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第ゼロ章『人外×金龍の迷宮オロ・アウルム』
第12話:名もなきスライムの過ぐる日に
しおりを挟む――種族等級G。
その存在は、産まれながらにしてどうしようもない程に『弱者』だった。
魔物とは魔から生じる物。
濃厚な魔素から生じる場合もあれば、魔物同士の生命の営みの中で『子』として産まれる場合もある。そしてその存在は後者だった。
名もなき父と名もなき母から生まれ。
名もなき存在として何もない日々を過ごした。
偶にすれ違う同族とコンタクトをとる程の自我もなく、ただ『攻撃しなくていい相手』とだけ認識。圧倒的な弱者であるが故に繁殖能力だけは高く、強者に貪られたであろう屍を目にする機会だけはそれこそいくらでもあった。
けれど。
粘性を持ったゼリーのような粕だけが残るそれを見ても、その存在の心には何も響かない。何の感慨も湧いて出てこない。そもそも『心』というものがあるのかさえ定かではないのだ。
それがその存在を始めとする最下位の魔物に定められた、悲しき残酷な定め。
貪られるだけの『餌』に与えられた、最低限の慈悲でもあるのかもしれない。
そんな種のうちの一匹として、その存在は特に秀でた個体ではなかった。数多なる種の数に埋もれるただの一匹でしかなかった。
唯一例外があるとすれば、両親が変わり者だったことだろうか。
種としては本来育児を放棄するはずの両親が、概念自体を持たぬはずの二匹の同族が、いつもその存在の側にいてくれた。食料を与え、寝るときはくっついて、本能のまま三匹で遊ぶ時すらあった。
心を持たぬはずの彼らがその存在を育ててくれた。
何気なくでもいい。気まぐれでもいい。
父と母であることすら認識できていなかったかもしれないが、その二匹が側にいてくれる――それだけがその存在にとっての幸せだった。
それは群れないはずのその種にとっての異常事態。
形だけ、見た目だけかもしれないけれど、感情のない者同士が織り成す茶番なのかもしれないけれど――それは確かな『愛情』を分かち合う行為だったのだと、その存在は後になって知ることになる。
その二匹こそが、その存在にとってのきっかけであったのだ。
いつも通りに三匹が寄り添って朝を迎えたある日のこと。
種族等級Fの小鬼――ゴブリンが三匹を襲った。
種族等級とは秩序神が定めた絶対の数字。
等級が一つ違えば絶望的な差がそこには生じるため、実力差を覆すことなど滅多なことでは起きない。種としての等級ではなく個体としての階級で超えねば抵抗さえ難しいだろう。
単体のゴブリンといえど、秘めたる等級はF。
本来、種族等級Gのその存在に為す術などなかった。
――それこそ、異常事態でも起きねば。
その存在が初めて遭遇する圧倒的強者に恐れをなし、ガタガタと震える中――父である身体の大きな個体が、朽ち木の棍棒を手にギヒギヒとニヤつくゴブリンに果敢に挑んだ。
「――ギョォアッ!?」
突拍子もない吶喊。為す術なく喰われるだけであったはずの餌が、強烈とは言わないまでの突撃をかましてきたのだ。不意を突かれたゴブリンは転倒。不幸中の幸いか、ちょうど背後は河へと続く急な傾斜だった。
父はゴブリンの濁声と共に転がっていく。
それを見た母はすぐに行動を開始。震えて動けないその存在を頭上に載せ、傾斜とは反対方向へと全力で駆け抜けた。
その存在が正気を取り戻したのは、背丈の高い草藪に放り込まれた後だった。
自身を投げた母を見る。その流動体に表情というものは見られなかった。
けれど、どこか物寂しげに微笑んだように、表面がぽわりと揺れた。
しばらくお互いを見つめ合う。
顔というものが存在しないため背を向けている可能性もあるが、機能しない目ではなく心、存在しない心ではなく本能で、見つめ合い別れを惜しんでいることがわかった。
その存在は母にかける言葉も見つからず、言葉を発せられる機能もついておらず、何かを伝えようにもそもそもの発想が出てこない。
筆舌に尽くしがたい感情が渦巻いて、ぐにゃぐにゃと身体が揺れ動いた。
結局母は踵を返し、遠ざかる姿をその存在はただ見つめていた。
何をするつもりか、そんなもの言葉や感情がなくともわかった。
――それから数日が経ち。
戦く粘性の身体を叱咤し、なんとか川辺へと向かった。
そこには蝿が集るゴブリンの亡骸と。
――ゼリーが崩れたような粘性の粕が、きっかり二匹分あった。
ゴブリンの死因は恐らく転落の際に負ったダメージによる失血死。その場から動けないようにか、執拗に足が狙われた形跡があった。
結果としては片足を折ることができているため、大奮闘といえるだろう。
その存在――『スライム』はその光景を前に立ち尽くした。
しばらくじっとしていたスライムだったが、ポツポツと雨が降り始めた段階で身体をずるずると引きずるように動かして、両親だったスライムの残り粕を自身の身体へと取り込んだ。本能のままに。
その瞬間、スライムのか弱い霊魂が昇華した感覚があった。
魂の螺旋階段を僅かに登り、身体が燃えるように熱くなる。
内部をズタズタに挽かれる感触がする。熱い。熱い。熱い。
けれど、それ以上に。
ズタズタに引き裂かれるように痛む部位があった。
小さな身体のどこかで爆発したような激流の如く痛みがあった。
それは身体のどこから発されているのかわからない。
でも確かな形をもって、波が、大波が押し寄せる。
これは、
――『悲しい』
偽りに似た紛うことなき本物の愛を受け、人一倍の幸せの最中忽然と訪れた絶望。大きすぎる感情の機微に、その時初めて最弱と謳われるスライムに自我が芽生えた。
冷たい雨が格段に強くなる。
無力なスライムへと無情に降り注ぐ。
スライムは痛みに身を捩るでもなく、進化によって生じた小さな黒目からひたすらに大粒の涙を流していた。激情のあまり溢れ出る初めての涙は止まることを知らず、身体に打ち付ける雨に流されて濁った河に溶けていく。
動く気力も起きず両親の死を嘆き続けたそのスライムは、そのまま大雨によって増水した河の流れの中に姿を消した。
――その後、意気消沈した黄金の龍に拾われることになるのは、また別の話だ。
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