指が私の前髪をすく。それだけで、あれだけ昂揚していたのが嘘みたいに眠気が忍び寄ってきた。
「……あと20分したら起こしてくださいね、お手入れが……」
「ええ、約束するわ。千香が処置してくれるのだもの、楽しみね」
なぜこうも美矢乃さまは軽く挑発的なのか。でも、突っ込むよりも眠気がまさって私はすぐに眠りに落ちていた……。
「千香、惜しいけれど時間だわ。千香? もうすぐ他の部員も来てしまうし」
「……あ……」
夢さえも見ない、深い眠りだった。美矢乃さまに、そっと肩を揺り起こされて私は飛び起きた。今朝、シャワーを浴びたときより頭がすっきりしている。
「よく眠っていたから、起こすのは可哀想かしらと思ったのだけれど……」
「──あ、あの、いいんです。ありがとうございました。それより処置しましょう、ティッシュに化粧水を含ませて……」
そのティッシュで美矢乃さまの唇を拭う。すると、美矢乃さまが感嘆の声を上げた。
「あら、すごいわ千香、唇の嫌な皮が全部取れたわ!」
「このリップクリームはよろしければ差し上げますので、こまめに塗ってください。あと、これは応急処置ですから、早めに皮膚科を受診してくださいね」
「あら、いいの? くれるの?」
「? はい、いいですよ。安いですし、コンビニでも売っていますし」
美矢乃さまは宝石を包むようにしてリップクリームを両手で大事そうに持っている。大袈裟な気がしたけれど、次にくる発言で一気に茹でダコになった。
「ねえ、千香。これって間接キスよね?」
「かっ……キっ……!」
「あらあら、千香には刺激が強かったかしら。でも、もうしてしまったもの。嬉しいわ!」
「こ、これは、美矢乃さまの応急処置がですね、最優先だったからで……!」
うろたえ、慌てふためく私に対して美矢乃さまは変わらずマイペースに浮かれている。
「分かっているわ、でも、くすぐったいような嬉しさが消えないのよ。千香はいつから魔法使いになったのかしら。私の心をこんなふうに弄ぶのだもの、罪ねえ。けれどこのリップクリームは大事にするわ。千香が私にくれたのだもの。塗る度に千香の唇を思い起こせるわね」
……できることなら卒倒したい……。
「あのですね、美矢乃さま、──」
「まあ、美矢乃さまに千香さん、もういらしていたのですか?」
小道具係のひとが、言葉に詰まったタイミングで部室に入ってきてくれた。助かった。
それからは様々な配役のひと、裏方のひとが続々と登校してきて嵐のごとく準備が進められた。
いよいよ本番だ。
* * *
観客席は満員だった。立ち見するひとまで窮屈そうに居場所を確保している。
私は、それをこっそり見て緊張がまたぶり返してきてしまった。こんなに大人数の前で演じるのは初めてだ。
吸血鬼と一般人が共に学ぶ国内唯一の学校ということもあって、プレスにもたくさんのメディアが来ていた。撮影もインタビューも禁じられているけれど、それでも記事にしたいマスコミは多いのだと実感させられた。
これは、ひとつたりとも失敗できない。
手が冷たい。指が体が固まって、動けるか不安になる。出だしの台詞を何度も頭のなかで繰り返す。
「千香、緊張しているの?」
そんなとき、真紅のドレスを身にまとってメイクを済ませた美矢乃さまが声をかけてきた。ドレスに負けない迫力がある。舞台でなら凄まじい威圧感を放つだろう。
「……はい……だって、あのすごい観客の方々の数は……」
「ジャガイモやカボチャだと思いなさいとは言わないわ、皆さん感情を持った生身のひとたちですもの。でもね、だからこそ伝えられるし伝わるのよ、──心が」
「心……」
