魔物の森のハイジ

カイエ

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 ハイジは何事もなかったかのように、グラスに口をつけている。
 あんな小さな子ども相手に暴力を振るうなんて、一体なんのつもりなのだと、一言文句を言ってやろうとハイジに詰め寄った。

「ハイジ! どういうつもりよ! あたしならまだしも……あんな小さな子供にまで暴力を振るうなんて!」

 あたしが叫ぶと、ピュウ、とどこからか囃すような口笛が聞こえる。
 キッとそちらを睨むが、迫力はないだろう。
 皆はもう出し物は済んだと言わんばかりに席に座り始める。

 慌てたようにミッラが駆け寄ってくる。

「ちょ、ちょっと、リンちゃん」
「なんですか!」
「落ち着いて」

 ミッラがあたしの手を握って、受付まで引っ張っていく。

「ミッラさんはなんとも思わないんですか? あんな……大の大人が子供に暴力を振るうなんて!」

 手を引っ張られながら激高していると、ミッラは「違うのよ」と言って苦笑した。

「あれはいじめてるんじゃないわ。あの子に戦い方を教えようとしているのよ」
「戦い方?」

 何だそれは。

「……どういうことですか」
「さっき、リンちゃんは「こんな子供にまで」って言ってたわね? ハイジさんに乱暴でもされた?」
「……頭を殴られたことがあります」
「へぇっ、何があったの?」
「壁にかかっていた剣をうっかり落としてしまったことがあって……思いっきりグーで殴られました」

 そう言うとミッラは「そんなバカな」言ってと笑った。

「嘘じゃないです!」
「あ、ごめんなさい、殴られたのは本当でしょうけど。でも、もしもハイジさんが本当に思いっきり拳骨で殴ったら、リンちゃんはもう死んじゃってるわよ」

 頭がなくなっちゃうわ、とミッラが笑う。
 有り得そうで怖い。

「そ、それはそうかも知れませんけど……でも、容赦なくて、めちゃくちゃ痛かったんですよ!」
「まぁ、そうでしょうね。で、リンちゃんに怪我はなかったの?」
「たんこぶだけです」

 殴られたところは押さえるとまだ痛いです、と頭を指差す。

「そうじゃなくて、落とした剣はどうなったの?」
「はい、それはなんとか。剣がうまくあたしを避けてくれたので、無事でした」
「……それって、リンちゃんが危ないことをしたから殴られたんじゃない?」
「……は?」
「心配されたのよ、きっと」
「……あっ」

 言われてハッとした。

 確かにあの時、剣はあたしの足元に突き刺さっていた。
 下手をすると大怪我をしていただろう。
 じゃあ、もしかして……。

「あなたが危ないことをしたから、それを叱ったつもりなんでしょうね」
「えっ……! そんな、だって、あの人、あの時そんなこと一言も言いませんでしたよ?!」
「 言わなくてもわかると思ったんじゃないかしら。ハイジさんそういうところあるから。無口な人だし」
「ええええ」

 だとすると、もしかするととんでもなく失礼なことを言ってしまったような気がする。

(言わなきゃわからんでしょうが) 
(こんなところにいられない、みたいなこと言っちゃったんですけど……)

 やべぇ、と冷や汗が流れる。
 でも……言い訳をするつもりはないが、これはあたしの責任ばかりではないと思う。
 なにしろ、無視はする、態度は冷たい、説明も何もなし。
 ハイジにだって一定の責任はある。

「十日間ほど一緒にいましたけど、その間ずっと徹底的に無視されてたんですよ? そんな人信用できません」
「無視ねぇ……なにか理由があったんじゃない? そんな事する人だとは思えないのよね」
「そう言えば、ミッラさんとは普通に会話してましたね」

 あと、ギャレコやヘルマンニとも普通に会話していた。
 なんであたしだけ無視するのだ。

「おしゃべりな人ではないけれどね」
「でも、あんなにコミュニケーションが下手な人っています?  あんなので街でやっていけてるんですか?」
「もちろん。ああ見えて、ハイジさんって頭がいいし、交渉ごとなんかも得意なのよ?」
「えええ……嘘だぁ、嘘ですよね?」

