エンジェルワーカー~あの世で始めた天使の仕事~

ラジカルちあき

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第一章.死後の世界へ

§2.故郷は駆け足に2

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 胃を圧迫していた不快感は幾分かマシになり、代わりに隙間を埋めたのはなんとも言い難い悲愴感。背中を撫でる温柔な感触は、安堵と憂鬱を同時に植え付ける。今すぐ穴を掘って埋まってしまいたいという欲求に駆られるが、それを実行するための体力がまだ回復しきっていない。
 故に、今は大人しく背中の小さな温もりに縋ることしかできずにいた。せめて、胸でひしめき合う惨めな気持ちを振り払うべく大きく息を吐くと、狭まった視界の端に少女の顔が覗く。

「だ、大丈夫ですか……?」

 真由美の気弱な声が、耳鳴りの甲高い音に混ざって太一の鼓膜を揺らす。
 なにか冗談でもいって彼女の不安を取り払ってやりたいところではあるが、声を作るための息は小刻みに吐き出され、一切の余力が感じられない。改めて満身創痍な自分の体調を痛感しつつ、言葉を発することを諦めた太一は首を小さく縦に振った。

「い、いや、とても大丈夫そうには見えないのですが……」
「そう思うなら最初から聞くんじゃ――ゔ、ゔべぇぇ~っ」

 思わず皮肉を口にする太一だったが、すぐに酸素供給が追いつかなくなり、その代償を嘔吐という形で支払わされてしまう。
 地面に手を突いて蹲り嘔吐く太一の背を、真由美は苦笑しながら優しく摩り続ける。
 太一はそんなやりとりに情けなさを覚えずにはいられなかった。

「車の中よりは外の空気を吸ってた方がいいと思うので、落ち着くまではここでゆっくりしましょうか」

 背を摩る手を緩めることなく、真由美は心配した口調で意見を述べる。

 太一は今、目の前の少女に気を使われている。
 季節は冬。ロケーションは二月の寒空下、高速道路の上。夜を迎えてぐっと落ちた気温は容赦なく体温を奪い取る。
 しきりに込み上げる吐気のせいで太一の身体は熱を持っているが、真由美は違う。急いで太一を追って来たであろう彼女はコートなど羽織っておらず、薄手のレディーススーツだけでこの過酷な環境下に耐えなければならない。
 太一は今、目の前の少女をこの場に縛り付け、忍耐と抱擁を強制している。

 こうなったのも真由美の危険運転が全ての元凶で、それを考えれば当然の報いなのかもしれない。むしろ、車内で吐かれなかっただけ感謝してもらいたい――と自分を称賛する気持ちが存在するのも事実。
 いっそ開き直って強気な態度で応対できれば彼女への迷惑は軽減できるのだろうが、人間誰しも体調不良のときには弱気になってしまうものだ。ましてや、日常的にくよくようじうじ考えてこむ気質の太一には荷が重すぎる。現に、今だって失われた男の子の尊厳についてくよくよと考え込んでしまっている。

(最悪だ最悪だ最悪だっ! よりにもよってトドメの一撃が公開ゲロとか……。ネタとしても超B級じゃねぇか。そのくせして絶対に記憶から消えねぇよ……一生ゲロキャラとかイヤだよ!!)

 路上で寝ているところを発見されるという、一見して不審者とも思える出会いに始まり、情緒不安定なメンヘラっぷりを発揮し、好きな子の名前を呟きながら欲情する性癖を晒し、強制猥褻罪にも等しい勘違いでキスを迫り、あれだけ熱弁した想い人に間接的にフラれるシーンを見られ、挙げ句の果てが振り向きざまの嘔吐だ。もはや太一の男の子ライフはゼロに等しい。
 たった二日でこれだけのことをやってのけた太一はある意味で凄いのだが、大きなリスクを負ったにも関わらず得られたリターンは皆無。ただのクズに成り下がってしまった。
 それでも真由美は優しい言葉を掛けてくれる。寒さに耐えながら、背中を摩ってくれてる。
 何故だろうか。

(もしかして……い、いや、なに考えてんだ、馬鹿か俺は。仕事だからに決まってんだろ)

