エンジェルワーカー~あの世で始めた天使の仕事~

ラジカルちあき

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第一章.死後の世界へ

§3.住めば都の新世界2

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 テーブルに置かれた二つのカップ。湯煙の昇るそれは、入れられてまだ新しいことが分かる。
 太一がぼんやりと対角線上に並ぶカップを眺めていると、奥に置かれた方を細っそりとした腕が掴む。腕の持ち主――春香は緩やかにカップを口元へ運び、上品に音を立てずカップの中身を一口すする。
 その一連の動作は随分と絵になることだ。
 太一はいつしか自分の目線がカップから、それを持つ春香に釘付けになっていたのに気が付いた。

(うっ……いかんいかん。これ以上脱線しちゃダメだ)

 太一は頭の中で自分に強くいい聞かせる。そして、湧き上がる邪念を少しでも上書きするために、自分のカップへと手を伸ばし口元へと運んだ。
 持ち上げた途端に香るほろ苦い香りはコーヒーのものだろう。欲を言えば砂糖とミルクを入れたいところではあるが、春香がブラックのまま飲んだことを考えるとどうも気が進まない。テーブル中央に置かれたシュガーバスケットがこの上なく遠く感じてしまう。
 太一は苦さを覚悟し、ブラックコーヒーを流し込む。

「熱っ!」

 覚悟していた苦味を凌駕する痛み。普通に考えれば、あれだけ湯気を立てているのだからこうなることは一目瞭然。太一は改めて自分が冷静ではなかったことを痛感する。
 ともあれ、反射的にコーヒーを吐き出さなかったところは評価したい。もし正面に座っているのが真由美だったのなら、きっと彼女に向かって口の中身をブチまけていただろう。
 そうならなかったのは偏に太一の精神力そのもの。春香の醸し出す辛辣な空気に無意識で身構えていたのだ。
 結果的に舌を火傷してしまったが、不幸中の幸いで空気がこれ以上に重くなることは防げた。
 はずなのだが――

「あっははぁ~、大成功ぉ~!」
「は、は?」

 またも春香の変化は太一の予想に反したものだった。まったく状況を把握できていない太一は、唖然とするしかできない。何故こうなったか、どうして春香は爆笑しているのか、なに一つとして太一には理解が及ばない。
 そんな太一の姿に春香はすっかりご機嫌な様子だ。

「まさか、こんな見事に引っかかってくれるとはね」
「引っかか……ん、え?」
「いやぁね、椎名くんのコーヒーだけ尋常じゃなく熱くしといたのよん」

 満面の笑みでネタばらしをする春香。その笑顔は彼女が年上だということを忘れさせるほどに無邪気で、可憐なものだった。
 が、やってることは物凄く馬鹿げている。
 太一は一瞬『この笑顔を見るために俺は舌を焼いたんだ』と納得しかけてしまったが、冷静に考えてみればただのタチの悪い嫌がらせだ。そこに美女を笑顔にするため、などという涙なしでは語れないエピソードは存在しない。
 下手すると、真由美ペナルティ口論の報復とすら考えられる。確かにあの件については太一に非がある故、この場は反論すべきところではないのだが。

「でもね、流石にバレるかなぁ~って心配だったのよ? だってあからさまに君のコーヒーだけ湯気が尋常じゃなかったもの。こりゃヤバいかもって思ったけど、でも……ぷぷっ。椎名くんって本当詰めが甘いのね。だから死んじゃうのよ」
「ちょぉぉぉっ、言い過ぎだってばぁ!!」

 太一が目指した大人な対処は一撃でへし折れてしまう。
 声を荒げる太一を満足気に眺める春香。すっかりペースは春香に戻ってしまった。おそらく春香はこの展開までを予想していたのだろう。

「それじゃ、説明に戻りましょうか。誰かさんのせいで、もう三十分も押しちゃってるんだから」
「後半はあからさまにあんたのせいだからね!?」

 悪態つく太一を軽く無視して、春香はテーブル隅に放置されていたクリアファイルから新しい書類を取り出す。春香はそれを自分の前に起くと、すぐさま内容の確認を始める。
 太一の位置からだと逆さ向きに加え、春香の影が被ってしまい詳しい内容までは確認できない。しかし、右上に自分の写真が貼られているのを考えれば、太一のカルテかなにかなのは理解できる。
 浄土初上陸の人間の写真をどうやって手に入れたのか気になるところだが、きっと聞いても教えてはくれまい。
 所々で垣間見える浄土の闇に不安を感じつつも、太一は春香の言葉を待つ。

「うーん。椎名くんは学生だよね?」
「え? あ、はい。一応、高三です」

 これまでで一番まともな質問に太一は心の中で安堵した。やっと説明が再開されたと判断し、太一は気を引き締める。
 ここでしっかりと浄土への理解を深めておけば、明日からの生活が多少は楽になるはず。全く無知な世界で生きるために情報は多いに越したことはない。

「じゃあ、受験生よね? どっか大学受けてた? それとも就職組?」
「ゔっ……い、一応は大学志望でしたけど……」

 当然の質問といえば当然なのだが、太一にとってこの話題は最も触れて欲しくない話題だ。もしあそこで結果が違えば、未来はもう少し明るかったのではないか。そんな無い物ねだりな欲求に駆られてしまう。
 しかし、この場では太一の気持ちなど関係ない。すっかり再開された説明においてこの話題が出たということは、間違いなく必要な問いであり、当然のごとく話は続く。

