魔物の森のハイジ

カイエ

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 それからというもの、あたしは必死になって仕事に打ち込んだ。
 ハイジが死んだと思い込んだあの日以来、なんだか自分でも理解できないくらいに、ハイジへの反感がくるっと反転してしまったのだ。
 おかげで、気を許すと「ハイジに会いたい」などと馬鹿なことを考えるようになってしまっていた。

(でも、これって明らかにヒヨコの刷り込みとか、吊り橋効果みたいな錯覚よね)
(実際のところ、ハイジはあたしを最後まで無視し続けてたわけで、冷静になってみれば、好感度が上がる理由がないもの)

 というわけで、あたしはわけのわからない感情を振り払うため、必死になって働いた。
 気を許すと、ついぼーっとしてしまう。
 しかし、残念ながらこの店は冬の間、仕事は全く忙しくないわけで……あたしは無理やり元気に接客に務めた。

「いらっしゃいませー! 何名様ですか? 奥の席へどうぞー!」
「おっ、姉ちゃん元気いいな! とりあえずエールと、いつもの煮込み頼まぁ」
「ありがとうございます! 喜んでー! 女将さーん、エールとポトフ一丁ー!」

 バイト先の居酒屋のノリ全開で仕事に打ち込む。
 がむしゃらに働いて、他のことは全て忘れてしまいたかった。

「リンちゃん……なんか変」

 ニコが怪訝そうにあたしを見た。
 ペトラもそんなあたしを呆れたように眺めて

「いや、ウチの店は、そんな妙なノリの店ではないんだがね」

 などと言う。

 だって仕方ないのだ。
 大事にされていたと気づいてしまったから。

(分かりづらいんだよ、あの人の好意は)

 でも、気づいた。
 気づいてしまった。
 大切にされていたことに。
 あたしの意思を尊重してくれたことに。

 姫さまの一件を聞いた今なら理解できる。
 きっと思い入れを深くしたくなかったんだ。
 だから、懐かれてしまわないように、冷たく突き放した。

 「子供」は、困っているときに助けてあげると、すぐに懐いてしまうから。
 苦しんでいる時に優しくすると、すぐに好きになってしまうから。

 そのせいで、相手に辛い思いをさせてしまった事があるから、姫さまを傷つけてしまったことを、今も後悔しているから……だから、なるべくあたしに嫌われるように、無視して、冷たく接して、できるだけ会話も避けていたんだ。

(……会いたいな)

 あの無視は、不器用なハイジの、精一杯の優しさだったのだ。
 そんなことを考えているとペトラに叱られる。

「ほら! また手が止まってる! 元気すぎるかと思ったら、ボーっとして! 変な子だよリンは!」
「うわっ、すみません……」
「アンタ……なんか恋煩いでもしてるみたいだよ? 大丈夫かい?」
「こっ……?!」

 恋?!
 いやいやいや、流石にそれはない!
 あたしは知的なタイプの男性が好みなんであって、あんな野生動物みたいな男はタイプじゃない!

「誤解です! どちらかと言うとハイジはお父さんみたいな感じで……」
「……誰もハイジの話なんてしてやしないじゃないか……」
「あっ!?」
「語るに落ちるとはこのことだね」
「リンちゃん、顔真っ赤」
「やめてぇ~~……」

 顔が熱い。
 いや、本当に違うのだ。わかってほしい。

 ハイジが戦死したと思い込んだあの日。
 あたしは彼にもう一度会いたい、会って話がしてみたいと思った––––その気持ちは紛れもなく本物だ。
 本物だが……それは恋とか愛とか、そういう甘ったるいものじゃないんだ。

 そう、どちらかと言うと、あの小屋でいつも飲んでいたハーブティみたいに、渋くてふわっとした感情で……。

「リン! またぼーっとしてるよ!」
「うわぁん! すみません! いらっしゃいませぇーーッ!!」
「だから極端だっつってんだろ! 普通でいいんだ、普通でっ!」
「そんなこと言われてもー!」
「じゃああたしも! いらっしゃいませ~っ!」
「ニコも真似しなくていいんだよ! 何なんだい、一体!」

 そんな風に、あたしは酒場で過ごした。
 ペトラは優しかったし、ニコも可愛いし、客とも仲良くなった。
 居心地がよくて、ここが自分の居場所だと強く感じるようになった。
 もともと賑やかなのは嫌いじゃないし、暇よりは忙しいほうが好きなのだ。

 だから、あたしはハイジのことは忘れて、ここで生きていこうと決めた。


 * * *


 一月ほどそうしているうちに、だんだんハイジのことを思い出すことも少なくなった。
 街にはだいぶ溶け込めたと思う。
 買い物に出ても、店員と談笑したり、名前を知ってくれている人と挨拶しあうようになった。
 あたしはエイヒムのことが大好きになった。