 太一は頭を過ぎった考えをすぐに打ち消した。
 あれだけの失態を晒し続けたにも関わらず、尚も甘えた、自分に都合の良い状況を思考する己に落胆する。

「馬鹿は死んでも治んねぇか……。うぐっ」

 無意識に思考が声になり、反動で嗚咽が込み上げるが、幸いにして太一の擦り切れた声も嗚咽も車の音に阻まれ真由美には届かなかった。
 しかし、さっき彼女はなんといっただろうか。まさに鬼気迫る状況でなりふり構わず車を飛び出した太一が、不意に振り返ってしまう程の破壊力を秘めていたと記憶している。
 太一の脳内で反響する真由美の言葉。それはなにかを必死に懇願する悲痛の叫びのように思えてならない。
 一度打ち消したはずの思いが再構成されていく。

 分からない。真由美はその小さな胸の中でなにを思い、なにを感じているのか。
 所詮は出会って二日の関係だ。分かるはずもない。もとい、二年近く思い続けた女の子の本心すら見抜けなかった太一には荷が重すぎる。
 そもそも、太一は何故こんなことを考えてしまったのか。
 心で揺らめく確かな感覚。現在進行形で背中を撫でる小さな温もりが、真っ直ぐに胸へと伸びる。
 彼女の優しさに感化されてしまったか。失恋によって、ぽっかり空いた穴を無理やりに埋めようと心が勝手にもがいているのだろうか。自分の心が分からない――自分の心すら分からない。

(嫌いにならないでください、か……そりゃこっちのセリフだよな)

 確かに、真由美が仕出かした失態も数多く存在するが、太一のそれと比べると雲泥の差で、責められることはあっても責めることは出来ない。
 なによりも彼女は失敗だけでなく、同じ分だけの希望を与えてくれた。
 優しい言葉、暖かい抱擁。思わぬアクシデントのせいで有耶無耶になってしまったが、さっきだって大切なことを教えてくれた。

 ――心は死んでない。

 真由美が告げた言葉が脳内で反響する。

 太一はこれから浄土で生きていく。
 新しい環境で、新しい生活。狭い世界で生きてきた太一にとっては想像も出来ないことだ。
 親の助けもなく、頼れる友達もいない。不安だらけの未来。きっと、思い通りにならないことだらけで、胸を痛めることもあるだろうし、臆病者で怠け者の太一の心などすぐに折れてしまうだろう。
 それを思うと、どこかに引きこもってしまいたいという気持ちにもなる。また、唯一の目標だった理恵とのキャンパスライフも不発に終わり、もはや太一には未来に抱く目標などない。それが尚一層、太一の活力を削いでいるのも否定できない。

 それでも、心は生き続ける。どれだけ苦しくても、どれだけ悩ましくても、心はひたすらに生き続けるのだ。

 だったら、笑っていたい――どうせ生き続けるのならば、苦悩に揺れる殻に込もらず、嫌なことから目を逸らしてでも笑っていたい。誰かを傷付けるでもなく、誰かに傷付けられるでもなく、みんなで笑っていたい。
 そんな夢物語だけが、今の太一に残った唯一の望み。
 太一自身、甘えた考えなのは理解できているし、この二日間で現実が思うように進まないことも痛感した。だが、辛い分だけ幸せが来るのなら、藁にもすがりたいと思える。
 そして、それを実現できるのであれば、目先の明日を笑って過ごすための努力くらいならしてみてもいいかな、と思えるのだ。

「我ながらちっさい目標だな」

 太一は苦笑を浮かべ呟いた。依然、声を出した分の酸素不足は吐気となって返ってくる。しかし、今は吐気を噛み殺す。そうしてでも立ち上がりたいと思えたからだ。
 胸中で揺れていた靄は次第にその色を薄め、視界はクリアになっていく。それによって浮き彫りになる気持ち。恐らく、これが悩んでいたものの答えだろう。
 真由美を愛おしく思う気持ち。失態を重ねた自分への憤怒。浮き彫りになった二つの気持ちは、太一の求める答えを示している。

 真由美と一緒にいたい。
 この仕事が終われば、真由美が太一の元を離れて行くのはいうまでもない。太一との接点が仕事である以上は回避できない事実であり、今はそれを受け入れる事しかない。

 ――でも、次に会うときはきっと。

 胸に湧き上がる思いは太一を掻き立てる。今は助けてもらってばかりだが、いずれは彼女の力になりたい。真由美の隣に立てる人間になりたい、と太一は強く思う。
 そのために自分に何が出来るのか、なにをすべきなのか。
 今はまだ分からない。だが、それでも真由美と一緒にいる為なら――笑顔で明日を、彼女と共に過ごせるのならば。

(っと……俺のエンジェルをいつまでもこんなとこに置いとくわけにはいかねぇな!)

