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第一章.死後の世界へ

§1.死後から始まるデスディニー2

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「そ、それじゃ、い、行ってきます……」
「落ちてもあんまり気にするんじゃないよ」
「落ちてもとかいうなよな!!」
「あははっ、ごめんごめん。でも、それだけ元気があったら大丈夫ね」
「ったく、なんて母親だ」
「はいはい、行ってらっしゃい」

 そんな茶目っ気のある母親からの言葉を受け、太一たいちはリビングを後にした。

 なんの代わり映えもない日常的な親子の会話。今日が特別な日だからといって、玄関まで見送りに来てくれるわけでもなく、いつも通り朝食を摂りながらの見送りだ。
 息子に変なプレッシャーを与えないよう、母親なりの気遣いなのだろうか。しかし、今の太一にはそんなことを気にできるほどの余裕を持ち合わせていない。いつもなら、憎まれ口の一つでも返してから部屋を出ただろうに。
 それほどまで今の太一は緊張し、切羽詰まっていた。

 特別な日といっても、今日が誰かの誕生日だったり、なにかの記念日というわけではない。むしろ、今日がそういった類の特別であれば、太一もここまで萎縮してはいなかっただろう。
 しかし、今日の特別はベクトルが違う。時に人を歓喜で包み、時に人を激しく傷付ける。人生のターニングポイントといっても過言ではない。
 それこそが今日を特別な日にする正体であり、太一の頭の中を支配する根源、合格発表だ。

(だ、大丈夫……やれることは全部やった……はず)

 玄関の靴箱表面に貼られた全身鏡と向かい合い、自分にいい聞かす。
 鏡に写るのは学生服の上に紺色のPコートを着た、いつも通りの自分。服装も背景もいつもと同じ。母親も、履き古した茶色いローファーの汚れも、玄関脇に置かれたドライフラワーも、なにもかもが同じだ。
 だが、鏡に写る自分の表情だけがいつもと違う。どんよりと引きつり、そのまま硬直している。

(や、やばい、このままだと不安に押しつぶされる。早く行こう……)

 必死にマイナス思考を抑え込み、鏡から目を外した。そして、鉛の様に重い足に鞭を打ち玄関を出る。
 玄関ポーチに出て三段ほどの階段を下ると、すぐ左手に三台の自転車が停めてある。太一はその中から自分の愛車の所へ行き、この二月の寒空で速攻かじかんでしまった手でゆっくりと鍵を開ける。
 カチッと解錠を知らせる甲高い音が響く。

「よ、よし……いくぞ!」

 不安を消し去るためにも、あえて声に出していい、ゆっくりと自転車に跨った。
 地面に足を付け、少しだけ体重を前にかけると、スタンドが上がる。太一はそれを確認しペダルを強く蹴った。

 目的地の大学までは約一時間。自宅から自転車で十分ほど走り、その後は電車で向かう予定になっている。太一の家は最寄り駅から二キロ程あり、歩いて行くには少々億劫な距離だ。また、結果問わず発表後には高校へ報告に行かなければならず、自転車があった方がなにかと効率的だ。
 太一の私的事情で駅前の有料駐輪場を使用し、駐車料金が発生してしまうのが玉に瑕だが、今日という日の重要性を考えれば安い出費だろう。

 とはいえ、この時期の自転車走行は限度を超えている。厚手のマフラーと、風を通さない革手袋を身につけているのにも関わらず、冷たい風は少しの隙間を的確に攻めてくる。これには太一も思わずスピードを落とし、体を丸めながらゆっくりと走り、やっとの思いで駅へ到着した。

 駐輪場へ自転車を停めた太一は冷え切った体を丸め、駅へと向かう。歩きながら革手袋を一度外し、制服の後ろポケットに入れた財布からICカードを抜き取る。そのまま、流れるように券売機の前に立ち、カード挿入口へとICカード入れた。

 太一の高校は自宅と同じ学区内にあり、当然自転車で通学している。そのため、定期や常時チャージされたICカード等は所持しておらず、電車を使う度に券売機で必要分だけチャージをしなければならない。
 今回もその例に漏れず、ICカードに千円だけチャージした。電子音と共に券売機から吐き出されたカードを手にし、改札を通過する。
 構内の電光掲示板によれば、次の東京行きの電車は八分後。この駅の停車本数を考えると、ついさっき発車してしまったようだ。若干の悔しさを胸に、太一は諦めてホームへと向かった。