「結果はもう出たの?」
「い、言わなきゃダメですか……?」

 太一の歯切れの悪い返事に、春香はこくりと頷く。春香の形相は真剣そのもの。
 本当に表情豊かな人だ。それだけ親身になって接してくれているということだろうか。
 浄土で出会う人出会う人――といってもまだ片手で数えられるくらいではあるが、それぞれ形は違えどみんな真っ直ぐに接してくれた。そんな人々に太一の心は動かされ、この世界で少しだけ頑張ってみたいと思えるようになった。
 本土でのことは既に過去のこと。ならば、いつまでも拘っていてはなるまい。正式に今日から浄土に移住する今こそ、今だからこそ過去に折り合いをつけるチャンスなのだ。
 太一は胸に手を当て、志望校で起きた惨劇を思い起こす。そして、ゆっくりとあの時のことを声に乗せる。

「ふ、不合格でした……」
「もしかして自殺!?」
「んなわけあるかっ!!」

 太一の決心に間髪入れず降りかかる春香の言葉。さらに太一も自分で作り上げたシリアスムードをかち割り、ほぼ条件反射でツッコミを入れてしまう。
 これには春香も流石に悪いと思ったのか、右手を髪の毛に突っ込んで苦笑する。

「いやぁ~ごめんごめん。自殺だと支援内容が変わっちゃうからつい、ね」
「まったく……さっきから俺のことイジメすぎっすよ」

 実際はどこか思い詰めた太一を和らげようという春香なりの気遣いであり、先の熱湯コーヒーも真由美の件で生まれた気まずさを取り払うためのちょっとした悪戯だった。無論、太一が春香の心中に気付くことはない。
 というよりも、春香のあまりに自然すぎる表情からそれを察することは並みの人間ではほぼ不可能。ふざけているように見られがちだが、春香の行動には全て意味がある。
 人の負担を軽減し、心の不安を取り除く。これこそがポスチュマスカウンセラーなのだ。

「はいはぁ~い。それじゃ次の質問ね」

 ぱちんっと手を叩き、春香はふて腐れる太一の注意を促す。
 音につられた太一は、俯いていた顔を持ち上げる。あれだけぐだぐだしていた雰囲気が、春香の手拍子の一つで格段に良くなってしまうのだから不思議なものだ。

「椎名くんは、浄土でなにがしたい? もう一回大学目指すなら、浪人支援制度とかあるけれど」
「あ、えっと……」

 太一は即座に答えることが出来なかった。
 浄土でちょっと本気出す、とは言ったものの、そういえば具体的になにをするかを決めていない。
 年齢的に考えれば大学受験を希望するのがモアベターな流れだろうが、本土の受験に失敗した太一にとって大学受験とはまさにトラウマ。染み付いた負のイメージのせいで、大学生の自分を想像することがどうしても出来ない。それ以前に、大学を目指していた理由が理由なだけに、進学してなにを学びたいのかという明確なプランが浮かばない。つまりは、また勉強に励むためのモチベーションが上がらないのだ。
 浄土で頑張るという目標を掲げながらも、自分の頑張るべき舞台は受験じゃない――などとクズ一直線な思考で言い逃れする太一なのであった。

「就職を希望します……」
「ほう。そりゃまたなんで? まだ若いんだし大学行っといた方がいいと思うんだけどなぁ?」

 春香はどこぞの世話焼きババァさながらのセリフを吐く。太一とて春香の言いは分かるし、浪人支援なるものがある以上はそれが最も合理的であることも理解できる。
 しかし、やる気が出ない以上はなにをやっても結果は出ない、とやる気があっても結果の出ない太一は考える。

「い、いや、あれっすよ……えっと……そうだ、今の俺は働きたい欲求がぱないっていうか! そう、それ!!」
「ふーん」

 春香にジト目で見つめられ、太一の背中に冷や汗が浮かぶ。完全に受験から逃げたことがバレているのだろう。これ以上の口論、もとい大学受験の押し売りをされては逃げ場を失ってしまうと判断した太一は、引きつった笑みを浮かべて会話からの離脱を試みる。
 逃げ腰の太一を見て、春香は別の切り口から攻めようと判断。別に大学へ行くことが全てではないが、碌な夢もない若人を放置できるほど浄土は慈善事業ではないのだ。

「じゃあ、なにかやりたい仕事とかあるんだ?」
「や、やりたい仕事?」
「そ。あるでしょ? 椎名くんの働きたい欲求を駆り立てるすご~い仕事が」

 太一の表情が苦笑のまま硬直する。まさか苦し紛れの言い訳がここまで掘り下げられるとは思わなんだ。
 当然、大学の志望動機すら考えられない太一に将来の明確なプランなど有りはしない。せいぜい、考えられるのは小学生並みの夢作文レベルのものだ。

 ――ミュージシャン、F-1レーサー、サッカー選手、消防隊員。
 ミュージシャン、合唱コンクールで女子に『椎名くんは口パクしてて』と言われた。F-1レーサー、真由美の運転に嘔吐してしまう。サッカー選手、オフサイドの意味すら知らない。消防隊員、そもそも訓練に耐えられる根性がない。

 太一の脳内を駆け巡る夢作文。同時に、適性を見極める大人の頭脳。ほろ苦い記憶を交え、太一は巡る思考を適性判断する。
 だが、どれも自分に適性がないことが一秒で分かってしまい、なに一つとして身を結ばない。
 太一はあらためて自分の無力さを痛感。やがて思考は深みにはまり、自分は社会不適合者なのではないかとすら思えてくる始末。