 太一は込み上げる嗚咽を噛み殺し、勢いよく立ち上がる。背中を摩る温もりが離れるのに少しの名残惜しさはあるが、これ以上の迷惑は掛けられない。
 自分は強くならなければならないのだから。目指す未来のため、恥の無いように振舞わなければならない。

「あっ、椎名さん?」

 不意に立ち上がった太一に驚き、真由美から心配の声が飛んでくるが、今は優しさは不要。天使の慈愛は至福の雨。太一の心は決心の炎に震え、強く生きるための活力に溢れている。どんな優しい雨でも、今だけはこの炎を消すわけにはいくまい。
 降り掛かる甘えを断腸の想いで断ち切り、太一は力強い眼差しで真由美を見下ろす。天使を見下ろすとはいい度胸だな、という後ろめたさは一旦頭の隅に置いておき、太一は大きく息を吸い込み、思いの丈を声に乗せる。

「ありがとう! 俺はもう大丈夫!! 強く生きる……貴女のために強く生きっ――うぐぇぶほぉっ」

 太一は思いの丈を全て吐き出した。込み上げる思いを包み隠さず、自分の持てるもの全てを。
 そして、文字通り物理的な物までも。

「……」
「……」
「……」
「き、嫌いにならないでください……」

 呆気にとられ言葉を失う真由美に対して、太一の口から出たのはどこかで聞いたような言葉だった。発案者よりも太一の方が言葉の用途をクリアしてはいるが、決してこの場が丸く収まることはない。
 依然として沈黙は続き、車の音だけが二人を包む。数分の停滞の末、真由美からの返答を諦めた太一はゆっくりと現実へ己の双眸を傾けた。
 視界に入り込む物的証拠。一度は太一をときめかせた魅惑の黒いタイトスカートだ。葬儀場では食い入るように見てしまったが、今は目を逸らしたくて仕方がない。

(あぁ……ジーザス。これは夢かい?)

 スカートの中央に残る禍々しいシミ。
 この現状が夢であることを切に願うが、風に乗って流れてくる異臭によって太一の願いはいとも簡単に打ち砕かれる。そして、自分がどういう星の下に生まれたのか、納得するのだった。

「ゔっ……」

 太一が絶望に浸ろうと白目を向いた瞬間、予想だにしなかった唸り声が彼の意識を繋ぎとめる。この場でそんな声を出すのは、ついさっきまで地べたに這い蹲っていた太一だけのはずだが――

「っ!?」

 瞬間、太一の脳に電撃が走った。

「ダメだダメだダメだっ! 真由美ちゃん、それだけは絶対ダメだ! もらいゲロとかマジで! ヒロイン就任早々でゲロイン認定とかダメだ! 絶対堪えろっ、死んでも吐くんじゃねぇ!!」

 太一は音速にも等しい速度で真由美の顔と同じ高さにしゃがみ、もはや勧奨なのか罵倒なのか分からなくなった言葉を打つける。
 一方、真由美の方も口に両手を押し当て、太一の希望に添えられるよう必死に耐えている。
 乾き切った沈黙のせいで全く気付かなかったが、いつの間にか太一を苦しませていた吐気は嘘のように治まっていた。おそらく、さっきの一撃で胃の中に張られていた呪縛が解けたのだろう。
 そして、外に出され悪霊へと姿を変えたそれは、次の憑依先に真由美を選んだ。スカートの生地に巣を作り、そこから風に乗ってチクチクと真由美に侵入したに違いない。

「うぐっ……ぁゔ……」

 涙目で嘔吐く真由美。
 彼女の背中を摩る太一。
 不本意ながら、ここに数分前と真逆の構図が完成されたのだった。

♦︎♦︎♦︎

 太一の介抱もあってか、真由美の吐気はおおよそ三十分ほどで治まった。立派なことに、真由美はあれだけの吐気を全て抑え込んで天使としての座を守り抜いたのだ。
 太一もその精神力には素直に感服。あの凄まじドラテクもそこから来るものだと納得したのだった。