 肌を刺す様な寒さの中での八分間待機は、ただでさえ落ち着かない太一にとって苦痛でしかない。
 少しでも気を紛らわそうと、太一はホームに設置された自販機で缶コーヒーを購入することにした。ホットコーヒーのボタンを選択し、ICカードをかざす。すると、ピピッという音と共に缶コーヒーが取り出し口へと落ちてくる。
 太一はそれを手に取り、早速プルタブを引いた。
 飲んだ瞬間に広がる芳ばしい香りと、ゆっくりと喉を伝っていくほろ苦さが、太一の体を温め、緊張をほぐしていく。

(ICカードって便利だよな)

 コーヒーのリラックス効果もあってか、そんな事を考える余裕が戻って来る。
 普段はコーヒーを飲まない太一だが、寒さとICカードの利便性に負け購入してしまった。別にコーヒーが嫌いというわけではなく、単に彼が倹約家なだけなのである。
 だが、電車マネーという物は形がなく、まだ高校生の太一にとってはイメージしにくいものだ。つまり、一度財布の外へ出てしまった金は使ったのと同じで、ついつい気楽にカードをかざしてしまう。そして、気付けばいつも乗り越し精算で再びチャージをする羽目になるのだ。
 これを危惧し、太一は無駄にチャージしないよう気を付けていたのだが、合格発表という大きなプレッシャーが彼の感覚を鈍らせてしまったかもしれない。

 そうこうしているうちに、ホームへは上り電車の到着を知らせるアナウンスが響き渡った。太一は少しぬるくなった残りのコーヒーを一気に流し込み、急いでゴミ箱へ空き缶を捨てに行く。
 ゴミ箱へ捨てたところで、丁度電車が到着し、太一は車内へと乗り込んだ。

 通勤ラッシュの時間を過ぎてはいるものの、車内はそれなりに乗客がいた。
 太一の住む地域は都心へのアクセスもそこそこ良く、都内にこだわらなければ比較的安価で住みやすいとして、多くの人が住居を構えている。そのため、この路線は本数の割りに利用客が多い。
 欲を言えば座って行きたかったところではあるが、どうせ三駅で乗り換えなければならない。太一は諦めてドア付近の隅に寄りかかって到着を待つことにした。

 十分ほどすると、乗り換えの駅を知らせるアナウンスが入る。この電車は少し古いタイプなのか電光掲示板が付いておらず、うっかり車掌のアナウンスを聞き逃すと乗り過ごしてしまう恐れがある。
 過去に太一も音楽を聴きながら座っていて、降りる駅を四駅も通過するという経験をしている。そのため、今日はしっかりとアナウンスを聞いていた。

 一番線に到着した電車から降り、別路線を走る三番線へ向かう。
 階段を登ったところの電光掲示板に目をやると、次の電車は二分後に到着するとのことで、太一は自然と早歩きになる。

(この駅の乗り換え、遠いんだよな)

 太一がホームに到着するのとほぼ同時に電車が到着。ドアが開くと、乗り換え駅のためもあってか結構な数の人が降車してきた。
 降りる人優先というルールに従い、太一も降車客が全て降りるのを待ってから乗車する。いざ乗り込んでみると、やはり多くの人が降車していたようで、車内はそれなりに空いていた。太一はその中で目についた車内奥の三人掛け席へと着席する。

(やっと座れた)

 車内は適度に暖房が効いており、朝から緊迫状態だった体の疲れを少しずつ癒していく。
 ここからは乗り換えもなく、約三十分間の移動だ。太一は改めて座れて良かったと実感し、気付けば目をつぶっていた。

 何故ここまで頑張れたのか。
 電車に揺られながら、太一はそんな事を考えていた。

 ここ数ヶ月間、太一の体は常に緊迫状態だった。昨晩もまともに眠ることなど出来ず、完全に寝不足状態だ。当然、今だって気が休まっているわけではない。
 程よい暖房と電車の心地よい揺れが睡眠を誘っても、太一の精神がそれに応じることはないだろう。
 それが故、少しでも体を休めるため、気持ちを和らげるために、目をつぶり、少し気持ちの整理をすることにした。

♦︎♦︎♦︎

 季節外れの大豪雨に見舞われ、今年の桜は満開を待たずにほぼ全滅。
 それでも自分はラッキーな方だった。これが期待と不安を抱いた新一年生であったならば、幸先の悪い高校生活の幕開けであっただろう。
 しかし、高校に入学したのは去年のことだ。不安といえば、新しいクラスに仲のいい友達がいるか、担任が誰になるか。
 そんなことを思いながら、太一は桜のほぼ散ってしまった通学路を自転車で駆け抜ける。

 特段、なにか目的があってこの高校を選んだわけではない。ましてや、この高校でないと駄目という程の熱意があったわけでもなく、単に家から一番近いから。
 それが高校を選んだ理由だ。

