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第一章.死後の世界へ

§2.故郷は駆け足に3

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 単調に続く高速道路を彩る淡い橙色の街灯。橙色に照らされてゆるりとその姿を露わにした緑の標識は、長く続いた河川敷の終わりを知らせてくれる。この先の出口とジャンクションを示すそれは、現代を生きている人間であれば見慣れた標識だろう。
 なんの変哲もない普通の風景。それは免許を所持していない太一にとっても、日常的ではないにしろ疑念を抱く程のものでもない。
 退屈な風景に暇を持て余す太一だったが、それもすぐに潰えることになる。緑の標識の少し奥、単調だったはずの道路上空が突如として緩い渦を巻き始めたのだ。
 まるで死者二人の接近を歓迎するかのように大気が朧げに歪み、やがて見覚えのある長方形を形成する。

「おぉぉ、お!?」

 突如として起こった超常現象。それはさながら異世界へ繋がる未知なるゲート。
 男の子としてのプライドは崩壊寸前の太一ではあるが、生前では決してお目に掛かれない冒険の予感に心躍らせるのも男の子としては致し方あるまい。
 しかし、太一の期待も虚しく異世界の扉から現れたのはどこか見覚えのある長方形だ。
 いつの間にか揺らめきは収まり、太一達が近付くにつれて謎の長方形は人工的なプレートに変化する。
 緑地に白い文字のプレート。それは数秒前に見たものと激しくリンクし、太一の奮い立った男の子ハートに落胆の雨を降らす。

「なんだよ、あれだけの演出しといてただの標識かよ。ん? でも、あれ?」

 ついつい落胆を声にしてしまった太一だったが、拭いきれない違和感に気付く。
 この至近距離に二つも標識が必要かと問われれば、素直に頷くこともできまい、というちょっと鋭い思考を瞬時に巡らせた自分に満足感を覚える太一だったが、違和感は一向に薄れない。これでは、単に税金の無駄遣いを指摘できた知的な自分アピールをしただけだ。

「あれは霊魂が近付くと姿を表す、浄土の標識です。間もなく浄土へ入りますよ」

 自己満足に浸る太一に掛けられた真由美からの言葉。それによって、太一は違和感の正体に気付く。
 根本的に着目していたポイントが違っていたのだ。声に出して知的アピールしなくてよかった、と安堵する太一は改めて標識に目をやった。
 異空間から現れた標識には『浄土JCT』と印字されており、標識の示すその先のガードレールには黄色の蛍光塗料で車一台分の枠が書かれている。
 つまり――

「あれに飛び込むってこと?」
「はい」
「えっと……九と三/四番線的な?」
「へ?」

 渾身のネタが通じなかったことは悲しいが、問題はそこではない。先刻、激突の危機を脱したばかりだというのに、またしても壁に、それも自ら突っ込まなければならないとは。
 浄土へ行くのも一筋縄ではいかないものだ。そんな諦めの気持ちも多少はあるものの、やはり不安は一向に消えてはくれない。
 というのは建前で、太一にはある狙いがあった。

