魔物の森のハイジ

カイエ

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#2

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「ペトラの食堂」に務め始めて、数日が過ぎた。
 忙しさはギルドの酒場とどっこいどっこいという感じだった。
 この世界の忙しさの基準がわからないので、どんな職場なのかと警戒していたが、拍子抜けだった。
 まだまだ慣れないことも多いが、日本に居た頃のアルバイトの経験があるので、そこそこ役に立てているはずだ。

 女主人のペトラは言葉遣いが荒く、巨漢ゆえに見た目には迫力があるが、豪快で明るく、とても可愛い女性だった。
 あたしはすぐにペトラに懐いてしまった。

「ペトラ、このお店って、こんなに暇なのに大丈夫なの?」
「なんだい、失礼な子だね……と言いたいところだけれど、正直、秋冬の間は赤字だね」
「えっ」

 忙しくなる夏までに仕事を覚えさせるために雇ったとは聞いていたけれど……。

(まさか赤字とは……)

「じゃあ、あたしを雇ったのって」
「冬の間は、損しか無いね!」

 そういってペトラは豪快に笑う。
 あたしは申し訳なくて小さくなった。

「何ちっちゃくなってんだい! アンタ一人雇うくらい、大した負担じゃないよ! どうせニコだっているんだ、一人が二人に増えたって、大したことないさ!」
「……なんかすみません」
「大丈夫だよ、リンちゃん。夏になったらいっぱい儲けるから! ね、ペトラ」

 気を使ってくれたのか、ニコが話に入ってきた。
 しかしそんなニコを見て、ペトラはニヤッと笑う。

「……アンタは食べすぎだよ。冬の間に店を食いつぶさないでくれよ、ニコ」
「ひどぉい!!」

 お店に笑い声が響く。
 本当に明るくて良い店なのだ。

「夏になると忙しくなるんですよね?」
「そうともさ! 雪解けとともに、エイヒムは賑やかになるよ!」
「夏になったら、人がいっぱいになるの! 夏にしか開かないお店もたくさんあって、あたし、夏が大好きなんだぁ」
「アンタは夏の屋台で買い食いするのが好きなだけだろ?」
「ひどぉい! ……違わないけど……」

 聞けば、エイヒムは商業の中継地点として栄えているらしい。
 この世界の冬は厳しく、厳冬期にはほとんど人も出歩かなくなる一方、夏になれば人で溢れるらしい。
 目抜き通りには沢山の屋台が出るそうで、特に焼き栗や串焼き、揚げパンなどが美味しいという。
 それは楽しみだ。

「かといって、夏の間だけ働きに来てくれというわけにもいかないからね……冬の暇なうちに仕事をしっかり覚えて、夏にはバリバリ働いてもらうよ!」
「はい、任せてください!」
「良い返事だね! ……まぁ、まだ色々頼りないけどね」
「すみません……」

 ……頑張ろう。


 * * *

 ペトラの食堂は、夕方からの営業が本番だ。
 昼にも店は空いているが、害獣駆除などを生業としている冒険者たちが持っていくお弁当の販売が中心だ。
 ペトラ曰く、昼はますます赤字らしいが、頼りにされている間は頑張るらしい。
 あたしはますますペトラのことが好きになった。

 冬が暇とはいえ、夜になればそれなりに店は賑わう。
 店の料理は、煮込みが中心で、特に寒い冬に食べるペトラのポトフは絶品だ。
 ゴロンと大きく切った塊肉と腸詰めが、丸のままみたいに大きくカットした野菜と一緒に煮込まれていて、白いソースをかけて提供される。
 他にも腸詰めの盛り合わせやチーズ、燻製、干し肉(生ハムみたいな味がする)、串焼きなんかも人気である。
 どれも酒に合うようにちょっと濃い目の味付けにしてある。
 ペトラは「働く男たちのための料理」だと言っていた。
 
 酒もよく出る。
 客たちは、何か理由をつけては皆で乾杯を繰り返している。
 一番飲まれているのがエールで、他にもワインや、焼酎だかウオツカみたいな強い酒もよく出る。
 焼酎はそのまま飲んだり、お湯割りにして飲む者もいる。
 何しろ極寒なので、通りに面してほとんどオープンテラスみたいなペトラの店では、ガンガン飲まないとやってられないのだろう。