 ――無力な人間になにができる。不器用な人間になにができるという。

 と、そのとき脳裏を過る少女の顔。太一が知る中でもっとも不器用な人であり、だがそれに甘んずることなく無力を覆した少女。
 浄土誘導員の香川真由美だ。

 真由美は不器用で、なにをやっても裏目に出てしまう残念な人間だが、彼女が太一に与えてくれたものは数え切れない。
 故に、太一は思う。
 今度は情けない姿ではなく、頼りになる姿で彼女と再開したい。真由美と並び立ちたい。
 確かに、太一と真由美とでは仕事への熱意、思い入れは比べ物にならないだろう。所詮、太一は真由美に感化されたに過ぎないのだから。
 この感情は一過性のもので一週間も経てば消えてしまう感情かもしれないが、それでも太一には真由美から教わったことをこのまま思い出にしていいとも思えなかった。
 だから、太一は胸を張って自分のやりたい仕事を言う。

「俺、浄土誘導員になりたいです」

 正直なところ、真由美と同じ職に就きたいという気持ちが優っている。性懲りもなく、また誰かの後を追いかけて自分の未来を決めているのだから、つくづく太一という人間は面白味の欠片もない。
 たが、今の太一に嘘や迷いは存在しないのもまた事実。即断即決、誰かのために働く仕事を誰かのために始めたっていいじゃないか。

「はぁ……君に務まるの?」

 太一の真面目な回答を聞いた春香の反応は意外なものだった。春香は顔をしかめ、怪訝そうに太一を見る。
 てっきり応援してくれるものだと考えていた太一は呆気にとられてしまった。それでも、このまま黙っていたら今の決意が全てを消えてしまいそうな気がして、太一は無理やり言葉を紡ぐ。

「え……? あ、あ、はい! できますとも、務まりますとも! だって俺、高校で恋愛相談師として超人気だったんですよ? 人の気持ちを応援するのは得意ですから!」
「さっきも言ったけど、優しいだけじゃ浄土誘導員は務まらないのよ」

 テンション高めの言葉で自分の士気を上げに入ったものの、それも春香の一言で即座に潰えてしまう。今度こそ太一の心は揺らぎ、自己アピール用に準備してあった言葉は全て胸中で消滅する。

「結構いるのよ、最初の面談で誘導員やりたいっていう人。ほら、死んで最初に出会うのって誘導員じゃない? それでもって、とっても親身に接してくれる。そりゃもう、感化されて憧れちゃうわよね」
「ちが、そ、そんな俺は……」

 自分は他人とは違う、などと本当に言えるのだろうか。太一は反論の言葉を無意識に飲み込んだ。押し返された言葉は口内で分解され、やがてただの空気となって吐き出される。
 太一は言葉にならない空気を何度も吐き出し、その度に下唇を強く噛み付けて悔しさに耐えることしかできなかった。

「いい? 誘導員はいっときの気の迷いで続けられるほど楽な仕事じゃないの」

 春香は太一の目を覗き込んで言う。その表情はとても悲しげで、酷く痛切だ。なにか一つきっかけがあれば泣き出しても可笑しくはない。
 どうしてそんな顔をするのか。自分はただやりたいことを言っただけなのに。
 太一の疑問は尽きない。そして、湧き上がる疑問は取り乱した感情を急速に冷却する。

「……誘導員となんかあったんすか?」

 震えていたはずの喉はいつの間にか平然を取り戻し、何事もなかったかのようにいつも通りの声を吐き出す。
 今、春香が見せている表情が本心なのか演技なのか、太一には判断できない。だが、もしもこれが太一を踏み留まらせるための演技だとしても、太一は聞かずにいられなかった。

「なに? まゆちゃんのこともそうやって口説いたの?」
「は?」

 春香の唐突すぎる切り返しに、せっかく冷静に戻りかけていた太一の思考は再び停滞。太一は言葉の意味を全く理解できなかった。
 固まる太一を尻目に、春香は瞬時に表情を変換する。出来るだけ意地の悪い表情に、出来るだけ性格の悪い言葉を乗せて。

「わかるよ、わかるわかる。まゆちゃんならこの程度でグラっと来ちゃうよね。でも残念でした~。お姉さんはそんなにチョロくありません。そもそも無職に興味はありませぇ~ん」

 相変わらず太一には春香がなにを言っているか理解できないが、そこにさっきまでの悲痛な表情をした女性は存在しない。
 そこにあるのは、下手くそな作り笑顔をする女性だけ。酷く歪で、さっきまで完璧な笑顔を見せつけていた彼女からは想像できないほどだった。

「あえて突っ込んでは聞かないっすけど、その顔やめた方がいいと思います。その……あんま可愛くないっすよ」
「っ!?」

 春香は思わず息を飲む。
 あらゆるパターンに対応出来るよう、あらゆるパターンの返答を用意していたつもりだった。しかし、太一から掛けられた言葉はそのどれにも当てはまらず、春香の完璧な仮面にヒビを入れる。

 ――その顔やめた方がいいぞ。全然可愛くない。

 脳内で反響する凛とした声は春香の記憶を強く刺激する。
 春香にとって浄土誘導員は単なる業務請負人ではない。心の深い部分に直結し、暗闇に眠る本当の自分と密接に関わる強いファクター。決して対象者に見せてはならない弱き自分なのだ。
 気をつけていたはずなのに、つい感情的になってしまった。そのことに気付いた春香は、早々に対策、仮面を被ったつもりだった。だが、この少年はそれを見抜き、春香の本心がここに無いことを分かっていて、あえて触れてこない。
 掌で転がしていたはずの少年に指先を噛み付かれてしまった。

