パラダイス・オブ・メランコリック

杙式

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十 葬送の蝶

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 鹿妻は最期の力を振り絞り、スラックスのポケットに入れていた銀のケースを取りだす。
 煙草の箱ほどの大きさのそれは、特殊な保冷機だった。
 あたりを見回し鹿妻は笑みを漏らす。

「さすがだ……十和。大量で、純粋な、アイテール…だ」

 十和は体中から光を放っていた。
 きっとそのアイテールはこの工場から直接、あるいは通信回線を介して、現在進行系で世界中に拡がっているだろう。
 それは茜のアイテールの比ではない。

 震える指先を押しつけ指紋を読み取らせると、保冷機は電子音を響かせてロックを解除した。
 白い煙とともになかからはタツノオトシゴに似た肌色の物体が現れる。

 十和の霧が輝き、反応する。

「これで、あなたを……」

 鹿妻は嘆息する。
 それは鹿妻のエゴで願いで賭けで、愛かもしれなかった。






 ――なにかが羽ばたいている。
 重たそうな大きな青いはねを煌めかせる蝶だ。
 その蝶はどこかへ誘うようで、美しくも恐ろしく、立ち尽くしてしまったことを覚えている。

 声がする。
 優しく語りかけるその声。
 いつも聞いていたその声。

『覚えているかしら? 大学にある温室で、たくさんの蝶に囲まれて。ふふ。怖かったのかな。泣きだしたのよ、十和は』

 蝶の美しい幻影のなかで、だがその声はいまは優しいだけではない。
 切迫し、悲しみを隠している。

『まだ小学生にもなっていなかったものね。こんな小さくて……。なのに、もう、こんなに大きくなって……』

 視界が歪んだ。
 涙をこらえたのだ。
 そこは暗い部屋だ。
 カーテンは閉め切られている。
 電子音が規則正しく響き、その先にはベッドがあって、やつれた青年が眠っている。

 その声の主は青年の腕を布団からだす。
 点滴を抜き、腕をチューブで締めて血管を浮き出させ、消毒をする。

『ごめん。ごめんね、十和。なんにも気づかず、ずっと放っておくばかりで。お母さん、甘えてたのね。十和が物分りのいい子で、なにも言わないからって』

 十和はその青年が自分自身だと気づく。
 そして、この声が母である茉莉のものだと。

 一瞬視界が暗くなり、鼻をすする音がする。
 だが気を取り直した茉莉は一瞬の躊躇ためらいの後、十和の腕に注射の針を刺した。

『十和が目覚めたら、お母さん、たくさんの話を聞いてほしいのよ。また研究の話って十和には怒られるかもしれないけど、でもすごい仮説だってたててるの』

 十和の手を握りしめ、十和をじっと見つめる。
 身体は微かに震え、その胸には期待と不安が入り混じっている。

『少しだけ話してもいいかな? あのね、わたしたち生物の体には光が宿っているの。光だからもちろん質量だって重量だってない。けどそれは死ぬと消えてどこかへ行ってしまうものなの』

 人差し指を立て茉莉は講義するように問いかける。

『それはなんだと思う? ふふっ、お母さんはね、きっと魂っていうものの正体だって思うのよ。十和には荒唐無稽って笑われるかしらね』

 茉莉は願っていた。
 その頬に赤みがさすことを。
 まぶたがピクリと動き、目に光が宿ることを。

『なにが言いたいかって言うとね、つまり、わたしたちはきっと等しく光のこどもなのよ。頭にも身体にも、この手にも足の先にも光が宿っているの。その光がどこから来てどこへ行くのかは今後の研究課題だけど、もし神さまがいるならきっと神さまの一部を借りて、然るべき日が来たらお返しするシステムなのかもしれないね……』

 手に力がこもる。この指先に少しでも力が入れば。

『十和にもね、十和にも……その光は宿ってるの。まだ、消えてないの。だからね、お母さんのこと罵ってくれて構わない。嫌ってもいい。殺したいほど憎まれても仕方ない。どんな形だっていいの……。だから、お願い』

 消え入りそうなその声はただただ切実に望む。

『お願い。生きて――…』







 タツノオトシゴに似た茉莉の脳の断片から瑠璃色の蝶が舞いあがり、儚くも消えた。
 鹿妻は涙しながら銀のケースを大事そうに抱きしめて倒れていた。
 その足もとには血溜まりができている。

