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第一章.死後の世界へ

§2.故郷は駆け足に1

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 街灯に照らされた景色は朧げに揺らめき、やがて道路の喧騒へと流れていく。
 見慣れたはずの風景。さほど栄えているわけでもなく、かといって不便なわけでもない。どこにでもある取り留めない街並み。
 しかし、それでもたくさんの思い出が詰まっている。
 そんな思い出の町を、大好きだった街を、今日旅立つ。遠い、遠い、決して手の届かない場所へと。
 おそらくこの景色もこれが見納めだろう。そう思うと、少しばかりノスタルジックな気分になるのは致し方あるまい。
 窓に映る景色を眺めて、溜息を一つ。少し曇った窓ガラスを服の袖で擦り、また流れる景色を目を戻す。太一は大好きだったこの景色をしっかりと目に焼き付ける。

 都心へと伸びる国道を走ること数分。ちょうど都県境に差し掛かろうかといったところで車内に響くウィンカーの音。同時に車体は減速を始め、ゆっくりと交差点を左折する。
 自分が霊体だと理解していても、対向車や歩行者に自ら突っ込んでいくのは精神衛生上よろしくない。どうしても生前の認識で体が無意識に強張ってしまう。
 実際、太一たちが一方的に見えているだけなので後続車からのすり抜けは避けられないのだが、正面切って突っ込んで行くよりは幾分もマシだろう。その点、こういった節度のある運転を心掛けてもらえるのは有り難い。
 太一は窓の外から目を外すと、運転席に座る少女に視線を向けた。
 小さな口と、緩く巻いた癖っ毛からは小動物のような印象を受ける。仄かに頬が赤いのはさっき泣いたせいだろうか。シートにすっぽりと収まった姿からは、彼女が如何に小柄なのかがよく分かる。

(こんなんでも俺と同い年なんだよね)

 一見して中学生くらいにしか見えないが、これでも少女は太一と同い年であり、歴とした女性だ。その証拠に彼女は運転免許証を所持しており、今もこうして車を走らせている。
 果たして本当にアクセルへ足が届いているのかは疑わしいが――それでも車は走行を続け、太一を未知の世界へといざなう。

 浄土誘導員の香川真由美。
 突如姿を現した彼女は、太一に死の宣告をいい渡した。そして、死人は浄土という異世界で余生を送らなければならないという。
 にわかに信じ難い言動ばかりで、太一も本気で相手にはしていなかった。しかし、百聞は一見に如かず。次々と起こる不可解な現象に、太一も己の身になにが起こったかを認めざるを得なかった。
 その後、死を受け入れた太一は素直に、とはいい難いにしても、浄土へと旅立つことを決意し、今こうして車に同乗している。

 無言の車内に渦巻くどんよりとした空気。半ば強引に浄土行きを決意した太一だが、やはり心に這った不穏な気持ちは拭いきれない。
 太一は真由美から視線を外し、アルファベットでエアバッグと書かれたダッシュボードへと目やり、暫しの瞑想に思いを馳せる。
 誰しも思い出の詰まった町をこんな不本意な理由で去ることになれば当然なのだろうが、太一のそれは少しばかり違った。

(理恵ちゃん……マジか……)

 未だ糸を引く先刻の出来事。生前、恋い焦がれた相手との決別。青春真っ只中の高校生活に於いて、彼女の存在が大半を占めていたといっても過言ではない。
 だが、太一の想いは届かなかった。最後の最後になって明かされた想い人の気持ち。

(いっそ、死にたい……)

 太一の脳内では、酷い泣きっ面だったはずの理恵が最後に見せた満面の笑みが再生される。それは死人に再び希死念慮を与える程の衝撃を秘めていた。

「いや確かに、彼女に笑顔を、とか漫画の主人公みたいな幻想を抱いたよ? でもさ、でもさ! こんなんあんまりじゃない!? 俺の屍を越えるどころか、バリッバリに踏ん付けちゃってるじゃん!? 骨がパラパラチャーハンみたいになるまで足でぐりぐりやってるよね、これ?」