 ――少しこの少年を舐めすぎたか。

 春香はカウンセラーとして作り上げてきた虚勢が崩れていくのを感じていた。
 カウンセラーといえども所詮は人間だ。そこには少なからず個人の価値観が影響する。また、一切の人間味を感じさせない作られた感情で応対するというのも春香の美学には削ぐわない。
 かといって、これから長期で担当する相手に自分の心に渦巻く闇を包み隠さず吐露するのはプロとして許されることではないだろう。
 故に、春香は適度な虚勢と適度な本心で業務を熟してきた。

 確かに、今までも春香の本心を見抜いた人間はいたし、新人だった頃は真っ直ぐに意見をぶつけすぎたが故に対象者に無駄な詮索を許したことも多い。
 だが、この少年はどういうわけか、春香の油断から生まれた隙を、理想の未来に反対意見をぶつける口うるさい女を黙らせるチャンスをみすみす棒に振ったのだ。そして、代わりに吐き出されたセリフはなんの脈絡もない、なんの利益も生まないような言葉だった。
 声色から判断するに、なにかの後ろ暗い狙いがあるとは感じられない。それどころか、湧き出る好奇心を抑えつけているようにさえ感じられる。

 素直に聞いてくれればいいのに。そうすれば、いくらでもあしらってやれたのに。
 腑に落ちない感覚が心をかき乱し、刺激された心は苛立ちを駆り立てる。また仮面を被り直せば済むことなのだろうが、正面に座る少年の真っ直ぐな表情を見ているとどうしてか表情がうまく作れない。

 ――話したい。自分がなぜ浄土誘導員になることを否定するのか。

 いつしか春香の胸にはそんな感情が芽生えていた。
 のだが――

「あれれぇ~、おかしいぞぉ? もしかしてグラっと来ちゃった感じ?」
「あ〝?」

 葛藤する春香に太一からなんともすっとぼけた声が掛かる。
 胸中で相見える二つの感情は未だ結論を出していないが、そこに新しく浮かび上がる感情が二つの存在意義を有耶無耶にしてしまう。新たに誕生した第三勢力。春香にはそれがなんなのか手に取るように分かる。
 それすなわち、怒りだ。

「君ねぇ……あんまり大人をからかわないでくれる?」
「大人……そういえば、中村さんって何歳なんですか?」

 春香の怒気も虚しく、太一はまともに取り合わない。
 完璧なる攻守逆転。数分前に自分がやっていたことと全く同じことを目の前の少年にされている。そう考えると、春香の怒りは増幅され、頭に血が上ってしまう。冷静さを失えば相手の思う壺だと分かっているものの、今の春香は限りなく自然に近い。偽りの仮面にヒビが入ってしまい、上手く表情が作れないのだ。
 故に、春香は素直に自分の敗北を認めざるを得なかった。

「はぁ……今年で二十七歳よ」

 額に手を当てながら、ため息交じりに答える。
 こういうときはなにをやってもダメだ。素直に相手の要望をクリアしていくのが一番の解決策。面倒だが、太一の気の済むまで彼の攻撃に打たれてやるしかない。
 冷静さを欠いた状態で下手に仕掛ければ足元をすくわれ兼ねないし、この少年はそれが出来るだけの性格の悪さを備えているだろう。

「おうふっ! 意外、それはアラサー!」

 予想を裏切る春香の実年齢に、太一もついつい本音が漏れてしまう。愛嬌のある顔立ちと、素材を活かしたナチュラルメイクを見るに、新卒採用くらいの年齢を想像していたのだが。
 ともあれ、太一の反応は女性に対してしていいものではない。

「君、私のこと馬鹿にしてるの?」
「そんなことない、全然ない! ことごとく婚期を逃すおつぼねクソババァだなんて思っちゃいねぇぜ!」
「殺すわよ?」
「あ、ボクちょっとトイレ」

 流れるような攻防を熟し、太一は席を立つ。本当にトイレへ行くつもりがないのは言うまでもない。
 とはいえ、一旦この場から離席するつもりなのは本心だ。太一は椅子を離れ、去り際に春香の顔を見て一言。

「そっちの顔の方が自然で可愛いっすよ」
「えっ?」

 ――本当に食えない少年だ
 春香は太一の顔を唖然と見つめ、そんなことを思った。そして、さっきまで葛藤していた二つの感情が合わさり、一つの答えを導き出す。

「なんだろ……似てないけど、似てるのよね……」

 かつて憧れたあの人に、目標だったあの人に。
 太一の言葉は、春香の心に潜む闇へとすんなり辿り着き、溶けていく。黒一色だった闇がほんのりと灰色へ変わった気がするのは、気のせいだろうか。

♦︎♦︎♦︎

 太一が回帰窓口へと戻ってきたのは、離席から五分後。
 霊体が催すのかは定かではないが、今までのことを考えるに、トイレへ入った瞬間押し寄せてくる可能性が高い。と、そんなことを考えていると本当にトイレへ行きたくなってくるのだから霊体のイメージとは優れたものだ。
 太一は行くつもりのなかったトイレへと駆け込み、すっきりした面持ちで窓口へと戻ってきたのだった。
 すっきりした表情の人間は太一だけではない。
 変わらずカウンターに座る春香もすっかり元通りの表情で、それに加えて最初は見られなかった不思議な感覚が彼女の中にあるのを太一は感じていた。