 空気に触れた脳の細胞は間もなく壊死えしし、もう二度と同じものを投影することはできないことを鹿妻は知っていた。
 一度だけの奇跡だった。
 だからこそ万全を図り、だからこそすべてを犠牲にできた。

 もし、あの日、椚と一緒に訪れた大守家で母親が茉莉の姿をしていれば、こんな結末を選択しなかっただろうか。

 いや、そんなことはないと鹿妻は自嘲するだろう。
 茉莉が死んだその日から人知れず、ずっと死に場所を求めていたのだ。
 そしてそこには茉莉がいて欲しかった。

 十和は放心していた。
 だが身体から放出されつづけていた光のアイテールは止まっていた。
 暴発は止み、どこか沈鬱な霧があたりを淡く照らしていた。

「僕は奇跡が欲しかったんじゃない」

 十和がポツリと呟いた。
 正気を取り戻していた。

「どこにでもあるような平凡な愛情が欲しかったんだ」

『誤解をしているよ、十和』

 鹿妻が微笑む。
 鹿妻の身体はもう息絶えようとしていた。
 だが、十和のアイテールが鹿妻の脳に反応し、鹿妻の意志を十和に伝える。

『平凡な愛もありきたりな愛もこの世には存在しないんだよ。世界にあるのは、世界を覆すことだってできる唯一無二の愛だ』

「ロマンチストだね」

『そんなこと、とうに知ってただろ、十和』

「嘘だよ。現実主義者なくせに。そして、途方もない大馬鹿だ。こんなことのために……」

 鹿妻は微笑む。

「苦しい?」

『少しだけだ。見送ってくれるかい?』

 そう告げると、十和は耐えきれないと言うように泣きじゃくりだした。
 初めて会ったころと変わらないなと鹿妻は思う。
 そして、目の前の存在が存外大切だったのだと鹿妻は思い知る。

 十和の周囲からは瑠璃色の蝶がいくつも舞い上がる。
 茉莉との思い出の蝶だ。

 美しかった。
 まばゆく目を刺すような強烈な輝きではない。
 淡くそっと灯すような輝きは寄り添うように優しかった。
 世界に羽ばたくのがこんな想いなら世界は大丈夫なのかもしれない――。

 そう思うと、壊してしまってもいいとさえ考えていた世界が、ふとかけがえがなく愛しいものに感じた。







 工場の鋼鉄の扉が開かれる。
 そこから大量の瑠璃色の蝶も飛びだした。
 輝く鱗粉りんぷんを散らしながら、蝶は世界に融けていく。

 十和は扉に寄りかかるようにして立っていた。
 月が夜空に輝き、瑠璃色の蝶が空を舞って、霧が世界を覆う。
 幻想的な光景だ。

 ひとりだった。
 慧も鹿妻も茜も倒れたままもう動かない。
 ダブルは消えてしまった。
 そういえば椚はどうなっただろうかと思う。
 椚だけじゃない。
 リリーやルウ、それにあの映像を見た人間たちは――。

 静かだ。
 静かな夜だ。
 遠くの波の音さえ十和の耳に届く。

 それは懐かしい響きを持っていた。

 十和はそっと耳を澄ませ、その波間を漂う気分を味わう。
 目尻からは、流しきったはずの涙が、つと流れ落ちた。





     *






 ――きみは顔はお母さんに似てるけど、性格はさっぱり似てないよね。
   どちらかというと俺と似ているのかもしれない。

 ――なんで?

 ――きみはそうやって無邪気な子どもを装うけど、本当はわかってるよ。
   初対面で俺に懐いたふりをしたのは、俺をきみのお母さんに近づけたくなかったからだろう。

 ――………大人って変なこと考えるね。

 ――しらばっくれたって、駄目だよ。
   いまもこうやって俺に甘えたふりをして、俺をお母さんから少しでも引き離そうって思ってるんだろう。
   ばれてるんだから。

 ――……ごめんなさい。

 ――ふふ。
   白状したね。
   でも、別に、怒ってるわけじゃないよ。
   感心してるんだ。
   なかなかの策士だって。
   さすが、先生の子ども。
   将来が楽しみだ。

 ――………でも、それだけじゃないよ。

 ――へえ、それだけじゃない?
   きみはそれ以外にもなにを企んでるんだい。

 ――僕、わりと悠ちゃんが好きなんだ。
   だから一緒にいたい。

 ――…………。

 ――照れたりするんだね。

 ――……不意打ちは、卑怯じゃないか。
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