「一回、ストップしない?」
「どうしてですか?」
「その……お兄ちゃん、怖くなっちゃったから、真由美ちゃんの隣に座りたいなぁ~なんて」
「絶対に嫌です!」

 真由美のいつになく強気な態度に、太一の提案は却下されてしまう。
 それも当然だ。今の真由美は一刻も早く帰りたいのだから。

 太一は今、後部座席に座らされている。というのも、太一が真由美に仕出かしたことが原因なのだから致し方ない。
 太一の妹萌発覚から数分、なんとか我を取り戻した太一と事の状況を全く理解できていない真由美は、微妙な距離感を維持したまま車へと帰還。この時の太一はまだ助手席への乗車が許されていた。しかし、乗車してすぐに悪しき悪魔は二人に牙をむく。
 エンジンが掛けっぱなしになっていた車内は充分に温まっており、長い時間を寒空の下で過ごした二人に至福の空間を与えた。が、至福の空間はその対価にとんでもない魔物を復活させてしまう。
 真由美のスカートに刻印された禍々しいシミだ。
 エアコンと人肌によって温められたそれは、思い出したかのように己の役割を再開。そして、その成果は悪臭となって車内を包み込む。真由美は嘔吐き、太一は罪悪感に押し潰され、移動再開の目処は潰えてしまった。
 とはいえ、このままでは文字通り先に進めないと判断した真由美は、スカートを脱ぐことを決意。太一を車外へと追い出し「絶対にこっち見ないでくださいね!」と念押しをして、臭いの根源であるスカートを朝買ったドーナツの入っていたレジ袋へと封印したのであった。
 しかし、更にここで問題が発生する。

 ――真由美ちゃん、スカート履いてないってよ。

 一応、寒さ対策のために持ち込んだブランケットを腰に巻きつけてはいるものの、本来は衣服の上から身に付けるはずの物がスカートとという媒介を挟まずにダイレクトで掛かっている事態に太一は思わず生唾を呑んだ。
 下着を隠す布が一枚あるという条件は変わっていない筈なのに、布一枚が本来の用途と違うというだけで太一のエロ中坊脳には、なんだか良い匂いがしてきそうな気がする摩訶不思議。必死に彼女は妹だと自分にいい聞かせてはみるものの、碌な異性経験のなかった太一の脳は愛すべき妹すらも異性として認識してしまう。
 そんな太一からのイヤらしい視線に気付いた真由美は、後部座席への乗車をいい渡したのだったが――

「そんな固いこというなってば~。ほらほら、ちゃんと隠れてるんだからいいじゃないの」
「そそそそそういう問題じゃないんですっ!!」

 太一は割り切っていた。自分は妹萌であり、この感情は恋ではない。ただ愛する妹へのコミュニケーション。お茶目な兄からの愛情表現なのだと。
 ならば、この千載一遇の大チャンスをみすみす逃すわけにはいかない。自分には妹の成長を確かめる義務がある。
 そんなわけの分からない義務感に駆られる太一を余所に、車は黄色く縁取られたガードレールへと接近していく。

 間も無く浄土。本当の意味でこの瞬間、太一の人生が終わる。
 ちゃっかり最期は笑顔でいられたことに太一は気付いているのだろうか。そして、このゲートをくぐれば浄土での新しい人生が始まるのだ。

♦︎♦︎♦︎

「ほう、ここが浄土か……って、なんか普通じゃね?」

 ガードレールの先に待っていたのは極々普通の道路。さっきまで走っていた本土の物となんの遜色も見られない。路面はしっかりと整備されており、快適な走行が期待できそうだ。
 とはいえ、太一が思い描いていたものと限りなくかけ離れているのが残念でならない。

「なんかもっとこーさー、カラフルに彩られた四次元空間を通ったり、妖怪が夜店をやっている年がら年中お祭りムードな世界だったりしないの?」
「い、いや、それは漫画の読みすぎじゃないですか?」

 太一は、真由美の秀逸なツッコミに唇を尖らせる。
 その様子をルームミラー越しに確認した真由美は、無意識にぼそりと呟く。

「なんで私、こんな人のことを……」

 先刻まで胸を痛め、挙句に号泣してしまったことを思い出す。それでも、未だに胸中にモヤモヤしたものは存在し、あの時の気持ちがまだ冷めていないことを痛感する。
 そんな真由美のちょっとセンチな空気にものともせず、むしろ空気をぶち壊すのが椎名太一という男だ。

「ん? なんかいった?」
「へっ? あ、い、いえ、なんでもないですっ!」

 自分の失言が本人に届いていたことに驚き、真由美は必死に誤魔化そうと試みる。
 だが、太一の目敏さは折り紙つきだ。

「なになに? こんな人って俺のこと? そうだよね? だって、この場に居ない奴ってんなら、あんな人って表現になるもんね? 」
「ちょ、ちがっ、違いますよ! た、ただのいい間違えですって!」