 太一の通う高校は、ごく普通の県立高校で、偏差値も中の中。
 中学の授業を真面目に受けているか、どこかで少し努力をすれば、わりかし誰でも入れるレベルといっていいだろう。
 そのため、幅広い層の生徒が在籍している。年に一人くらい東京の一流大学に合格する生徒もいれば、残念ながら学力が足りず留年する生徒もいるくらいだ。
 やはり、大人も子供も変わらず、通勤通学距離が近いというのは大きなアドバンテージになるということだろう。決して頭が良いからといって、皆が皆進学校に進むわけではない。

 唯一救いだったのは、それだけどっちつかずの学校のため、教師も手のつけられない程の不良生徒や、大学の難問を解いてしまうような天才といった様なぶっ飛んだ存在がいなかったことだろうか。
 そのおかげもあって、太一もここまで誰に目をつけられるわけでもなく、割と好きなことをやってこれられた。
 たが、それで満足出来るほど高校生という生き物は単純ではない。
 中学頃から芽生えた思春期という感情は次第に高まり、爆発すべき時を待ち続けている。無論、太一も例外ではなく、この一年間常にその感情と戦ってきた。しかし、今の今まで彼の内なるM26手榴弾を炸裂させることは出来なかったのだ。

「おーす」

 友人に声を掛けられ、太一は意識を現実に引き戻す。
 気付けば、いつの間にか学校に到着していた。一年間も通っていれば、考え事をしながらでも学校に到着してしまう。おまけに、一連の流れで駐輪場へ自転車を停めることも難しくはないだろう。

「おはよ」

 太一は頭を切り替え、友人に挨拶を返す。
 彼とは中学の時からの付き合いで、未だに予定が合えば放課後を共にする程に仲が良い。太一にとっての親しい友人の一人といえるだろう。
 しかし、高校入学後はクラスが離れてしまったため、当時の太一はまるで右腕を失ったかのような心細さで入学式を迎えたのだ。

「今年は同じクラスになれたらいいな!」

 太一の心中を察したかのように友人は言葉を投げかける。
 確かに、太一としてもそうなることを望んでないわけではない。クラスに親友がいるということは、なんとも心強いことだ。
 しかし、新学期早々に声を掛けてきたのがよく見知った友人というのも味気ない。

「そういう言葉は女の子に言われたかったよ……」

 桜はほぼ壊滅状態ではあるが、やはり春というものは人になにか不思議な期待を与える。太一も心の何処かで、登校中の新しい出会いを期待していた。
 顔見知り程度にしか知らない女子に突然声を掛けられ、同じクラスになれたね、などといわれることを切に願っていた。

「なんだよ……。あーっ、お前まだ永田ながたのこと気にしてんだろ?」
「えっ、はっ!?」

 永田とは去年のクラスメイトで、同時に太一の想い人でもあった。
 五月に行われた体育祭で仲良くなったことをきっかけに、太一は彼女を意識するようになった。そこから、顔を合わせれば会話に花を咲かせ、放課後には男女数人でのボーリング大会を企画したりと、太一は彼女との距離をぐんぐん縮めていった。
 その努力もあってか、彼女から頻繁にメールが送られてくるようになり、太一は自分の作戦に間違いはないと確信していた。
 しかし、メールが続くにつれて訪れる違和感。
 太一が送った疑問にはしっかり答えてくれるものの、何通かに一回は話に全く関係ない男子生徒の名前が登場する。

『へ~たいちくんすごいねー! そうだ! 今度けんじくんも誘ってまたカラオケ行きたいなぁ!!』

 こういった風に、『けんじ』という名が度々送られてくるようになった。
 とはいえ、太一も恋する純な少年。目の前の疑問を無視して、まっすぐ進むことしか出来ない程度には頭の中を永田に支配されていた。
 太一は違和感を胸にしまい込み、大好きな永田のために全力で彼女の望みに応えてやった。

 しかし、現実とは非情だ。
 太一の努力も虚しく、夏休み前七月の中旬に一通のメールが届く。

 差出人:永田さん
 件名:夏休み前ギリセーフ!
『この前けんじくんに想いをぶつけました! そしたらなんと……わたしたち付き合うことになったのです! これもたいちくんのサポートのおかげだよ! まじでありがと! お礼に今度なんかご馳走するね!』

 太一は絶句した。
 自分がやってきたことは全て無駄だった。そして、おそらく永田は太一の気持ちに気付いてなどいない。
 その無邪気さがなお一層胸をえぐる。彼女のハートを射抜くはずが、単なるキューピットになってしまった。弓の名手に間違いはないのだろうが。

