イールの書〜神々の⻩昏、⼈類の夜明け〜

第2部 6章：愛と裏切り

第57話：剣なき者の運命

フレイの恋の真実を理解した後、ドヴァリンは次の水晶板を手に取った。この水晶板は、前のものとは異なり、内部に複雑な変化の記録が刻まれていた。まるで、蛹から蝶への変態を記録したかのような、変容の物語が詰まっていた。



「フレイが剣を手放した後の変化は、予想以上に大きかった」



ドヴァリンが重々しく語り始めた。

映像が再生されると、まず映し出されたのは、自動戦闘剣を手放した直後のフレイの姿だった。豊穣の神は、自室で呆然と座り込んでいた。その手は、もう存在しない剣を握ろうとして、虚空を掴んでいた。

当時の記録が、画面に文字として表示された。



『最強の武器を失い、不安に襲われた。夜中に何度も目覚め、剣を探した。戦士としての自信が揺らいでいる』



斎藤博士が医学的な観点から分析した。



「これは典型的な喪失症候群ですね。長年共にあったものを失った時の、心理的・身体的反応です」

「しかし、それが彼を成長させた」



ドヴァリンは続けた。

新たな記録が表示された。これは、剣を失って三ヶ月後のものだった。

フレイは、二つの部族の争いを仲裁していた。以前なら、剣の力で強制的に止めていただろう。しかし今、彼は両者の話を聞き、妥協点を探っていた。

賢吾はイールの書を開き、該当する観察記録を読み上げた。



「『興味深い。剣に頼らなくなったフレイは、知恵と交渉で問題を解決し始めた。より賢明な指導者になった』」



エイリークが補足した。



「力に頼れなくなったことで、別の解決方法を模索せざるを得なくなった。それが、彼の潜在能力を開花させたのです」



映像は、フレイが農民たちと話し合う場面に切り替わった。彼は威圧的な態度を取ることなく、一人一人の意見に耳を傾けていた。

香川教授が心理学的な分析を加えた。



「権威主義から対話主義への転換です。武器という物理的な力を失ったことで、精神的な影響力を高める必要が生じた」

「ゲルズの影響も大きい」



ドヴァリンが付け加えた。

新しい映像が始まった。フレイとゲルズが、アスガルドとヨトゥンヘイムの境界地帯を歩いている場面だった。



「彼女は巨人族、つまり地球外生命体。しかし、フレイを深く愛した。それが両者の架け橋となった」



ゲルズがフレイに語りかけている様子が映し出された。



『あなたの民も、私の民も、根本では同じ。生きたいという願い、幸せになりたいという希望。それは変わらない』



フレイは、妻の言葉に深く頷いていた。異なる種族の妻を持つことで、彼の視野は大きく広がったのだ。

山田が興味深い発見をした。



「見てください。この時期から、フレイの管轄地域での作物収穫量が著しく増加しています」



データが表示された。確かに、剣を失った後の方が、豊穣の神としての力はむしろ増強されていた。

ヘルガ博士が心理学的な説明を提供した。



「戦闘への意識が減少した分、本来の職掌である豊穣に集中できるようになった。エネルギーの再配分が起きたのです」



映像は、フレイとゲルズが一緒に農地を見回る姿に移った。二人は手を取り合い、大地に種を蒔いていた。その瞬間、種は瞬く間に芽吹き、豊かな実りをもたらした。



「豊穣の神として」



エイリークが説明した。



「彼は武力ではなく、豊かさで人々を守ることを選んだ」



リンドバーグ教授が歴史的な観点から考察した。



「これは、文明の発展段階を象徴しているようです。武力による支配から、経済的繁栄による安定へ」



美咲が重要な質問をした。



「でも、戦闘能力を完全に失ったわけではないですよね？」



ドヴァリンは別の記録を表示した。それは、剣なきフレイが素手で戦う訓練の様子だった。



「剣に頼れなくなった分、肉体を鍛え直した。そして、ゲルズから巨人族の格闘術も学んだ」



映像の中のフレイは、以前とは異なる戦い方をしていた。力任せではなく、相手の力を利用し、最小限の動きで最大の効果を生み出していた。

マグナスが感心した。



「これは...より高度な戦闘技術だ。剣に頼っていた時より、むしろ強くなっているかもしれない」

「現代への影響は？」



賢吾が核心的な質問をした。

斎藤博士が最新のデータを示しながら答えた。



「フレイの子孫は、農業や環境分野で活躍する人が多い。潜在的に、植物と共鳴する能力を持っています」



具体的な例が表示された。世界各地で、異常な豊作をもたらす農業技術者、砂漠を緑地に変える環境活動家、新種の作物を開発する研究者たち。彼らの多くが、フレイの血統を引いていた。



「特に興味深いのは」



美咲が遺伝子データを分析しながら言った。



「彼らの多くが、争いを好まない平和的な性格を持っていること。剣を手放したフレイの精神性が、遺伝子レベルで受け継がれているようです」



田中が文化的な影響について付け加えた。



「『剣を鍬に』という言葉がありますが、フレイはまさにそれを体現した存在になったのですね」



映像は最後に、晩年のフレイの姿を映し出した。彼は広大な農地の中央に立ち、満足げな表情で実りを見渡していた。その姿は、かつての戦士の面影はなく、慈愛に満ちた守護者そのものだった。

そして、彼の周りには多くの人々が集まっていた。人間も、巨人も、区別なく。皆が豊かな実りを分かち合っていた。



「剣を手放したことは」



ドヴァリンが深い感慨を込めて結論づけた。



「弱さではなく、新たな強さの始まりだった。イールは、それを知っていた」



エイリークが付け加えた。



「真の強さとは、破壊する力ではなく、育てる力。フレイは、それを身をもって証明した」



賢吾が哲学的な考察を述べた。



「つまり、イールの計画は二重の意味で成功したのですね。ラグナロクでのバランスを保ちつつ、フレイをより完全な存在に成長させた」



一同は、深い感銘を受けながら記録を見終えた。失うことで得るもの。それは、時として失ったもの以上に価値があるのかもしれない。フレイの変容は、その最も美しい例だった。