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一 兵糧
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天正七年(一五七九年)九月十日。
毛利家当主、輝元がようやくその重い腰をあげた。
三木城へと物資を運び入れるための補給路を確保するための、別所氏と毛利氏の共同戦線であった。
出陣を前に、広間の中央に座している波が、吉親へ向けて言う。穏やかな声音で。
「こうしていると、不思議と影丸が天井裏にて聞き耳を立てているような気がしてなりません……。以前と変わらぬように……」
そう言った彼女は、懐かしむような眼差しを天井へ向けた。そのとき、ぽたりとひと雫、涙が落ちた。それが床板をわずかに濡らした。
吉親はひと言、そうじゃなあ、と呟いた。そうしてかれは、妻に倣い、天井を仰ぐ。
――影丸よ……。そなたは、息災かのお? ……答えてくれぬのか? 影丸よ……。
それからしばらく、二人の間に静寂が訪れた。鳥の囀りが、はっきりと耳に届くほどに。
それからのち、二人は言葉を交わすこともなく城を出た。肩を並べて。ゆっくりと。
別所方は三木城外の大村(現在の三木市大村)の付近へと、三千の兵を以て出陣した。
味方の兵は、毛利方と併せ、およそ四千あまりというところ。これまでにない大軍勢にて羽柴方を攻めた。この合戦は熾烈を極めた。壮絶であった。
相手方の兵数は一万以上にのぼった。相手の守りが強固であった。予想していた以上に。
奮戦したが、結果は芳しくなかった。補給路確保の作戦は失敗に終わった。
大村の付近に位置する平田山に砦を築き、三木城をこれまで包囲してきた羽柴家の武将、谷大膳衛好を討ち取ることはできた。
しかし、その報せを受けた秀吉は、更に数万の兵を繰り出してきたのであった。
この戦に敗けたことにより、兵糧の補充は、これまでより困難な状況となってしまった。
居城へと戻る道すがら、吉親はひとつの考えを色濃くしていった。
――やはり、すべてを見抜かれておったか……。こちらの策は、筒抜けであったか……。
鷹尾山のほど近くまできたとき、吉親の傍らへ一人の男が駆けてくる。馬の背に乗って。
馬を吉親の隣につけた男は開口一番に言う。
「これまでの不義理、まことに申し訳の次第もござりませぬ! どうかご容赦くだされ!」
一同がその足を止めた。
吉親は問うた。
「それはいかような意にござりましょうや?」
すると、男が毛利家の家臣であることを明かす。その上で、吉親に一通の書状を渡した。
このとき、吉親はようやく気がついた。
毛利家の家臣であると告げた男の正体に。かれは、男の身の上を確認するべく訊ねた。
「貴殿は、吉川元春殿ではござりませぬか?」
吉親の問いに、周囲の者たちが絶句する。
続いて、眼前の四十がらみの男が薄く笑い、そうして答える。
いかにも、と。低く落ち着き払った声音で。
かれをそのまま留めおくわけにもいかず、訊ねたいことも幾つかあった。そのため、進路を変更し、三木城へと招き入れた。
三木城内。広間にて、吉親ら四名と、吉川元春が相対する。
ほどなく、元春の前には現状、可能な限りの最上の膳が提供された。
白米に魚の干物。汁物に漬物。
決して豪華とはいえない一膳。けち臭い、と一蹴されてしまってもしかたのない代物。けれどもそれが、精一杯のもてなしであった。
別所家当主、長治が促す。
「満足なもてなしもできはしませぬが、どうか召し上がってくだされ……。さあさあ……」
「貴殿らの膳が揃うまでお待ちいたします」
元春が言う。一切の悪気なく。朗らかに。
四人の顔に困惑の色が浮かんだ。えもいえぬ重苦しい沈黙が、広間を支配した。