「す、すいませんでした……」

 のそのそと立ち上がり、謝罪を述べる真由美。
 彼女の見せるしょんぼりした表情が太一の心に深く突き刺さる。

「い、いや、いいよ。なんていうか、その……」

 その後の言葉が上手く表現できず、太一は口を噤む。本当は先に謝罪したかった。否、謝罪しなければならなかった。
 しかし、想像を遥かに超える事態が重なり、完全にタイミングを逃してしまったのだ。
 後ろめたさと罪悪感に挟まれて真由美の顔を直視できない太一は、目線を下へと落としていく。そして、目に止まるスカートのシミ。黒地にくっきりと浮かぶじっとりとしたシミは、太一がなにを仕出かしたのかを如実に物語っている。
 真由美が嘔吐いてしまったせいでその場は有耶無耶になったものの、こうして物的証拠が残っている以上は太一に逃げ道はない。たとえ真由美が気にしていなくても、太一自身が己の罪に耐え切れなくのは目に見えている。
 なぜなら、彼女は太一の天使なのだから。

 天使への冒涜は万死に値する。
 もはや一刻の猶予もない。
 今こそ断罪の時だ。

「お、俺の方こそ……ごめん、なさい。その、スカート汚しちゃって……」
「え……?」
「いや、だからスカートを」
「ん? え?」

 噛み合わない会話。やはり、その後の事態のせいで有耶無耶になっていたことを太一は確信。しばらく重苦しい雰囲気が続いていたことから、普段通りのすっとぼけた真由美を見れてほっこりする。
 出来ればこのまま彼女の小動物的な反応に癒されていたい衝動に駆られるが、そういうわけにもいくまい。
 太一の指摘を受けた真由美は、自分のスカートへと視線を落とす。すると、数秒の静止の後にガクガクと震え出した。

「なななななんですかこれっ!?」

 激しく取り乱す真由美。
 太一としても、なんといったものか反応に困ってしまう。まさか『あっ、それ俺の吐瀉物です!』とストレートにいうわけにもいかず、ただただ苦笑を浮かべることしか出来ない。
 とはいえ、この取り乱し方だ。真由美も本心ではシミの正体に気付いているのだろう。その上で生理的に受け付けなかったということになる。

「気持ちは分かるけど、そこまで騒がれると間接的に、お前臭ぇ汚ぇっていわれてるみたいで地味に傷付くよね……」

 苦笑のなか小声でぼやく太一だったが、依然として取り乱し続ける真由美に届くわけもなく、憂鬱な声は宙に舞う。
 そうしている間も真由美の挙動は激しさを増し、彼女の形の良い瞳には大粒の涙が溜まっていく。

「先月買ったばかりなのに……」
「いや、ほんとゴメンって。きっとクリーニング出せば、また驚きの黒さを取り戻すって。あ、クリーニング代は俺出すから……えっと、出世払いで」

 まだ新しかったらしいスーツの無残な姿を嘆く真由美に、励ましの言葉を掛ける太一。だが、まだ浄土への移住を果たしていない彼にとって、責任を取るということが如何に難しいか。それに気付いた太一の発言は、図らずもヒモ発言へと変化してしまう。

「う、うぅ……」

 太一の発言が起爆剤になったかは不明だが、ついに真由美の頬に涙が伝い、その場にしゃがみ込んでしまった。
 泣くほど拒否されているという事実に再び吐気を覚えるが、真由美の力になると誓った手前、己の天使には笑顔でいてもらわねば困る。故に、太一は逃げ出したい衝動をなんとか丸め込み、真由美へ謝罪を続ける。
 何度も声を掛け、泣きじゃくる少女を必死で宥める太一。
 その姿はまるで――

(俺、お兄ちゃんみたい……妹がいたら、こんな感じなのかな?)

