魔物の森のハイジ

カイエ

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#2

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 翌日、あたしはいつもよりだいぶ早く目を覚ました。
 何やら夢を見た気がするが、どんな夢かは思い出せなかった。

 窓に目を向けると、外はまだ薄暗い。
 そういえば小屋では毎日このくらいの時間に目を覚ましていたなぁ、などと思いだす。
 どんなに早起きしても、ハイジはあたしよりよほど早くに起きて狩りに出ていた。
 あたしは起きるとすぐに家の掃除をして、朝食の準備をしたものだ。

 朝の空気ははシンと冷えているが、森と比べればよほど温かい。
 よし、とあたしはベッドから体を起こす。
 顔を洗い、最低限の身だしなみを整える。
 隣のベッドでは、クークーと小さないびきをかきながらニコが幸せそうに眠っていた。
 ニコを起こさないように、それにペトラがまだ寝ているかもしれないので、そっと家から出る。

 刺すような冷たい空気があたしを覚醒させる。
 頭が冴えていくのがわかる。
 空を見上げると、薄ら明るい朝の空に、まだいくつか星が残っていた。

 何となく気が向いて、あたしはギルドに向かうことにした。
 一日ギルドで張り込んでいれば、ハイジは顔を出すだろう。
 彼の顔を見れば、この訳のわからない気持ちも、ただの勘違いだとわかるかもしれない。
 仕事の邪魔になるような妙な感情は、すっぱり洗い流すに限る。
 そうしなければ、いつもどおりの自分に戻れないような気がするのだ。

(今度こそしっかりお礼を言おう)

 そうだ、あたしはちゃんとお礼を言えなかったことを後悔していたんだ。
 ただそれだけ。
 だから、ちゃんと謝って、お礼を言って、自分の気持ちが整理できれば、もう彼のことを思い出す必要は無くなるなずなんだ。

 ハイジはどこに泊まっているのだろうか。
 また娼館とやらに泊まっているのだろうか。

(実はハイジ、結構な女好き?)

 ペトラの食堂からギルドまでは歩いて数分の距離だ。
 夜のうちに雪が降ったのか、くるぶしくらいまで雪が積もっている。
 ザクザクザクと雪を踏みしめて歩く。
 石畳に積もった雪の踏み心地は固く、森よりも滑りやすい。
 心地よい踏み音を楽しみながら歩いていると、どこかから「カコン、カコン」と音が聞こえてくる。

 なんの音だろう?
 音はギルドの裏手から聞こえてくる。
 ザクザクザクとそちらへ向かう。

「チクショウ! もう一回だ!」

 声が聞こえる。少年の声だ。
 聞き覚えのある声だった。

(ヤーコブ少年? 剣の訓練?)
(もしかして……!)

 足が勝手に走り出す。
 逸る気持ちを抑えながらギルドの裏手に回ると、そこは柵で囲まれた広場で……。

(ハイジ!)

 そこには、ヤーコブ少年に対峙するハイジがいた。
 後ろ姿だったが、見間違えるはずがない。
 あたしは声をかけるのも忘れて二人を目で追っていた。

「やぁああ!」

 ヤーコブ少年はハイジに向かってジグザクに迫り、フェイントを掛けつつ木刀を振るう。
 対するハイジは手首をちょっと動かしただけでその木刀を打ち払い、ついでとばかりにヤーコブ少年を蹴っ飛ばす。
 数メートルもふっとばされるヤーコブ少年。

(いや、容赦ないな!!!)
(ヤーコブくんが宙を舞ってる!)

 下手すると殺してしまいそうなくらい過激な稽古。
 でも、ヤーコブ少年は雪に尻から落ちたおかげで、怪我などは負っていないようだ。
 つまり、怪我をしないギリギリ最低限の気は使っているということなのだろう。

 その時あたしは、ムクムクと湧き上がる気持ちを抑えきれなかった。
 すぐ近くに立て掛けてあった木刀を手に取る。
 この最低な朴念仁男に、一撃入れて驚かせてやる!!

(On your mark……)
(Set……)

「Go!」

 あたしは矢のように飛び出し、そしてハイジの背中に木刀を振り下ろす!

「やぁああああーーーー!!」

 すると、ハイジはこちらを向いた。
 そして襲撃者があたしだったことが意外だったのか、一瞬驚いた顔を見せた。

(やったぜ)

 初めてハイジを驚かせてやった!
 そして木刀はハイジに届き……。

(……あら?)