吉親は言葉に詰まる。かれは考えに考えた。自分たちの膳が出ることはない、と。どのように伝えるべきか、について。
そのとき、隣に腰を据える波が告げる。自分たちの膳が出ることはない、と。遠慮なさらず食べてくださりませ、と。
すると元春が小難しい表情になる。やがて問いかける。神妙な面持ち、口調のままに。
「よもや、それほどに食い詰めておられるのですか? 今日は、いかほどのものを食されたのですか? 教えてくださりませぬか?」
吉親は話した。洗いざらい。別所家が、現在おかれている状況について。兵糧の残量について。一切を。包み隠さず。
「食うに困っているのは家臣も同じ。ゆえに、我らは朝餉のみで充分なのでござります」
そう締め括った。穏やかな微笑とともに。
そのとき、四人分の腹の虫が鳴った。
「そこまで困っておられるとは、露ほども知らず……。知っておれば、もっと早うに援軍も、兵糧も工面いたしましたものを……」
吉川元春は、渋面を作ってそう言った。
「そのようなはずは決してござりませぬ!」
若き当主が言いざまに勢いよく立ちあがる。
叫んだ瞬間の長治の顔には、明らかな焦りの色が見受けられた。
常に冷静なかれには珍しい挙動に、一同はその顔を、ただただ呆然と見つめていた。
膳をはさんで対峙する元春は問う。冷静に。
「そのようなはずは決してない、とは、いったいどのような意にござりましょうか?」
そう訊ねられた長治は再び腰をおろし、
「申し訳ござりませぬ。驚きのあまりに、つい、声を荒げてしまいました。かたじけない」
長治の声音は、わずかばかり落ち着きを取り戻している。が、困惑の色は拭えていない。
「このようなときです。それに、そのご様子からして、尋常ならざるご事情がおありと見えまする。もしよろしければ、そのご事情とやらを、この元春にお聞かせくださりませ」
長治は、しばし瞑目し、それから盛大に息を吐く。やがて開眼し、徐にその口を開いた。
「拙者はたしかに、幾度となく救援を求めるべく、書状をそちらにお送りいたしておりました。にもかかわらず、これまで一向に動く気配すら見せられぬ。ゆえに、我らは完全に見限られたものと思うて過ごして参りました。それを、報せあらば、と申されては……」
長治はそう言いながら大粒の涙を流した。悔しさ、虚しさ、愚かしさ。怒りや悲しみ。ありとあらゆる感情が堰を切って、湧き出る湯水がごとく、とめどなく溢れたかのように。
すべてを聞き届けた元春は、目を丸くして、ぽっかりと大口を開けていた。終始。そして沈黙した。視線を彷徨わせ、額から玉のような汗を垂れ流している。なにかを考えているかのような素振りで。
「元春殿……。いかがなされましたかな?」
吉親は、極めて落ち着いた声音で男に問う。
「いやあ……。それが……。その……」
と、途端に元春が言い淀んだ。どのように言葉にすべきかを考え捲ねているという風に。
吉親は、元春に先の言葉を促す。ありのままを遠慮なく申してくだされ、と。
その言葉により、元春は意を決したらしく、ひとつ首肯を返したのちに言葉を紡いだ。
「当方に、兵糧や援軍を催促される書状は、ただの一度も届いてはおりませなんだ……」
「そんな……! そんなばかな……! そのようなはずはござりませぬ! 拙者は出陣の折に触れ、毎度のように援軍をお頼みする書状をお送りいたしておりましたぞ……!」
吉親は元春の双眸をまっすぐに射抜く。じっくりと見据える。吟味する。吉川元春という男の一挙手一投足を。冷静沈着に。
元春は、ただひたすらに視線を向けてくるのみ。真摯かつ、実直な熱視線を。
吉親は思った。いや、確信した。眼前の御仁は、一切、嘘偽りを申してはいない。と。
