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第一章.死後の世界へ
§3.住めば都の新世界3
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春香によって半ば強引に社用車へと詰め込まれた太一は、有無も言えぬまま支援センターを後にする。
どこかよそよそしい彼女の態度に若干の不信感は抱くものの、迫り来る憧れの暮らしを思うと春香の態度などほんの些細なものだ。元より、希望した地の物件を紹介してもらえるのだから、太一に否定の色はない。
希望に胸膨らませる太一と、なにやら不敵な笑みを浮かべる春香は、目的の物件へと向かう。
窓の外を流れていく景色はどこか記憶しているものと違う。建物の佇まいが違うのか、それとも環境を取り巻く空気自体が違うのか。具体的になにがとは言えないものの、全てが似ていて異なる。
昨日、支援センターへと向かうときは夜だったせいか然程気にはならなかったが、こうして日中にゆるりと眺めてみると妙な違和感に苛まれてしまう。
まるでパラレルワールドだ。
(ん? あの看板って……)
太一は視界に流れ込んできた看板を見て、心中で疑問を思い浮かべる。
グリーンの縁取りにポップな女性のイラストが添えられた小洒落た看板。違和感だらけの街並みで異様な存在感を放つそれは、今までの中途半端なパロディーと違い、太一の記憶の中に存在するものと瓜二つ。間違いなく本土で大人気だったあの喫茶店と一致する。
しかし、あの店舗の大元は海外から進出してきたものであり、海外貿易のない浄土には出店のルートが存在しないはずだ。
ついさっき習ったばかりの内容がいきなり矛盾点にぶち当たり、太一の思考は一気に迷宮へと吸い込まれていく。
「あのお店、ここ二年くらいで急激に広まったのよ」
トリップする太一の思考を引き止めるが如く、運転席に座る春香が声を掛けた。内心をぴたりと言い当てられたのは驚くべきことだが、太一の疑問を解決するには至らない。
腑に落ちない表情をする太一の願いが叶ったのか、タイミングよく信号が赤に変わり、同時に春香は笑顔で太一へと目線を向ける。
「なんでも、本土の店舗で働いてた人が不慮の事故で亡くなって、生前の知識を元に浄土で設立したんだって」
「おぉっ! バリスタ俺tueeee!!」
太一の想像通り、やはり生前の知識を用いてチートしている人間は存在した。春香から説明を受けたときは絶望的かと思ったものの、なにもITだけが無双の舞台ではない。外食系でも充分に太刀打ちできるのだ。
こうなってくると無双の幅はかなり広がる。
単刀直入にいえば、この喫茶店は本土の丸パクリであることは否定できまい。つまり、本土に対象を絞った盗作行為であれば違法ではないと考えられる。
音楽、漫画、イラスト。いくら浄土が遅れているといっても、印刷やCDプレスの技術までが普及していないとは考え難い。ならば本土の芸術作品を丸パクリしてしまえば——
「なんかすごく悪い顔してるわよ?」
「ひぇっ!?」
図星を突かれた太一は、背中に冷や汗が伝うを感じた。所詮、クズの考えることなど春香にはお見通しということだ。
若人よ、真面目に生きなさい。春香の視線がそう言ったように感じたが、これまたタイミングよく信号が青に変わってしまい、春香は顔を正面に戻してしまった。
「まぁ時間も時間だし、ちょうどいいからここでお昼摂ってから行きましょ」
春香は刺々しかった雰囲気を綺麗に切り替え、弾んだ声で太一を昼に誘う。といっても、喋り終わる前にウィンカーの音が聞こえたことを考えると、太一に拒否権はなさそうだ。
太一としては一刻も早く目的地に到着したいのだが。
「ちょちょちょっ! 俺、早く物件見に行きたいんですけど」
「うー、いいじゃないー。だって、ここのコーヒーの注文ってよく分かんないんだもん。ついでに教えてよ」
「絶対、そっちが本命でしょうが! いっとくけど、俺もあんまり詳しくないならね! どっちかっていうと、大学の講義とかでドヤ顔で机に緑のカップ置くやつとか大っ嫌いだからね!!」
激情に身を任せ、ついつい自分が大学生になれなかった皮肉を口にしてしまう。それがきっかけとなり、古傷が開いてしまった太一は少しセンチな気分に早変わり。
結局それ以上の反論も出来ずに、二人の乗る車は人気の喫茶店へと入っていった。
♦♦♦
店内を満たすコーヒーのほろ苦い香りは心を落ち着かせ、人の集中力を研ぎ澄ます。木目を基調とした内装はシンプルにまとまっており、落ち着ける空間を演出する。
学生だらけの賑やかな空間をイメージしていた太一だったが、とんだ見当外れ。周りの客を見ても、想像していたより一回り以上は目上の人間が大半を占めており、皆騒ぐどころか静かにコーヒーをすすっている。
なにより太一が驚いたのは、この店舗には喫煙席が存在することだ。
テラスに喫煙スペースを設けてる店舗があるのは知っているが、基本は店内全面禁煙。コーヒーの魅力を発揮するため、というのが本土での常識である。故に、煙草の苦手な人や法的に吸えない未成年も気兼ねなく入れるお店ということで人気を集めていた。
「つまりは、ターゲット層が本土とは違うってことか。それとも、設立者がヘビースモーカーの独裁者だったとか……」
「お次お待ちのお客様、どうぞ」
太一が感慨に耽っていると、カウンターの奥から、控えめで柔らかい声が掛けられる。オフィスの受付嬢さながらに静かで、それでいてよく通る声だ。メインターゲットが大人なだけあって、接客もそういった方面にしているのだろうか。
ともあれ、本土の接客も浄土の接客も高いクオリティを誇っているのには変わりない。これも人気の理由のひとつなのだろう。
「あ、あの……」
「ちょっと、なにしてるのよ。店員さん困ってるじゃないの」
カウンター手前で難しい顔をしたまま動かない太一に、女性店員は図らずも困惑してしまう。不穏な空気の漂うカウンターに自然と他の客の視線も集まり、女性店員は更に困惑する。どんなにパーフェクトな接客をしたとしても、基本お客様第一の客商売では店員に非があるように見えてしまうのだ。
そんな女性店員を不憫に思ったのか、すかさず春香がカットイン。太一の脇腹に軽いエルボーをお見舞いする。
「ぐおっ……あ、えっと……ちょっと、現代知識無双の先駆者がどうやって浄土民のハートを掴んだかの研究をと思って」
「あっそ」
この喫茶店が太一に与えた衝撃は相当に大きいものだったのだが、浄土に長く暮らす春香には当然の如く伝わらない。太一の阿呆な思考に呆れ返った春香は、夢見るクズを迷いなく抜かしてカウンターへと進む。
そしてカウンターに立つ女性店員は、やっと状況が打開されたことに安堵し、深々と頭を下げた。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
「えっと、エスプレッソ……じゃなくて、えっと……ちょっと、椎名くん」
つい、いつも通りに飲み慣れたものを頼みそうになる春香だったが、間一髪のところで思い留まる。
この情緒不安定な少年を社会復帰させるためには、自分が社会に必要な人間であること、不器用な自分でも人の役に立つことが出来ることを分からせる必要がある。ならば、この機会に自分の浅い知識でも、春香のような美しい女性を喜ばせることが出来るという快感を教えてやろう。
という建前を考え、春香は太一に尋ねる。
「これなに?」
「ん? え、えっと……あー、ぱ、パスタの名前かなんかじゃないっすか? ペペロンチーノ的なやつ」
「へぇー! 美味しいのかしら?」
春香のミスとしては太一を買いかぶり過ぎたことだろう。太一は入店前に自分がこの店に詳しくないことを暴露していたのだが、それでも春香は自分の考えを優先してしまった。
若者だから流行のものに詳しい、特に本土発の喫茶店とならば尚更のことだ。そんな間違った見解を疑わないことこそ、着々と老けていっているなによりの証拠だろう。
とはいえ、両者共に真実を知らない。ならば、誰かがこの歪んだやり取りに制裁を加えなければなるまい。
「こちらは、氷でよく冷やしたコーヒーをベースにミルクやクリーム、あとはお客様のお好みのものをシェイクする、当店一番人気の飲み物になっております」
