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八 霧のなかの約束

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 けたたましく鳴り響く呼び出し音は、その内容が不吉であることを告げるようだった。

 日の傾き始めた日曜の休日、さっきまでの緩やかな時間の流れは唐突に終わりを告げた。
 書斎でモニターに向かっていたくぬぎは眉をひそめながら電話にでる。
 とは言っても彼の場合、その眉間のしわはトレードマークに近かったのだが。

「椚だ」

 電話口で慌てたようすの部下から要領の得ない報告を受けた椚は、その報せに思わず声を荒げて立ち上がっていた。
 彼にしては珍しいくらいの取り乱しかただ。

 だがすぐに一呼吸すると、適切に指示をだし始める。
 頭を必死に働かせながら、そういえば今日はリリーとルウは年に一回の検診で郊外の大学病院におり、けい十和とわ大守おおかみ家に行くという報告を鹿妻かづまから受けていたと思いだす。
 内心、舌打ちしたい気分だったが、押し殺す。
 一瞬でも感情を露わにしてしまえば、それに呑まれそうだ。

 いま必要なことは感情に任せることではなく、冷静に一時も無駄にせず行動することだ。

 電話を切ると同時に椚は素早く車のキーを手にし、夕飯の支度をする妻に一言だけ告げ、家を出た。





「家族になるって、なに? どういうことなの、十和」

「言葉のままだよ」

 首を傾げながら十和が言う。
 慧の眉間の皺が深くなった。

「それって、結婚するってこと?」

 ポンとてのひらに拳を打ちつけて、十和は得心がいった顔をした。

「あ、そういうことか。うん、それでもいいね。それがいい」

 その反応に慧は力が抜ける。
 十和がなにを考えているのかまったくわからない。

「結婚しよっか、慧ちゃん」

 笑顔で十和が軽いプロポーズをする。
 世のなかの女性はさりげないプロポーズもいいと言うが、これはさり気なさ過ぎる。
 というか、そもそも結婚というものの重大さを十和は知らないのではなかろうか。
 慧は大きくため息をつく。

「十和はわかっていない」

「えー、そんなことないよ。いいアイディアだと思うよ」

「わかっていないよ。そんな軽々しく決めることじゃない」

「うーん。だけど、僕と慧ちゃんが結婚して、あの娘を養子に迎えるっていうのはいい考えだと思ったんだけどなあ。それでこの家で家族みんなで暮らすんだ。あの娘、なんて名前だっけ? えっと、確か……あ、あー、あかねちゃん?」

 はっと慧は息を呑む。
 病院でいまだ入院しているダッドの被害者である少女――六反田茜ろくたんだあかねのことを十和は言っているのだ。

「慧ちゃん、ずっと気にしていたでしょ。ここのところ調子が悪かったのもそのせいなんじゃない? ほとんど毎日お見舞い行ってるみたいだし」

「十和……」

「もし、あの娘が目を覚ましたら、つらい目に遭うかもしれないって思い悩んでたんでしょ。それならここに隠れて住めばいいんだよ。世間が静まるまででもいいし、一生だっていいよ。意外と楽しいと思うんだ。ここ、電気とガスは止まっているけど、水道は実は使いたい放題だし、ちょっと不便だけど、工夫すればきっと張りのある生活ができるよ。家族のことは僕が全力で守るし」

 十和はにこにこと楽しそうに話す。

「もし慧ちゃんが仕事はもう嫌だっていうなら、仕事を辞めてこのまま専業主婦になってもいいんだよ。僕の家族は一緒だけど、茜ちゃんをひとりにしておくのは心配だし、それもいいかもしれない。あ、でも、そういえば慧ちゃんは悠ちゃんのことが好きだったんだっけ。僕じゃいやだったかなあ」