「太一はいい奴すぎるんだって」

 友人の一言で、過去のトラウマに飲み込まれていた思考が戻る。
 確かに、永田の要望をほぼ全てクリアしてきたのは事実だ。相手にしてみれば、太一は良き理解者だったのかもしれない。

「いい奴って、おまえ……」
「だってそうだろ? あれ以来、お前に相談しにくるやつ多いじゃん」
「ぐっ、否定はできないけど、あれはたまたまなんだよ」
「たまたまでも、あの健二けんじとくっ付けたって功績はでかいって!」

 確かにあの大失恋以降、太一の元には恋愛相談、恋愛サポートの依頼が多く集まるようになった。
 それもそのはずで、元々健二という男子生徒は、顔も良く、更にはサッカー部期待の新人として有名だった。
 当然、女子からの人気も高く、倍率もかなりのものだったらしい。更に、今まで告白された全てを即断即決で断っていた。それをくっ付けたとあらば、太一の噂が広がらないという方が難しい。

 そもそも、太一と健二はさほど仲が良かったわけではない。出身中学もクラスも別で、接点などなかった。たまたま選択授業が同じで、話しかけても不自然ではない環境に置かれていただけだ。
 しかし、想い人に突然『B組の健二くんって知ってる?』と聞かれれば、多少の見栄を張ってでも知っていると答えたくもなるだろう。
 そんな兼ね合いもあって、太一は選択授業の度に健二に話しかけるようになったのだ。
 この時点で違和感の正体に気付けていれば、被害は最小限に抑えられていたことはいうまでもない。

「なんにしても、お前、相談に来られても断らないじゃん」
「ま、まぁそりゃ、断るのもなんか悪いし」
「ほらっ! いい奴!!」

 太一は言葉を失った。
 言われてみればその通りだ。恋愛相談はもちろんのこと、グループデートの数合わせ兼盛り上げ役。カラオケで盛り上がってくれば注文係りに任命され、テーマパークに行けばアトラクションのファストパスを取りに走る。

「俺ってば完全にいい奴じゃん!?」
「今更気付いたのかよ!」

 太一は友人のツッコミと共に思い知った。自分が良かれと思ってしてきたことは、単なる善意。みんな笑顔で受け入れてくれるから気にしてこなかった。
 だが、これだけで恋人が出来るほど高校生の日常は甘くない。
 これではただの使える人間。通称いい奴だ。

「こ、今年からは違うぞ!」
「いやいや無理だろ。もうお前のいい奴は定着しちゃったもん」
「うっ……。な、なら、バイト! そうだ、校外なら可能性があるはずだ! もうこの学校には期待せん!!」
「はー、せいぜい頑張ってくれよ」

 太一の必死の形相に、友人はただただため息をつき、呆れることしかできなかった。無論、太一がそんな事に気付くことはなく、二人は昇降口へ向かって歩き出した。

 だが、太一の意気込みは早々に打ち砕かれた。

 昇降口に貼られたクラス分け表を確認し、新しい自分のクラスへと行き、程なくしてホームルームが始まる。
 担任教師の簡単な自己紹介が終わると、そのまま一限目を利用して生徒の自己紹介が開始された。
 そこで太一の脳内に稲妻が走ったのだ。

倉田理恵くらたりえです」

 突如教壇に舞い降りた天使。太一の目にはそう映った。
 綺麗に切りそろえられたセミロングの黒髪、吸い込まれそうな程パッチリ開いた大きな目。模範的な高校生のように、きっちりとボタンを閉めたブレザーは柔らかそうな膨らみを持っている。
 十人が十人、彼女のことを美少女だと答えてもおかしくないだろう。

「みんなで楽しい一年に出来るよう頑張りましょうね」

 理恵は笑顔で自己紹介を終え、自分の席へと戻っていく。
 太一はそんな理恵の姿を無意識に目で追い、そのまま目を離すことが出来なくなってしまった。

(天使だ。間違いない、俺の青春はこれから本編を迎える!!)