「「……」」
二人の不毛なやり取りに終止符を打ったのは、カウンターに立つ女性店員。こと丁寧な商品説明を受け、太一と春香は言葉を失ってしまった。
そして、一足先にショックから立ち直った春香はギロリと隣に立つ太一を睨みつける。
「君のせいで恥ずかし思いしたじゃない」
「いやいやいや、前もって詳しくないって言いましたよね? つーか、ここの客層見る限りは、そんなに若々しくないからね? どっちかっていうと、俺より中村さんのがこの場にマッチしてるからね!?」
「なによ、私が年寄りだって言いたいわけ?」
ヒートアップする二人に、もはや女性店員はたじたじだ。善意で説明しただけなのに場の空気が悪化してしまうなど、いくらエリート接客者でも予想できまい。
しかし、自分はこの場を預かる時間帯責任者。この程度のトラブルで怯んでいてはリーダーの名に恥じる。女性店員は意を決して口を開いた。
「あ、あの……ご注文は……?」
瞬間、沈黙が店内を支配する。目の前で相見えていたはずの二人は、それが嘘のように口を閉ざしてしまった。
現実から切り離された空間。永遠にも思える無音。女性店員が自分は判断を間違ったのかと自信を無くしかけたそのとき、状況が動く。
「え、エスプレッソ一つ……」
「きゃ、キャラメルマキアートをお願いします……」
引きつった表情のまま二人の客はカウンターへと顔を向け、そう言った。時は動き出したものの、依然として気まずい空気は健在だ。
だが、まだ店員としての務めは果たせていない。
「ご、ご一緒にお食事は……いかがですか?」
「そ、そうね……私はこのベーグルを貰おうかしら?」
「お連れ様は……?」
女性店員はたどたどしい注文をする春香のから目線を外すと、その矛先を太一へと移した。
うっかり目を合わせてしまった太一は、気まずさからかすぐに目線をずらしてしまう。それを目敏く捉えていた春香は、再び太一の脇腹にエルボーを決める。
「ほら、君はどうするのよ?」
「い、いや、そういえば、俺ってば無一文だし……あ、店員さんやっぱしキャラメルマキアートなしで」
「そんなの分かってるわよ! しょうがないから私がご馳走してあげるって言ってるの。あ、店員さんキャラメルマキアートありで大丈夫よ!」
「まじっすかっ!?」
春香の気遣いにテンションが上がる太一だったが、冷静に考えれば浄土に来てから女性にご馳走してもらってばかりで、完全にヒモルート一直線だ。このままでは本当のクズになってしまう。
故に、太一は心の中で『絶対にいつか返す』などというヒモ特有のなんの信憑性もない誓いを立てるのだった。
「じゃーあー……この、ベーコンとチーズのデニッシュパイを一つ!」
開き直って微妙に単価の高そうな物を頼む太一。
それを見た女性店員は、やっと注文がまとまったことに安堵したのか笑顔を浮かべるとレジ操作を開始する。きっとこの笑顔は営業スマイルではなく、降って湧いた修羅場から無事に生還できた安堵の笑顔だろう。
「こちら四点のお買い上げで、二千四百十円になります」
軽いタッチでレジを操り、女性店員はディスプレイに映る合計金額を口にする。
店員の言葉に従い春香は鞄から財布を取り出すと、なんの躊躇いもなく一万円札をカウンターへと置いた。
財布からポンと万札が出てくることに対して驚く気持ちもあるが、それは単に春香が働く独身女性が故だろう。彼女の経済状況や婚期の話をしだしたらリアルに殺されてしまいそうなので割愛するが、太一としてはそれ以上にもっと気になることが存在する。
(なんか、気持ち高くね?)
本土の知識しかない太一にとって、この価格は心なしか少し高い気がしてならない。確かに本土の物も決して安かったわけではないが、それでも学生が定期的に来店できる程度はリーズナブルだったはずだ。
浄土の景気が良い分こういった価格が釣り上がっているのか、単にターゲット層が高めに設定されている故なのか。もしも後者だとしたら、ぼったくりもいいところだ。
おそらく商品クオリティは本土と同等か、はたまたそれ以下か。基本的に本土のものをモデルにしている以上、多少の劣化は否めないだろう。それで本家より値段が高いなど——
「まぁ、おごりだし関係ないんだけどねぇ」
「なにを考えてたかは知らないけど、おごる気なくすからそういう発言はやめてくれるかな?」
「うっ、すいません……」
などというやり取りをしているうちに注文した品がサイドカウンターに置かれ、太一は自分の失言を有耶無耶にするチャンスだと思いトレーへと逃げていく。
それを見た春香も、呆れ顔で自分のトレーを取りに行くのだった。
「んじゃ、席はそこね」
「はい」
太一は春香の指示に従い、指定された窓側の禁煙席に腰掛ける。喫煙席に通されたらどうしようかと思ったものの、どうやら無用な心配だったようだ。
特段、煙草の臭いが苦手というわけではないが、やはり春香が喫煙者だったら少なからずのショックは受けてしまう。性格は置いておくとしても、どちらかというと幼い印象を受ける彼女に煙草など不似合い。やはり、春香はフローラルにいて欲しいのだ。
「なに? 大好きなお姉ちゃんが喫煙者じゃなくってよかったって思ってるでしょ?」
「い、いや、八割方は合ってますけど、大好きなお姉ちゃんとまでは思ってないですよ」
余計な単語が混ざってはいるものの、驚くべき洞察力で太一の思考を言い当てる春香。相変わらず、太一の浅い思考など簡単に見透せるということだろうか。
「つれないなぁ。私は君を出来の悪いものすごぉーく手のかかる面倒な弟だと思って接してるのに」
「俺の評価低すぎないっ!?」
親身になって接してくれるのは嬉しいが、流石にこの評価は心外だ。おおよそ、太一を頼りにこの喫茶店のノウハウを得ようとしていた人間がいう言葉ではない。
万が一、ちゃんとレクチャー出来ていたのならこの評価は変わったのだろうか。そんな無い物ねだりな思考に駆られる太一を他所に、春香は得意の話題転換で一気に空気を作り変えてしまう。
「ほら、先に食べていいわよ。私はちょっと電話してから食べるから」
まるで姉のような口調で言葉を掛ける春香。
ご馳走してもらった手前、春香が手を付けるまでは口にせず、少しでも大人っぽいところをアピールしたかったのだが、あくまでも春香は太一を弟のようにしか見てくれない。
それでも太一はキャラメルマキアートが冷めるのも厭わず我慢するのだが、春香は太一から携帯電話へと目線を移してしまった。
「あ、もしもし、中村です——どうもご無沙汰しております——ええ、先ほどファックスしました入居者です——はい、いま坂上の喫茶店ですので、一時間後くらいにはお伺いできると思いますので——ええ、よろしくお願いします」
先に食べててと言われはしたものの、太一は電話越しに笑顔を振りまく春香に見惚れてしまっていた。
声高らかなそれを見るに、目上の人と応対しているのが想像できる。
初めて聞く春香の敬語はとてもフランクなもので、それでいて相手に不快感を与えない。そういえば自分への応対は全てタメ口だったものの、一切の不快感を抱かなかったことに太一は気付いた。きっと、この綺麗な声色と人懐っこい口調が人の心を惹きつけるのだろう。
「なぁ~に? じろじろ見ちゃって」
「い、いや、なんでもないっす」
通話を終えた春香はニヤついた表情で、太一に目線を向ける。こういったところが無ければもっと好感を持てるのだが。
と、そんな太一の余計なお世話はさておき、話は本題に戻る。否、戻さなければネチネチと心中を掻き回されてしまう。
「そ、そだ! 今の電話なんだったんですか?」
「んー。なんかすごく失礼なこと考えられてた気がするけど……まぁ、いいわ。今から行く物件の管理人の在宅確認してたのよ。」
当然といえば当然なのだが、組合管理の物件にも管理人は存在する。
浄土へ来たばかりの人間を即入居させるためにあるこの物件は、いつでも入居者を迎えられるよう常日頃から現場で実務を熟す人間が配置されているのだ。また、管理人というだけあって入居者の情報管理、更には実生活のサポートまで手広く行っているという。
流石は支援組合。ポスチュマスカウンセラーに負けず劣らずのオーバーワークっぷりだ。
「へぇー。でも、在宅確認って随分念入りっすね? 事前に行くことファックスしてたんでしょ?」