そして同様に、長治が嘘をついているということも考え難い。常日頃、冷静沈着な長治の取り乱しようこそが、かれが嘘をついていないことのなによりの証拠と言っていい。このような局面において、冷静そのもので応じられるほうが逆に怪しいというもの。
――残された答えは、ただひとつ……。
吉親は双方を順に見やり、提案する。
それから吉親は、眼前の武将に問う。
「援軍を求める内容の書状は受け取っておられぬ、と申しておられましたな。その口ぶりから考えるに、別の内容の書状なれば受け取られたと解釈してよろしゅうござりますか?」
吉親の問いかけに、元春はひとつ首肯した。
「その書状の内容、ご教示くださりませ」
元春はまたひとつ首肯を返した。そののち書状のないようについてつぶさに語りだした。
別所軍は極めて順調であり、現状、援軍の必要はない。城内の備え、蓄えは充分であり、兵糧の運び入れの必要もない。という旨の書状が数回にわたって届いた、と。
その内容は、別所家がおかれている状況とは、まったくの正反対であると言っていい。
「提案したきことがござりまする。ここはひとつ、お二人同時に申されるというのはいかがですかな? 吉川殿は書状を持参された家の者。長治殿は書状を宛てた御仁の御名を」
二人の男たちが吉親の提案に頷いた。
かれは重ねて提案する。
「拙者が三つ数えたのちに、御名を申されませ。……それでは御両人、よろしいかな?」
承知した、とばかりに頷く二人。
吉親は数える。一の二の三。
同時に二人の男が言う。異口同音に。宇喜多直家、と。
束の間の静寂が訪れた。
やがて毛利家の臣、吉川元春が徐に口を開く。未だ信じ難い、と言わんばかりの口調で。
「なんということじゃ……。これよりただちに、真偽のほどを検めまする……」
言いざまに、元春は跳ねるようにして立ち上がった。
そこで、はたと動きを止め、ひとつの疑問を口にする。
「書状には、たしかに花押が記されておりましたが、その点につきましては、いかにお考えでござりますかな?」
それは、至極もっともな疑問であった。
花押とは、一朝一夕で真似をすることはかなわない。差出人がその書状を認めたことの証明として使用されるものである。加えて、文書の偽造を困難にする狙いもある。そのため、定期的にその御印を変更する者も少なくはない。
その問いに対し、吉親は平然と言ってのける。さも、取るに足らぬこと、とばかりに。
花押は模写、あるいは本物の書状の上に偽の書状を重ねて書き写したのだろう、と。訥々と語ってみせた。それから更に、偽者と疑ってかからない限りは、花押の真贋など、そう易々とは見破れはしまい、と。
それらを聞き届けた元春は、膳に手をつけなかったことを詫び、必ずや兵糧を届けさせることを堅く約束して広間から立ち去った。
それから数日後、飛脚を装った吉川元春の家臣、十数名が三木城へと兵糧を運び入れた。
吉川家の者たちに吉親は謝辞を述べた。それからのち、かれは男たちに問うた。
「そなたらの身の上が露見しようものなら、一刀のもとに斬り捨てられておったであろうに、なにゆえそうまで危うきことをなさる?」
すると、芳川家の者が答えた。
「なんとしても、この命に換えてでも、兵糧を運び入れたかったのです……。貴殿らの苦境を耳にした以上は、役に立ちたいと思うのが武士というもの。今後も我らが折を見て兵糧を運び入れまする。どうかご安心を……」
その言葉に対し、吉親は首を横に振る。
「そうまでしていただかずともよい。我ら、そなたらの御命が危うい目に遭うことなど、決して望まぬ。吉川家、否。毛利家は充分に、義を果たしてくだされた。ゆえに今後、無謀な兵糧の運び入れは、一切お断りいたす!」
吉親は声高に宣じた。
かれの言葉に異を唱える者など、家中に誰ひとりとして存在しなかった。