「十和!」

 喋り続ける十和の肩をつかみ、慧が覗きこむ。

「本気なの? 本気でそんなこと言ってるの? 結婚ってそんな簡単なものじゃないんだよ。それに十和はわたしのことが、その……好きなの?」

「好きだよ」

 十和は変わらず笑顔だ。

「僕はいつだって本気だし、慧ちゃんのことは大事だって思ってるよ。恋愛とは違うかもしれないけど、恋愛の好きとふつうの好きがどう違うのか僕にはよくわからないし」

「そんなの、後悔するよ」

「しないよ、絶対。だって僕、慧ちゃんのこと信用してるし、慧ちゃんになら安心して背なかをあずけられるって思ってる。それってきっと家族になるなら大事なことだよ。それに楽しそうじゃない? だからさ、家族になろうよ、慧ちゃん。僕はね、慧ちゃんに頼りっぱなしだったから、少しくらい慧ちゃんになにか返したいんだ」

 十和は本気らしい。
 曇りのない黒いまん丸の目で慧を真っ直ぐに見つめている。

「なんで……?」

 慧は言葉に詰まる。
 なぜか胸がいっぱいになっていた。

「なんで、そんなに……わたしのこと、考えてくれるの……?」

「当たり前だよ。慧ちゃんは僕の相棒だよ。家族みたいなものじゃない」

「家族……」

 それはもう二度と手に入らないと思っていた夢のようなものだった。
 その言葉が、荒んでいた胸の内に浸透していく。
 涙ぐみそうになるのを慧はこらえた。

 十和が慧の手を握りしめる。
 十和の手は赤ちゃんの手のようにぽかぽかと暖かい。

「十和はひとりでだって平気そうじゃない」

「そんなことないよ。僕は弱いんだ。茜ちゃんだってひとりになってきっと心細いよ。だから、慧ちゃんにそばにいて欲しい。慧ちゃんが必要なんだ」

「だけど、わたし、気が強いし。全然、女っぽくないし」

 ふっと十和が笑う。

「そんなのいつから知ってるよ。そんな慧ちゃんだからいいんだよ」

「それに、わたし……むかし、ダッドに……」

「ここに連れてきても慌てないってことは、慧ちゃんも悠ちゃんに僕の過去のこと聞いたんでしょ。それでも今日ここにきてくれた。僕はそれだけで十分だよ」

「わたし……いっぱい、だめなところ…あって……」

「僕もだよ。知ってるでしょ、慧ちゃん。だから、ふたりで補っていこうよ。いや、茜ちゃんもだから三人でかな? 駄目なところは助け合って、寂しいときは三人でご飯食べて、川の字で寝て、そうやって家族になろうよ」

 慧は乱暴に目頭を拭った。
 必死に涙をこらえていたが、いまにもこぼれそうだ。
 不思議だった。
 十和の言葉が嬉しいなんて。
 ひとに必要だって言ってもらえることで、こんなに満たされるなんて。

 慧の脳裏に三人で過ごす日々が浮かぶ。
 ご馳走が並んだ食卓を三人で囲むのだ。
 それはどこかおままごとのようだけど、悪くないと思えた。
 慧は自分の単純さに苦笑を漏らす。

「それにね、ここ以上にきっと安全な場所はないんだよ。だってあの娘は僕と同じアンプリファイアだから」

「え?」

 聞きなれない言葉だった。
 それに、十和の目が一瞬暗く曇った気がして慧は不安を抱く。

「あのね、慧ちゃん。僕、もうひとつ話しておかなきゃならないことがあるんだ――」

 だが、十和のその言葉を遮るように緊急通信が入った。
 通信先は椚だ。
 慧と十和は目を見合わせる。

「こちら、間宵慧。椚局長なにが――」

『間宵か。十和もそこにいるな』

 慧の言葉を遮った椚の声にはいままでにない緊張感があった。
 慧はごくりと唾を飲む。

「はい。一緒です」

『十和の実家か』

「そうです」

『いま、車でそちらへ向かっている。緊急事態だ。ふたりをピックアップする。車両が入れる場所まで向かって欲しい。座標を送る』

「わかりました。十和と向かいます」

『頼んだ』

「なにがあったんですか、椚局長」

 慧の問いに、一瞬、椚が言いよどむ。
 そのせいで、余計に思わしくない事態であることが伝わってくる。

『警察病院が襲撃され、ダッド事件の被害者の少女が消えた。運悪くそこに居合わせた鹿妻も連れ去られたようだ』
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