 あの男が、交渉ごと?
 ちょっと想像がつかなかった。

「だって、何も口を利いてくれないし、話しかけても無視するし、あと、世話になるばっかりで、あたし、なんにも役に立たないし……あと、あたしのことを女だと思ってないし……あと、殴るし……」

 ハイジについての文句を言ってるはずが、いつのまにか自己嫌悪になっていて、あたしはごにょごにょと言葉を濁した。
 そんなあたしを見て、ミッラは苦笑する。

「あのね、リンちゃん。『はぐれ』であるあなたには特に理解してもらいたいのだけれど、……ここでは、危険を知らないと、ここでは生きていけないわ」
「危険ですか」
「ええ。この世界の常識がないと、簡単に危険に巻き込まれる。それを学ぶ必要があるわ」

 危険……森ならば魔獣がいるからわかるけど、街でも危険があるのだろうか。
 だったら嫌だなぁ。

「死ぬような危険が、そんな身近にあるってことですか」
「あるわ。たとえば……これは話しておいたほうが良いかも」
「なんですか?」
「ハイジさんね、目の前で一度、『はぐれ』の子供を死なせてしまったことがあるのよ」
「えっ! まさか、ハイジが殺し……」
「そんなわけないでしょ!」

 ミッラが怒った顔でそれを否定した。

「戦場でたまたま出会った子供だって話ね。守りきれずに死なせてしまって……ハイジさん、ずっと悔やんでるみたい」
「……それで、子供を鍛えたり、危険について教えたりしてるってことですか?」

 殴ったり蹴ったり放り投げたり……単に虐待してるだけの気もするが。

「さっきの男の子、ヤーコブもそうね。1年くらい前かな。ハイジから置き引きしようとして捕まってね。それから戦い方を教わってる」
「……」
「戦争はいつだってどこかで起きてるし、街の外へ出れば魔獣や盗賊もいる。エイヒムは治安が良いけれど、それでもスリや置き引きは当たり前だし、喧嘩も多い。身を守る術を知らなければ、やってけないわ」

 それにしても、さっきのあれは流石にないんじゃないだろうか。
 殺しかねないような訓練は、子供にはまだ早いと思うんだけど。

 そんなことを考えていると、ゴツリ、ゴツリと特徴的な足音を立てて、ハイジが近づいてくる。

「この仕事を受ける」

 ハイジはそう言うと、紙切れをミッラに渡す。
 ちらりと目をやると、どうやら依頼書らしい。
『傭兵』『報酬』『オルヴィネリ伯爵領』などの言葉が並んでいた。

(傭兵!? 仕事を受ける? 戦争に行くってこと!?)

 つまり、ミッラのいう戦争は、平和そうに見えるこの街の近くで起きているということなのだろうか。
 降って湧いたような「戦争」という概念に、恐怖で息が詰まる。

 しかし、ミッラは何も変わない態度と明るい声で、その依頼書を受けった。

「いつもありがとうございます。最近は受けてくれる人も少なくなって……助かります」

 震えるあたしなど無関係に話は進む。

「今日は娼館に泊まる。明日出るから、準備をしておいてくれ」
「かしこまりました、ご武運を」
「ああ」

「……?!」

 聞き捨てならない単語が出てきた。

(娼館!? 今、確かに娼館って言ったよね?!)
(ハイジって、女に興味無いんじゃなかったの?!……って、あたし、ハイジにとって女じゃないんだった!!)

 愕然としているあたしをまるっと無視して、ハイジはミッラと約束を交わし、さっさとギルドをあとにする。
 あたしはパニック状態のまま、慌ててその背中に礼を言う。

「あ、あの! ありがとうございました! って、最後くらいちゃんと聞いてよ!!」

 あたしは声を荒げて叫ぶが、何の反応もなかった。
 無視! 見事なまでの無視!!

「なんなのよ、あの男は!!」

 思わず叫ぶも、それを光景をミッラは苦笑して見ていた。
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