 酒だけ頼もうとする客がいると、ペトラが「あたしの飯が食えないなら他の店に行きな!」などと恫喝するので、男たちはポケットの中のコインが尽きるまで飲み食いして帰るのが常だ。
 それでも、ベロベロになってぶっ倒れても、放り出したりせずに、ちゃんと水を飲ませて介抱する。
 親切な店なのである。
 人気があるのも当然だった。
 客の大半が常連だ。なぜなら新規の客もあっという間に巻き込まれて常連になるからだ。

 料理には興味があったので手伝いたい気持ちもあったが、あたしはまだ新人もいいところなのだ。
 まずは自分にできることを、というわけで、忙しく店を駆け回って注文をとり、酒を注いで回る。
 ニコもこまねずみみたいに走り回ってよく働く。
 粗忽者らしくドジを踏むこともしばしばあるが、明くて働き者のニコは、客たちの人気者だ。

 あたしが黒目黒髪だからか、はじめはちょっと遠慮気味だった客たちも、酒が入れば遠慮なんて吹っ飛んでしまう。
 居酒屋でのバイト経験が効いたのか、それなりに受け入れられている。
 おじさんたちの相手も苦にならない。
 ふざけて口説かれたり、黒い目のことをからかわれたりしたが、悪意は感じられないからだ。
 適当にあしらったり、軽口の応酬になったりしていると、店に馴染んできている自分を感じて嬉しかった。


 * * *

 ただ……二度ほどお尻を撫でられた。
 エイヒムの街は治安がよく、ついでに娼館の質も高いため、商売女以外に悪戯を仕掛ける男はほとんど居ない。
 ライヒ伯爵が治安を良くするために色々工夫したのだとか。

 つまり、そういう不埒をしでかすのはたいてい外からやってきたよそ者だ。
 
 初めて痴漢に遭遇したときは、大騒ぎになってしまった。
 お尻を撫でられて悲鳴を上げたら、ペトラが鬼の形相でやってきて、男を思いっきりぶん殴ったのだ。
 それはそれは見事なパンチで、男は前歯をへし折られながらぶっ飛んでいった。
 あんな殴り方をしたら死ぬんじゃないかと不安になったが、男は盛大に鼻血を垂らしながらも、よろよろと立ち上がった。

「て、てめぇ! 何しやがる!」

 男は逆ギレしていた。

「ちょっとからかっただけだろうが! ぶっ殺してやる!」

 怒鳴りながら、男は腰に差した剣を抜いた。
 あたしは悲鳴を上げた。
 
「ぺ、ペトラ……! どうしよう、あの人、剣を抜いて……」

 体が震え始める。
 しかし、ペトラは止まらない。

「ペトラ、もういいから! やめて!」
「……剣を抜いたね?」

 剣を抜いて構える男に対し、ペトラは完全な無手だ。
 しかし、臆することもなく、剣を帯びた男にずんずん近づいていく。

「ペトラっ……! やめて! 殺されちゃうよ!」
「……剣を抜いたってことは、殺される覚悟ができたってことだね?」

 あたしの必死の制止に聞く耳も持たず、ペトラはボキボキ、ボキボキ、と指を鳴らす。
 周りの客は、ヤンヤヤンヤと無責任に囃し立てている。
 ピューピューと口笛まで聞こえて、止めようという気配は少しもない。
 あたしは酔っ払い達をキッと睨んだ。

(この酔っぱらいども! あなたたちも止めてよ! その腰の剣はなんのために指してるんだ!)

 あたしの狼狽などどこ吹く風で、喧嘩はエスカレートしていく。

「この野郎! こっちは剣を持ってんだぞ! 無手だからって遠慮してもらえると思ったら……」
「うるさいね!!」

 威嚇する男の言葉を遮って、ペトラは鋭く怒鳴りつける。

「剣を抜いた男が、女みたいにべちゃくちゃとくっちゃべってんじゃあないよっ! やる気があるならかかってきな! 遠慮はいらないよ! ほらっ! 相手してやるからさっさとしなっ!」
「あんだとぉおお?! なめんなぁあああ!!」

 男は本気で殺す気なのか、剣を上段に構えてペトラに迫る。

「ペトラっ!!!!」

 あたしは悲鳴を上げが、ペトラは「はん」と鼻で笑うと、剣を素早く避けて男の腕をひねり、あっという間に剣を奪い取った。
 気がつけば、ペトラと男の関係が逆転していた。
 一瞬の出来事だった。

「……は?」

 男の首筋に、ヒタリと添えられる剣。
 あっけにとられたように立ちすくむ男。

 後ろでは、客たちがやんやと囃し立てている。
 勝負ありだ。

(あっ! これ、見たことある!)
(ハイジの動きに似てる! ヤーコブ少年をぶっ飛ばしたやつだ!)