 それからというもの、太一はことあるごとに理恵と話すきっかけを作り、自分の存在をアピールした。理恵と同じ委員会に入ったり、席替のクジで理恵の隣を引き当てた男子を買収したりと、とにかく理恵といる時間が増えるよう努めた。
 また、早い段階で新旧問わず友人に自分の気持ちを打ち明け、協力を仰いだ。幸いなことに、太一のことを悪く思っている人間は少なく、恋愛成就の恩返しとして多くの友人が太一に協力してくれた。
 友人と過去の自分の功績に感謝をし、太一は理恵との仲を深めていった。

「なぁ、倉田さんにいつ告るんだよ?」

 梅雨の中休みともいえるほどに、気持ち良く晴れた六月の昼休み。太一は友人にストレートな質問を投げかけられていた。
 もはや何度目かすら思い出せない質問だ。

 衝撃的な一目惚れから一年と数ヶ月、太一は未だに自分の思いを伝えられずにいた。
 新学期のスタートダッシュのおかげで、理恵の太一に対する好感度は決して低いものではない。むしろ、一番仲のいい異性といってもいいかもしれない。
 メールは定期的に送り合えるし、顔を合わせば会話もそこそこに盛り上がる。他にも、休日にクラスメイト数人で遊びに行ったり、放課後に駅前の喫茶店でお茶をしたりと、既に付き合っていてもおかしくない程の距離にまで達していた。
 しかし、太一はまだ胸中の想いを吐き出してはいない。

「い、いや、クラスがさ……」
「お前がトロトロしてんのが悪いんだろうがよ!!」

 太一の歯切れの悪い返答に、友人もついつい言葉が強くなってしまう。
 それもそのはずで、太一がトロトロしている間に一年が過ぎ、太一と理恵のクラスは離れてしまったのだ。
 その間、協力者という名の友人は何度も太一の背中を押し、何度も励ましてきた。だが、当の太一は勇気が持てずに、気持ちを実行に移すことが出来なかった。

「こ、告るよ! ちゃんと告る! でも、もう少し待ってくれ」

 この返答も何度目になるだろうか。友人に問われる度にこうやって逃げてきたのだ。
 気付けば、大勢いた協力者という名の友人は太一に見切りを付け激減し、残った数名も空いた時間に後押しするだけ。太一は完全に皆の期待を裏切ってしまったのだ。

「はぁー、あんだけいい感じだったのに、なんでお前は……」
「しょ、しょうがないだろ。 なんかほら、決定打に欠けるっていうかさ」
「お前なぁ……」

 友人は、毎度のことながら呆れてしまう。
 太一のいう決定打とは勝算のこと。つまりフラれない確率。理恵と付き合う未来よりも、フラれた後のことを考えてしまっているのだ。
 この保守的な考えには、さすがに友人も毎度ため息が出てしまう。
 しかし、この友人も太一によって恋人を得た一人。なんとかしてやりたいと思い、ここまで協力してきた。
 そして、今日こそはと思い言葉を紡ぐ。

「一番良い時期を逃して今更なにをいってんだよ」
「い、一番良い時期って……い、今だって仲良いぞ!」
「じゃあお前、最近二人で遊びに行ったりしたか? メール毎日やってるか!?」
「そ、それは……」

 太一は友人の鋭い意見に言葉を詰まらせてしまう。確かにクラスが離れてからは、一度も一緒に出掛けたりしていない。それどころか、顔を合わす機会も減り、それに伴い向こうから来るメール減っている。
 太一とてそのことに気付いていないわけではない。
 しかし、物理的にエンカウント率が落ちている以上、どうしようもないと考えてしまうのも事実。

「あんな可愛い子に彼氏がいないなんて奇跡なんだぞ」
「うっ」

 友人の言葉が胸をえぐる。
 だが、彼の言うこともまた正しい。太一以外にも理恵に想いを寄せている人間がいないとも言い切れないのだ。
 早い段階で友人に協力を仰ぎ、同時に自分が先に目を付けたという暗黙の了解を広げたとはいえ、全校生徒がそれに賛同しているわけではない。むしろ、今まで表立ったライバルがいなかったことの方が不思議なくらいだ。

「ど、どうしたらいいかな?」

 太一は不安に押し潰されそうになる気持ちを必死に抑え、友人の目を真っ直ぐに見つめる。
 普段、彼がここまで太一を問い詰めることはない。精々、早くしろと煽るぐらいだった。
 しかし、今日は違う。
 太一の不安をチクチクと突いてくる。背中を押すから、尻を叩くに作戦を切り替えたのだろうか。
 不安と恐怖が混在する太一の表情を見て満足したのか、友人は表情を和らげ、質問の答えを言葉にした。

「彼氏がいないんじゃなくて、彼氏を作ってないんだよ」
「は?」
「だって、倉田さんがお前以外の男子と仲良くしてるとこ見たことないぞ?」
「そ、そうなのか?」

 確かに、いわれてみれば太一にも思い当たる節はない。クラスが離れてしまったとはいえ、決して情報収集を怠った覚えもない。理恵のクラスにも友人はいて、そこから入ってくる情報にその類の浮ついた話題はないのだ。

