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四 ベルゼブルの慈雨

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 家のなかの壁はクリーム色だった。
 床はクリーム色と茶色のまだらで、天井は黒だ。
 そして、すべてが微妙に動いていた。
 正確には、うごめいていた。
 それらは蛆虫うじむしはえとそのさなぎだった。
 けいは唇を噛んで吐き気をこらえる。

「なんなの、このアイテールは」

 攻撃してくるようすはないが、歩くたびに靴底から柔らかいものが小さく破裂する感触が伝わってくる。
 アイテールだとわかっていてもその感触は生々しく、嫌悪感が背筋をい上る。
 新手の精神攻撃かと疑いたくなるほどだ。

「たしかに異様だね」

 家の中をうごめく虫をつくづく眺めながら十和とわが漏らす。
 いまも蛆虫は蛹化しそこから蝿がでてくる。
 きっと一定以上の数になればまた攻撃してくるだろう。
 成長過程は非常に早く時間はそれほどなさそうだった。

 だがこんな状況を唯一楽しんでいるものがいた。
 シベリアンハスキーのダブルだ。
 まるで新しい楽器を見つけたかのように、喜々として、ときにはリズムをつけて、歩きまわっている。

「感心しちゃうわ」

 ふと廊下を歩いていた十和が立ち止まる。
 階段下で盛り上がっていた蛆虫の床に手を突っ込んだ。
 慧はあからさまに嫌な顔をする。

 そこから十和はなにかを引き上げた。
 蛆虫がぼとぼとと落ちてそれが人の形をしていることに慧も気づく。

 宇宙服に似た防護服を着こんでいる。
 よく見ると、メットの下にも蛆虫は入りこんでおり、ゴーグルの奥で蠢いているのがわかる。

「死んでるみたいだ」

 抑揚のない声で十和が呟く。

「このようすじゃ、ほかのひともダメかもしれない」

「許せない……!」

 慧の顔に朱が差す。

 そのとき、後方のドアが開いた。
 思わず身構える。
 だがそこから現れたのは、白いワンピースを着た幼い少女だった。

 少女はふたりを見るとうつむき、白いくまのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。

「なに? なんでこんな小さな子が……?」

 呆気にとられていた慧が、我に返って少女の肩をつかもうとした。
 だが少女はその横をすり抜け、二階へ駆け上がっていく。

「ちょっと……!」

 少女は階段を曲がる。
 ひるがえった白いスカートが残像のようだ。

「嘘でしょ。なんなのよ!」

 動揺する慧の横で、十和が気まずそうに頬を掻いた。

「ごめん、慧ちゃん。あれ、僕の妹の蛍琉なんだ。ついてきちゃったみたい」

「はあ?」

「えっと……。だから、心配しなくても大丈夫だよ。あと被害者の子は上の階にいるみたい」

「どういうことよ?」

蛍琉ほたるはそういうの見つけるの得意なんだ。それとも一階のドア、全部開けて確かめてから二階へ行く? 多分徒労に終わると思うけど」

 慧が微妙な表情を浮かべる。
 なぜなら、ドアにもドアノブにもびっしりと蛆虫が貼りついていたからだ。
 それに触らなければならないと思うと気が進まない。

「その確率はどのくらい?」

「僕が知る限り、百パーセントだよ」

「じゃあ信じるわ。妹さんも心配だし、二階へ行きましょう。ほら、ダブル。先行って」

 慧は少しでも感触を減らそうと、ダブルを追い立てる。
 ダブルは呼ばれて耳をいつも以上にピンと立て、喜々として階段をのぼる。
 だが慧は気づいていなかった。ダブルが階段を上がるたび、ダブルの足もとから微量だが気味の悪い汁が飛んで来て、それを必死に避けるはめになることを。





 二階にドアはふたつあった。
 奥のドアにわずかな隙間が開いている。
 そこから蛆虫と蛹が流れるように廊下に溢れだしていた。
 部屋のなかからは無数の羽音が漏れてくる。

 慧は階段をあがるたびに無言になっていった。
 身体に広がる細かな震えを見て、十和が呼びかける。

「慧ちゃん?」

 慧は振り向き、指先を見て笑った。

「ああ。武者震いよ」

 慧は扉をにらみつけて言った。

「行くわ」

 瞬間、駆けだす。
 隙間の開いていたドアを蹴って開ける。

 慧のはさみはまだ出現していない。
 スーツのふところに手を差し入れた。
 そこには万が一のときのために携帯させられている自動拳銃のホルスターがあった。

「わっぷ。慧ちゃん!」

 扉から大量に流れ出した蛆虫に、まだ階段途中にいた十和は足止めを食らう。

 慧はすでにアイテールを出現させられないほどに消耗しているのだ。
 そのことにやっと十和は気づく。
 それなのに慧の横顔は変わらず決意に満ちていた。
 十和ははっとする。
 ――殺す気だ。