 理性を抑えきれず思考は声になり、そのまま太一は両手で頭を抱え、ダッシュボードに額を打ち付ける。こうでもしないと悔しさと悲しみに押し潰され、自分は消滅してしまうかもしれない。とにかく今は感情を吐き出して、少しでもすっきりしたかった。

「あ、あの……大丈夫ですか?」

 真由美は太一の奇行に驚いたのか、ぴくりと体を震わせ、少し緊張した声で尋ねる。それによって太一は、今この空間が自分一人の物ではないということを思い出した。
 これが暗い部屋に独りだったのなら、気の済むまで心に蔓延る悪しき感情を吐露できたろう。しかし、残念なことに今は一人ではない。人の車の中で、人の所有物に頭を打ち付けて、みっともない声を上げている。それも異性の前で。
 太一を支配していた感情はみるみるうちに羞恥心へと変動し、自分の失態を浮き彫りにしていく。

 思えば、真由美には恥ずかしいところを晒してばかりだ。そして、多大なる迷惑を掛けてしまった。なんど彼女の顔を曇らせたことか。
 まともに会話できる人間が真由美しか居なかったのと、もとより気持ちに余裕がなかったのは事実。だが、それを真由美にぶつけていい理由にはならない。これ以上情けない姿を晒しては、太一の男の子としてのプライドが廃ってしまう。

「ごめん……ちょっと取り乱した」

 両手を頭から離して、太一は真由美にしっかり頭を下げる。
 ちらりと横目で確認した真由美は、ほっとした表情で視線をフロントガラスへと戻した。

 真剣な表情でステアリングを握る真由美。行き先は浄土。順調に行けば一時間と掛からずに到着できるだろう。
 本土を走っているうちは渋滞にハマることもないし、時間を考えれば浄土に入ってからも渋滞のピークは避けられる。遅くなったとしても誤差は三十分といったところだ。
 ならば、今は霊体の接触に慣れていない太一のために出来る限り速度を抑え、本土の交通ルールに則った安全運転を心掛けることに集中すべきだろう。

(ここまで来ればあとちょっとで案件完了だもんね。がんばらなきゃ)

 真由美は内なる自分に固い誓いを交わし、未だにひりひりと痛む瞼を強く瞬き、再び意識を正面へと集中させた。
 だが、その動作が隣に座る太一にある疑念を植え付ける。

「そういえばさ、さっきなんであんなに泣いたの?」

 真由美の心臓が飛び跳ねる。
 太一にしてみれば単なる好奇心で訊いているのだろうが、真由美にとってこの質問は最も掘り返して欲しくない出来事の一つだ。『対象者だと思ってた人をいつの間にか異性として意識しちゃって、でもその人には既に心に決めた人がいて、なんだが心がぐちゃぐちゃになって泣いちゃいました』などと正直に誰がいえたことか。
 相手が対象者だとか、仕事中だとか関係なしに、年頃の乙女として、よりにもよって事の張本人である太一にいえるはずなどない。
 しっかりと捉えていたはずの視界は忽ちに色を薄め、真由美の脳内には深い暗雲が立ち込める。その間も心臓は強く高鳴り、真由美から冷静な判断力を根こそぎ奪い取っていく。
 すっかり冷静さを失った真由美は、暗雲を振り払うために右足に力を込め――

「わ、忘れてくださいぃぃぃぃぃっ!!」

 刹那、凄まじい重力が車内を包み、太一はシートに強く叩きつけられる。同時に、ゆっくりと流れていた思い出の風景は急速にその速度を上げ、まるで太一との別れを歓喜するかのように視界から一瞬で消え去っていく。

「ちょっちょっえぇぇぇぇっ! し、死ぬって! もう死んでるけど、このままじゃ時空を超えちゃうってばっ!!」

 太一の訴えも虚しく、スピードメーターはぶれることなく上昇を続け、エンジンは甲高い音を立てて鳴り響く。
 結局、それからしばらく太一は降り掛かる重力と戦い続けた。

♦︎♦︎♦︎

 都県境を北上して行くと、やがて視界に広がる河川敷。季節ごとに様々イベントが催され、その度に笑顔が咲き乱れる美しいスポットだ。幼少期に家族で花火を見に来たことは、太一にとっていい思い出だろう。
 しかし、そんな風景も今は闇に呑まれたように黒く染まり、疲れ切った仕事帰りのサラリーマンがちらほらと。彼らが、これから地獄へと流される運命だと聞かされても納得してしまうのは太一だけではないはずだ。

