魔物の森のハイジ

カイエ

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#5

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 エイヒムに戻ると、あたしはすぐに寂しの森へ向かうことにした。
 ヴィーゴから聞かされた様々な話にショックを受けたあたしは、とてもではないが、恥ずかしくてペトラのところに顔を出す気にはなれなかったのだ。

 今の自分なら、エイヒムから寂しの森の道中に危険などありえない。それに、一人で考えたいことが山程あったのだ。

 ミッラにペトラへの伝言を頼み、あたしはトボトボと歩き始める。
 森へ一人で向かうのは考えてみればこれが初めてだった。
 すでに日は暮れ始めている。森まで何時間かかるのだろうか。できれば朝までには森に着いておきたいところだ。
 
 でも、ハイジの前でどんな顔をすればいいのだろうか。
 あたしはこの日、この世界に来て一番心細い気持ちだった。
 
 すでにあたしの体はこの世界に合わせて作り変えられている。意識しようがすまいが、視界には魔力を通した世界が重なっている。どんなに真っ暗でも、昼間と変わりはしない。いや、むしろ昼間のほうが邪魔な光のせいで見通しが悪い気すらする。
 
 道中、何度も魔獣の気配を感じたが、一匹たりとも襲ってこようとはしなかった。
 視線が通れば問答無用で襲いかかってくる魔獣達ではあるが、どうやらあたしの気配は魔獣達にとって、ハイジ並みに危険らしい。
 奈落の底みたいな気分だったので、むしろ襲ってきてくれたほうが気は楽だったのに、世の中ままならないものだ。
 
 今の季節は秋。今年の夏はハーゲンベックに潰されてしまった。
 これからは、いつもどおりの冬の生活が始まる。
 
(……本当だろうか)

 自分は、これまでどおりの冬を過ごすことができるのだろうか。
 ハイジはあたしを放り出したくはないだろうか。

(嫌だ…………)
(でも、もしあたしの存在がハイジを傷つけるなら、あたしは––––)

 頬に当たる風は、まだ暖かさを感じさせる。
 あたしは罰が欲しかった。冬の刺すように冷たい風が恋しい。
 
 この世界に飛ばされてきた日のことを思い出す。
 魔物の領域を切り分ける大雪原を見た時の絶望感が懐かしい。
 もはや、一晩中歩いても疲れもしない。今なら鼻歌交じりで踏破できるにちがいない。
 
 あの頃は、ハイジの存在が恐ろしかった。魔獣が、雪が、冷たい風が、この世界の何もかもが恐ろしかった。
 なのに––––今では何もかもが愛しい。

 この世界では、あたしは異物なのだ。
 そんなあたしを受け入れてくれたこの世界が、あたしは泣きたくなるほど好きだ。
 
 
 * * *
 
 
 魔物の領域に到着すると、夜が白々と明け始めていた。
 空を見上げると、大量の星々がパラパラと降ってきそうなほど輝いている。
 
 この森を過ぎれば、いつもの一本道に出て、森小屋を視認できるだろう。
 あたしは躊躇して立ち止まった。
 もう十時間近くは歩き続けているのに、ハイジに何を言えばいいのか、一言もまとまらなかった。
 
 郷愁にも似た気持ちに突き動かされ、あたしはまた足を踏み出す。
 そして一本道––––灯りの消えた森小屋は見慣れなかった。
 と––––、あたしが森を視認した瞬間––––森小屋に灯りが灯った。
 ハイジが、あたしの気配に気付いて起きてきたのだろう。

 あたしはこみ上げる涙を押さえられなかった。
 
(––––ハイジ––––!!)

 あたしは逸る気持ちを抑えながら、森小屋へ向かって足を進めた。
 しかし、扉の前まで来ると、また躊躇する。
 
 この状況は、この世界に来たあの日に似ていた。
 あの時も、あたしはドアを叩くのに躊躇して、吹雪の中凍えながら突っ立っていたっけ。
 ドアを叩いても叩いても返事がなくて––––あたしは寒さに耐えきれずに自分で扉を開いたのだった。
 
 むしろ凍えてしまいたい気持ちだったが、残念ながら、今はまだ秋である。
 扉を開くかどうかで散々迷った挙げ句、あたしは扉に手をやろうとして––––、

「何をやってるんだ」

 あたしが開けるより早く、ハイジがドアを開けて、あたしを見下ろしていた。
 ハイジの顔はいつもと何ら変わりなく––––いや、どこか呆れたような表情を浮かべていた。あたしを非難するような色は全く見られない。
 
(扉を開けてくれた)
(あたしのために)
 