「大丈夫よ、今の千香なら。演じることに夢中になって楽しみなさい。そうすれば、皆さんに届くわ。この舞台を通して、ひとの持つ心の美しさが。まあ、綺麗事だけでは済まないこともあるけれど──この演劇では、愛の素晴しさを演じるのだから」
「……美矢乃さまは……なぜ、私が求めている言葉が分かるのですか? 先ほど言ってらした……美矢乃さまこそ魔法使いです」
思わず、ダイレクトに言ってしまった。すると、美矢乃さまは少し困った顔をした。
「そんなに愛おしいことを言わないでちょうだい。私も色々我慢しているのよ? 千香に嫌がられないように」
「あ、え……」
返答に困ると、場内アナウンスが流れ出した。何というタイミング。
『上演に先だちまして、皆さまにお願いがございます。上演中の撮影、録音、録画は禁止とさせて頂いております。お守り頂けない場合は、上演の中止、あるいはご退場をして頂く場合がございます。また、音響機器に影響を及ぼすこともございますので、携帯電話の電源は皆さまあらかじめお切りくださいますようお願い申し上げます。皆さまのご協力をお願いいたします。──では、夢の舞台をどうぞお楽しみくださいませ』
もう逃げられない。でも、もう怖くない。
美矢乃さまは私の冷たい手を握って、指を絡めて温めてくださっていた。膝枕をして頂いたときにはあまり感じなかった手が、今は高熱を発しているのではないかと思うほど熱い。今まで共演してきた経験から分かる、美矢乃さまは昂ぶっていらっしゃる。
それが伝播して、私は舞台を見据えた。
「ねえ、千香。私と演じるのは好き?」
「すっ……」
困る。困る困る困る。
けれど、美矢乃さまの瞳は私を見逃してはくださらない。
嘘は、つけない。
「す、……き、です……」
しどろもどろに答えると、美矢乃さまの顔は以前見せてくださったように棘のない白薔薇を咲かせた。
「なら、この舞台は成功するわね」
* * *
渋々頷くと、美矢乃さまは嬉々として言われた通りにリップクリームをたっぷり塗った。
「さあ塗ったわよ、千香」
……そう待ち構えられると、何を言っていいのか分からない。
「……ええと、静かですね」
「そうね、ふたりきりですものね」
……間がもたない。話題を変えなければ、あやうい方へ向かいそうで怖い。
「今日の舞台、頑張りましょうね」
「千香ったら、よほど気合いが入っているのね。でもね千香、役者が目の下にくまなんて作っては駄目よ? 唇を荒らした私が言えることではないけれど」
「……何だか、お互い様ですね……」
言われるまで忘れていた。朝、お肌のお手入れをしているときに気づいたのだけれど、寝不足のハイテンションで「メイクでごまかせる」と軽く考えてしまっていた。
「ふふ、私達役者失格ね」
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「お揃いですもの、ひとつずつ」
美矢乃さまは何としても甘い方へもっていきたいらしい。
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でも、もし流されてみたら──激流だろうか、体を巡って命を守る血潮の流れのように自然なものだろうか?
いや、そんなふうに考えたら負けだ。美矢乃さまの思うつぼだ。
でも、──でも?
「──千香?」
「──えっ? あ、はい!」
「どうかしたの、ぼんやりして。眠いのではなくて? 寝不足なのでしょう? リップクリームを馴染ませている間だけでも長椅子に横になっていてちょうだい。舞台に響いたら千香が後悔するわ」
「い、いえ、眠くはないですから」
「いいえ、横になって目を閉じているだけでも体は休まるの。さ、いらっしゃい」
美矢乃さまが立ち上がり、部室の窓際に置かれている長椅子の端に腰をおろす。
「あの、それは……」
「枕がなくては辛いでしょう?