「うっ、うぅ~……まさか思い出の川が三途の川だったなんて……う、うぇっ」

 太一は窓の外を眺め、くだらない思考で少しでも気を紛らわそうと試みるが、こみ上げてくる吐気は一向に治まらない。視覚は未だにゆらゆらと揺れ動き、聴覚はまるで危険信号のような耳鳴りに支配されている。
 生前、乗り物酔いとは全く無縁の人生を歩んだ太一にとって、車酔いがこんなに辛いとは、しかも死後にそれを知るとは思いもしなかった。

 瞳を閉じれば鮮明に再現されるあの感覚。超加速だけならば精神力で乗り越えられたかもしれない。しかし、問題はその後だ。
 スピードが乗りに乗った車を待つ定番といえば、急カーブでの激突が予想される。
 いくら霊体が物体をすり抜けるとはいっても絶対ではない。もしも恐怖が霊体としてのイメージを上書きしていたら。反射的に生前の記憶が蘇ったなら。助かる見込みはない。
 せめて、この恐怖だけでも打ち消すことができればと、太一は奥歯を噛み締め、頭に根付く恐怖を塗りつぶそうとした。
 だが、極限の集中を遮る甲高い声。突然の奇声に釣られて運転席へと目をやれば、そこには赤面する真由美がくねくねと体を揺すっていた。それだけでも信じがたいことなのに、あろうことか真由美は右手一本でステアリングを握り、持て余した左手で自分の頬をさすっているではないか。よく聞けば奇声には、なんだが恥じらいと楽しさが混在した奇妙な笑いに聞こえてくるし、彼女の虚ろな瞳にはきっとこの超極限状態が映っていない。

 ――こいつ暴走してやがる……。

 そのことに気付いた太一は、このままカーブが来ず、真由美が落ち着くまでストレートであることを強く祈った。ただただ運に任せて生還を願った。
 しかし、そんな願いも虚しく車内には突如として短い音が鳴り響く。音は一定のリズムを刻み、まるでこの先の未来をあざ笑うかの如く、太一の耳に突き刺さる。

「ま、まさか?」

 それがウィンカーの音だと気付いたとき、車は既に停止線の一歩手前。次の交差点を曲がることを悟った太一は、同時に二度目の死を覚悟した。
 せめてもの悪足掻きで、ひたすら自分自身に霊体だという認識を植え付ける。

 スローで流れ出した世界。脳内で引き伸ばされた一瞬は永遠にも等しい。確実に血塗られた未来は太一に牙を向けていく。
 が、太一を襲った衝撃は想像していたものとは違った。
 速度を落としたのは世界ではなく太一自身。叩きつけられるような慣性力、必要以上に体を締め付けるシートベルト。車体からは甲高い音が響き、流れて行くだけだった風景はゆっくりとその形状を取り戻す。
 太一の脳裏を過る黒い影。おそらく己の終焉に見たものだろう。そして、今鳴り響いている音とリンクする。

「ぶ、ブレーキ!?」

 生前の記憶と合致し、太一は音の正体に気付く。しかし、気付いたところで事態に変化などない。減速していることは間違いないが、この車はスピードを出し過ぎた。間に合うはずがない。
 迫り来る死神の魔の手は、太一の脳内を激しく掻き乱す。もはや、己に霊体だといい聞かすことも忘れ、太一は目の前に訪れた死に恐怖することしか出来なかった。