 ふと、そんな疑問が太一の脳裏を過った。今の状況にこの疑問はそぐわないものだと分かっていながらも、一度芽吹いた感情はしつこく脳内で反響する。
 疑問を振り払うためにも、泣いてる真由美に声を掛けなければ。そう思えば思うほどに、降って湧いた感情は太一の胸に強く打ち付けるのが感じられた。

「いもうと……い、いやいや、そりゃねーぜ、マイエンジェル」

 先ほど真由美との未来への誓いを立てたばかりなのに、早くも揺らぐ太一の信仰心。自分の意思の弱さに多少の自覚はあるものの、こんなにも早く揺らぐとは思いもしなかっただろう。
 しかし、そうと思えばそうとしか思えなくなるのも椎名太一という男の性質だ。
 そして、この二つが合わさると――

「真由美ちゃん、折り入って相談があります。一分でいいので泣き止んでください」
「ぐっ……ひっぐ……」

 真面目なトーンで語りかける太一の願いが通じたのか、真由美は嗚咽を交えながらではあるが、なんとか落ち着きを取り戻す。
 しゃがみ込んだ姿勢から上目遣いで太一に目をやる真由美。
 そのどこか意地らしい姿に思わずグッとくる太一だったが、今は我慢。もっと優先すべきこのがあるのだ。

「ご協力、感謝いたします。では、早速ではありますが本題に入らせて頂きます」

 急に変貌した太一の業務的且つ威圧的な口調に、圧倒された真由美は緊張の面持ちでコクリと頷く。
 肯定を受け取った太一は不気味な含み笑いをして、真由美の正面へとしゃがみゆっくりと口を開いた。

「お兄ちゃんのバカっ! もう許してあげないっ! っていって」
「へ……?」
「だから……お兄ちゃんのバカっ! もう許してあげないっ! っていって」
「あ、う……は?」

 嗚咽も忘れて、呆気にとられる真由美。その表情だけを見れば、太一に吐瀉部を掛けられたとき以上のものだろう。
 太一とて真由美が困っているのは理解している。だが、この問題だけは心を鬼にしてでも検証する必要があった。故に、太一は絶対に引くつもりはない。

「いってくれなきゃ浄土へは行かない」
「え……? ちょっ、な、なんでっ!?」
「あ、そう。そういう反応しちゃうんだ。ではでは、この話はなかったことに」

 そういって立ち上がった太一は、踵を返し真由美の元から離れていく。無論、彼女を本気で置き去りにするつもりなど更々ないが、素直すぎる真由美は言葉を真に受け、全力で太一を追いかけるだろう。
 予想通り後ろから近付いてくる足音にタイミングを合わせ、太一は華麗にターン。不意に太一と向かい合う状態になった真由美は驚き仰け反るが、その手をガッチリと太一が掴む。

「そうですか! やってくれますか! やはり貴女はわたくしの見込んだ人だ!」
「え? ちょ? え?」
「さぁさぁさぁ、早く! 早く指定のセリフを!」

 有無をいわせぬ太一の勢いに、真由美は再びその場にしゃがませられる。何故こうなったか、なに一つとして把握できていない真由美にとって、太一の心中は全くもって理解できない。
 それでも、一つだけ分かることがある。

(いわなくちゃ終わらないよね……)

 これがこの二日間の経験値から真由美が導き出した答え。浄土へ行く行かないの真意は定かではないが、こうなってしまった太一は長い。なにか機転となるものがあれば動かせるのかもしれないが、高速道路の上では淡い希望だろう。
 ならば、自分が機転になるしかない。太一の希望に添えることこそ、この場を一番早く切り抜けられる唯一の方法なのだ。
 真由美は覚悟を決め、大きく息を吸い込む。脳内で要望のセリフを再生し、絶対に噛まないように唇に刷り込む。
 イメージを喉へ送り、酸素を声へと変換。そして一気に――

「お、お兄ちゃんの……バ、バカ……ぜ、ぜ、絶対に許して……あげ……なぃ……」

 セリフをいい終えた真由美を襲ったのは敗北感。敗因としては、恥らいを捨てきれなかったことだろうか。
 セリフ後半へ行くにつれ声は小さく、滑舌はもごもごと。依頼されたセリフなのに依頼人から目線をずらし、顔を赤らめてしまった。
 太一から送られてくるのは失望の眼差し――ではなかった。

「ゔっ……ぐ、ぐはっ……お、俺が……この俺がっ、まさか……ぐはっ……い、妹萌だった……とは……」

 太一は血の涙を流しながら、その場に倒れた。
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