「馬鹿だなぁ、ペトラに喧嘩吹っかけるなんて」
「よそ者だからな、知らなかったんだろ」
「いや、見りゃわかるだろ、勝てないだろ」
「見てもわからん程度の三流なんだろ」
「なんせ、『重騎兵』のペトラだからな」
「我らが重騎兵に乾杯!」
「乾杯!」

 男たちがゲラゲラ笑いながら乾杯しはじめる。
 ペトラは誇る様子もなく、男たちを怒鳴りつけた。

「その名で呼ぶんじゃないよ! 傭兵からは足を洗って、二つ名は返上したんだ!」

 ペトラに怒鳴られると、客たちがビクリとし、すぐにシュンとおとなしくなる。
 剣を添えられたよそ者は、その名を聞いて愕然としていた。

「ぺ、ペトラだと……!? 重騎兵のペトラ!? くそっ、えらい奴と関わっちまった!」
「だから、その名で呼ぶなって言ってんだろうが!」

 ペトラがもう一発パンチを打ちこむと、男は鼻血を撒き散らしながら、通りの向こうまですっ飛んでいった。
 あたしは悲鳴を上げたが、ニコが慣れた風に

「はいはい、ちょっと通りますよー」

 などと言いながら、血だらけで気絶するおじさんを介抱をしに駆けていった。

 * * *

 そんなイベントもありつつ、街の生活は平和そのものだ。

 とはいうものの……たとえそうは見えなくても今は平時ではないのだ。
 聞けば、ここエイヒムのかつての領主であるハーゲンベック伯爵が、ライヒ伯爵に対し領地を返せと迫っているらしい。
 この諍いはこの十年の間、ほとんど日常レベルで続いている。
 エイヒムの税収で潤うライヒと違い、ハーゲンベックの財政はもはやズタボロなので、引くに引けないらしい。

 要するに、この戦争は損得ではなく、プライドのための戦争であるということだ。
 ペトラ曰く、こういうのが一番面倒くさいらしい。

 こうした情勢から、客たちの話題は、どうしても戦局の話題になりがちだ。

 曰く。

「敵の数はこちらとほぼ同数」
「戦意はこちらが圧倒的に勝っていて、敵方はまるで嫌々戦わされているかのようだ」
「万が一にでも、こちらが負けることはない」

 などなど、大半はライヒ側有利の情報である。

 しかし、時には「こちらも被害が出たらしい」などという情報も回ってくる。
 被害とは戦死者のことだという。
 あたしは身近な人間が参加する戦いで死者が出ているという事実に背筋を寒くした。
 何人かの客に、戦死した人について質問するが、誰が死んだかまではわからないとのことだった。

(もし、死んだのがハイジだったらどうしよう)
(あの日、誤解したまま別れたっきり、まだお礼も言えてないのに)

 男たちは「ハイジに限ってそれはない」と揃えて言ったが、それでも不安は消えなかった。

「へぇ、嬢ちゃん、ハイジのことを知ってるのか?」
「……ええ、まぁそれほど深い付き合いがあるわけではないけどね」
「ははは、嬢ちゃんみたいな娘っ子に心配してもらえて、あいつも幸せもんだな!」
「嬢ちゃんが心配してくれるなら、おいらも参加すりゃよかったかもな」
「安心しな! あいつが簡単にくたばってたまるかよ!」
「そうとも! ロートルかもしれんが、なんせ経験が違うよ」

 男たちは、あたしを安心させようとしているのか、ギルドでも聞いたような、ハイジの英雄譚をあたしに聞かせてくれた。

(でも、英雄だった頃と比べたら、今のハイジはずっと弱くなっているんでしょ?)
(映画に出てくるヒーローと違って、矢を跳ね返すことだってできないし、切られれば簡単に死んじゃうんでしょう?)

 あたしはどうしても安心することができなかった。
 同時に、どうしてあたしがあの男のことを心配しなくてはならないのか、自分でも理解ができなかった。
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