 刹那、視界の端に影が入り込んだ。
 軽やかに円を描くそれは、なにかに吸い込まれるように流れていく。それが真由美の左腕だと気付くのに時間は掛からなかった。
 希望の光――太一の目には確かにそう映った。
 なにかが起こる。この絶望的な現状を打開するなにかが。具体的なことはなに一つ分からないが、太一には死のもたらす黒い感情が、次第に薄れていくのが確かに感じられた。
 それは安堵か、それともただの虚勢か。どちらにしても、太一は油断した。助かるかもしれない、という漠然とした希望に縋り、心を構えることを怠ってしまった。

 希望の左手が宿り木に選んだのは車内中央にあるシフトノブ。そして、軽い手付きでそれを一気に引く。
 ドライブに入っていたギアは一気にローへと落とされた。唸るエンジン音と更なる慣性力が車内を襲う。それでも減速は追いつかず、車は交差点へと吸い込まれる。
 万事休す。太一を覆う死の暗雲はその活動を再開する。
 だが、真由美の手は止まらない。ゼロコンマの世界で状況は動き続ける。
 シフトノブに置かれた腕は即ステアリングへと戻され、いつの間にかクロスされた両手で面舵いっぱい。車体は、タイヤから放たれる鋭い音と共に急旋回を開始。そして、真由美の左腕は残像ができそうなほど滑らかな動きで、サイドブレーキを掴む。
 ここまでくれば、太一にもなにが起きているのか容易に想像できた。

「まっ、まって!! まだ心の準備がっ――ぎ、ぎゃぁぁぁぁぁっ!!」

 固定されたタイヤは暴力的な音を響かせ地面を滑り、進行方向を一瞬で書き換える。
 真由美は右手に握ったステアリングで微調整を施し、納得のいく角度になったところでサイドブレーキを戻して再びアクセルを全開。なにごとも無かったかのように再び車は加速する。
 そのまま数百メートル走り、完全に車がスピードに乗り切ったところで、再び車内に響くウィンカーの音。律儀にウィンカーを出すこと自体は真由美の優しい性格が感じられるのだが、そもそもの運転がこれでは評価のしようがない。いくらウィンカーを出したところで、これだけのスピードで走る車の指示する方向など有って無いようなものだ。

(ま、まぁ、実際んところ他の車に認識されてないんだから、出す意味自体が……って――)

 再び訪れる強い慣性力によって、太一の思考は強制的に上書きされてしまう。
 車外から甲高いブレーキの音が響き、太一の視界を弧を描いて横切る真由美の左手。その手が掴むは、もちろんシフトノブだ。

「待って、待ってぇぇぇ!!」

 太一の叫びも虚しく、二人の乗った暴走車両はサーキットさながらの臨場感を持って、交差点へと進入していく。
 結局、真由美はトータルで四本のコーナーを攻め、太一はその度にあらん限りの絶叫を上げる羽目になった――

「だ、大丈夫ですか?」

 ぐったりとした太一の姿を横目に、真由美は心配の言葉を投げ掛ける。
 現在の運行状況は平常。真由美の方も落ち着きを取り戻し、しっかりと両手でステアリングを握っている。
 ただ、決定的に違うのは太一の体調だろう。元よりメンタル面は理恵に与えられたショックで崩壊寸前だったが、ここにきて肉体的にも崩壊が進んでしまった。まさに満身創痍そのものである。

 確かに、太一も過去にはサーキットというものに憧れを抱いたこともあった。改造されたスポーツカーを乗り回し、ゼロコンマの世界を競い合う。そんな姿に魅了され、動画サイトで関連動画を漁り、ゲームセンターのレース筐体で未来の自分のために修行を積んでいた時期もある。
 しかし、実際の現場に同乗した結果がこれだ。ましてや運転手は愛らしい女の子。いくら心の準備をしていなかったとはいえ、自分の不甲斐なさに傷付いたメンタルは更にその傷を深めてしまう。

