イールの書〜神々の⻩昏、⼈類の夜明け〜

なぎ

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第2部 6章：愛と裏切り

第58話：イズンの林檎強奪事件

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フレイの変容を理解した後、ドヴァリンは特別に保護された水晶板を取り出した。その表面には、まるで時間の経過を示すかのような、複雑な層状の模様が浮かび上がっていた。

「イズンの林檎事件」

ドヴァリンが慎重に水晶板を起動させた。

「神話では、ロキの悪戯による単純な誘拐事件として語られる。しかし、真相はもっと深い」

映像が投影されると、まず美しい女神イズンの姿が映し出された。彼女は黄金の籠を抱え、その中には不老をもたらす林檎が輝いていた。神々が定期的に彼女の元を訪れ、林檎を受け取る様子が記録されていた。

斎藤博士が医学的分析を始めた。

「これは興味深い。イズンの林檎事件の真相も、単なる悪戯ではなかった。これは『老化実験』です。神々の不老が、何に依存しているか試したのです」

画面に、林檎の成分分析データが表示された。複雑な化学式と、ナノマシンの構造図が並んでいる。

賢吾はイールの書を開き、該当する実験記録を読み上げた。

「『林檎なしで、どれだけ持つか。依存性の確認。そして、依存から脱却する可能性の模索』」

山田が技術的な疑問を投げかけた。

「つまり、林檎は一種の延命薬だったということですか？」

「その通りです」

斎藤博士が頷いた。

「定期的な摂取により、細胞の老化を抑制し、ナノマシンの機能を維持する。まさに、高度な薬物依存システムです」

新たな映像が始まった。それは、イズンが巨人族のスィアチに誘拐される場面だった。表面的には、ロキが彼女を騙して連れ出したように見える。しかし、別角度からの記録を見ると、異なる真実が浮かび上がった。

「見てください」

ドヴァリンが指摘した。

「イズンの表情に注目。彼女は、状況を理解していた」

確かに、イズンの瞳には恐怖ではなく、ある種の覚悟が宿っていた。まるで、これから起きることの重要性を理解しているかのように。

ヘルガ博士が心理分析を加えた。

「イズンもまた、神々の林檎依存に疑問を持っていた可能性があります。永遠の給仕役という立場に」

映像は、林檎を失った後の神々の様子に切り替わった。それは、衝撃的な光景だった。

オーディンの髪は白くなり、顔には深い皺が刻まれていく。トールの筋肉は萎み、かつての力強さが失われていく。フレイヤの美貌も、見る見るうちに色褪せていった。

「見てください」

美咲が重要な発見を指摘した。

「老化速度が個体により異なります。精神的に強い者ほど、老化が遅い」

データが表示された。確かに、パニックに陥った神々ほど急速に老化し、冷静さを保った者は比較的ゆっくりと老いていった。

「つまり」

香川教授が科学的な理解を示した。

「不老は、物理的なものだけでなく、精神的な要素も大きい。プラセボ効果の逆、ノセボ効果が働いている」

リンドバーグ教授が哲学的な考察を加えた。

「死への恐怖が、実際に死を早める。不老不死の薬に頼ることで、かえって死への恐怖が増大していた」

映像は、老化した神々の会議の様子を映し出した。彼らは必死にイズンを取り戻す方法を議論していた。しかし、その姿は、かつての威厳ある神々とは程遠い、ただの老人たちだった。

「最も興味深いのは」

エイリークが指摘した。

「この時、神々は初めて『有限性』を実感した。それまでは、永遠に生きることが当然だと思っていた」

田中が歴史的な観点から付け加えた。

「人間の歴史でも、死を意識することで、生の価値を理解するという思想がありますね」

新しい記録が表示された。それは、イールがスィアチと密会している場面だった。

『三日間だけ時間をくれ』

イールが頼んでいた。

『それ以上は、彼らの生命に関わる』

『なぜそんなことを』

スィアチが尋ねた。

『彼らに、命の重さを教えるためだ』

マグナスが複雑な表情で呟いた。

「残酷なようで...でも、必要なことだったのか」

「イズンを取り戻した後」

ドヴァリンが続けた。

「神々は林檎の摂取量を減らし始めた。依存の怖さを知ったから」

新たなデータが表示された。事件後、神々の林檎消費量は平均して30%減少していた。また、一部の神々は、林檎なしでの生活を試み始めていた。

美咲が医学的な分析を提供した。

「興味深いことに、摂取量を減らした神々の方が、長期的には健康状態が改善しています。過度の依存が、かえって自然治癒力を弱めていたようです」

斎藤博士が補足した。

「現代医学でも同じことが言えます。薬に頼りすぎると、本来の免疫力や回復力が低下する」

「これも計画通り？」

賢吾が核心的な質問をした。

エイリークが深く頷いた。

「イールは、神々を薬物依存から解放しようとした。完全ではないが、一歩前進した」

映像は最後に、イズンが戻った後の場面を映し出した。神々は林檎を受け取ったが、その態度は以前とは明らかに異なっていた。感謝と同時に、ある種の恐れを持って林檎を見つめていた。

そして、イズン自身も変化していた。彼女は神々に語りかけた。

『林檎は助けです。でも、真の不老は、心の若さから来るのかもしれません』

この言葉に、多くの神々が深く頷いていた。

香川教授が物理学的な視点から総括した。

「エントロピーの法則から逃れることはできない。しかし、その速度は、意識によってある程度制御できる」

リンドバーグ教授が文化的な意義を指摘した。

「北欧神話で、神々も最終的には死ぬとされているのは、この事件が影響しているのかもしれません」

「老化の恐怖を知ることで、神々は命の価値を理解した」

ドヴァリンが深い感慨を込めて締めくくった。

「それは、より人間らしくなることでもあった」

一同は、複雑な気持ちで記録を見終えた。不老不死への憧れと、有限の生への感謝。この矛盾を抱えることこそが、真に生きることなのかもしれない。イールの「悪戯」は、神々に最も重要な教訓を与えたのだった。

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