私の膝では不満なの?」
膝枕。
不満というより不安です、とはさすがに言えない。美矢乃さまは私の体を思いやってくださっているのだし。でも、膝枕……落ち着いて休めそうにない。
「千香、早く横になりなさい。休める時間がなくなってしまうわ」
美矢乃さまには他の選択肢や代替案はないらしい。急展開で、私の頭にも浮かばないけれど。
「ほら、いい子ね。大丈夫よ、千香が怖がることなんて何もしないわ。私はただの枕なのよ。枕を怖がるひとなんていて?」
美矢乃さまが手を差し伸べる。白く、すらりとした美しい手は体温がないかと想像させるほど透明感があって白磁のようだ。
ほんの、30分だけ。リップクリームが馴染むまでの、ほんの少しの間だけ。
私は美矢乃さまに流されて手を重ねた。
ついと引かれ、導かれる。目は合わせられない。美矢乃さまは、それに不満はないらしい。おずおずと私が横になると、それだけで満足そうに吐息だけの笑みをこぼした。
それが甘くて、手にはあまり体温を感じなかったのに太腿は温かくて柔らかくて、いい香りがして意想外に心地よくて、心地いいと感じてしまう自分に戸惑う。ほのかな香りに酔ってしまいそうだ。
「……ねえ、千香。目を閉じたまま聞いてちょうだい」
「……何でしょうか……?」
「舞台が終わったら、千香の教室を案内してちょうだい」
「私のですか? でも、キャンプファイヤーが……」
文化祭というと、クラスでの出し物が定番だが、菩提女学院の文化祭は部活動の出し物だけだ。部活動がとにかく多くて活発で、多岐に渡るので、全校生徒の部活動参加が義務づけられた翌年から、クラスでの出し物は手が回らないという理由でなくなった。
今日は、舞台の後に高等部の一般人コース校庭でキャンプファイヤーがある。明日は吸血鬼コース校庭でやる。このときだけは特別に、お互いのコースに関係なく校舎を往き来できるのだ。
「それは千香の教室から見ましょう」
「でも、皆さん参加なさるのに……」
「いいのよ、ふたりきり逃げてみましょう、舞台のふたりみたいに。……舞台のような終わりは私がさせないけれど、嫌かしら?」
美矢乃さまの声が控えめで穏やかで子守唄に聞こえてくる。赤ちゃんの頃に、きっと母が唄ってくれた子守唄。
「……嫌では、ないです……でも」
「嫌ではないなら、私のお願いを聞いてちょうだい? ふたりで見る炎は綺麗よ、きっと」
「でも……私は、美矢乃さまへの答えを、まだ出せて……」
うっすらと目を開き、美矢乃さまを見上げる。蜜色の瞳がとろけそうだ。美矢乃さまは手をかざして、私の瞼を覆った。
「いいのよ、待つと言ったでしょう? まあ、嬉しい答えならいつでも歓迎するけれど」
「……それは……美矢乃さまにとって嬉しい答え以外に聞く気がないのでは……」
精一杯の憎まれ口も、美矢乃さまは鈴を転がしたような短い笑いで打ち消した。
「千香の心からの答えなら聞くわ。それとも何? キャンプファイヤーのときに聞かせてくれるのかしら?」
「それは……」
揺れ動く自分の心も分からないまま、答えは出せない。迷っていると、美矢乃さまは少しだけ切なそうに笑みを浮かべた。それが私の脈拍を加速させる。
「いいのよ、答えを急かすつもりではなかったの。ただ、普段の千香が学んでいる教室の空気を吸ってみたかったのよ。感じてみたかっただけなの。いいかしら?」
美矢乃さまは、こういうとき羨ましいほど素直に言葉を口にする。私が根負けするまで。
「……分かりました、いいですよ」
「本当? 嬉しいわ、舞台より楽しみかもしれないわ」
「……舞台を優先してくださいね。それが条件ですからね?」
教室を見せる。ただそれだけで舞い上がる美矢乃さまを少しだけ可愛いと思いながら釘をさす。美矢乃さまは舞い上がったまま元気に頷いた。
「ええ、ええ、素晴らしい舞台にしましょうね。──さ、もうおやすみなさい。話しかけてしまってごめんなさいね」
美矢乃さまの細く長い指が私の前髪をすく。それだけで、あれだけ昂揚していたのが嘘みたいに眠気が忍び寄ってきた。
「……あと20分したら起こしてくださいね、お手入れが……」
「ええ、約束するわ。千香が処置してくれるのだもの、楽しみね」
なぜこうも美矢乃さまは軽く挑発的なのか。でも、突っ込むよりも眠気がまさって私はすぐに眠りに落ちていた……。
「千香、惜しいけれど時間だわ。千香? もうすぐ他の部員も来てしまうし」
「……あ……」
夢さえも見ない、深い眠りだった。美矢乃さまに、そっと肩を揺り起こされて私は飛び起きた。今朝、シャワーを浴びたときより頭がすっきりしている。
「よく眠っていたから、起こすのは可哀想かしらと思ったのだけれど……」
「──あ、あの、いいんです。ありがとうございました。それより処置しましょう、ティッシュに化粧水を含ませて……」