「はぁー……人はなぜ速さを求めるんだろうな」
「い、いや、急にそんな哲学的なことを訊かれても……」

 しきりに込み上げる吐気を紛らわすためにも、辛うじて生き残った思考回路を無理やり働かせる太一。対する真由美は暴走の欠片も感じさせない、いつも通り気弱な声色で言葉を返す。彼女の普遍さが、また太一の男の子的プライドを抉る。
 別に『男子たるもの女子より優位に立つべきだ』などという古い考えを持っているわけではないし、どちらかというと太一はフェミニストだろう。
 同じ目線で同じ世界を共有し、共に笑い合いたい。それこそが太一の追い求める理想なのだ。故に、良き友達の域を越えられなかったわけだが。
 ともあれ、太一がどれだけ男女平等主義だったとしても、女の子に情けない姿を晒していい理由にはならない。男女共に別け隔てなく接するように心掛けていても、やはり異性の前では格好良い自分でいたい。願わくば、自分の知らないところで『ちょっと気になるあいつ』と話題に上がりたい。
 だが、そんな理想はもはや幻想。太一の主観では、自分は強き人間だと思っていた。ちょっと本気を出せば大抵のことは上手くできる自信があった。
 交流関係も良好、勉学も順調、運動も学年で上から数えられる位置にいる。
 それなのに――

(昨日からマジで調子悪いな……)

 大学受験の失敗をきっかけに運命の歯車は確実に狂い出した。夢にまで見た春からのハッピーライフどころか、現状の生活さえもままならないところまでの転落。そして、転落後に待っていたのは更なる転落。半ば強制的に故郷を追われ、想い人の本心を知り、じわじわと失われていく男の子の威厳。
 転落どころか陥没だ。落っこちた拍子に粉砕できたのならどれだけ楽なことか。太一にとって今の状態は、姿形を残したまま底の見えない闇に引き摺り込まれているようにさえ思えてくる。
 自信の喪失。情けなさと、みっともなさが混在する。唯一の未来に抱く感情があるとすれば、見知らぬ地で生きることへの不安。
 太一の心は負の要素に塗り替えられていく。

「大丈夫ですよ」
「え?」

 不意に掛けられた柔らかい声。この二日間もっとも身近にあった声。
 それは負の感情が作り上げた障壁を難なく越え、太一の心に優しく色を付ける。頑丈なはずの障壁が簡単に侵入を許したことに驚いたのか、太一は目を見開いて声の主へと顔を向ける。

「死は辛いですか?」

 真由美から発せられた見当はずれの言葉。優しい声色から救いを期待していたのか、太一は顔をしかめてしまう。
 しかし、疑問詞で掛けられた以上は返答をするべきだろう。

「辛いよ」

 裏切られた感が否めなく、気分の乗らない太一が返した言葉は短い一言。
 それでも、真由美の求める返答には充分達していた。

「辛い分だけ幸せがあるのなら、こんなに辛い思いをした私たちには大っきな幸せが絶対に来ます」

 真由美は彼女にしては珍しく、凛とした声ではっきりといった。いつものように語尾をぼかすこともなく、完全にいい切った。
 それは小学生の作文並みの理論だろう。世の中そんなに上手くできているはずがない。
 だが、彼女の目に一切の迷いは存在しない。幸せが訪れることを本気で信じているのだ。
 この場にこうして――太一と同じ空間を共有しているということは、当然の如く彼女にも死神はその牙を向き、小さな命を刈り取ったのだろう。どんな最期だったかは知らないが、彼女もその残酷な運命に傷付いたのは間違いない。
 それでも彼女は立ち上がり、今こうして前を見ている。

 何故そんなに強くいられるのか。小さくて、泣き虫な彼女のどこにそんな強さがあるのか。
 脳裏を過る弱々しい言葉。太一は思考を声にすべきか否かの判断が咄嗟にできず、口籠ってしまう。口にしてしまえば、本当に恥知らずの愚か者になってしまいそうで怖かった。
 真由美はそんな太一に笑顔を向け、再度ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「私たちは死んでしまいましたが、私たちの心は死んでないんですよ」

 真由美の口から出た優しい言葉。
 その意味、その声色、その笑顔。真由美という少女が今しがた発したその全てが太一の身体中に広がっていく。

 相変わらず胸を締め付ける痛みは消えない。心に住まうかつて愛した人たちを思い出せば、瞳の奥が熱くなる。
 しかし、本当に死んでいるのならそんな痛みすら感じれないだろう。もはや、心臓など存在しないのかもしれないが、胸の奥深くに心臓よりも強く脈打つ、自分が自分である証拠が生きている。
 心が生きているのだ。