「おかえりなさい。ちゃんと手は洗った?」
「そら、もちろんですよ! ここの石鹸って泡で出てくるから、テンション上がって四回くらいシャバシャバしちゃいました!!」

 笑顔で迎えてくれる春香に、太一もまた笑顔で応える。なんの当たり障りもない光景に違いないのだが、どこか違和感を覚えてしまう。
 太一は春香の心の奥深くを知らない。春香がなにを思い、どういった気持ちで自分に相対していたのか。
 故に、違和感が無くなったことに違和感を感じているのだとは気付けなかった。

「えっと……就職の件なんですけど、やっぱ浄土誘導員しか思いつかないんすよ」

 トイレへ行きながら、太一は自分がなにをしたいのかを考えていた。
 誘導員と密接に関わる支援センターの職員があれだけ感情的になるのだから、安易に出来る仕事ではないのは理解できる。しかし、浄土へ来たばかりの明日をも知れぬ身。なにかしらの進路がなければ流石に危機感を抱いてしまう。
 本土では親という強力な後ろ盾があったがために好き放題腐っていけたのだが、これからはそうはいくまい。いつまでもあると思うな親と金という言葉の通り、この二つを同時に失ったのだ。

「うーん、とりあえず保留にしない? やっぱり反対したい気持ちは変わらないのよね」
「い、いや、それじゃ明日から不安と虚無感に押し潰されちゃいますって」

 保留など以ての外。今すぐ答えが欲しい。
 生前、碌な目標もなかった太一が短期間ででここまで自立するのだから、やはり頼れるものがなにもない環境というのは人を強くする。

「とりあえず、支援金もあるからしばらくは暮らせると思うわ。それに他にも仕事はいっぱいあるし、ゆっくり……はしてられないか。とにかく、生活支援の対象になってるうちは職探しに明け暮れてもいいと思うの」

 強くなった太一の耳に響く心地の良い単語。それは太一の感覚を全て引き込み、心の誓いを一瞬で無効にしてしまう。

「支援金!?」

 想像以上の食いつきで肉薄する太一を、春香は軽やかに回避。そのままの流れで、隅に放置されていた資料の束から一枚の用紙を抜き取り太一へと提示する。
 スルーされてしまった太一は椅子に座り直し、春香から差し出された用紙を素直に受け取った。

「大事な項目だからちゃんと聞いてね。横槍はなしよ?」

 太一はこくりと頷き、資料に目を落とす。それを合図に、春香はペン立てから取った蛍光マーカーでラインを入れながら説明していく。

 浄土に移住してから半年間は生活支援を受けることが可能である。
 具体的には、浄土管理住宅の提供と最低限の生活費の保障。
 家賃、光熱費は対象期間内であれば一切発生しないという。また、生活費に関しては、一律で毎月八万円が支払われる。
 なにかをするには少し不安な額ではあるが、家賃や光熱費が発生しないところを考えると妥当なところか。足りない部分は自分でアルバイトなりなんなりをして補えば充分に暮らしていけるだろう。

 春香はマーカーのキャプを閉めて、一通りの説明が終わったことを告げる。
 しかし、太一は蛍光ラインだらけになった資料をいつまでも感慨深げに読み返しているではないか。

「ふむふむ、ふむふむ……あ、やっぱ一旦保留でいいっすか?」

 思いの外に充実したサポート体制に、太一の不安は消滅していた。やはり、クズはどこまでいってもクズということなのだろう。

「そう? なら、これと……一応、これもあげるから、次のカウンセリングまでに考えてきてね」

 速攻で心変わりする太一に物ともせず、春香は新しい資料を提示。誘導員になることへの拒否反応はあっても、対クズスルースキルはちゃんと持ち合わせているようだ。

 春香から渡されたのは、求人誌と資格マニュアル。求人誌の方は、名前の通りで求人広告が所狭しと掲載されている。
 明日から、これを参考に職を探せということだろう。

「つっても、『こんにちワーク・首都圏版』って名前のせいでやる気を削がれるな……」
「うん……それは私もずっと思ってる」

 珍しく二人の意見が合致し、両者共に苦笑する。
 太一は妙な気まずさに耐え兼ねて、なにも言わず冊子を閉じてしまった。パロディーと文字遊びのセンスの無さを哀れに思う気持ちを一旦追いやり、太一はもう一方の資料に手を掛ける。

「これは?」
「名前の通り、浄土の資格一覧よ。本土と共通のものも多いから、そういうのあったら言ってね。こっちでも再発行できるから。あ、経歴の詐称とか考えちゃダメよ? センターのネットワーク通したら、すぐバレるからね」

 バレたらどうなるか気になるところではあるが、それを聞くにはまだ浄土のことを知らなさすぎる。もとい、太一には聞かなければよかったような回答が来たときに対処できる自信がなかった。
 支援金なんて素晴らしい制度のある浄土の恐ろしい部分に触れる勇気が持てなかったのだ。
 ともあれ、太一は資格などなにも持っていない。せいぜい文化祭の振替休日に取得した原付バイクの免許くらいだ。
 世の中が資格持ちを優遇するのは知っているし、資格があればこそ出来る仕事も多く存在する。しかし、知ってて尚も太一は資格取得を頑なに拒んだ。
 理由は単純に面倒くさいから。貴重な休日を資格の勉強、資格試験で潰されるなど言語道断。休日は休むためのものである。これが太一の掲げたマニフェストだ。当然、担任教師も頭を悩ませたのはまた別の話。
 そんな太一を見越して春香はこの資料を渡したのかといえば、そうではない。