「ハイジ!!」

 あたしは我慢できずにハイジに突進した。

「なんだ、どうした?」

 ぶつかるように抱きついてきたあたしにハイジは驚いたらしい。
 あたしは何を言えばいいかわからなかった。

「ハイジ、ハイジ……ハイジ」
「どうした? 何かあったのか?」
「ごめん、ごめんね」
「……何を言ってるんだ、おまえは」
「ごめんね、ハイジ、もうちょっとだけこのまま……」
「やかましい」

 しかしハイジはいつもどおり全く空気を読んでくれなかった。
 べりりとあたしを引き剥がした。

「あぅ……」
「何があったか知らんが、とりあえず家に入れ。なぜ歩いて帰ってきた? ギャレコに馬車を依頼していたのに」
「…………」
「茶を淹れる。お前も飲むか?」
「飲む」
「とりあえず座れ。落ち着かん」

 ハイジはゴツリ、ゴツリと足音を立ててキッチンへ向かい、マグを二つ用意した。
 差し出されたのは、いつもの赤い花柄の丸いマグだ。
 もはや魔力酔いの心配がないからだろう、ハイジと同じ長さのハーブが突っ込まれている。
 
 あたしはグスグスと泣きながらハイジの淹れてくれたお茶を啜る。
 お茶は火傷しそうなほどに熱い。
 ハイジはいつもどおり、完全な無言だ。
 
 半月ぶりの小屋を見回す。
 殺風景に見えて、そこら中にサーヤの居た痕跡がある。
 まず、この可愛らしいマグだ。
 あたしの部屋にも、花のレリーフがいくつもあるし、色褪せてはいるものの、ベッドカバーも刺繍が施された可愛らしいものだ。
 それは、自分ではない誰かに向けられた、深い深い愛情の痕跡。

(それを痛いほど感じて、酔っ払いたちの騙る英雄譚を聞いて、勝手に色々想像して、決めつけていたのか)

 これではヴィーゴに責められるのは当然だ。
 
(ハイジ、怒ってたなぁ)

 ––––誰から聞いたか知らんが、くだらん噂を真に受けるな。
 
 自己嫌悪で死にそうだった。
 お茶を啜りながら、ちらりとハイジを見る。

「……それで、何があった」

(!?)
(ハイジが自分から話しかけてきた!?)

「え、えと……何で?」
「いつも手に負えない跳ねっ返りが、そんな風にしおらしく泣いていれば、気になるのは当たり前だ」
「……あたし、跳ねっ返りかな」
「まさか、自覚がないのか?」
「う、うん……」
「そうか……。前にも言ったが、おまえはどこかおかしいのではないか?」

(……確かに言われたことがあるわね……)
(あぁ「なぜ俺を怖がらないのか」って訊かれたときか)

 あたしが襲われた日だ。
 哀れな盗賊ピエタリを尋問した後に、そう言われた記憶がある。

「うん、あたし、おかしいのかも」
「……素直過ぎて気味が悪いぞ……本当にどうしたんだ」

 ハイジは気遣わしげにあたしに視線を向けた。
 
「城で何かあったか?」
「う、ううん……あ、聞きたくないかも知れないけど、サーヤから伝言預かってるよ」
「ふん?」
「と言っても、前と同じだけどね。『英雄さんに、ありがとうと伝えて』だって。……その、ごめんね」
「うん? なぜ謝る?」
「その、サーヤのこと……」
「ああ……何を落ち込んでいるのかと思えば、ギルドの一件か」

 ハイジはなぜかホッとしたように小さくため息をついた。

「気にするな。何だ、どうせヨーコ辺りに虐められたんだろう」
「……う、うん……あ、でもヴィーゴさんは悪くないよ、むしろ、あたしのためだったんだと思う」

 あたしがヴィーゴを庇うように言うと、ハイジは少しだけ目を細めた。

「ヨーコは昔からそういう男だった。だが、ちょっとやりすぎるきらいがある」
「そうかな。そうかも」
「気にするな。好き勝手噂されることには慣れている。不快だが……否定しなかった俺の責任でもある」
「やっぱり不快?」
「そりゃあな。不快だ」
「……ごめん……」
「気にするな、と言ったはずだぞ」

 ハイジはちょっと凄むように言った。
 
「……聞きたいか?」
「何を?」
「当時の話だ」
「それって、サーヤについて?」
「そうだな、サヤについての話でもある」
「……苦痛じゃない?」
「いや、全く。確かにあまり良い思い出ではないが、訊かれればいつでも話するつもりでいた」
「なら、聞かせて?」

 あたしが言うと、ハイジは手に持った本をテーブルに置いた。
 
「わかった。どこから話すべきか……やはり、アンジェの話からか」
「アンジェ……?」

 また知らない女性の名前が出てきたが、あたしは大人しくハイジの話を聞くことにした。
 
「俺は孤児だ。両親の顔も知らん。気付いた時はアンジェという『はぐれ』に育てられていた––––」

 ハイジが語り始めた。
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