「カコン」

 木刀は軽い間抜けな音を立ててどこかにすっ飛んでいった。
 ついでに、ハイジはスッと片足を出して、ひょいとあたしを引っ掛けた。

(あ~れ~)

 宙を舞う自分。
 あー、さっきぶっ飛ばされてたヤーコブくんはこんな気分だったのかぁ、などと冷静に考えつつ、

「ギャン!」

 すっ転んで、雪に頭を突っ込むことになった。
 もちろん怪我はなし。
 木刀を弾き飛ばされた手と、引っ掛けられた足はちょっと痛むけれど、かまうものか。

 あたしはすぐに立ち上がり、ハイジに対峙する。
 歯をむき出して、ハイジを睨みつける。
 「今からお前に襲いかかるぞ」と意志表示。

 ハイジは少しだけ驚いた顔を見せ、薄く笑うと、手に持った自分の木刀をあたしに放り投げた。

(あたしなんて無手で十分、ってか)
(やってやろうじゃない)

 木刀を拾う。
 ちらりと辺りを見まわせば、少し離れたところでヤーコブ少年がこちらを見ていた。
 目配せし、ヤーコブ少年は頷く。

(1、2、)
(3!!!!!!)

 ヤーコブ少年と二人で、同時にハイジに襲いかかる。
 ヤーコブ少年のスピードはなかなかのものだ。陸上で鍛えたあたしに劣らない。ほとんど同時にハイジに肉薄し、二人同時に木刀を振り下ろす!
 ハイジは興が乗ったのか、すぐに木刀を取り上げたりはせず、しばらくの間あたしたちの斬撃をひょいひょいと余裕の表情で躱してみせた。

 ––––当たらない。
 ––––当たらない!
 ––––当たらないっ!!

「「こんちくしょう!」」

 声が揃う。
 なんとしても当ててみせる! と意気込んで突っ込んだ途端、ハイジはスッとしゃがみ、左足を軸に回転し、右足であたしたち二人の足をスパパン! と払った。

 雪に頭から突っ込むあたしとヤーコブ少年。
 すぐさま起き上がり、あたしは口に入った雪をペッと吐いて、叫んだ。

「ハイジ! あたし、あなたについていくから! 戦い方を教えて!!」

 そして、木刀を握りしめて、ハイジに襲いかかる。
 ハイジは何を感じたのか。
 片眉を上げて、あたしが振り下ろした木刀を掴むとぐいと引っ張り、足をひっかけて、あたしごと放り投げた。

(あ~れ~)

 そして雪に突っ込む。

(いや、容赦ないな!!)

 でも、それでこそハイジ。
 またも雪をぺっぺと吐いて、すぐにハイジに向かって木刀を構える。
 ハイジの向こうでは、ヤーコブ少年も木刀を構えていた。

 ハイジはあたしとヤーコブに向かって、手を「クイッ、クイッ」と動かして「かかってこいポーズ」だ。
 そしてあたしとヤーコブ少年は、動けなくなるまでハイジに挑み続けた。

 * * *

 動けなくなって、倒れたままハァハァと荒く息をしていると、ハイジは何も言わずそこを立ち去ろうとする。
 あたしと同じように息も絶え絶えなヤーコブ少年が

「帰るのか、ハイジ」

 と声をかけると、ハイジは止まろうともせず、ただ「ああ」とだけ答える。
 いや、ここで見失ったら、また会えなくなってしまう。
 体を起こしてハイジを呼び止める。

「ハイジ!」

 あたしが叫ぶと、ハイジは立ち止まった。
 振り返って、あたしを見ると、不機嫌そうに答えた。

「なんだ」
「ハイジ、いつまで街にいるの? それに、どこに泊まってるの?」
「明日には森へ戻る。街ではいつも娼館で寝泊まりしている」

(娼館!?  娼館だとぅ!?)

「あ、あんたねえ、ヤーコブ君の前でそういう単語を口にしないで! あと、不潔よ不潔!」
「何がだ」
「何がって……全部よ! それに、あたしのことは女扱いしないくせに!」

 そう言うと、ハイジは少し驚いた顔をしてから、あたしを見た。
 つま先から、少しずつ上に視線が上がってきて……

(ぞわわわわわ)
(目つき、いやらしくない?!)

 と思ったら、ハイジは「フッ」と鼻で笑った。

(馬鹿にされた?!)
(あたしなんて女じゃないって?! いや、確かにお胸のサイズは慎ましやかかもしれないけど、陸上だと有利なんだぞ!)