「あら? 女性の通話盗み聞きなんて随分と目敏いのね」
「そんなに俺を変態にしたいんですかっ!?」
もはや恒例になりつつある春香の切り返しに、律儀に突っ込む太一。予想通りの反応を見せる太一に春香はケラケラと笑う。
とはいえ、春香も遊ぶだけ遊んで疑問を放置するほど無責任ではない。一頻り満足したら、目の前でふて腐れている少年の疑問に答えてやるだけの器量は備えているのだ。
「まぁ、念のためよ。もしかしたら出掛けちゃってるかもしれないし」
「出掛けるって……就業中に? 管理人ってそんなフリーダムな仕事なんですか?」
あらかじめファックスで訪問を報せてあったにも関わらず、外出の可能性が危惧される。また、その事実が黙認されている。
管理人とは、なんと素晴らしい仕事なのだろう。
ついさっき唯一描いた夢の世知辛さを思い知り、支援金生活を余儀なくされた太一にとってはこれほど魅力的な仕事はない。ニート生活待った無しの太一に新たな光が差し込んだのだ。
「真理亜さんの名誉のためには言っておくけど、別にサボってるわけじゃないのよ。管理人は住み込みの仕事だから、どうしても仕事の合間合間に買い物行ったりして私生活と両立しなきゃいけないのよ」
太一が管理人という職務を舐め腐っているのを見抜いたのか、春香から少し強めの口調で注意が飛んでくる。
が、太一にとってこれほどの朗報はない。
確かに、各部屋をいつでも人が住めるよう維持するのは大変かもしれない。他にも、入居者の管理というのがどの程度の仕事量なのかはわからない。しかし、それでも住居付き、中抜け自由というアドバンテージはでかい。
太一の中で管理人という職種への憧れがみるみると大きくなっていくのだが——
「そんなことより真理亜さんってのは、これから行く物件の管理人ですよねっ!?」
春香の説明に紛れていた聞きなれない名前。その美しい響きは太一の心に差し込む濁った光をいとも簡単に切り裂き、圧倒的な存在感を持って思考を掌握する。
名前からして女性の名前であることは間違いない。しかし、数多く存在する名前の中から選び抜かれたそれは、なんとも秀逸な選択と言っていいだろう。
「え? そ、そうだけど……」
突如、血相を変えて肉薄する太一に春香はまともな反応が取れずに、身を後方へと仰け反り緊急回避するのが精一杯。普段なら軽口の一つでも叩くところなのだろうが、太一が醸し出す禍々しい雰囲気に圧倒され、らしくもない素直な返事をしてしまった。
いったいなにが彼をここまだ駆り立てているというのか、春香には理解できなかった。
当の太一はというと、春香の肯定の言葉にオーバーアクションなガッツポーズ。完全に自分の世界へと突入してしまう。
管理人が女性というだけでも、なんだかラブコメ漫画のようなシチュエーションなのに、よもや管理人が聖母だったとは。
浄土という名の異世界に突如放り出された太一にとって、どれだけ支援制度が充実してようとも不安は拭い去れない。やはり、人の不安は人にしか取り除けないのだろうか。
真由美との再会はまだ遠い。春香はどこかドライでプライベートでの接触は期待できない。だが、そこに突如として現れた聖なる光。太一の不安を拭い去れるかもしれない存在が目前に迫っているのだ。
「こうしちゃいらんねぇ」
太一は未だ手を付けずにいたデニッシュパイを口に詰め込み、少しぬるくなったキャラメルマキアートで一気に喉へと流し込む。こんな食べ方をしてしまい、ご馳走してくれた春香に対して申し訳ない気持ちはあるが、今は止むを得まい。早く聖母に会いたいという気持ちは誰にも止められないのだ。
「ごちそうさまでした! さっ、早く出発しましょ!!」
「い、いや、私まだ食べてないから」
テンションだだ上がりの太一にストップを掛けるかの如く、春香は自分の皿を指差す。
太一が春香の示す先へと目線を落とすと、そこには全く手の付けられていないベーグルが残っているではないか。
「なにちんたらやってるんですか!! 早く食べてくださいよ! ファイトファイト、ハルちゃんなら一口でいけるっしょ?」
「……」
身勝手すぎる態度の太一に呆れて言葉を失う春香。しかし、黙っている春香に御構い無しで、太一からは謎のエールが送られ続ける。
春香は深い溜息を吐くと、ゆっくり皿へと手を伸ばすのだった。
♦♦♦
太一の気持ちはここ数ヶ月で一番の盛り上がりを見せている。
考えてみればここ数ヶ月まったく楽しいこともなく、ただひたすら受験勉強に励んでいた。しかし、その努力と我慢が報われることはなく、あまつさえ命まで落とし、それだけでは飽き足らず年単位で想い続けた相手に間接的にフラれるという、おおよそ人が数年かけて溜め込むストレスをわずか二日で実現してしまったのだ。
そんな太一が何故ここまで盛り上がっているのか。
確かに、担当誘導員やカウンセラーの功績もかなり大きいのだが、今の高揚感を演出しているのはもっと別のものだ。
太一の心に深く根付く、懐かしい感情。
何度もいっているが、太一が東京へ抱いていた憧れは人一倍強い。
地元が東京に隣接していた、少しその気になればいつでも行ける距離だった故に、いつも心のどこかでもどかしい思いをしてきた。地方に住んでいて、なにか大きな夢を実現するために上京する。そんな夢物語を展開したかった。
しかし、現実は非情だ。
太一の暮らす街は都心からわずか三十分。一度出てしまったらなにか成果を出すまでは帰れない、などと気張る距離でもなければ、実家に居てもなに不自由なく夢に打ち込める距離なのだ。
その届きそうで届かない微妙な距離がもどかしい。
特に大きな夢があったわけではないが、もしも遠く離れた街に暮らしていたのならなにか夢を持てたのではないか、是が非でも叶えたいなにかを見つけられたのではないだろうか。
「そんなふうに考えていた時期が、俺にもありました」
心の整理を終えた太一は、ぼそりと独りごちる。
実際のところ、都会に憧れていたのは中学生の頃の話である。
反抗期真っ只中の少年は必ずといっていいほど、早く親元を離れて未知の世界にその身を投じたいと渇望するものだ。それが都会であり、なにやら危険な香りがすれば尚良し。
当然、太一にもそんな時期があり、毎晩のように都会で暮らす自分を想像した。
ともあれ、太一の反抗期はとっくに終わっている。
高校に入学し、身近な異性に恋をして、苦い思いをして。そうやって人は大人になり、自分の視野を広めていく。
太一も人並みに高校生活を謳歌し、年相応の経験を積んできた。そして、気付けばあれだけ渇望した都会への思いは単なる憧れに留まり、自分から進んでアクションを起こさない落ち着きを手に入れてしまったのだ。
いつの頃か萎えていた感情。あれだけ胸を熱くさせた都会への思い。それが今、目の前に、手の届く範囲内に、憧れの方から太一に迫って来ている。
どれだけ萎えていようとも、思春期に育てた感情がそう簡単に消えるはずがない。きっかけがあれば一瞬で熱を取り戻す。
太一は浄土に来て、あの日のあの感情を蘇らせたのだ——
「で、これなに?」
太一の正面にあるのは随分と年季の入った外壁。
元はクリーム色だったであろうそれは、経年劣化によって本来の色が想像できないレベルに薄汚れている。また、外壁を取り囲む背の低いブロック塀は継ぎ目がボロボロになっており、タックルでもしようものなら簡単に崩れてしまいそうだ。
黒ずんだクリーム色の外壁、崩壊寸前のブロック塀。太一にはこれがなんなのか理解できなかった。否、理解したくなかった。
しかし現実とは残酷なもので、どれだけ答えを望んでなくとも、こういった場合の解答はすぐにやってくるのだ。
「なにって、これから君が住むアパートに決まってるじゃない」
太一のすぐ隣に立つ春香は、素っ頓狂なことを言い出した世間知らずな少年に真実を伝える。
それを聞いた太一の脳細胞はすぐさま状況の整理を開始。視界に入り込む謎のボロ素材をオンボロ物件として認識し直す。
「ちょっ……じょ、冗談きついっすよ。これがアパート? あはははっ、そりゃ笑えねぇよ」
正面の風景を正しく認識した太一は、無理やりに笑おうと試みるも敢え無く失敗。心の底から込み上げてくる負の感情によって全て掻き消されてしまう。