 太一は無駄に頭の回転が速い。生前はこの回転の速さを武器に数々の恋愛相談役を熟してきたのだ。しかし、命を落としてからというもの意図しない状況が続いてか、自身の持つ本領をいま一つ発揮することができなくて独り思い悩んでいた。
 と、そんな時だ。今、ついに太一は調子を取り戻した。
 想像通りに言葉のピースがはまっていくこの感覚。自分の調子回復を肌で感じ、気分を良くした太一は真由美へとぐいぐい迫る。後部座席から身を乗り出し、まるで目的は他にあるかのように。
 そう、太一の頭は今しがた真由美がいった言葉など全く気にしていない。遥か別のベクトルをひたすら計算しているのだ。

 ――ブランケットの隙間とか見たいじゃん。

 が、そんな太一の思惑はこの場に似つかわしくない電子音によって断ち切られてしまう。

「あ! ちょっと待ってください。携帯が鳴ってますので!」

 そういって、真由美はそそくさと車を路肩に寄せると、助手席に置かれた障害物兼ハンドバッグから携帯電話を取り出した。
 安っぽい着信音を放つ携帯は黒一色で、最低限の機能しか装備されていないだろうチープなデザイン。また、着信を受けた真由美の表情が一瞬で引きつったのを合わせて考えれば、あの携帯が社用なのは容易に想像がつく。
 無駄にキレッキレの推理をする太一を尻目に、真由美は内心ほっとする。
 あのまま追求されていたらどうなったものやら。揚げ足取りが得意な彼のことだから、きっと触れられたくない感情に土足で踏み込んできたに違いない。
 とはいえ、まだ危機を脱したわけではない。
 未だ鳴り続ける携帯のサブディスプレイには『会社』の二文字が表示されている。何故このタイミングで電話が掛かってくるのか。こちらから掛けることはあっても、『会社』から掛かってくることは滅多にない。それこそ、なにかミスでもしない限りは――

「て、定時報告……」

 遅まきながら、がっつりミスをしていたことに気付く真由美。思い当たる節が見つかってしまった分、電話を取ることに恐怖を覚えてしまう。
 かといって、出ないわけにもいくまい。
 真由美は意を決して、着信ボタンを押した。

「お、お疲れ様です。か、香川です」
『お前、今何時だと思ってんだ?』

 いの一番に飛び込んでくる男性の声は、真由美の所属する保安局の局長で間違いない。そして真由美の想像した通り、彼の声には怒気が含まれている。

「す、すいません……定時報告ですよね……?」

 定時報告。
 現場に出ている誘導員は案件の進度や、帰社時刻などを規定の時間に報告しなければならない。それによって局の事務員が明日以降のスケジュールを組み立てるので、厳かにしてはならない業務の一つに当たる。
 本来であれば帰社の目処が立った時点で連絡しなければならないのだが、立て続けに起こったトラブルのせいで今の今まで、電話が鳴った瞬間まで忘れてしまっていた。トラブルの大半は太一のせいなので、真由美に非はないといえばそうなのだが、社会人としてそれは理由にならない。

「ごめんなさい……次からは絶対に忘れないようにしますんで」
『謝罪は後でいい。まずは報告しろ』
「あっ、あぁ、す、すいません……じゃなかった、報告ですよね! は、はい」

 冷たく刺々しい局長の声に一撃で泣きそうになる真由美だったが、なんとか涙をこらえ、今日起こった出来事と案件の結果報告を開始する。

 思えば恐ろしく長い一日だった。
 朝一に太一の家へ赴き、通夜までの長い空き時間で起こったトラブル数知れず。胸を痛めて、大泣きして、最終的には嘔吐寸前まで追いやられる始末。ひとり立ちして初めての案件で、分からないことも、至らないことも沢山あったし、何度も心折れそうになった。でも、諦めず頑張った甲斐あって彼を浄土へと連れてくることが出来た。
 結果が出せたのだ。
 定時報告を進めるにつれ、真由美は自分が案件を成功させたことを実感する。胸に感じる熱い気持ちは、間違いなく達成感だろう。そして、今はこの達成感に、誇らしいこの気持ちに酔いしれたい。
 真由美はそう思った。が――