 そして、なにげにちゃんと笑ったのを見たのは初めてだった。
 嫌な初めてだった。

「ハイジのバカ! バカハイジ! もぅっ! 馬鹿にして!」
「馬鹿になどしていない」

 ハイジはそう言うとさっさと背を向け、ザクザクザクと、特徴的な歩き方でそこを後にした。
 その背中に向かって、あたしは怒鳴った。

「きぃー! 馬鹿にして! いつか見返してやる!」


 * * *


 泥だらけの状態でペトラの食堂に戻ると、ペトラはもう仕込みを始めていた。

 この服は、ペトラに買い与えられたものだ。
 汗と雪でずぶ濡れ、泥だらけの酷い有様である。
 ペトラの姿を見た途端、頭が冷えて、なんだか急に申し訳なくなってきた。

 どうやって挨拶しようかともじもじしていたら、ペトラはすでにあたしに気づいていたらしい。
 ペトラは泥だらけのあたしを見ると、面白そうに声を上げて笑った。

「まだ休日は始まったばかりだってのに、もういい顔になってるじゃないか!」

 ペトラは泥だらけになった理由など、何も訊こうとしなかった。
 しかし、あたしは、ついさっきハイジに「付いていく」と宣言したばかりだなのだ。
 ペトラになんの相談もなく、感情に任せて決めてしまったことに対し、強烈な罪悪感が湧き上がってくる。

 ハイジについていくと言ったら、ペトラはどう思うだろう。
 怒るだろうか、いや、きっと呆れるだろう。

 あたしがしようとしていることは、これまで大事にしてくれたペトラを裏切る事にならないだろうか。
 でも、あたしはすでに決めてしまっている。
 ここで黙っている方が不誠実だ。
 あたしは勇気を振り絞ってペトラに告白することにした。

「あの、ペトラ……あたし……」

 しかし、ペトラは最後まで言わせてくれなかった。

「いつ発つんだい?」
「えっ……?! あ、あの、あたし……」
「今日すぐにかい? それとも明日かい?」
「あ、はい、その……明日、です」

 あたしがしどろもどろになって答えると、ペトラはぐるぐる鍋をかき回しながら笑って言った。

「そうか。で、もちろん夏には戻ってきてくれるんだろ?」
「は、はい! それはもちろん!」
「屋根裏部屋のベッド、片方はあんたのためにおいておくよ。雪解け月の終わりくらいには戻ってきておくれ」
「はい! ありがとうございます!」

 ペトラは、すでにわかっていたのだ。
 あたしは髪が床につくくらいに頭を下げた。

「まぁ、ウチとしても夏までは赤字だからねぇ。むしろ助かるってもんだ……と言いたいところだけど、客の男どもが何ていうかね。あんた目当ての客も多いんだよ」
「そんな、あたしなんて……」
「こら! こういうときに謙遜する女は駄目さね! 自信を持ちな! あんたはこの店の看板娘だろう?」
「あ、ありがとうございます……でも、ハイジってば、ものすごーく子供扱いするんですよ、自信なんて持てないです」
「ん? 女扱いして欲しいのかい?」
「そうじゃないですけど」

 女扱いして欲しいわけじゃなくても、子供扱いされたり、軽く扱かわれるのは流石に癪に障るのだ。
 そう伝えるとペトラは笑った。

「あんた、実際まだ子供じゃないのさ。あと五年もしたらいい女になるから、見返してやんな!」
「いい女って……だから、そんなんじゃないんですって! からかわないでよ、ペトラ!」

 ペトラはあたふたするあたしを見て笑っていたが、

「将来のことなんて誰にもわからんさ。でも、女に生まれてきたからには、いい女を目指しな。あたしを見てみな? どうだい! いい女だと思わないかい?」
「思います!」

 食い気味に返事すると、ペトラは驚いた顔をして、それからお腹を揺らして大声で笑った。

 でも、実際ペトラはかっこよくて、いい女だと思うのだ。
 丸々と太っていても、いつも笑っていて、可愛くて、気風が良くて、……本当に素敵な女性だ。
 たまに男たちにも言い寄られていたりするし、きっと誰から見ても魅力的な女性なんだ。

 だからあたしは本心から言った。

「あたし、大人になったらペトラみたいな女になりたいです」
「ははっ、あたしを目指すのかい? そりゃあいいね。せいぜい参考にしな! ……と言いたいところだけれど」
「なんです?」
「あんたの場合、「姫さま」を目指したほうがいいんじゃないかね?」
「えっ?! だから、そんなんじゃないんですって、ペトラは、もう!」

 そんなんじゃない。
 そんなんじゃないけれど、でも。

「でも、絶対に見返してやります!」
「その意気だ! がんばんな!」

 絶対にだ!


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#2(第二章)終わりです。
#3(第三章)からは、一日一話更新の予定です。
引き続きよろしくお願いいたします。
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