別所家の者たちは皆、一様に十数名の男たちに頭を垂れ、口々に謝辞を述べていた。
その様子を目の当たりにした吉川家の者たちは、双眸に涙を浮かべ、嗚咽を漏らした。
毛利家当主、輝元がようやくその重い腰をあげた。
三木城へと物資を運び入れるための補給路を確保するための、別所氏と毛利氏の共同戦線であった。
出陣を前に、広間の中央に座している波が、吉親へ向けて言う。穏やかな声音で。
「こうしていると、不思議と影丸が天井裏にて聞き耳を立てているような気がしてなりません……。以前と変わらぬように……」
そう言った彼女は、懐かしむような眼差しを天井へ向けた。そのとき、ぽたりとひと雫、涙が落ちた。それが床板をわずかに濡らした。
吉親はひと言、そうじゃなあ、と呟いた。そうしてかれは、妻に倣い、天井を仰ぐ。
――影丸よ……。そなたは、息災かのお? ……答えてくれぬのか? 影丸よ……。
それからしばらく、二人の間に静寂が訪れた。鳥の囀りが、はっきりと耳に届くほどに。
それからのち、二人は言葉を交わすこともなく城を出た。肩を並べて。ゆっくりと。
別所方は三木城外の大村(現在の三木市大村)の付近へと、三千の兵を以て出陣した。
味方の兵は、毛利方と併せ、およそ四千あまりというところ。これまでにない大軍勢にて羽柴方を攻めた。この合戦は熾烈を極めた。壮絶であった。
相手方の兵数は一万以上にのぼった。相手の守りが強固であった。予想していた以上に。
奮戦したが、結果は芳しくなかった。補給路確保の作戦は失敗に終わった。
大村の付近に位置する平田山に砦を築き、三木城をこれまで包囲してきた羽柴家の武将、谷大膳衛好を討ち取ることはできた。
しかし、その報せを受けた秀吉は、更に数万の兵を繰り出してきたのであった。
この戦に敗けたことにより、兵糧の補充は、これまでより困難な状況となってしまった。
居城へと戻る道すがら、吉親はひとつの考えを色濃くしていった。
――やはり、すべてを見抜かれておったか……。こちらの策は、筒抜けであったか……。
鷹尾山のほど近くまできたとき、吉親の傍らへ一人の男が駆けてくる。馬の背に乗って。
馬を吉親の隣につけた男は開口一番に言う。
「これまでの不義理、まことに申し訳の次第もござりませぬ! どうかご容赦くだされ!」
一同がその足を止めた。
吉親は問うた。
「それはいかような意にござりましょうや?」
すると、男が毛利家の家臣であることを明かす。その上で、吉親に一通の書状を渡した。
このとき、吉親はようやく気がついた。
毛利家の家臣であると告げた男の正体に。かれは、男の身の上を確認するべく訊ねた。
「貴殿は、吉川元春殿ではござりませぬか?」
吉親の問いに、周囲の者たちが絶句する。
続いて、眼前の四十がらみの男が薄く笑い、そうして答える。
いかにも、と。低く落ち着き払った声音で。
かれをそのまま留めおくわけにもいかず、訊ねたいことも幾つかあった。そのため、進路を変更し、三木城へと招き入れた。
三木城内。広間にて、吉親ら四名と、吉川元春が相対する。
ほどなく、元春の前には現状、可能な限りの最上の膳が提供された。
白米に魚の干物。汁物に漬物。
決して豪華とはいえない一膳。けち臭い、と一蹴されてしまってもしかたのない代物。けれどもそれが、精一杯のもてなしであった。
別所家当主、長治が促す。
「満足なもてなしもできはしませぬが、どうか召し上がってくだされ……。さあさあ……」
「貴殿らの膳が揃うまでお待ちいたします」
元春が言う。一切の悪気なく。朗らかに。
四人の顔に困惑の色が浮かんだ。えもいえぬ重苦しい沈黙が、広間を支配した。
吉親は言葉に詰まる。かれは考えに考えた。自分たちの膳が出ることはない、と。どのように伝えるべきか、について。