汚いクリーム色の外壁に沿って視線を動かせば、これまた濁った茶色のドアがあり、ドアノブは遠目からでもわかる丸型。今時せいぜいトイレのドアくらいしかお目に掛かる機会のないタイプのものだ。
他にも、二階建てのアパートを繋ぐ外階段は『これ梯子だろ』とツッコミたくなるほどの急傾斜で、それでいて見事な赤茶の錆にその身を包み、崩壊を今か今かと待ちわびている。
しかし、この物件の特筆すべきところはもっと別に存在した。
太一は外壁からブロック塀へと目線を移し、今度は塀に沿ってゆっくりと双眸を流す。すると、塀の切れ目——恐らくはそこが入口と思われる所に一枚のベニヤ板を発見する。
設置されているポジションからして、アパート名が記載されているのは間違いない。だが、外壁同様に経年劣化の進んだ板は雨風でかなり傷んでおり、なんと書かれているかまでは判断できない。
故に、太一は無気力な体に鞭を打ち、ノロノロと覚束ない足取りで板へと歩を進める。
「ウッドストック……」
板に接近した太一は目を細め、滲んだ文字を読み上げた。
これがこのアパートの名前ということだろうか。
時代に取り残された物件であることから『◯◯荘』や『◯◯館』というのを想像していた。それが、まさか横文字だったなどと誰が想像できたものか。
結果、これがトドメとなり太一はその場にしゃがみ込んでしまう。
太一とて、なにも物件がここだけでないことは理解している。もう少し都心から外れた、閑静な住宅街を狙っていけば幾分にもマシな物件はいくらでも見つかるだろう。それこそ、真由美の住んでいた『リオパレス』が良い例だ。
しかし、あれだけ充実した支援制度を設けている浄土が、いくら二十三区内とはいえこんなオンボロ物件を紹介するなどあり得ないと勝手に高を括っていた。
もしかしたら、憧れの街で、かつて憧れた暮らしが実現できるかもしれない。そんな希望に浸り、太一の期待値は限りなく持ち上がっていたのだ。
理想と現実のギャップに心を蝕まれ、地面にへたり込む太一。
顔を上げてしまえば、またあのオンボロ物件を見なければならない。それならば、地面を見つめていた方がずっとマシだろう。そんなことを考えながらアスファルトを睨みつけていると、不意に太一の視界に細い影が入り込む。
「な、中村さん……」
へたり込む太一の心中を察したのか、春香の立ち位置は実に秀逸だ。完璧なまでに計算されたポジショニングで、太一の視界にオンボロアパートを欠片も写さない。
おかげで太一も顔を上げることができた。
のだが——
「ウッドストックってかっこいいでしょ? 歴史的なロックフェスと同名の物件に住めるなんてうらやまぁ~」
太一の想像を超越する春香の発言。つまりは、春香の中で太一の『ウッドストック』入居は既に決定事項なのだろう。
となれば、太一も黙ってはいられない。文句の一つでも言うべく、停止しかけた思考をフル回転させる
「ちょちょちょっぉぉっ! 絶対うらやましいとか思ってないっしょ!? 可愛い顔して腹ん中では、こんな豚小屋に住む少年哀れなりぃー、とか嘲笑ってるっしょ!?」
「あら、私のこと可愛いって思ってくれるの? やだ、うれしぃ~」
「うっせぇババァ!」
「あ゛?」
太一は凄まじい勢いで反撃を繰り出すが、春香から出たおぞましい声色にたじろぎ思わず停止。改めて自分の失言に気付く。
罵声を浴びせたことを謝るべきかと悩むものの、ここで引いてしまえば相手の思うツボになってしまう。自分のペースを維持するためにもここは攻め続けるのが得策。瞬時に方針を固めた太一は、再び口を開く。
「だいたいなんだよこのオンボロは!? 歴史的ロックフェスなんかじゃなくて、単に余した木材で作った家だからウッドストックなんじゃねぇーの?」
「はいはい。無駄に鋭いツッコミをありがと」
「そんな冷たい御礼を言われるために言ったんじゃないからね!?」
春香は太一の皮肉を華麗にスルーすると、その場でくるりとターン。なんの躊躇いもなく太一を置き去りにして、オンボロアパートの中へと歩いて行ってしまった。
「まっ、待って、どこいくんすかっ!?」
「ん? 管理人呼んでくるのよ。鍵開けてもらわないと中見れないからね」
「管理人!!」
『ウッドストック』の強すぎる存在感のせいで忘れていたが、この物件の管理人は美しい名前を有する聖母。太一の抱いた期待値を底上げしていた要因の一つと言ってもいいだろう。
しかし、正面に堂々と佇むオンボロアパートは、太一が引いた『人の住める環境』のボーダーラインには遠く及ばない。確かに、一風変わった隣人に囲まれながら美人管理人との波乱万丈共同生活というシチュエーションも憧れないわけではないのだが——
「それにしたってボロすぎる。あれは昭和の話だから許されるのであって、今の時代にこの外観はダメだ」
春香が退いたことにより、太一の視界には再び寂れた外壁が入り込む。せめてなにか一つでも魅力はないものかと模索してみるも、依然としてボロい以外の感想が出てこない。
唯一の魅力は管理人なのだが、それはここで働く人の話であって、物件の持つスペックとはまた別ものだ。やはりここは断り、諦めて二十三区外にするべきだろうか。
と、太一が苦渋の決断を強いられていると、再び黒い影が太一の視界に蓋をする。
「あら? まだそんなとこで蹲ってたの?」
「うっ……」
春香が管理人を連れて来てしまったのだ。
刹那、太一の脳裏に後悔の念が過る。春香が太一に『ウッドストック』を押し付けようとしているのは言うまでもない。また、普通に考えれば物件を管理する人間が、自分の管理物を訪問客に勧めないわけがない。
つまり、二対一。太一は美人管理人という魅惑の響きに翻弄され、イージーに断れるチャンスを逃してしまったのだ。
ここから断るには相当な意志力が要求されるだろう。
まさに逆境。太一は悔しさを抑えきれず、無意識に下唇を噛み締めた。
「その子が入居者かい?」
この上ない敗北感に押し潰される太一の鼓膜を震わせる低い声。聞き慣れない声につられて、太一は俯く顔を持ち上げる。
すると、春香のすぐ隣に見慣れない中年女性が立っているではないか。
「はい。この子が椎名太一君です——ほら、立って挨拶なさい」
春香は隣の女性に相槌を打つと、すぐ太一の方へ向き直り手を伸ばす。太一は素直に春香の手を借て立ち上がると、すぐさま中年女性を凝視する。
白い割烹着に包まれたふくよかな体型と、髪の毛はカップ焼きそばのようなちりちりパーマ。下垂する頬肉のせいでくっきりと現れた口元の皺は、この女性がそれなりに歳を重ねているのことを物語っている。実にどこにでも居そうな近所のおばちゃんだ。普段なら取り留めない風景の一片として、気にもかけないだろう。
が、この場合は違う。今この瞬間ここに現れたということは——
「ど、ども……えっと、この人が管理人さん?」
もはや疑いの余地はないのだが、それでも太一は春香に疑問を投げ掛ける。万が一にも、この女性が急遽やってきた管理人代理の可能性もあるかもしれない。
淡い希望に縋る太一だったが、残念ながら春香は首を縦に振ってしまった。
「またまたぁ~。ほんと、ハルちゃんは冗談が好きだなぁ~。こんなババァが真理亜なんて綺麗な名前のわけないじゃん? 俺もそう何度も引っかかんないから——ふゔぇあっ!?」
事実を聞いて尚も悪あがきを続ける太一だったが、言葉を終える前に凄まじい衝撃が襲った。そのまま太一は衝撃に押されバランスを崩し、尻餅をついて転倒。完全に想定外の出来事であり、全く身構えていなかった故に太一の意識はスタンしてしまう。
痛みの根源が頬からきているのは分かるが、なにが起こったのかが一切分からないままだ。
「ま、真理亜さん!? それはやりすぎですって!」
「なに言ってんのさ? こういう口の利き方の知らない奴には、これぐらいが丁度いいんだよ」
「い、いや……でも、昨日こっちに来たばかりの子に暴力は流石にマズイですって」
珍しく取り乱す春香の声を聞いて、太一の意識は回復。同時に状況を把握する。
頬から伝わる強烈な痛みの正体は真理亜の放ったビンタ。太一の暴言が彼女の逆鱗に触れ、その制裁として肉体言語が与えられたのだろう。
とはいえ、春香の言う通りでなにも体罰で訴えなくてもと太一も思う。自分が死後間もないことを除いても、もし間違いがあったのなら言葉で伝えるべきだ。