『お前、対象者と帯同したのか?』

 携帯のスピーカーから返ってきた声は真由美の想像に反したものだった。てっきり新人を労う賛美の言葉が来ると想像していた真由美は、言葉の意味が理解できない。
 そんな真由美の姿を受話器越しに察したのか、局長は溜息を吐き状況の説明を始めた。

『センターの営業時間は何時までだ?』
「えっと……九時までです」
『そう、午後九時までだ。で、今何時だ?』

 電話越しに伝わる局長からの質問。真由美は問いに答えるため、左腕に着けた腕時計で時刻を確認する。

「九時二十分です……へ? く、九時二十分!?」

 真由美は時刻を見て驚愕した。葬儀場を出た時点では、それなりの余裕があったはずだった。
 瞬間、真由美の脳裏を駆け巡る悪しき記憶。

(絶対あれが原因だ……)

 蘇る記憶は高速道路上での不本意な立ち往生。ブランケットスカートなどという、したくもない格好を強いている根源。もとより、任務達成のレールから外れるすれすれではあったものの、本格的に外れ切ったのはあのトラブルのせいだといっても過言ではない。そして、その当事者は悪びれる様子もなく、後部座席からミラー越しに真由美の電話が早く終わらないものかと覗いているのだから憎い。

「ど、どうしたらいいですか……?」

 想定外のイレギュラーに新人である真由美の経験値では対処できない。故に、電話越しに怒りを露わにしている相手に助力を願い出る以外、解決の道は存在しないのだ。

『はぁー……百歩譲って、俺たちが現在進行形で残業している事は許そう』

 深い溜息を混ぜながら、皮肉たっぷりの言葉を掛ける局長。保安局の営業時間も九時までで、彼のいう通り局員が残業している理由が自分にある以上、反論のしようがない。

『まぁ、間違いなく頭の固いお役所様は時間外労働なんてしちゃくれないだろうから、とりあえずこっちに戻って来い』
「で、でも、椎名さんはどうすれば?」
『椎名? あぁ、対象者か。状況が状況で仕方ないし、こっちで面倒見るから一緒に連れて来い』
「きょ、局長ぉ~」

 不意を突いて見せられた局長の優しさに、真由美は思わず泣き崩れそうになってしまう。
 普段は仏頂面と岩のような肉体のが合わさって、とこぞの強面自衛官にしか見えない局長だが、その本質は気の優しい力持ちだ。故に、部下に慕われ、上からも安心して仕事を依頼される。
 これぞ本物の漢。これぞギャップ萌え。
 どこぞの妹萌とかほざいているもやしっ子とは根本からして違うのだ。と、そこまで真由美は思っていないが――

「あ……」

 局長の優しさに触れ、感動のあまり俯く真由美。しかし、その目に映るのは決して忘れてはならない現状。
 今、真由美はスカートを履いていないのだ。

『どうした?』
「い、いえ、あの……その……」

 こんな姿では事務所に戻れない。かといって、また呪いのスカートを履くのも生理的に受け付けない。
 恥を忍んで事務所に戻るか、なんとか理由を付けて直帰するかの二択だ。そして、せっかく局長が気を利かせくれたというのに、真由美の本能は後者を選択した。

「えっと、あの……こ、これ以上みなさんに迷惑を掛けるのも、あ、あれなので……じ、自分でなんとかします!」
『自分でって、お前。対象者はどうすんだ?』
「そ、それもなんとかします! そ、そ、それに……そうだ、し、椎名さんが、なんか、えっと……初めての浄土をもう少し見て回りたいっていっちゃって……んーと、な、なんか断れる雰囲気じゃなくって……だ、だから、直帰させてくださいっ!」