「つまりな、倉田さんはお前のことを待ってるんじゃないかな?」
「ま、待ってる? お、俺を?」
「あぁ」

 太一は思わず固唾を飲む。
 友人の言わんとすることは分かる。
 だが、この程度で動かされるほど太一の心は強く出来ていない。

「で、でもお前……俺、最近まともに会話できてないぞ?」
「不安か?」
「う、うん」

 太一の心臓は過剰動作を起こし、彼から冷静さを奪って行く。
 その様子を見た友人は、ここぞと言わんばかりに用意してきたとびきりのエサで太一にフィニッシュをかける。

「なら、一つ会話のネタを提供してやろう」
「え?」
「倉田さんは推薦で、ほぼ行く大学が決まってるらしいんだ。そのことをダシに、メールなり会話なりして志望校聞き出すついでに告っちまえ!」

 友人から与えられた情報は、確かに有益なものだ。
 受験生同士の会話の種としては不自然なものではない。むしろ、久しぶりの相手への切り口としては自然なものとして使えるだろう。
 しかし、この情報が太一を違うベクトルで駆り立ててしまった。

「母ちゃん! 夏期講習だ! 受験生は夏が勝負なんだよ!!」

 太一は帰るなり母親に勢いよく告げた。

 昼休みに情報を手に入れた段階で、理恵へのメールは済ませた。そして、早々に志望校を聞き出し、そこから久しぶりのメールを楽しむことにも成功した。
 しかし、やはり自分達は受験生であって、メールの内容は受験のことが主になってしまう。
 そんな中で太一には、理恵と同じ大学へ入りたいという感情が芽生えてしまったのだ。無論、受験の流れから告白など出来るわけがない。

「夏期講習? あんた、なにいってんの?」
「だから、予備校だよ! 大学受験だよ!!」
「大学受験ってあんた……そんな話、今までしたことなかったじゃない」

 母の言う通り、高校三年の夏にもなって、太一の進路希望は未定のままであった。確かに、母自身も息子に危機感を覚えていなかったわけではない。
 しかし、本人のやる気が出ない以上は強制しても無駄だということを知っている。
 高校受験の時は物で釣れたが、大学ともなれば掛かる金額も桁違いだし、そもそも物で釣られるほど太一はもう子供ではない。最悪、一浪くらいしなければこの息子は危機感を覚えないかもしれないし、金を掛けるのはそうなってからでも遅くはない。
 そんなことを夫と相談して決めていたのだ。

 しかし、太一は今やる気になっている。
 ここは話だけでも聞いてやるのが親の定めというものだろう。

「それで、志望校は?」
「えっと」

 太一が志望校を告げると、母親は腹を抱えて笑い出した。志望校の偏差値が六十一、対して太一の偏差値は精々三十五といったところだろう。これは笑われても仕方のないことだ。
 しかし、太一としてはここで諦めるわけにはいかない。

「笑ってないで、夏期講習頼むよぉ!」

 母親は太一の声で笑うのをやめる。
 息子が馬鹿なことを言っているのは間違いない。しかし、ここは親として応援してやるべきなのではないか。それに、太一はやれば出来る子だ。高校受験のときだって、かなりのスロースタートで志望校への入学を果たしている。
 太一が自分からこんなことを言い出すことなんて滅多にないし、言い出したからには彼を突き動かすなにかがあるのだろう。
 もしかすると、もしかするかもしれない。
 そして、なによりも子が通う大学の偏差値が高くて気分を悪くする親もいない。
 母は決断した。

「わかったよ」
「まじ!?」
「その代わり、ちゃんとやるんだよ」
「ありがとぉー!!」

 こうして太一は夏期講習へと通うことになった。

 いざ勉強を始めてみると、成績は面白いほどに伸びた。
 授業はマンツーマン指導で、講師は一流大学に通う大学生。歳が近いこともあって、馴染みやすく、質問するのにも気を使わなくてすむ。
 なによりも太一は決して馬鹿ではない。
 学校での授業にも割としっかり出ているので、予備校での内容は何処か覚えのあるものばかりであった。ただ単に記憶の奥深くに仕舞いすぎていて、テストの時に引き出しが見つからなかっただけなのだ。
 その点、予備校の講師は太一の引き出しをしっかりと整理整頓してくれる。
 どうやら、今まで自分は勉強のやり方を知らなかっただけのようだ。

 夏期講習が終わる頃になると、太一の偏差値は二十五も上がり、全国模試でも志望校のボーダーラインを超える成績を叩き出すことに成功していた。
 友人は太一が突然勉強を始めたことを不思議がっていたが、太一にしてみればそんなことはどうでもいい。今は勉強が楽しくて仕方がない。
 そして、未来に待つ至福のときを想像するだけで何倍も頑張れるのだから。