そう考えると、太一の中で怒りがふつふつと沸き立ってくる。
「おいゴルァ!! ババァてめぇ、痛ぇじゃねぇか!! いきなりなにしやがん——ぬぶぇっ!」
真理亜は尻餅をついたまま悪態付く太一の頭に、丁度いい位置と言わんばかりにゲンコツをお見舞い。勢いよく口を開いていた太一は、そのまま舌を噛んでしまった。
頬の痛みに後頭部と舌の痛みが加わり、太一のライフは目に見えて減少する。
「ちょっとあんた!! 調子に乗るのもいい加減にしなさいよ!」
「う、うるへぇー!」
真理亜はドスの効いた声で怒鳴りつけるが、太一も負けじと舌の痛みをこらえ反抗。そんな太一に、真理亜はもう一撃お見舞いしようと一歩距離を詰めると、間に春香が割って入る。
「まぁまぁ、ちょっと落ち着いてくださいよ。これ以上の乱暴は私が帰ってからにしてくださいよ」
「いやいやいや、ハルちゃん? なに言ってるの? 助けに入ったんじゃないの!?」
てっきり助けてくれるものだと思っていたが、春香に限ってそんなことするはずもない。これがいわゆるイジメの黙認というやつだ。
思わぬ肩透かしから条件反射的にツッコンでしまった太一だったが、これがまた真理亜の逆鱗に触れる。
「こらっ、あんたはまたっ! 自分の世話してくれるカウンセラーにそんな口の利き方するやつがあるかい!!」
元々しゃがれ気味だった声に怒気が加わった真理亜の声は、太一を震え上がらせるのに充分な効力を発揮する。結果、太一の中に疼いていた怒りは完全に意気消沈。口を開こうものなら、叩かれるか怒鳴られてしまう。
唯一、太一に出来ることはぼそりと他の二人に聞こえないよう独り言ちることだけだ。
「もぉなんなんだよ……なにが聖母だよ……」
期待していたアパートはオンボロで、救いを求めた聖母はかかあ天下さながらの強烈なキャラクター。太一は浅はかさだった数分前の自分に向けて深い溜息を吐いた。そして、当事者の意思に関係なく管理人とカウンセラーの会話は続く。
「まぁ多少変わったところはありますが、根はいい子なんですよ彼」
「どんな子が来ようとも、あたしゃ拒んだりしないから安心しなよ」
「ええ。そこは信頼してますよ」
真理亜との会話に一区切りつけた春香は、目線を太一に戻へと戻し手を伸ばす。
本日二度目となる春香から差し出された手を掴み、太一はゆっくりと立ち上がる。
「ほら、改めてちゃんと自己紹介しなさい。ちゃんとしてれば怒られないんだから」
春香の口調は真理亜の人柄をよく知っているような口ぶりだ。やはり、この二人はそれなりに近しい関係なのだろうか。
二人の関係にちょっとした興味が湧く太一だったが、それよりも今はもっと重大なことがある。言わねばならぬことがあるのだ。
太一は大きく息を吸い、腹に溜めていた感情を言葉にする。
「自己紹介とか以前に……俺、ここに住みたくないんですけど」
本当はもっと綺麗な流れを用意して、丁重にお断りしたかった。だが、この一刻を争う状況下においてそんな悠長なことを言っている暇はない。
せっかく二人が黙っているこのチャンスを生かさない馬鹿がどこにいる。ましてや自己紹介などしてしまえばもう後戻りはできなくなってしまう。オンボロアパートで鬼婆との共同生活など願い下げだ。
という思いを込めて心の底から絞り出した勇気の言葉だったのだが、春香と真理亜の表情には一切と変化が感じられない。もしや聞こえてないのでは、と不安になった太一はもう一度いおうと試みる。イ
「え、えっと……俺、ここに住みたくな——」
「それ以上は言うんじゃないよ」
太一の言葉を遮る低い声。てっきり春香の秀逸なカットインによって話題がすり替えられることを予想していたのだが、声の主は真理亜だった。
予想外の展開に驚く太一だったが、真理亜が出てきたということはこの後の展開は殴られる可能性が高い。太一は咄嗟に両腕を前にかざし、即席のガード態勢をとる。
が、想像していた衝撃が訪れることはなかった。
「うっ……え、あ、あれ?」
太一はゆっくりとガードを緩め、腕の隙間から恐る恐る真理亜を見る。すると、そこには先程から全く姿勢を変えていない真理亜が立っていた。唯一の変化といえば、温度感の高かった表情が少しばかり冷めたことだろうか。
「ま、立ち話もなんだ。部屋の内装見てから決めても遅くはないだろうさ」
そう言うと、真理亜は割烹着のポケットからチープな鍵を取り出し、それを太一へと放る。
随分と強引に太一の言葉を遮った割には、なんとも煮え切らない展開。これには太一も疑念を抱かずにはいられない。
「い、いや……外観がこんなんじゃ、中見る必要もないっしょーが?」
「つべこべうるさい子だねあんたはっ!!」
「ちょぉぉぉ、殴らないで殴らないでってばぁ!!」
舞い戻った真理亜の怒気と振り上げられた腕に、太一は身を仰け反って回避を試みる。
しかし、真理亜はそんなこと御構い無しに太一へと肉薄する。
「分かった、分かったから! 部屋見てきますから!!」
脳内で蘇る痛切な感覚に耐えきれず、太一は真理亜の意見を肯定。こうして、太一の物件見学は室内へと駒を進めるのだった。
どこかよそよそしい彼女の態度に若干の不信感は抱くものの、迫り来る憧れの暮らしを思うと春香の態度などほんの些細なものだ。元より、希望した地の物件を紹介してもらえるのだから、太一に否定の色はない。
希望に胸膨らませる太一と、なにやら不敵な笑みを浮かべる春香は、目的の物件へと向かう。
窓の外を流れていく景色はどこか記憶しているものと違う。建物の佇まいが違うのか、それとも環境を取り巻く空気自体が違うのか。具体的になにがとは言えないものの、全てが似ていて異なる。
昨日、支援センターへと向かうときは夜だったせいか然程気にはならなかったが、こうして日中にゆるりと眺めてみると妙な違和感に苛まれてしまう。
まるでパラレルワールドだ。
(ん? あの看板って……)
太一は視界に流れ込んできた看板を見て、心中で疑問を思い浮かべる。
グリーンの縁取りにポップな女性のイラストが添えられた小洒落た看板。違和感だらけの街並みで異様な存在感を放つそれは、今までの中途半端なパロディーと違い、太一の記憶の中に存在するものと瓜二つ。間違いなく本土で大人気だったあの喫茶店と一致する。
しかし、あの店舗の大元は海外から進出してきたものであり、海外貿易のない浄土には出店のルートが存在しないはずだ。
ついさっき習ったばかりの内容がいきなり矛盾点にぶち当たり、太一の思考は一気に迷宮へと吸い込まれていく。
「あのお店、ここ二年くらいで急激に広まったのよ」
トリップする太一の思考を引き止めるが如く、運転席に座る春香が声を掛けた。内心をぴたりと言い当てられたのは驚くべきことだが、太一の疑問を解決するには至らない。
腑に落ちない表情をする太一の願いが叶ったのか、タイミングよく信号が赤に変わり、同時に春香は笑顔で太一へと目線を向ける。
「なんでも、本土の店舗で働いてた人が不慮の事故で亡くなって、生前の知識を元に浄土で設立したんだって」
「おぉっ! バリスタ俺tueeee!!」
太一の想像通り、やはり生前の知識を用いてチートしている人間は存在した。春香から説明を受けたときは絶望的かと思ったものの、なにもITだけが無双の舞台ではない。外食系でも充分に太刀打ちできるのだ。
こうなってくると無双の幅はかなり広がる。
単刀直入にいえば、この喫茶店は本土の丸パクリであることは否定できまい。つまり、本土に対象を絞った盗作行為であれば違法ではないと考えられる。
音楽、漫画、イラスト。いくら浄土が遅れているといっても、印刷やCDプレスの技術までが普及していないとは考え難い。ならば本土の芸術作品を丸パクリしてしまえば——
「なんかすごく悪い顔してるわよ?」
「ひぇっ!?」
図星を突かれた太一は、背中に冷や汗が伝うを感じた。所詮、クズの考えることなど春香にはお見通しということだ。
若人よ、真面目に生きなさい。春香の視線がそう言ったように感じたが、これまたタイミングよく信号が青に変わってしまい、春香は顔を正面に戻してしまった。
「まぁ時間も時間だし、ちょうどいいからここでお昼摂ってから行きましょ」
春香は刺々しかった雰囲気を綺麗に切り替え、弾んだ声で太一を昼に誘う。といっても、喋り終わる前にウィンカーの音が聞こえたことを考えると、太一に拒否権はなさそうだ。