 苦しい言い訳だと分かってはいるものの、背に腹は変えられない。心の中で局長へ何度も謝罪を繰り返し、真由美は局長からの返答を待つ。
 そして――

『わかった』

 局長からの返答は短い一言だった。
 おそらく彼は、真由美の言いを嘘だと見抜いているだろう。だが、それについて追求することなく、真由美がなにか訳ありだということを察してくれた。
 これが人の上に立つ人間の器なのだろう。

「あ、ありがとうございます!」
『ん。明日の朝一で対象者をセンターに連れていけよ。それじゃ、お疲れ様』
「はい! お疲れ様です!」

 真由美は電話越しに深々と頭を下げ、相手側から通話が切れるのを待つ。
 程なくして不通音が鳴り、真由美は顔を上げ、大きく息を吐いた。

「真由美ちゃん、あのさー」

 完全に油断した真由美に掛けられた背後からの声。驚きのあまりに体を仰け反る真由美だったが、そんな動作にお構いなく声の主は言葉を続ける。

「俺、浄土見学したいとか一言もいってないよね?」

 胸に深く突き刺さる辛辣な言葉を受けて、真由美はゆっくりと後ろへ振り返る。
 そして、一言。

「ご、ごめんなさい……」

♦︎♦︎♦︎

「状況は分かった。んで、どうすんのよ? まさか本当に浄土見学するわけじゃないでしょう?」

 真由美から説明を受け、大方の事情を把握した太一は改めて今後のことを問う。
 思えば、浄土へ行って余生を送るといわれただけで、今後の流れについてはよく分かっていない。今の説明の流れで、取り敢えず後生支援センターという所に連れて行かれるのは分かったが、それも明日の朝の話だ。
 まずは今晩をどうするのか。『浄土JCT』を抜けた先の道路に路駐したままの状態から、どこへ行くのかを決めなければならない。

「えっと、椎名さんが本当に見学したいならお連れしますけど……」
「魅力的な提案ではあるけど、真由美ちゃん……なんか嫌そうじゃね?」

 図星を突かれて歪む真由美の表情を見て、太一は自分の失言に気付く。
 誰のせいで、今スカートを履いていないのか。それは他でもない太一自身。
 浄土入りした達成感と、さっきの電話のお陰で幾分か空気は和らいだものの、真由美がスカートを履いていない状況に変わりはない。

「と、とりあえず、着替えに帰る? 後のことはそれから決めればいいよね」
「はい……そうさせて下さい」

 太一の提案に真由美は仄かに頬を染めて頷いた。

♦︎♦︎♦︎

 再び走り出した車は、程なくして長いトンネルへと進入。緩い上り勾配の道を真っ直ぐ進むと、やがて小さなゲートが見えてくる。
 大型車でも楽に通れそうな広い通路の先には黄色と黒が交互に敷かれたバー、通路右手にある簡易的な小屋は守衛小屋かなにかだろうか。
 本土でいうところの料金所のようなそれに向い、車体は減速を開始。先刻の危険運転が嘘だったかのようにゆっくりと、充分な時間を掛けてゲートに接近していく。

「あれが浄土のチェックポイントです」

 謎のゲートを不審に思った太一に気付いたのか、真由美はゲートの正体を教えてくれる。
 だが、それによって新たな疑問が生まれてしまう。

「ん? もう浄土に入ったんじゃなかったの?」
「一応、ここも浄土の領域なんですが……位置付け的には浄土と本土のアクセスポイントといったところですね。なので、椎名さんがこれから生活する世界はあのゲートの向こうになります」
「つまり、この道路にはもう二度と入れないってこと?」
「うーん、浄土誘導員みたいな本土に所縁のある職に就けばまた来れますけど……」

 と、そんなやりとりをしている内にゲートへ到着。車体がゲート内部で完全停止したことを確認した真由美は、運転席側の窓を開けた。
 すると、ゲートに隣接する小屋の窓から警備服に身を包んだ老爺がひょこりと顔を出す。