そのとき、隣に腰を据える波が告げる。自分たちの膳が出ることはない、と。遠慮なさらず食べてくださりませ、と。
すると元春が小難しい表情になる。やがて問いかける。神妙な面持ち、口調のままに。
「よもや、それほどに食い詰めておられるのですか? 今日は、いかほどのものを食されたのですか? 教えてくださりませぬか?」
吉親は話した。洗いざらい。別所家が、現在おかれている状況について。兵糧の残量について。一切を。包み隠さず。
「食うに困っているのは家臣も同じ。ゆえに、我らは朝餉のみで充分なのでござります」
そう締め括った。穏やかな微笑とともに。
そのとき、四人分の腹の虫が鳴った。
「そこまで困っておられるとは、露ほども知らず……。知っておれば、もっと早うに援軍も、兵糧も工面いたしましたものを……」
吉川元春は、渋面を作ってそう言った。
「そのようなはずは決してござりませぬ!」
若き当主が言いざまに勢いよく立ちあがる。
叫んだ瞬間の長治の顔には、明らかな焦りの色が見受けられた。
常に冷静なかれには珍しい挙動に、一同はその顔を、ただただ呆然と見つめていた。
膳をはさんで対峙する元春は問う。冷静に。
「そのようなはずは決してない、とは、いったいどのような意にござりましょうか?」
そう訊ねられた長治は再び腰をおろし、
「申し訳ござりませぬ。驚きのあまりに、つい、声を荒げてしまいました。かたじけない」
長治の声音は、わずかばかり落ち着きを取り戻している。が、困惑の色は拭えていない。
「このようなときです。それに、そのご様子からして、尋常ならざるご事情がおありと見えまする。もしよろしければ、そのご事情とやらを、この元春にお聞かせくださりませ」
長治は、しばし瞑目し、それから盛大に息を吐く。やがて開眼し、徐にその口を開いた。
「拙者はたしかに、幾度となく救援を求めるべく、書状をそちらにお送りいたしておりました。にもかかわらず、これまで一向に動く気配すら見せられぬ。ゆえに、我らは完全に見限られたものと思うて過ごして参りました。それを、報せあらば、と申されては……」
長治はそう言いながら大粒の涙を流した。悔しさ、虚しさ、愚かしさ。怒りや悲しみ。ありとあらゆる感情が堰を切って、湧き出る湯水がごとく、とめどなく溢れたかのように。
すべてを聞き届けた元春は、目を丸くして、ぽっかりと大口を開けていた。終始。そして沈黙した。視線を彷徨わせ、額から玉のような汗を垂れ流している。なにかを考えているかのような素振りで。
「元春殿……。いかがなされましたかな?」
吉親は、極めて落ち着いた声音で男に問う。
「いやあ……。それが……。その……」
と、途端に元春が言い淀んだ。どのように言葉にすべきかを考え捲ねているという風に。
吉親は、元春に先の言葉を促す。ありのままを遠慮なく申してくだされ、と。
その言葉により、元春は意を決したらしく、ひとつ首肯を返したのちに言葉を紡いだ。
「当方に、兵糧や援軍を催促される書状は、ただの一度も届いてはおりませなんだ……」
「そんな……! そんなばかな……! そのようなはずはござりませぬ! 拙者は出陣の折に触れ、毎度のように援軍をお頼みする書状をお送りいたしておりましたぞ……!」
吉親は元春の双眸をまっすぐに射抜く。じっくりと見据える。吟味する。吉川元春という男の一挙手一投足を。冷静沈着に。
元春は、ただひたすらに視線を向けてくるのみ。真摯かつ、実直な熱視線を。
吉親は思った。いや、確信した。眼前の御仁は、一切、嘘偽りを申してはいない。と。
そして同様に、長治が嘘をついているということも考え難い。常日頃、冷静沈着な長治の取り乱しようこそが、かれが嘘をついていないことのなによりの証拠と言っていい。このような局面において、冷静そのもので応じられるほうが逆に怪しいというもの。