太一としては一刻も早く目的地に到着したいのだが。
「ちょちょちょっ! 俺、早く物件見に行きたいんですけど」
「うー、いいじゃないー。だって、ここのコーヒーの注文ってよく分かんないんだもん。ついでに教えてよ」
「絶対、そっちが本命でしょうが! いっとくけど、俺もあんまり詳しくないならね! どっちかっていうと、大学の講義とかでドヤ顔で机に緑のカップ置くやつとか大っ嫌いだからね!!」
激情に身を任せ、ついつい自分が大学生になれなかった皮肉を口にしてしまう。それがきっかけとなり、古傷が開いてしまった太一は少しセンチな気分に早変わり。
結局それ以上の反論も出来ずに、二人の乗る車は人気の喫茶店へと入っていった。
♦♦♦
店内を満たすコーヒーのほろ苦い香りは心を落ち着かせ、人の集中力を研ぎ澄ます。木目を基調とした内装はシンプルにまとまっており、落ち着ける空間を演出する。
学生だらけの賑やかな空間をイメージしていた太一だったが、とんだ見当外れ。周りの客を見ても、想像していたより一回り以上は目上の人間が大半を占めており、皆騒ぐどころか静かにコーヒーをすすっている。
なにより太一が驚いたのは、この店舗には喫煙席が存在することだ。
テラスに喫煙スペースを設けてる店舗があるのは知っているが、基本は店内全面禁煙。コーヒーの魅力を発揮するため、というのが本土での常識である。故に、煙草の苦手な人や法的に吸えない未成年も気兼ねなく入れるお店ということで人気を集めていた。
「つまりは、ターゲット層が本土とは違うってことか。それとも、設立者がヘビースモーカーの独裁者だったとか……」
「お次お待ちのお客様、どうぞ」
太一が感慨に耽っていると、カウンターの奥から、控えめで柔らかい声が掛けられる。オフィスの受付嬢さながらに静かで、それでいてよく通る声だ。メインターゲットが大人なだけあって、接客もそういった方面にしているのだろうか。
ともあれ、本土の接客も浄土の接客も高いクオリティを誇っているのには変わりない。これも人気の理由のひとつなのだろう。
「あ、あの……」
「ちょっと、なにしてるのよ。店員さん困ってるじゃないの」
カウンター手前で難しい顔をしたまま動かない太一に、女性店員は図らずも困惑してしまう。不穏な空気の漂うカウンターに自然と他の客の視線も集まり、女性店員は更に困惑する。どんなにパーフェクトな接客をしたとしても、基本お客様第一の客商売では店員に非があるように見えてしまうのだ。
そんな女性店員を不憫に思ったのか、すかさず春香がカットイン。太一の脇腹に軽いエルボーをお見舞いする。
「ぐおっ……あ、えっと……ちょっと、現代知識無双の先駆者がどうやって浄土民のハートを掴んだかの研究をと思って」
「あっそ」
この喫茶店が太一に与えた衝撃は相当に大きいものだったのだが、浄土に長く暮らす春香には当然の如く伝わらない。太一の阿呆な思考に呆れ返った春香は、夢見るクズを迷いなく抜かしてカウンターへと進む。
そしてカウンターに立つ女性店員は、やっと状況が打開されたことに安堵し、深々と頭を下げた。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
「えっと、エスプレッソ……じゃなくて、えっと……ちょっと、椎名くん」
つい、いつも通りに飲み慣れたものを頼みそうになる春香だったが、間一髪のところで思い留まる。
この情緒不安定な少年を社会復帰させるためには、自分が社会に必要な人間であること、不器用な自分でも人の役に立つことが出来ることを分からせる必要がある。ならば、この機会に自分の浅い知識でも、春香のような美しい女性を喜ばせることが出来るという快感を教えてやろう。
という建前を考え、春香は太一に尋ねる。
「これなに?」
「ん? え、えっと……あー、ぱ、パスタの名前かなんかじゃないっすか? ペペロンチーノ的なやつ」
「へぇー! 美味しいのかしら?」
春香のミスとしては太一を買いかぶり過ぎたことだろう。太一は入店前に自分がこの店に詳しくないことを暴露していたのだが、それでも春香は自分の考えを優先してしまった。
若者だから流行のものに詳しい、特に本土発の喫茶店とならば尚更のことだ。そんな間違った見解を疑わないことこそ、着々と老けていっているなによりの証拠だろう。
とはいえ、両者共に真実を知らない。ならば、誰かがこの歪んだやり取りに制裁を加えなければなるまい。
「こちらは、氷でよく冷やしたコーヒーをベースにミルクやクリーム、あとはお客様のお好みのものをシェイクする、当店一番人気の飲み物になっております」
「「……」」
二人の不毛なやり取りに終止符を打ったのは、カウンターに立つ女性店員。こと丁寧な商品説明を受け、太一と春香は言葉を失ってしまった。
そして、一足先にショックから立ち直った春香はギロリと隣に立つ太一を睨みつける。
「君のせいで恥ずかし思いしたじゃない」
「いやいやいや、前もって詳しくないって言いましたよね? つーか、ここの客層見る限りは、そんなに若々しくないからね? どっちかっていうと、俺より中村さんのがこの場にマッチしてるからね!?」
「なによ、私が年寄りだって言いたいわけ?」
ヒートアップする二人に、もはや女性店員はたじたじだ。善意で説明しただけなのに場の空気が悪化してしまうなど、いくらエリート接客者でも予想できまい。
しかし、自分はこの場を預かる時間帯責任者。この程度のトラブルで怯んでいてはリーダーの名に恥じる。女性店員は意を決して口を開いた。
「あ、あの……ご注文は……?」
瞬間、沈黙が店内を支配する。目の前で相見えていたはずの二人は、それが嘘のように口を閉ざしてしまった。
現実から切り離された空間。永遠にも思える無音。女性店員が自分は判断を間違ったのかと自信を無くしかけたそのとき、状況が動く。
「え、エスプレッソ一つ……」
「きゃ、キャラメルマキアートをお願いします……」
引きつった表情のまま二人の客はカウンターへと顔を向け、そう言った。時は動き出したものの、依然として気まずい空気は健在だ。
だが、まだ店員としての務めは果たせていない。
「ご、ご一緒にお食事は……いかがですか?」
「そ、そうね……私はこのベーグルを貰おうかしら?」
「お連れ様は……?」
女性店員はたどたどしい注文をする春香のから目線を外すと、その矛先を太一へと移した。
うっかり目を合わせてしまった太一は、気まずさからかすぐに目線をずらしてしまう。それを目敏く捉えていた春香は、再び太一の脇腹にエルボーを決める。
「ほら、君はどうするのよ?」
「い、いや、そういえば、俺ってば無一文だし……あ、店員さんやっぱしキャラメルマキアートなしで」
「そんなの分かってるわよ! しょうがないから私がご馳走してあげるって言ってるの。あ、店員さんキャラメルマキアートありで大丈夫よ!」
「まじっすかっ!?」
春香の気遣いにテンションが上がる太一だったが、冷静に考えれば浄土に来てから女性にご馳走してもらってばかりで、完全にヒモルート一直線だ。このままでは本当のクズになってしまう。
故に、太一は心の中で『絶対にいつか返す』などというヒモ特有のなんの信憑性もない誓いを立てるのだった。
「じゃーあー……この、ベーコンとチーズのデニッシュパイを一つ!」
開き直って微妙に単価の高そうな物を頼む太一。
それを見た女性店員は、やっと注文がまとまったことに安堵したのか笑顔を浮かべるとレジ操作を開始する。きっとこの笑顔は営業スマイルではなく、降って湧いた修羅場から無事に生還できた安堵の笑顔だろう。
「こちら四点のお買い上げで、二千四百十円になります」
軽いタッチでレジを操り、女性店員はディスプレイに映る合計金額を口にする。
店員の言葉に従い春香は鞄から財布を取り出すと、なんの躊躇いもなく一万円札をカウンターへと置いた。
財布からポンと万札が出てくることに対して驚く気持ちもあるが、それは単に春香が働く独身女性が故だろう。彼女の経済状況や婚期の話をしだしたらリアルに殺されてしまいそうなので割愛するが、太一としてはそれ以上にもっと気になることが存在する。
(なんか、気持ち高くね?)