「あ、このページね。誘導員に必要な資格」

 太一は春香の言葉を聞いて、顔を引き釣らせた。誘導員に資格が必要だとは思わなんだ。
 春香は一度しまった蛍光マーカーを再び取り出して、開いたページに丸を付けていく。最終的に付いた丸は全部で三つ。霊体交渉師、本土入場許可書、普通運転免許の三つである。
 運転免許はともかくとして、残りの二つは浄土のオリジナルだろう。つまりは、生前の知識は全く意味を成さない。完全にゼロから勉強せねばならないということになる。
 反対の意思を見せながらも教えてくれる春香に感謝の気持ちはあるものの、これは少し残酷だ。

「こ、こんなに必要なんすか……?」
「そうよ」
「真由美ちゃんも、これ全部もってるんですか?」
「そうよ」

 誘導員に必要な資格の多さと、あの真由美が持っているという事実に太一は白目を向いてしまう。真由美でも出来たのだから自分も、とならない辺りが実に太一らしい。
 そんなショックを受ける太一をスルーし、春香はパチンと手を叩いて空気を転換する。

「ま、次のカウンセリングまでによ~く考えてみてね」

 春香の浮かべるニヒルな笑みを見て太一は気付く。この情報を提示してくれたのは善意でもなんでもない。太一の心を砕くためだったということに。
 全てを悟ったところで心は全く晴れないが、太一は他にも気になる単語をキャッチ。敗北寸前の夢を一旦忘れ、次の話題に移ることにした。

「さっきからちょいちょい出てる、次のカウンセリングってのはなんですか?」
「ん? そのままの意味よ。浄土に来てしばらくはカウンセリングを受けてもらうの」

 本土で真由美が言っていた通り、死がもたらすショックは大きい。本人は毅然としていても、ふとした瞬間に死亡時の記憶がフラッシュバックすることも少なくはない。そして、蘇った記憶は人の精神を蝕み、酷い場合だとそのまま廃人になってしまうケースもあるという。
 太一も本土で何度か頭の中に黒い影が過ったことを思い出す。あれが死亡時の記憶だというのなら、なるほど確かに恐ろしい。
 衝突をきっかけに蘇るのだとしたら、未然に防ぐのは相当に気を張っていないと不可能だろう。普通に暮らしていれば、なにかとぶつかることなど充分にあり得ることだ。

「安心して。そのためのカウンセリングなんだから」

 恐怖に支配される思考を、春香の優しい声が包み込む。顔を見てみると、これもまた優しい。これならば、安心して自分を任せられる。
 太一はそう思った。

「基本は月一回。でも、フラッシュバックのタイミングは人それぞれだから、もし不安なことがあったらセンターに電話して予約状況の確認してね」
「ゔっ……な、なんかいきなり業務的っすね……」
「うん。だって仕事だもん。あ、そうそう電話で思い出した!」

 太一の不満に取り合わず、春香は強制的に話を進めてしまう。
 突如、ベストのポケットに手を突っ込み、中から黒い物を取り出す。そして、それを太一の正面へ置き、にっこりと笑う。

「な、なんすかこれ?」
「なにって、携帯よ。無くちゃ色々と困るでしょ?」

 春香は首を傾げて、太一を見る。太一がなにに引っかかっているのか分からないのだろうか。
 確かに彼女の言う通り、これは携帯電話で間違いない。が、太一が想像しているものと大きく異なっている。
 黒一色のボディに申し訳程度の液晶画面。ボタンは爪で押さなければ指がはみ出してしまいそうなほど小さく、ボディ右上にちょこんと伸びるアンテナは時代を感じさせる。
 おおよそ太一の知る携帯電話から何年も遡った代物だ。辛うじて携帯電話として認識はできるが、素直に受け入れるのとはまた別問題。

「俺の知ってる携帯電話と違う! 携帯ってのはもっとスマートでふぉんふぉんしてるもんだよね?」
「す、すま……ふぉんふぉん?」

 春香はより一層首を傾けてしまう。この反応を見るに、どうやら本当に知らないらしい。年上のお姉さんに知識で勝ったのは少しだけ嬉しいが、携帯社会に生きてきた太一にとってこれは死活問題だ。
 太一は持ち得る知識をフル動員して、春香へ現代の携帯電話の説明を開始する。

「へぇ~、本土では今そんなのが流行ってるんだ。ちょっと信じられないかも」

 一頻り説明を終えはしたものの、春香の反応は芳しくない。
 こと丁寧に説明しただけあって、この反応が与える太一への精神攻撃はかなりの力を発揮する。単に春香が世間知らずというわけではなく、おそらく浄土には太一の想像する物が存在していないと考えるのが自然だろう。

「期待に添えられなくてごめんね。でも、今後こういうこと結構あると思うよ」
「へ?」
「基本的に浄土の物は本土の物をモデルにしているから、どうしても遅れが生じちゃうのよ」