 太一はハッとした。
 肉体の死に甘んじて全てを放棄した愚かな自分。それでも、前を見ずに俯く愚かな自分さえも生きている証。
 まだ死んでなどいない。ならば、どれだけ失敗しようとも何度でも立ち上がれる。だから俯くのをやめて、ただ前を見て――

「あのー……ちゃんと前を見なきゃ、本当に死んじゃうよ」
「へ?」

 太一は落ち着いた声色でいう。
 瞳に映るは、明るい未来――ではなく、正面に迫る背の高いガードレール。その奥には闇と同化する一級河川。まさに地獄絵図だ。
 真由美も雰囲気が変わったのに気付いたのだろう。ゆっくりと顔を正面へと向ける。そして、二人の乗る車は吸い込まれるように闇へと迫り行く。

「「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁっ!!」」

 二人は同時に絶叫を上げ、やっと事態を把握した。
 だが、そこは流石の真由美だ。彼女は取り乱してこそ本領を発揮するのだ。瞬時にブレーキを踏み、ギアを落とす。同時に、右手を滑らせステアリングを右へと一気に切る。真由美は降り掛かる遠心力を物ともせずに、迫り来るコーナーを一心不乱に攻める。
 車体は右へと急旋回。
 間一髪で正面衝突は免れたが、危機はまだ去ってはいない。ガードレールと車体との距離は数センチ。このまま左に滑ってしまえば、怪我では済まない衝撃が訪れるだろう。仮に、ガードレールをすり抜けたとしても、その先に待つのは仄暗い闇への転落だ。
 太一は自分のすぐ横に死の境界線がはっきりと存在することに絶望を覚えた。

「もももももっと右っ! し、死ぬっ!!」
「も、もう目一杯ですっ!!」

 すぐ隣に死神が付いていることを訴えるが、ステアリングは既に限界まで切られている。あとはタイヤのグリップ性と左に抜ける風向きが来ないことを祈るだけ。
 もう神に縋る以外に残された道はない。
 しかし――

「あ?」

 太一を襲う浮遊感。
 遠心力が消え、左半身が軽くなるのを感じた。

 ――終わった。

 やがて視界は白く染まり、太一の思考は途切れていく。

「って、えぇぇぇぇ!?」

 太一の薄れゆく思考を繋ぎ止めたのは遠心力。再び右に突き抜けるような力が加わったのだ。
 ふと左側に目をやると、車体がじりじりとガードレールから遠ざかっていく。

「か、荷重移動!?」

 脳裏を過る生前の記憶。
 レース関係の雑誌に目を通していた時期、何度も目にした単語だ。
 おそらく、一瞬だけ遠心力が無くなったのはわざと左に切ったのだろう。そして、その反動で左に振られた車体に同じく無防備になった人間の体重を乗せ、一気に右に戻す。
 助走を付けた車体にプラスして二人の体重が乗れば、単純にステアリングを切ったときよりも勢いは増すはずだ。ドリフトだけでは飽き足らず、よもやそんな高等テクニックまで駆使するとは。
 なんにしても、二人は九死に一生を得た。せっかく良い言葉を聞いて未来に希望を持ったというのに、こんな所で犬死するなど流石に浮かばれない。どんなに格好良いことをいをうとも、最後に足元をすくわれてしまう辺り、真由美らしいといえばそうなのだが。

「ふ、ふぅ……あ、危ないところでした……って、あれ? 椎名さん?」

 無事の生還を果たし、安堵の念に浸る真由美。しかし、太一の反応は芳しくない。さっき少しだけ明るい表情になったのが気のせいに思えるほど深く俯いてしまっている。
 たった今、前方不注意で死にそうになった手前、真由美は一瞬だけ太一の顔を確認し、正面へと視線を戻す。