 センター試験前にもなると太一の学力は安全圏へと到達し、予備校の講師も安心して試験へと送り出せる生徒へと成長していた。
 しかし、太一は安全牌があっても告白出来ないほどの小心者だ。試験ギリギリまで勉強を続け、センター試験が終わっても一般入試が終わるまで一切の手を抜かなかった。

♦︎♦︎♦︎

 降車駅を知らせる車内放送が流れ、太一はゆっくりと目を開けた。
 かなりの人数が降りるようで、いそいそと下車準備をする人々が視線に映る。それに習い太一も立ち上がり、鞄を肩に掛ける。

(やばい……昔のこと思い出したら、また緊張してきた)

 頭の中をめまぐるしく駆け巡る不安。しかし、そんなこと御構い無しに電車は目的地の駅へと到着した。
 程なくしてドアが開き、周りの流れと共に電車を降りた。

 ここから大学へは徒歩で行くことにしている。
 駅前からバスが出てはいるのだが、あまりにも多くの路線バスが出ているため、正しいバスを見つけ出す自信がなかったからだ。

(合格したら、まずはバスの行き先を覚えないとな)

 東口に降りたった太一は、スマートフォンのマップアプリを立ち上げる。
 目的地を入力すると、すぐに徒歩でのルート案内が開始。太一はロータリー付近の人混みを避けながら、陸橋に上がり、大学前まで伸びる国道へと向かった。

 十分ほど歩き、目的地へと到着した太一はコートのポケットから受験票を取り出し、合格発表の場を目指す。しかし、両手は震え、足の感覚は全く無くなってしまう。
 緊張がピークに達したのだ。こんなことになるのであれば、母親に同行してもらえばよかったという考えが浮かぶ。
 だが、無い物は仕方がない。太一は懸命に自分の体に鞭をうち移動を続ける。

 そして、目の前に広がる巨大なキャンバスボード。
 ボードに貼られるは複数の数字の羅列。
 これこそがこの場にいる大半の人間の運命を動かす魔法の数字、つまり受験番号だ。

(見たくない……見たくない……)

 太一の思考とは裏腹に、彼の二.〇の視力を誇る両目は鮮明に数字を脳へと伝達する。一度視界に入ってしまえば、もう後へは引き返せない。
 諦めた太一は、懸命に自分の受験番号を探す。

(一○○二番……一○○二番……)

 太一は、一番上から丁寧に数字を見ていく。
 ゆっくりと、決して見間違わないように。

(九九八、九九九、一○○三……あ、あれ? お、おかしいぞ……も、もう一回最初からだ)

 しかし、何度見直しても自分の番号は無い。太一はこの現状が意味することを理解できなかった。
 強張っていた体はいつしかほぐれ、体中に熱気がこもっていく。塞がっていた聴覚はいつしか活動を再開し、周りの声を鮮明に拾い上げる。

「よっしゃぁぁ! 有った、有ったぞぉぉ!」

 隣にからそんな声が響く。
 その声は脳内で広がり、やがて太一の体を突き動かしていた。

「てめぇ! 俺の番号がねぇーぞ! どういうことだ!?」

 太一は、いつの間にか隣にいた同年代と思われる男子に掴みかかっていた。
 掴まれた男子は慌てて太一を引き剥がそうとするが、懸命に食らいつく。その様子を見た警備員が猛ダッシュで駆け寄ってくるが、太一はそんなこと気にも留めず目の前の男子に罵声を浴びせ続ける。

「てめぇーどういうことだぁ!!」
「や、やめろよっ! 放せって!!」
「うるせぇー! ニヤニヤしやがって! なんで俺の番号はねぇーんだっ!!」
「ふ、不合格だったんだろうが! 俺に当たんなよなっ!」

 不合格。
 目の前の男子がいった三文字が胸に突き刺さる。その瞬間に力は抜け、駆け寄った警備員に敢え無く引き剥がされる。肺が仕事を放棄したのか、脳に酸素が供給されず、太一はその場に膝を付き、倒れてしまった。

♦︎♦︎♦︎

 そこからはどうやって帰ってきたかは覚えてはいない。
 警備員になにやら色々といわれたはずだが、今の太一の精神状態ではその言葉を記憶に留めておくことさえ不可能であった。その後解放され、気付けば地元の駅で自転車に跨っていた。

「不合格……不合格……死んでしまいたい」

 口に出したつもりはないのだろうが、無意識に言葉になってしまう。それくらいに太一の精神は参っていた。
 だが、合否に関わらず高校へは報告に行かなければならない。心に余裕は無いが、それでも太一は自転車を漕ぎ出してた。