 丁寧な説明のお礼にと言わんばかりに、春香も丁寧に浄土の現状を説明してくれる。

「つまりね――」

 浄土には海外貿易という概念がなく、最低限の交流――国外で亡くなった日本人、国内で亡くなった外国人の霊魂の引き渡しのみに限られているという。
 故に、基本的な技術は本土のものを参考にしている。数ヶ月に一度『技術調査』なるものが開催され、組合の職員同伴の元、各企業の技術者が実際に本土へと降り、本土の技術を見て回っているそうだ。
 真由美の言っていた本土へ降りられる例外というのは、おそらくこれのことだろう。
 ともあれ、数ヶ月に一度、それも半日足らずの視察で全てを盗めるほど現代の技術は安易なものではない。説明を聞いた太一が、亡くなった天才技術者の開発無双ストーリーを想像したのは言うまでもないが、そもそも年単位で遅れを取っている浄土には彼らの妄想を実現できるほど生産ラインが充実していない。
 どんな天才でも自分の夢を実現するためにチクチクと下準備から始め、そうしている間にも本土では新しい技術が開発されていく。このいたちごっここそが、浄土が遅れている最大の理由なのだ。

「まぁ、こっちの暮らしに慣れてくれば気にならないとは思うわよ」

 春香は軽い口調で説明を締めくくる。
 しかし、浄土へ来て二日目の太一としてはやはり煮え切らなさが否めない。一度甘い汁を吸ってしまった人間が早々に順応できるはずもなく、太一は浄土への不信感を募らせていく。

「そもそも、なんで海外貿易しないんすか? 海外と切磋琢磨してこその成長でしょーが!」

 海外版浄土という存在が有ることは今の説明から読み取ることができた。ならば、なぜ貿易しないのかと太一は思ってしまう。
 外国が有るのならばそれに頼ればいいのだ。そうすれば単純な技術の交換だけではなく、部品の海外発注や国外工場の設立で現在よりも遥かに生産ラインを充実させられる。それだけではない、外国との交流を深めれば、食糧事情や経済状況も飛躍的に変わっていくはずだ。
 十代の小僧ですら考え付くことを、なぜ浄土は実行しないのか。
 太一にはそれがどうしても理解できなかった。

「うーん。単刀直入に言うと、必要がないのよね」

 春香のストレートな言いに、太一は思わずたじろいでしまう。必要がないとは一体どういうことなのか。
 ただただ不信感を募らせる太一に再び春香は説明を開始する。

「確かに、海外から入ってくる技術は国を飛躍的に変えるものだとは思うわ。私だって昔は本土で暮らしてたんだもん、それくらいは分かってる」
「分かってるなら――」
「言っとくけど、私に言っても意味ないわよ? だって私、外交官とかじゃないもの」

 途中で言葉を遮られはしたものの、春香の言いは全くの正論。太一もそのことに気付き、バツの悪さを覚えてしまう。
 だが、春香はそんなこと一切気にせずに次の言葉を紡ぐ。

「海外と交流があると、今の浄土にとってはデメリットの方が多いのよ」

 具体的なデメリットとは、ずばり経済状況だと春香は言う。
 浄土の行っている後生支援システムが、恐ろしいほどに充実しているのは太一も理解している。それは偏に、国内でかなり自由に貨幣を管理できているからに他ならない。
 海外との兼ね合いのない浄土だからこそ、貨幣の流通バランスを浄土に暮らす人が不自由しないレベルまで引き上げることが出来るのだ。
 また、食糧事情の方も国内で完結できている。
 浄土に暮らす人間は、本土の一/四程度。対して、家畜はほぼ百パーセント霊泉を残したまま食肉へと姿を変える。つまりは、仕入れ価格ゼロ円で浄土へと食材が上がってくるのだ。この比重をもってすれば、浄土の民が食に困ることなどありえない。

「うっわ……なんか生々しいっすね……聞かなきゃよかった」
「こらこら、そんなこと言わないの。いくら本土から上がってくるっていっても、ちゃんと畜産家もいれば、彼らだって心を傷めたりもしてるんだからね」

 親子のようなやり取りになってしまったが、これだけ説得力のある説明をされてしまえばなにも言い返せまい。太一の顔色から反論がないことを悟った春香は、改めて話題を戻す。

「だいぶ逸れちゃったけど、浄土がどんな所か分かったでしょ? だから、携帯も我慢してね。一応、基本料金は組合が負担してくれるんだし」

 ふて腐れる太一に、春香は可愛らしいウィンクをして説明を締める。
 春香が言っていた通り、無料で貸与してくれるのだから贅沢は言えない。太一は無理やり折り合いをつけ、必死で大人になろうと頑張るのだが――

「あ、あれ? 今なんって言いました? 基本料金って……ん? 基本料金のみ……はっ!?」

 太一の研ぎ澄まされた脳細胞は、今しがた春香の言った言葉を冷静に解読していく。そして、ある仮説に辿り着いたのとほぼ同時に両手が与えられた携帯電話を掴む。
 力強く握り締めたのとは裏腹、太一の指は繊細な動作で携帯の操作ボタンを速やかにプッシュ。ワイドディスプレイの携帯しか操作したことがない太一だが、そこは流石の現代っ子。近代化が進むにつれその精密さを深めていった携帯を操作できる太一にとってすれば、過去の産物を弄るのなど容易いことなのだ。
 そんな背景もあり、操作を始めてものの数秒で太一の仮説は現実へと変わる。

「って、これプリペイドじゃないっすか!?」

 プリペイド式携帯電話。
 それすなわち、あらかじめ料金を前払いしておき、支払った額までしか使用できない代物だ。主に子供の使い過ぎを防いだり、相手からの着信待ち用として使われることが多い。
 そして、一番の利点はというと――

「これ基本料金とかないでしょうがっ!?」
「ありゃりゃ、バレたか」

 なんとも悪びれない返事をする春香。相変わらずしれっと大切な部分をボカすところは気を張っていないと流してしまいそうだ。
 太一のけち臭い性格がなければ今頃は笑顔で携帯電話を受け取っていただろう。