そのティッシュで美矢乃さまの唇を拭う。すると、美矢乃さまが感嘆の声を上げた。
「あら、すごいわ千香、唇の嫌な皮が全部取れたわ!」
「このリップクリームはよろしければ差し上げますので、こまめに塗ってください。あと、これは応急処置ですから、早めに皮膚科を受診してくださいね」
「あら、いいの? くれるの?」
「? はい、いいですよ。安いですし、コンビニでも売っていますし」
美矢乃さまは宝石を包むようにしてリップクリームを両手で大事そうに持っている。大袈裟な気がしたけれど、次にくる発言で一気に茹でダコになった。
「ねえ、千香。これって間接キスよね?」
「かっ……キっ……!」
「あらあら、千香には刺激が強かったかしら。でも、もうしてしまったもの。嬉しいわ!」
「こ、これは、美矢乃さまの応急処置がですね、最優先だったからで……!」
うろたえ、慌てふためく私に対して美矢乃さまは変わらずマイペースに浮かれている。
「分かっているわ、でも、くすぐったいような嬉しさが消えないのよ。千香はいつから魔法使いになったのかしら。私の心をこんなふうに弄ぶのだもの、罪ねえ。けれどこのリップクリームは大事にするわ。千香が私にくれたのだもの。塗る度に千香の唇を思い起こせるわね」
……できることなら卒倒したい……。
「あのですね、美矢乃さま、──」
「まあ、美矢乃さまに千香さん、もういらしていたのですか?」
小道具係のひとが、言葉に詰まったタイミングで部室に入ってきてくれた。助かった。
それからは様々な配役のひと、裏方のひとが続々と登校してきて嵐のごとく準備が進められた。
いよいよ本番だ。
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観客席は満員だった。立ち見するひとまで窮屈そうに居場所を確保している。
私は、それをこっそり見て緊張がまたぶり返してきてしまった。こんなに大人数の前で演じるのは初めてだ。
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これは、ひとつたりとも失敗できない。
手が冷たい。指が体が固まって、動けるか不安になる。出だしの台詞を何度も頭のなかで繰り返す。
「千香、緊張しているの?」
そんなとき、真紅のドレスを身にまとってメイクを済ませた美矢乃さまが声をかけてきた。ドレスに負けない迫力がある。舞台でなら凄まじい威圧感を放つだろう。
「……はい……だって、あのすごい観客の方々の数は……」
「ジャガイモやカボチャだと思いなさいとは言わないわ、皆さん感情を持った生身のひとたちですもの。でもね、だからこそ伝えられるし伝わるのよ、──心が」
「心……」
「大丈夫よ、今の千香なら。演じることに夢中になって楽しみなさい。そうすれば、皆さんに届くわ。この舞台を通して、ひとの持つ心の美しさが。まあ、綺麗事だけでは済まないこともあるけれど──この演劇では、愛の素晴しさを演じるのだから」
「……美矢乃さまは……なぜ、私が求めている言葉が分かるのですか? 先ほど言ってらした……美矢乃さまこそ魔法使いです」
思わず、ダイレクトに言ってしまった。すると、美矢乃さまは少し困った顔をした。
「そんなに愛おしいことを言わないでちょうだい。私も色々我慢しているのよ? 千香に嫌がられないように」
「あ、え……」
返答に困ると、場内アナウンスが流れ出した。何というタイミング。
『上演に先だちまして、皆さまにお願いがございます。上演中の撮影、録音、録画は禁止とさせて頂いております。お守り頂けない場合は、上演の中止、あるいはご退場をして頂く場合がございます。また、音響機器に影響を及ぼすこともございますので、携帯電話の電源は皆さまあらかじめお切りくださいますようお願い申し上げます。皆さまのご協力をお願いいたします。──では、夢の舞台をどうぞお楽しみくださいませ』
もう逃げられない。でも、もう怖くない。
美矢乃さまは私の冷たい手を握って、指を絡めて温めてくださっていた。膝枕をして頂いたときにはあまり感じなかった手が、今は高熱を発しているのではないかと思うほど熱い。今まで共演してきた経験から分かる、美矢乃さまは昂ぶっていらっしゃる。
それが伝播して、私は舞台を見据えた。
「ねえ、千香。私と演じるのは好き?」
「すっ……」
困る。困る困る困る。
けれど、美矢乃さまの瞳は私を見逃してはくださらない。
嘘は、つけない。
「す、……き、です……」
しどろもどろに答えると、美矢乃さまの顔は以前見せてくださったように棘のない白薔薇を咲かせた。
「なら、この舞台は成功するわね」
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