 冬の冷たい風が太一のショート寸前の脳を冷却し、少しずつ思考が回復していく。
 しかし、依然として不合格という三文字が頭を支配する。夢に描いた華のキャンパスライフが音を立てて崩れていくのを太一は実感していた。

 太一の受験校は今日の一校だけだ。周りの大人からは第二、第三志望を受けることを勧められていたのだが、太一は首を縦に振らなかった。
 志望動機が想い人と同じ大学に通うことで、それ以外に大学へ通うことの理由を見出せていなかったからだ。もちろん、志望校への提出書類などには学校の進路指導教師の手を借りてなんとか作成はしたが、太一の心中には理恵のことしかなかった。

(浪人して、来年また受けるか?)

 やっとのことで思考が少し現実を見始めたが、太一の胸に嫌な予感がよぎる。

(そんなのはダメだ! あんなチャラい大学に一年も倉田さんを放置なんてしてみろ。サークルの新歓にかこつけて留年しまくり大学六年生あたりが手を出すに違いない! ソフトドリンクとかいって、アルコール入りのコーラを飲ませてあんなことやそんなことや……)

 思考はどんどんと深みにハマり、太一を奈落の底へと突き落としていく。
 もはや自分に出来ることはないのか。
 そればかりが太一の胸を締め付ける。

「うぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 少しでも胸に引っかかる不安を解消しようと、声をあげ、全力で自転車を漕ぐが、すぐに踏切に引っかかってしまう。
 しかし、その停止が幸をなしたか、太一に一つの考えがよぎる。

(そうか! 入学前に告りゃいいんだ!! そんでもって来年絶対合格して、後を追えばいいんだ! よし、こうしちゃいられないっ!)

 太一が答えを出すのとほぼ同時に踏切が上がり、太一は強く自転車のペダルを蹴った。

 高校を目指して、全力で自転車を漕ぐ。
 このまま高校へ行き、今日の結果を報告する。そして、登校日ではないが、もし学校に理恵が居たならば、この勢いで気持ちをブチまけてしまう。
 これが太一の計画だ。
 結果は残念だったが、受験という試練を越え、太一は幾分にも強くなった。それに加えて、今の太一のアドレナリン放出量は自身最高といってもいい。もはや、彼のテンションを下げることなど誰にも出来ないはずだ。

 気持ち新たに、高校へと伸びる県道を全力疾走で駆け抜ける。
 交通ルールを守り車道左側を走る太一は、ガードレール越しの歩道を歩く人を次々と追い越していく。
 定期メンテナンスを怠っていない愛車は、軽快な音を奏で、太一を高校へと運ぶ。
 しかし、そんな滑らかに回るチェーンの音を凄まじい音が掻き消した。
 太一が思わずスピードを落とし振り向くと、厳つい青のクーペが猛スピードで迫ってくるではないか。
 全体は青を基調とし、ボンネットは黒いカーボン製。フロントバンパーは地面すれすれで、ナンバープレートは左側にズラされている。他にも相当いじっているとは思うが、この爆音と外装だけでも後ろに迫る車が、平成初期にイケイケで峠を攻めてい物を目指していることが分かる。通称ドリ車というやつだ。
 そんなことを考えているうちに、爆音クーペはみるみる太一へと接近する。法定速度など等に超えていることは間違いない。

(こういう車は無茶するし、速度落としてなるべく隅に寄っとくか)

 太一は気を利かせて左にハンドルを切り、左足を地面に着いてゆっくりと走行する。そして、爆音クーペが太一のすぐ後ろまで接近したところでもう一度振り返ると、妙な違和感が太一を包んだ。

(あれ? なんか狭くね……?)

 違和感の正体に気付いた時既に遅し。
 猛スピードで接近していたクーペのドアミラーが太一の右腕にヒットし、物凄い衝撃が太一を左方へと押し付ける。そのまま左に倒れられたのなら良かったのだが、そこにはガードレールが設置されており、衝撃を殺しきれず、再び右側へと押し戻される。
 太一は為す術もなく車道へと倒れこんでしまった。
 物凄い激痛ではあるが、幸い両腕とも全く力が入らないわけではない。太一は痛みを必死に堪え、やっとの思いで体を起こす。
 しかし、再び後方から聞こえる爆音。先程のクーペとは違い、ドスの効いたブラスのような音と、鉄が擦り合った甲高い音が響き渡る。
 太一が振り返ると、そこには視界一杯にトラックのボンネットが広がっていた。音の正体はトラックのクラクションとブレーキ音。
 太一がそれに気付くのと同時に、辺りには聞いたことの無いような鈍い音が響き渡った。
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