本土の知識しかない太一にとって、この価格は心なしか少し高い気がしてならない。確かに本土の物も決して安かったわけではないが、それでも学生が定期的に来店できる程度はリーズナブルだったはずだ。
浄土の景気が良い分こういった価格が釣り上がっているのか、単にターゲット層が高めに設定されている故なのか。もしも後者だとしたら、ぼったくりもいいところだ。
おそらく商品クオリティは本土と同等か、はたまたそれ以下か。基本的に本土のものをモデルにしている以上、多少の劣化は否めないだろう。それで本家より値段が高いなど——
「まぁ、おごりだし関係ないんだけどねぇ」
「なにを考えてたかは知らないけど、おごる気なくすからそういう発言はやめてくれるかな?」
「うっ、すいません……」
などというやり取りをしているうちに注文した品がサイドカウンターに置かれ、太一は自分の失言を有耶無耶にするチャンスだと思いトレーへと逃げていく。
それを見た春香も、呆れ顔で自分のトレーを取りに行くのだった。
「んじゃ、席はそこね」
「はい」
太一は春香の指示に従い、指定された窓側の禁煙席に腰掛ける。喫煙席に通されたらどうしようかと思ったものの、どうやら無用な心配だったようだ。
特段、煙草の臭いが苦手というわけではないが、やはり春香が喫煙者だったら少なからずのショックは受けてしまう。性格は置いておくとしても、どちらかというと幼い印象を受ける彼女に煙草など不似合い。やはり、春香はフローラルにいて欲しいのだ。
「なに? 大好きなお姉ちゃんが喫煙者じゃなくってよかったって思ってるでしょ?」
「い、いや、八割方は合ってますけど、大好きなお姉ちゃんとまでは思ってないですよ」
余計な単語が混ざってはいるものの、驚くべき洞察力で太一の思考を言い当てる春香。相変わらず、太一の浅い思考など簡単に見透せるということだろうか。
「つれないなぁ。私は君を出来の悪いものすごぉーく手のかかる面倒な弟だと思って接してるのに」
「俺の評価低すぎないっ!?」
親身になって接してくれるのは嬉しいが、流石にこの評価は心外だ。おおよそ、太一を頼りにこの喫茶店のノウハウを得ようとしていた人間がいう言葉ではない。
万が一、ちゃんとレクチャー出来ていたのならこの評価は変わったのだろうか。そんな無い物ねだりな思考に駆られる太一を他所に、春香は得意の話題転換で一気に空気を作り変えてしまう。
「ほら、先に食べていいわよ。私はちょっと電話してから食べるから」
まるで姉のような口調で言葉を掛ける春香。
ご馳走してもらった手前、春香が手を付けるまでは口にせず、少しでも大人っぽいところをアピールしたかったのだが、あくまでも春香は太一を弟のようにしか見てくれない。
それでも太一はキャラメルマキアートが冷めるのも厭わず我慢するのだが、春香は太一から携帯電話へと目線を移してしまった。
「あ、もしもし、中村です——どうもご無沙汰しております——ええ、先ほどファックスしました入居者です——はい、いま坂上の喫茶店ですので、一時間後くらいにはお伺いできると思いますので——ええ、よろしくお願いします」
先に食べててと言われはしたものの、太一は電話越しに笑顔を振りまく春香に見惚れてしまっていた。
声高らかなそれを見るに、目上の人と応対しているのが想像できる。
初めて聞く春香の敬語はとてもフランクなもので、それでいて相手に不快感を与えない。そういえば自分への応対は全てタメ口だったものの、一切の不快感を抱かなかったことに太一は気付いた。きっと、この綺麗な声色と人懐っこい口調が人の心を惹きつけるのだろう。
「なぁ~に? じろじろ見ちゃって」
「い、いや、なんでもないっす」
通話を終えた春香はニヤついた表情で、太一に目線を向ける。こういったところが無ければもっと好感を持てるのだが。
と、そんな太一の余計なお世話はさておき、話は本題に戻る。否、戻さなければネチネチと心中を掻き回されてしまう。
「そ、そだ! 今の電話なんだったんですか?」
「んー。なんかすごく失礼なこと考えられてた気がするけど……まぁ、いいわ。今から行く物件の管理人の在宅確認してたのよ。」
当然といえば当然なのだが、組合管理の物件にも管理人は存在する。
浄土へ来たばかりの人間を即入居させるためにあるこの物件は、いつでも入居者を迎えられるよう常日頃から現場で実務を熟す人間が配置されているのだ。また、管理人というだけあって入居者の情報管理、更には実生活のサポートまで手広く行っているという。
流石は支援組合。ポスチュマスカウンセラーに負けず劣らずのオーバーワークっぷりだ。
「へぇー。でも、在宅確認って随分念入りっすね? 事前に行くことファックスしてたんでしょ?」
「あら? 女性の通話盗み聞きなんて随分と目敏いのね」
「そんなに俺を変態にしたいんですかっ!?」
もはや恒例になりつつある春香の切り返しに、律儀に突っ込む太一。予想通りの反応を見せる太一に春香はケラケラと笑う。
とはいえ、春香も遊ぶだけ遊んで疑問を放置するほど無責任ではない。一頻り満足したら、目の前でふて腐れている少年の疑問に答えてやるだけの器量は備えているのだ。
「まぁ、念のためよ。もしかしたら出掛けちゃってるかもしれないし」
「出掛けるって……就業中に? 管理人ってそんなフリーダムな仕事なんですか?」
あらかじめファックスで訪問を報せてあったにも関わらず、外出の可能性が危惧される。また、その事実が黙認されている。
管理人とは、なんと素晴らしい仕事なのだろう。
ついさっき唯一描いた夢の世知辛さを思い知り、支援金生活を余儀なくされた太一にとってはこれほど魅力的な仕事はない。ニート生活待った無しの太一に新たな光が差し込んだのだ。
「真理亜さんの名誉のためには言っておくけど、別にサボってるわけじゃないのよ。管理人は住み込みの仕事だから、どうしても仕事の合間合間に買い物行ったりして私生活と両立しなきゃいけないのよ」
太一が管理人という職務を舐め腐っているのを見抜いたのか、春香から少し強めの口調で注意が飛んでくる。
が、太一にとってこれほどの朗報はない。
確かに、各部屋をいつでも人が住めるよう維持するのは大変かもしれない。他にも、入居者の管理というのがどの程度の仕事量なのかはわからない。しかし、それでも住居付き、中抜け自由というアドバンテージはでかい。
太一の中で管理人という職種への憧れがみるみると大きくなっていくのだが——
「そんなことより真理亜さんってのは、これから行く物件の管理人ですよねっ!?」
春香の説明に紛れていた聞きなれない名前。その美しい響きは太一の心に差し込む濁った光をいとも簡単に切り裂き、圧倒的な存在感を持って思考を掌握する。
名前からして女性の名前であることは間違いない。しかし、数多く存在する名前の中から選び抜かれたそれは、なんとも秀逸な選択と言っていいだろう。
「え? そ、そうだけど……」
突如、血相を変えて肉薄する太一に春香はまともな反応が取れずに、身を後方へと仰け反り緊急回避するのが精一杯。普段なら軽口の一つでも叩くところなのだろうが、太一が醸し出す禍々しい雰囲気に圧倒され、らしくもない素直な返事をしてしまった。
