イールの書〜神々の⻩昏、⼈類の夜明け〜

なぎ

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第2部 4章:バルドルの悲劇

第47話:母の愛という名の執着

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バルドルの完璧な姿を見た後、ドヴァリンは新たな水晶板を取り出した。この記録には、一人の母親の狂気とも言える愛情が刻まれていた。



「フリッグの予知夢は、単なる母の直感ではなかった」



エイリークが説明を始めた。



「彼女もまた、改造を受けていた。確率演算に特化した脳改造」



映像には、フリッグの改造記録が表示された。彼女の脳の特定部位が強化され、量子レベルでの情報処理が可能になっていることが示されている。

賢吾はイールの書を開き、フリッグの能力について読み上げた。



「『量子レベルでの未来予測。ただし、観測することで未来は変わる。彼女のジレンマはそこにあった』」



香川教授が量子力学の観点から説明した。



「シュレーディンガーの猫と同じ原理ですね。観測することで、可能性が一つに収束してしまう。つまり、未来を見ることで、その未来を固定してしまう可能性がある」



映像は、ある夜のフリッグの寝室に切り替わった。彼女は眠りの中で、激しくうなされている。その額には、データ処理の負荷を示す光が明滅していた。

突然、フリッグは悲鳴を上げて飛び起きた。



『バルドル!私の息子が...死ぬ!』



彼女の瞳には、恐怖と絶望が宿っていた。そして、その瞳の奥で、複雑な計算式が高速で流れているのが見えた。



「バルドルの死を予知した時」



ドヴァリンが当時を振り返った。



「彼女は狂乱した。息子を失うことが、計算上確実だったから」



新たな映像が始まった。フリッグが、オーディンの前で取り乱している場面だった。



『99.97%の確率で、バルドルは1年以内に死ぬ!』

『落ち着け』



オーディンが妻をなだめようとした。



『予知は絶対ではない』

『違う!』



フリッグは叫んだ。



『私の計算は正確だ。変数を変えなければ、必ず起きる!』



美咲が医学的な観点から分析した。



「過度の脳改造の副作用ですね。確率計算に特化しすぎて、他の可能性を考えられなくなっている」



リンドバーグ教授が付け加えた。



「母親としての感情と、冷徹な計算結果の間で、引き裂かれていたのでしょう」



映像は次の場面に移った。フリッグが世界中を回る姿が、高速で再生されていく。彼女は、ありとあらゆる存在を訪ね、同じことを繰り返していた。



『バルドルを傷つけないと誓ってください』



山から石まで、川から炎まで、動物から植物まで。フリッグは文字通り、すべての存在から誓約を取っていった。



「すべての存在から誓約を取る」



ドヴァリンが説明した。



「それは魔術的な儀式ではなく、確率を変える試み」

「つまり」



香川教授が理解を示した。



「すべての危険因子を排除すれば、死の確率をゼロにできると」



山田がデータを分析しながら言った。



「確かに、理論上は可能です。あらゆる危険を取り除けば、死の確率は限りなくゼロに近づく」



しかし、田中が重要な指摘をした。



「でも、本当にすべての存在から誓約を取れるんでしょうか?」



映像は、フリッグの必死の努力を映し出し続けた。彼女は眠ることも食べることも忘れ、ただひたすらに誓約を集め続けた。その姿は、もはや狂気じみていた。



そして、ある日の記録。フリッグは疲れ果てて、大きな樫の木の下で休んでいた。その木の枝に、小さなヤドリギが寄生していた。



『あれは?』



フリッグは見上げた。



『ヤドリギです』



側近が答えた。



『樫の木に寄生する小さな植物です』



フリッグは一瞬考えたが、首を振った。



『あんな小さく弱々しいものが、バルドルに害を与えるはずがない』



しかし、ドヴァリンが重大な事実を明かした。



「いや、見落としではない。イールが巧妙に隠したのだ。フリッグの演算から、ヤドリギを除外する細工をした」



新たな映像が表示された。それは、イールがフリッグの近くで、密かに呪文を唱えている場面だった。彼の指先から、見えない糸のようなものが伸び、フリッグの頭部に触れている。



『認識阻害の術』



字幕が表示された。



『対象の脳内で、特定の事象を認識できなくする』



賢吾が息を呑んだ。



「イールは、フリッグがヤドリギを見ても、それを脅威として認識できないように細工したんですね」



エイリークが苦い表情で頷いた。



「我が一族の記録にも、その時のイールの苦悩が記されています。『母の愛を利用することほど、卑劣なことはない。しかし、他に方法はなかった』と」



斎藤博士が倫理的な観点から意見を述べた。



「母親の本能を操作するなんて...確かに卑劣です」



しかし、マグナスは別の見方を示した。



「でも、フリッグの執着も異常だった。息子を永遠に生かすために、世界のバランスを崩そうとしていた」



映像は最後の場面を映し出した。フリッグが安堵の表情を浮かべている。



『これで大丈夫』



彼女は微笑んだ。



『バルドルは永遠に安全だ』



しかし、その瞳の奥には、わずかな不安が残っていた。99.97%という数字が、99.96%に下がっただけだった。0.01%の不安。それが、ヤドリギだった。



「母の愛は盲目だった」



ドヴァリンが締めくくった。



「そして、それゆえに悲劇は避けられなかった」



リンドバーグ教授が深い溜息をついた。



「愛情が深すぎるがゆえの悲劇。それは、時代を超えて繰り返される人間の業ですね」



美咲も同意した。



「現代でも、子供を過保護にしすぎて、かえって子供を苦しめる親がいます。フリッグは、その究極の例かもしれません」



賢吾が重要な疑問を投げかけた。



「でも、イールはなぜそこまでしてバルドルを...」

「その答えは」



ドヴァリンが次の水晶板を手に取った。



「ヤドリギの真の正体を知れば、理解できるだろう」



一同は、フリッグの狂気じみた愛情と、それを利用したイールの苦渋の決断について、複雑な思いを抱きながら、次の記録を待った。

母の愛という最も純粋な感情さえも、時として呪縛となる。その悲しい真実が、3000年の時を超えて伝わってきた。
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