「ご、ごめんなさい……」

 ぽつりと、今にも消えてしまいそうな声音で謝罪を告げる真由美。だが、太一からの返答はない。
 怒らせてしまった。自分の不注意から、またもや傷付いた対象者を煽り、せっかく芽生えた未来への希望を摘み取ってしまったのではないだろうか。
 真由美の胸に不安が過る。そして、真由美の思考を読んだかのように、たちまちに不安はその姿を形成する。

「車、止めろ」

 感傷に浸る真由美の耳に突き刺さった冷たい声。車内を凍りつかせるほど冷たく、つっけんどんに放たれた声の主は助手席に座る少年のものだ。
 不安は肥大化し、その姿を現実へ具現化する。具現化された不安は漠然としていたベールを脱ぎ去り、本当の姿を露わにする。

 ――任務失敗。

 真由美の思考を支配する四文字。
 お世辞にもここまで順調だったとはいえないが、真由美は不器用なりに全力でやってきたつもりだ。仕事としてだけではなく、人として常に全力で応対してきたつもりだった。
 浄土誘導員として、彼に幸せな未来が訪れるように手助けしたい。人として、彼に嫌われたくない。
 真由美の心を掻き乱す複雑な感情は、彼女の瞳を濡らしていく。視界はぼやけ、喉の奥からは熱い空気がこみ上げてくる。とてもこのままの精神状態で運転を続けるなど不可能。幸い、太一からの要望は車を止めることだ。
 真由美は車を路肩に寄せ、ハザードを出してゆっくりと停車させる。それとほぼ同時に、太一は乱暴にドアを開けると逃げるように外へと出て行ってしまった。

「ま、待ってください!!」

 必死に叫んだ声は自分でも驚くほど大きな声だった。だが、今は怯んでいるわけにはいかない。
 真由美はエンジンを切るのも忘れ、急いで太一の後を追う。
 この焦燥感が任務失敗を危惧する気持ちから来るものなのか、それとも太一との決別を恐れる気持ちから来るものなのかは分からなが、真由美はただひたすらに走る。自らの足で高速道路を走る――と意気込んだものの、目指していた背中はわずか数メートル走ったところで呆気なく捕捉。ガードレールに手を付いて、その場に立ち止まっていた。

「し、椎名さんっ!!」

 真由美はあらん限りの力を込めて太一の名を叫んだ。
 この後なにをいわなければならないのか、この後なにを伝えなければならないのか。なに一つとして考えてはいない。それでも真由美は声を掛けなければならない気がした。
 否、声を掛けたいと渇望したのだ。しかし、太一からの返答は――

「あ、あ……? う、うせぇーよ。あっち行ってろ」

 胸を突き刺す悪辣な言葉。それは冷酷で、鋭利で、容赦なく真由美の心を抉る。込み上げる嗚咽、視界を奪う涙。この場で泣き崩れられたらどれほど楽なことか。思うままに泣き、嗚咽に委ねてしまえば、全てを有耶無耶に出来るのではないか。
 だか、真由美はそうしなかった。込み上げる感情を必死に噛み殺し、脳裏を過る甘えた考えを打ち消す。

 ――言葉で伝えたい。胸の奥に渦巻く感情を言葉にして、声に乗せて伝えたい。

 真由美は強く噛み締めた下唇を解放し、胸から押し上がる感情を言葉に変換する。

「き、嫌いにならないでくださいっ!!」

 真由美の口から出たのはそんな言葉だった。酷く的を得ない、自分でもなにが言いたかったのか分からない。
 無論、突然すぎる物言いに太一の理解も追いつかない。
 だが、真由美の目からは迷いは感じられなかった。感じられるのは彼女の迷いなき強さ。自分の思いを真っ直ぐに言葉にできる強い意識。
 真由美の強さは言葉に宿り、太一の胸に波紋を広げる。広がった波紋は心を揺らし、揺れた心は気持ちを押し上げる。
 太一の胸には強い衝動がこみ上げた。
 それすなわち――

「うげぇぇぇぇぇぇっ」

 嘔吐。
 さっきの絶叫走行で太一の肉体は限界を向かえたのだった。
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