「お疲れ様です。鳩山本土保安局所属、香川真由美です。ただいま帰還致しました」
「はい、お疲れ様です。えぇーっと、鳩山さんとこの香川さん、香川さんっと……」

 老爺は優しい口調で返事をすると、手元に置いてあるファイルのページをめくりだした。そして、数ページめくったところで鼻にかけた老眼鏡の位置を直し、ファイルをじっくり吟味する。

「あったあった。A案件対応中の香川真由美さん。はい、じゃあ通行証見せてね」
「あ、はい!」

 真由美は運転席上のサンバイザーに挟んだカードを取り出し、窓の外で待つ老爺へと手渡した。
 カードを受け取った老爺は一度小屋へと引っ込み、中にあるカードリーダーにカードを挿入。すると、隣に置かれた小型ディスプレイに真由美の情報が反映され、それを確認した老爺はマウスに手を置き、画面右下映った『戻り』のアイコンをクリックする。

「はい、これで登録完了。お疲れ様でした」
「ありがとうございます」

 笑顔で労いの言葉を掛けてくれる老爺からカードを受け取り、真由美もまた笑顔で礼を述べる。

 密かに真由美はこの瞬間が好きだった。
 通行証を提示して、自分の誘導員としての情報が映し出される。真由美にとって、この瞬間こそ自分が浄土誘導員になったのだと実感できる時間の一つだ。
 局内ではまだまだ新人扱いでも、この老爺はちゃんと自分を誘導員として扱ってくれる。それがなによりも嬉しくて、明日の仕事への活力になるのだ。

「ところで、ブランケットなんてぐるぐる巻きにしてどうしたんだい? そんなに寒かったのかい?」
「へ?」

 ひとり感慨に耽る真由美に掛けられた予想外の一言。真由美の表情が一瞬で凍りつく。
 その様子をルームミラー越しに見ていた太一は、背中に冷たい汗が伝うのを感じた。

 ――やばい。

 太一は本能的に感じた。
 走馬灯のように蘇る超加速と凄まじい遠心力。しきりに押し上げる吐気と口の中に広がる酸っぱい味は記憶に新しい。
 鮮明に覚えているはいるものの、決して良い思い出ではない。出来ることなら、もう二度と味わいたくない感覚だ。

「じぃちゃん、じぃちゃん! ここ抜けたらどこに出るの? 俺、浄土ってのがどういう所なのかよく分かんねぇんだけどけっこう都会なの?」

 ほぼ無意識で後部座席の窓を開き、早口で老爺に言葉をぶつける太一。
 狭い車内と狭い小屋の間で繰り広げられているだけあって、打てる策はそう多くはない。そんな状況下で、咄嗟にここまで行動を起こした太一の危機回避能力は評価に値するだろう。

「んん? 君は……あぁ、対象者の。ということは、案件達成したんだね」

 太一の存在に気付いた老爺は、一度は後部座席へと目を向けてくれたものの、すぐに真由美の方へと目線を戻してしまう。おそらくは、案件を達成した真由美になにか祝いの言葉でも掛けてやろとしたのだろう。
 年寄りの優しさが裏目に出てしまった。

「ちょっ、待って待って!! 俺の質問の答えは?」
「あぁ、ごめんごめん。助手席に乗ってなかったものだから、てっきり未達成かと思っちゃってね。達成者に掛ける言葉はもっと別にあるからねぇ……」
「いやいやいやいや、そうじゃなくって俺の質問だっての!! じぃちゃんまだボケてないよね? 浄土の入口管理してるとか大切な仕事任されてるのにボケてないよね!?」

 どこまでもマイペースな老爺にすっかりペースを乱される太一。しかし、あの惨劇を繰り返えさない為にも、ここは引くわけにはいかない。太一は窓から身を乗り出し、己の存在をアピールする。

