食人衝動

奈波実璃

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私は清潔感のある部屋の、プラスチック製の小洒落た椅子に背を丸めて腰かけながら、私の中の不安をぽつりぽつりと呟いた。
「……つまり、佐伯さんは食人……人を食べたくなる衝動に襲われる。そういうことですね」
「はい、まぁ、端的に言えば」
私はますます小さくなりながら頷いた。

ガラステーブルを挟んで私と対面するカウンセラーは、電子メモパッドに何か書きながら、大袈裟なくらいに相槌をしている。

新卒で大手商社に勤めて早十五年。
出世競争には些か出遅れたものの、それなりにやってきたつもりだ。
勤勉、実直、真面目
これが私を私としうるものであると言っても過言ではない。
さして才能があるわけでも、人付き合いや世渡りがうまいわけでもない。
ただひたすらに、地道に進むことこそが、私を私たらしめているのだ。

けれど最近、私は妙な衝動にかられているということに気がついた。
最初にその衝動に襲われたのは、通勤中の満員電車であった。
隣に立ちSNSでやり取りしている女子学生に、妙な気分を起こしたのだ。
その時私は、その女子学生の体に思わず手を伸ばそうとしてしまった。
けれど私が今まで築いてきた社会的地位の存在が、それを寸でのところで止めたのだ。

私は自分自身に絶望したものだ。
痴漢など、卑劣な行いであることは重々承知しているつもりだった。
けれどまさか自分にそのような感情が沸き上がるなど、到底思いもしなかったのだ。
けれどそれが、性欲ではないということはすぐに分かった。
私はその後何度か、いや何度もその女子学生の血肉を貪る妄想をした。
食事を口に運びながら、口腔内で弾ける血飛沫が脳裏に浮かび、飲み下しながら千切れた肉を想像した。
私は間違いなく、その妄想に快楽を覚えていたのだ。
その欲望をぶつける対象は、次第に増えていった。
近所の小学生に、行きつけの飲み屋のアルバイター。果ては取引先の若手社員など、若かくて張りのよい肌をしている女性であれば誰でもよかった。
私は頭の中で、漏れなく彼女らの肉を噛み千切り血を啜りったのだ。

無論、そんな自分には嫌気が差すどころか気味の悪さを覚えているのは当然のことだ。
私はこのつきまとう衝動に、いつか自分の全てが奪われてしまうのではないかと、不安と恐怖でいっぱいだった。
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