 冬はまだ始まったばかりで、春はまだまだ遠い。
 ヴォリネッリの冬はうんと長いのだ。年の半分は雪に閉ざされてしまうほどに。
 ならば、冬のうちに仕事をしっかり覚えて、こんなややこしい娘を受け入れてくれたペトラへの恩に報いよう。
 ごく自然に、そう決心した。

 日本の居酒屋風の接客をしまくっていたおかげで、街の人達にも「ペトラの店の看板娘」として認識されつつあった。
 今ではニコとあたしは酔っ払いたちの人気者である。
 常連客たちは、みんなやさしい。
 こんな『はぐれ』なんていう、わけのわからない存在を自然に受け入れてくれている。
 ありがたいことだ。

 客といえば、ヘルマンニがちょくちょく顔を出すようになった。
 ヘルマンニはペトラとも顔見知りだった。
 しかし、昔ツケを払わずに逃げたせいで、長らく食堂に近づかなかったらしい。
 「ツケのことは忘れてないよ!」 と恫喝するペトラにだったが、ヘルマンニが素直に頭を下げ、ツケを利子付き払ったことで、ペトラは謝罪を快く受け入れた。
 それからというもの、ヘルマンニは、週に一度は必ず顔を出すようになった。

(何となく分かるんだけど)
(これって多分、ハイジに言われたんだろうな)

 どうせ、変な貴族に目をつけられないように目を配ってやれ、とか言われたんだろう。
 ヘルマンニは腹芸ができるタイプの人間ではないので、顔にでるのだ。
 過保護なことだ、と思った。

 ペトラとヘルマンニ、どちらもハイジの古い知り合いだ。
 それに街の人達の目もあるのだから、奴隷商や他領の貴族もあたしに手出しすることは難しいだろう。
 あたしは随分恵まれている。

 * * *

 ある日、客の一人が「ハイジを見た」と教えてくれた。
 どうやら、毛皮を売りに街へ来ているらしい。

 とたん、胸が高鳴るのがわかった。
 ここしばらくは、ハイジのことを思い出すことも少なくなっていたのに、人の口からハイジの名を聞いた途端、冷静ではいられなかった。

(会いたい!)
(……いや、だめだ、今は仕事中なんだぞ!)

 それに、あたしが会いに行ってもハイジは絶対に喜ぶまい。
 むしろ迷惑そうにしかめっ面をするに決まっているのだ。

(そんな顔でもいいから見てみたい)
(って、あたしは乙女かっての! バカみたいだ!)

 勘違いも甚だしい。
 このバカバカしい気持ちを、あたしは必死に頭から振り払った。

「3番テーブルさん、鶏の煮込みどうぞ! 5番テーブルさん、エール少しお待ち下さい! あっ、いらっしゃいませ、何名様ですか!」

 あたしはハイジのことを頭から振り払うために、必死になって接客に務めた。

「リン! だから張り切り過ぎだっての! もっと普通でいいんだ普通で……って、リン、アンタそれ、どうした?」
「え?」
「あっ、本当だ! リンちゃん、顔色悪いよ! それに目! 目が真っ赤!」
「ええ~? あれぇ、なんだろ、 煙が目に沁みたんですかね?」

 あたしは強がってそんなことを言うが、目がシパシパしている。
 貧血を起こしたみたいに、フラフラしていた。

(なんじゃこりゃ)
(ちょっと吐き気がするし、なんだか視界も白い……)

 慌てて「えへへ」とごまかす。

ペトラは「はぁ」とため息を吐いた。

「リン、明日は休みだ。一日好きに過ごすがいいさ」
「えっ! いや、いいよそんな、定休日でもないのに」
「だから、冬の間は赤字だっつってんだろ! あたしとニコだけで十分回るっての!」
「リンちゃん、あたしなら大丈夫だよー?」
「でも」
「それよりも、あんたはちょっと気持ちを整理したほうがいい」
「整理って……あたしは別にいつも通り……ですヨ?」
「リンちゃん、言葉遣いが変」
「はん。そうかい……それならそれでいいさね。ただし、体調が悪そうな店員を客に見せるわけにはいかないんだよ。だから、アンタは明日は休み。言うことを聞きな! いいね?」
「……はい……」

 二人から休め休めと猛攻を食らい、しまいには無理やり承諾させられてしまった。
 できれば仕事に打ち込んだほうが楽なのだが、店の迷惑になるなら仕方ながない。
 あたしは早退させられ、トボトボと自室に戻った。

 案の定、上の空とハイテンションを行ったり来たりして、なんだかぐったりと疲れていた。
 くらくらする頭と、ボーッとする視界が不快だった。

 結局、夜はいつもより早くベッドに入り、目を閉じるとあっという間に眠りについた。
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