「いやぁ、失礼失礼。僕が生きていた頃に中学生の孫娘がいたんだけどね、彼女、ちょうど同い年くらいでねぇ。ついつい肩入れしたくなっちゃうんだよ。といってももう二十年以上前の話になるからねぇ。もう結婚してるかもしれないなぁ。そう思うと、結婚式に行けなかったのがすごく悔しく感じちゃうね」
「ちょぉぉぉ、重いから! 朝飯で家系ラーメン食うより重いから!! しかも、この子中学生じゃないからね!?」

 真由美を妹として見ている太一からすれば共感できる部分も無くはないのだが、やはり初対面の相手――しかも、十代の若僧にしていい話の重さではない。
 根本的にこの老爺が良い人なのは太一も分かっているし、悪気がないのも理解している。しかし、質問の答えが返って来ないというのは頂けない。咄嗟に出た言葉ではあるが、浄土がどんな所なのかは割と気になっていたことだ。それが目に見えて脱線していくさまは、とてもとてもフラストレーションが溜まる。更に、爆発寸前のマッドレーサーを気にしながらとなると、太一に掛かる負担は並大抵のものではない。

「あれはぁ……孫娘が四歳の時だったかな? お隣さんが地域運動会の参加票を持ってきてくれてね、そのとき孫娘が『おじいちゃんいっしょにはしろー』っていうんだよぉ~。それが、もぉ~可愛くて可愛くて……って、あれ? どうしたんだい? 急に元気なくなっちゃったじゃないか」
「はは……もう、疲れたよ……」

 質問だったはずの話題は聞きたくもない孫娘の自慢話へと姿を変え、太一の精神ライフをぐいぐい削っていく。危機を脱するために取ったはずの行動が、まさか更なる危機を招くとは誰が予想できたものか。
 そして――

「もういいや……真由美ちゃん、車出してくれ」

 太一の心は折れた。老爺の無駄に長い話より、肉体に掛かる負担を選んだのだ。
 正面には黄色と黒のバーが道を塞いでいるが、覚醒した真由美ならなんとかしてくれるだろうと考え太一は思考を停止。
 当の真由美も太一の声に小さく頷き、ギアをドライブへと入れる。放心状態にあった彼女に一発で声が通ったことを意外に感じるが、真由美自身この空間に居たくなかったということだろう。

「おや、もう行っちゃうのかい?」

 真由美の動きを目敏く捉えていた老爺からの一言。ひっ捕らえられるのではと一瞬ドキッとする太一だったが、予想に反して正面のバーが持ち上がる。
 太一は意外な展開に思わず老爺の顔色を窺うが、その表情もまた意外。笑顔で太一を見ているではないか。

「話を最後まで聞かなきゃ進めないと思ったかい? 流石に僕もそこまで性悪じゃないよ。それに、君とはまた会えそうな気がするからね」
「え? どういう意味っすか?」
「なぁ~に、すぐに分かるさ」

 そういうと、老爺は太一から目線を外してしまう。
 追求するタイミング逃し、太一は意味深な発言に首をかしげることしか出来なかった。

「それじゃ、香川さんもまたね。これからも仕事頑張るんだよ」
「え、あっ、は、はい!」

 まさか自分にも声を掛けられると思っていなかった真由美は咄嗟の反応が出来ず、老爺はその姿すらも優しい目で見守っている。孫娘大好きだったお爺ちゃんのことだ、きっと心の底から応援しているに違いない。
 真由美は老爺にぺこりとお辞儀をして、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

 優しくて、話し好きな守衛の老爺。面倒な人であったのは否定できないが、ただ単に彼は話し相手を求めていただけではないだろうか。
 関係者を除けば、ほぼ間違いなく人通り皆無の道路。ゆいいつ通る誘導員も業務的に通行証を提示して、すぐに行ってしまうのだろう。
 退屈で寂しい仕事だ。
 もし自分がそんな寂しさを少しでも和らげる役に立てたのなら、この疲れにも意味があったのかもしれない。
 太一は過ぎ去っていく老爺を目で追いながら、そんな事を考えていた。
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