「ちょぉぉ! 詐欺でしょこれ? どう見ても詐欺でしょうが!? だいたい、いまどき小学生でもプリペイドとか使ってないよ? みんな颯爽とイヤフォンぶっ挿して、音楽聴きながらノリノリでふぉんふぉんですよ!?」
「あぁぁ、うるさいうるさい。端末タダで貰えるんだからいいじゃない? 君、器小さすぎ」
「いやいやいやいや、器関係ないって!」

 太一の抗議も虚しく、全て春香に軽くあしらわれてしまう。
 ついさっきまで、完全に場の空気は太一に傾いていたはずなのに、もはやその痕跡すら残っていない。途中で離席したことが影響しているのだとしたら、あの時の自分はなんと浅はかなのか。太一は自分の軽率な行動を呪った。

「はいはい。気に入らないんだったら使わないでいいから、次の話題いくわよ?」

 みっともなく食い下がってくる太一を手慣れた様子でスルーし、春香は一気に話題を変える。
 未だ納得できていない太一だったが、要るか要らないかの究極の二択で迫られれば、それは要ると答えてしまう。ヴィジュアルが古臭くて、スタイリッシュの欠片もないし、そもそも課金しないと使えやしないが、それでも無いよりはマシだ。
 どちらにしても、振り込まれる支援金から支払うことには違いないのだし、考え方を変えてみれば確かにセンターが負担してくれているとも言えなくもない。
 太一は強引な理論で自分を納得させ、春香の問いに頷いた。

「うんうん。そうやって最初から素直にしてればもっと優しく接してあげるのに。もしかして、お姉さんにイジメられたかったり?」
「次の話題いくんでしょっ!?」

 太一も大概ではないが、春香も一言多いタイプだ。お互いが突っ込めるタイプだったからこそ、今の対話は成り立っているのかもしれない。

「とりあえず、椎名くんはどの辺に住みたい?」
「い、いや、ちょっと話がぶっ飛びすぎてなに言ってんのか分かんないんすけど……」
「バカねぇ! 今日から住む家に決まってるじゃない」

 話題は一転。回帰登録に於いて一番大切な話へと移る。
 完全に春香のペースに翻弄されていた太一は、今の自分が宿無しだということをすっかり忘れていた。

 先の説明にもあった通りで、支援期間中は住宅の手配も組合が行ってくれる。無論、組合管理の物件に限ったものではあるが、その件数はそう少なくはない。ある程度であれば、対象者の要望に応えられるだけのレパートリーは用意されているのだ。
 故に、住居決定前にこうして希望の地域や部屋の間取りなどを擦り合わせ、対象者が初日から有意義な生活を送れるよう計らっている。

「家、家、家……」

 カウンセラーが不動産屋まで熟すオーバーワークっぷりになんとも形容し難い感情が込み上げてくるが、太一はそれを押さえ込み必死に頭を働かせる。
 憧れの一人暮らしとはいったものの、未経験者の太一にとっては漠然としか想像ができない。所詮は、テレビで特集されていた『住みたい街ランキング』の知識がいいとこだ。

「渋谷、池袋、中野、吉祥寺!!」

 これが太一の限界だった。
 当然、春香もこの馬鹿げた回答には呆れてものも言えない。
 一人暮らし経験がないことは一目瞭然なのだが、流石に酷すぎる。これでは地方暮らしの田舎者と同レベルではないか。確かに、管理物件の中には当てはまるものも有るにはあるが、人に手配してもらう物件でそんな人気の街に住もうなど甘えが過ぎる。特に、好立地の物件は本土で一定水準以上の暮らしをしている人間のために空けておきたい。
 それを、ただのうのうと暮らしてきた高校生に貸し渡すなど言語道断。まずは自分の身の丈に合った所からスタートするべきなのだ。

「生前に住んでた街に近い方が色々便利じゃない? 土地勘もあるし」
「嫌です! 絶対に東京がいいです」

 気を利かせた春香の提案も虚しく、太一は首を縦には振らない。
 これぞ都県境に住む人間の性だ。
 東京に隣接する地域に暮らした太一にとって都会への憧れは人一倍強い。降って湧いた移住のチャンスを逃すなど誰ができたものか。
 一方の春香は、なんとして太一を郊外に住まうよう説得したいところだ。
 しかし、そこはこの世間知らずの少年。おそらく二十三区外の知識などからっけつ。話に出た吉祥寺すら二十三区内だと思ってる節も充分にあり得る。
 春香の長いカウンセラー経験から考えるに、この手の阿呆には口でいくら言っても無意味。まずは、現実を教えてやることが最も効果的なのだ。

「わかったわ。その条件だと、一番リアルなのは中野か吉祥寺かしら。どっちがいいとかある?」

 春香の返答を聞いて、太一の表情が一気に明るくなる。長年の憧れだった東京暮らしがついに実現するのだ。

「うーむ……じゃあ、中野で!」

 太一は元気よく春香の問いに答えた。住みたい町ランキング一位をあえて外してくるところがなんとも太一らしい。
 そんな太一の様子に満足した春香は不敵な笑みを浮かべ立ち上がる。

「よし。それじゃ行くわよ」
「は? 行くってどこに?」
「決まってるじゃない、物件を見に行くのよ」

 春香を取り巻く空気が変わったことに気付かず、太一は春香に促され支援センターを後にするのだった。
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