 止める間なんてなかった。

 素早く安全装置を外し、慧は銃を構える。

 部屋の奥に向かってその銃口は向けられていた。

 だが、弾は一向に発射されなかった。

 慧は部屋のなかを怪訝な表情で見つめて硬直している。

 追いついた十和も部屋のなかをのぞく。

 前の住人が置いていったのか、カーテンが閉まっていて部屋は薄暗かった。

 なかでは蛆虫が鼓動するように波打っている。
 それだけ多くの蛆虫が誕生しているということだ。
 天井近くでは蝿が絶えず飛んでいる。

 少し開いたクローゼットの前には白いワンピースを着た少女がいた。
 十和の妹、蛍琉だ。
 そして蛍琉は静かにクローゼットのなかの一点を指差している。
 そこには被害者の少女がいた。
 薄着で身体中にあざが浮き、うつろな目で一点を見つめている。
 ゼーゼーと苦しげな呼吸音が聞こえてくる。
 小さな胸が膨らんではしぼみ、呼吸をしているのがわかる。

「被疑者は?」

 慧が問う。

 部屋のなかに入ってきたダブルがクウーンと鳴く。
 鼻先でなにかを示していた。
 十和はダブルが示す先の蛆虫のなかに腕を突っ込む。
 指先がなにかに触れた。
 引き上げる。

 それを見た慧が驚愕の表情を浮かべる。

「ダッグ……!!」

 そう呼ばれた男は、目を見開き苦悶の表情を浮かべて微動だにしない。
 力なく開かれた口のなかから蛆虫がこぼれ落ちる。
 よく見ればその男の体中には卵が産みつけられそこから無数の蛆虫が転がり落ちる。
 十和は念のため脈をとる。
 やはり死んでいた。

 慧の食い入るような視線を感じて、十和は首を横に振る。
 慧は銃を持っていた手をだらりと下げ、眉をひそめ、目尻をピクピクと動かし、泣き笑いにも似た複雑な表情を浮かべていた。

「なんのために……わたしは……!」

 十和は、ぼんやりといまだ波打つ蛆虫の大群と天井で飛び回る蝿を見つめた。
 触媒カタリストだと思った被疑者は死んでいた。
 それなのにアイテールは消えるどころか、まだ生まれつづけている。
 大量に。

「……アン…リファ…――……」

 呟くと同時に、ダブルが慧の手のなかの銃を奪い、十和に渡す。
 十和は面倒くさがって普段から銃を携帯していなかった。

「規則は守っておくものだね」

 銃を手にした十和は無造作に構える。
 呆然としていた慧が驚愕の表情を浮かべた。

 銃口の先には被害者の少女がいた。

「なにしてるんだ!」

 慧がそう叫んだのと、銃が発砲されたのはほぼ同時だった。
 銃口からは煙が立ち昇る。
 銃弾は、慧がとっさに十和の腕をつかんだため、少女にはあたらず壁を撃ち抜いていた。

「邪魔しないでよ、慧ちゃん」

「ふざけるな! 冗談じゃすまないぞ。どういうつもりだ、十和!」

 慧が怒鳴りつける。
 だが十和は動揺したようすもなく、いつもどおり微笑みつづけていた。
 慧は喉を鳴らして唾を飲む。
 その笑顔を初めて不気味だと感じた。

「ふざけてなんていないよ」

 慧の手を払い十和が再び、銃を構える。
 慧は慌てて十和と被害者の少女の間に立ちふさがった。

「慧ちゃん。どけないと、慧ちゃんごと撃つだけだよ」

「その子は被害者だ」

「それが?」

「わたしたちは被害者を助けに来たんじゃないのか。なぜ、その子を撃つ必要がある!」

「慧ちゃん、よく考えてみなよ。被疑者はすでに死んでいる。この家のなかで唯一生きていたのはこの少女だけだ。じゃあ、この大量のアイテールはだれのもの?」

 慧は目を見開く。
 そっと背後のうつろな目をする少女を窺った。

 十和が肯く。

「そうだよ。その子のだ」

「だけど! だからって……」

「彼女の意識レベルは非常に低い。それなのに、いまも卵は孵り成虫になってまた卵を生むを繰り返し、異常なほどの量のアイテールが生じつづけている。あれだけのアイテールを慧ちゃんが倒したけど、きっとすぐに同じ量になるよ。それらがしめす事実はふたつある。ひとつは、意識の伴わない人間へのアイテールでの干渉は無効だということ。もうひとつは――」

 十和はため息混じりに言った。

「暴発が起きかけているということ」

「暴発……」

 慧は言葉を失う。
 世間にミセリコルディアを知らしめることになった七年前の事件を思いだす。
 当時のニュースによると、確かアイテールが暴発したことによって直径一キロメートル内にいる人間を死に至らしめたのだ。
 その被害人数は四万人にのぼる。

 触媒カタリストである特殊班の面々に腕時計型のバイタルを計る装置がつけられているのも、暴発の恐れがないかを随時確認する意図もあった。
 暴発の危険性があると判断された場合、たとえ被疑者を取り逃したとしても捜査を中断するよう命令されている。

「だけど……そんな……!」

「わかったらどいてくれないかな、慧ちゃん。暴発が起きたらその子ひとりの命じゃ補えないほどの被害がでる。今度は四万人では済まないかもしれない。このことに僕らが気づけたのは幸運だよ。それならきっとここでこの子が命を失うのも運命だ。さあ手遅れになる前に処置しなきゃ」

「だけど……!」

「四万人とひとり、どちらの天秤のほうが重いかなんてわかるよね? センチメンタルなヒロイズムに傾倒してひとりの命も四万人の命も同等だなんて言いださないでね。それに、そろそろどけないと本当に撃つよ、慧ちゃん」
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