――残された答えは、ただひとつ……。
吉親は双方を順に見やり、提案する。
それから吉親は、眼前の武将に問う。
「援軍を求める内容の書状は受け取っておられぬ、と申しておられましたな。その口ぶりから考えるに、別の内容の書状なれば受け取られたと解釈してよろしゅうござりますか?」
吉親の問いかけに、元春はひとつ首肯した。
「その書状の内容、ご教示くださりませ」
元春はまたひとつ首肯を返した。そののち書状のないようについてつぶさに語りだした。
別所軍は極めて順調であり、現状、援軍の必要はない。城内の備え、蓄えは充分であり、兵糧の運び入れの必要もない。という旨の書状が数回にわたって届いた、と。
その内容は、別所家がおかれている状況とは、まったくの正反対であると言っていい。
「提案したきことがござりまする。ここはひとつ、お二人同時に申されるというのはいかがですかな? 吉川殿は書状を持参された家の者。長治殿は書状を宛てた御仁の御名を」
二人の男たちが吉親の提案に頷いた。
かれは重ねて提案する。
「拙者が三つ数えたのちに、御名を申されませ。……それでは御両人、よろしいかな?」
承知した、とばかりに頷く二人。
吉親は数える。一の二の三。
同時に二人の男が言う。異口同音に。宇喜多直家、と。
束の間の静寂が訪れた。
やがて毛利家の臣、吉川元春が徐に口を開く。未だ信じ難い、と言わんばかりの口調で。
「なんということじゃ……。これよりただちに、真偽のほどを検めまする……」
言いざまに、元春は跳ねるようにして立ち上がった。
そこで、はたと動きを止め、ひとつの疑問を口にする。
「書状には、たしかに花押が記されておりましたが、その点につきましては、いかにお考えでござりますかな?」
それは、至極もっともな疑問であった。
花押とは、一朝一夕で真似をすることはかなわない。差出人がその書状を認めたことの証明として使用されるものである。加えて、文書の偽造を困難にする狙いもある。そのため、定期的にその御印を変更する者も少なくはない。
その問いに対し、吉親は平然と言ってのける。さも、取るに足らぬこと、とばかりに。
花押は模写、あるいは本物の書状の上に偽の書状を重ねて書き写したのだろう、と。訥々と語ってみせた。それから更に、偽者と疑ってかからない限りは、花押の真贋など、そう易々とは見破れはしまい、と。
それらを聞き届けた元春は、膳に手をつけなかったことを詫び、必ずや兵糧を届けさせることを堅く約束して広間から立ち去った。
それから数日後、飛脚を装った吉川元春の家臣、十数名が三木城へと兵糧を運び入れた。
吉川家の者たちに吉親は謝辞を述べた。それからのち、かれは男たちに問うた。
「そなたらの身の上が露見しようものなら、一刀のもとに斬り捨てられておったであろうに、なにゆえそうまで危うきことをなさる?」
すると、芳川家の者が答えた。
「なんとしても、この命に換えてでも、兵糧を運び入れたかったのです……。貴殿らの苦境を耳にした以上は、役に立ちたいと思うのが武士というもの。今後も我らが折を見て兵糧を運び入れまする。どうかご安心を……」
その言葉に対し、吉親は首を横に振る。
「そうまでしていただかずともよい。我ら、そなたらの御命が危うい目に遭うことなど、決して望まぬ。吉川家、否。毛利家は充分に、義を果たしてくだされた。ゆえに今後、無謀な兵糧の運び入れは、一切お断りいたす!」
吉親は声高に宣じた。
かれの言葉に異を唱える者など、家中に誰ひとりとして存在しなかった。
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