いったいなにが彼をここまだ駆り立てているというのか、春香には理解できなかった。
当の太一はというと、春香の肯定の言葉にオーバーアクションなガッツポーズ。完全に自分の世界へと突入してしまう。
管理人が女性というだけでも、なんだかラブコメ漫画のようなシチュエーションなのに、よもや管理人が聖母だったとは。
浄土という名の異世界に突如放り出された太一にとって、どれだけ支援制度が充実してようとも不安は拭い去れない。やはり、人の不安は人にしか取り除けないのだろうか。
真由美との再会はまだ遠い。春香はどこかドライでプライベートでの接触は期待できない。だが、そこに突如として現れた聖なる光。太一の不安を拭い去れるかもしれない存在が目前に迫っているのだ。
「こうしちゃいらんねぇ」
太一は未だ手を付けずにいたデニッシュパイを口に詰め込み、少しぬるくなったキャラメルマキアートで一気に喉へと流し込む。こんな食べ方をしてしまい、ご馳走してくれた春香に対して申し訳ない気持ちはあるが、今は止むを得まい。早く聖母に会いたいという気持ちは誰にも止められないのだ。
「ごちそうさまでした! さっ、早く出発しましょ!!」
「い、いや、私まだ食べてないから」
テンションだだ上がりの太一にストップを掛けるかの如く、春香は自分の皿を指差す。
太一が春香の示す先へと目線を落とすと、そこには全く手の付けられていないベーグルが残っているではないか。
「なにちんたらやってるんですか!! 早く食べてくださいよ! ファイトファイト、ハルちゃんなら一口でいけるっしょ?」
「……」
身勝手すぎる態度の太一に呆れて言葉を失う春香。しかし、黙っている春香に御構い無しで、太一からは謎のエールが送られ続ける。
春香は深い溜息を吐くと、ゆっくり皿へと手を伸ばすのだった。
♦♦♦
太一の気持ちはここ数ヶ月で一番の盛り上がりを見せている。
考えてみればここ数ヶ月まったく楽しいこともなく、ただひたすら受験勉強に励んでいた。しかし、その努力と我慢が報われることはなく、あまつさえ命まで落とし、それだけでは飽き足らず年単位で想い続けた相手に間接的にフラれるという、おおよそ人が数年かけて溜め込むストレスをわずか二日で実現してしまったのだ。
そんな太一が何故ここまで盛り上がっているのか。
確かに、担当誘導員やカウンセラーの功績もかなり大きいのだが、今の高揚感を演出しているのはもっと別のものだ。
太一の心に深く根付く、懐かしい感情。
何度もいっているが、太一が東京へ抱いていた憧れは人一倍強い。
地元が東京に隣接していた、少しその気になればいつでも行ける距離だった故に、いつも心のどこかでもどかしい思いをしてきた。地方に住んでいて、なにか大きな夢を実現するために上京する。そんな夢物語を展開したかった。
しかし、現実は非情だ。
太一の暮らす街は都心からわずか三十分。一度出てしまったらなにか成果を出すまでは帰れない、などと気張る距離でもなければ、実家に居てもなに不自由なく夢に打ち込める距離なのだ。
その届きそうで届かない微妙な距離がもどかしい。
特に大きな夢があったわけではないが、もしも遠く離れた街に暮らしていたのならなにか夢を持てたのではないか、是が非でも叶えたいなにかを見つけられたのではないだろうか。
「そんなふうに考えていた時期が、俺にもありました」
心の整理を終えた太一は、ぼそりと独りごちる。
実際のところ、都会に憧れていたのは中学生の頃の話である。
反抗期真っ只中の少年は必ずといっていいほど、早く親元を離れて未知の世界にその身を投じたいと渇望するものだ。それが都会であり、なにやら危険な香りがすれば尚良し。
当然、太一にもそんな時期があり、毎晩のように都会で暮らす自分を想像した。
ともあれ、太一の反抗期はとっくに終わっている。
高校に入学し、身近な異性に恋をして、苦い思いをして。そうやって人は大人になり、自分の視野を広めていく。
太一も人並みに高校生活を謳歌し、年相応の経験を積んできた。そして、気付けばあれだけ渇望した都会への思いは単なる憧れに留まり、自分から進んでアクションを起こさない落ち着きを手に入れてしまったのだ。
いつの頃か萎えていた感情。あれだけ胸を熱くさせた都会への思い。それが今、目の前に、手の届く範囲内に、憧れの方から太一に迫って来ている。
どれだけ萎えていようとも、思春期に育てた感情がそう簡単に消えるはずがない。きっかけがあれば一瞬で熱を取り戻す。
太一は浄土に来て、あの日のあの感情を蘇らせたのだ——
「で、これなに?」
太一の正面にあるのは随分と年季の入った外壁。
元はクリーム色だったであろうそれは、経年劣化によって本来の色が想像できないレベルに薄汚れている。また、外壁を取り囲む背の低いブロック塀は継ぎ目がボロボロになっており、タックルでもしようものなら簡単に崩れてしまいそうだ。
黒ずんだクリーム色の外壁、崩壊寸前のブロック塀。太一にはこれがなんなのか理解できなかった。否、理解したくなかった。
しかし現実とは残酷なもので、どれだけ答えを望んでなくとも、こういった場合の解答はすぐにやってくるのだ。
「なにって、これから君が住むアパートに決まってるじゃない」
太一のすぐ隣に立つ春香は、素っ頓狂なことを言い出した世間知らずな少年に真実を伝える。
それを聞いた太一の脳細胞はすぐさま状況の整理を開始。視界に入り込む謎のボロ素材をオンボロ物件として認識し直す。
「ちょっ……じょ、冗談きついっすよ。これがアパート? あはははっ、そりゃ笑えねぇよ」
正面の風景を正しく認識した太一は、無理やりに笑おうと試みるも敢え無く失敗。心の底から込み上げてくる負の感情によって全て掻き消されてしまう。
汚いクリーム色の外壁に沿って視線を動かせば、これまた濁った茶色のドアがあり、ドアノブは遠目からでもわかる丸型。今時せいぜいトイレのドアくらいしかお目に掛かる機会のないタイプのものだ。
他にも、二階建てのアパートを繋ぐ外階段は『これ梯子だろ』とツッコミたくなるほどの急傾斜で、それでいて見事な赤茶の錆にその身を包み、崩壊を今か今かと待ちわびている。
しかし、この物件の特筆すべきところはもっと別に存在した。
太一は外壁からブロック塀へと目線を移し、今度は塀に沿ってゆっくりと双眸を流す。すると、塀の切れ目——恐らくはそこが入口と思われる所に一枚のベニヤ板を発見する。
設置されているポジションからして、アパート名が記載されているのは間違いない。だが、外壁同様に経年劣化の進んだ板は雨風でかなり傷んでおり、なんと書かれているかまでは判断できない。
故に、太一は無気力な体に鞭を打ち、ノロノロと覚束ない足取りで板へと歩を進める。
「ウッドストック……」
板に接近した太一は目を細め、滲んだ文字を読み上げた。
これがこのアパートの名前ということだろうか。
時代に取り残された物件であることから『◯◯荘』や『◯◯館』というのを想像していた。それが、まさか横文字だったなどと誰が想像できたものか。
結果、これがトドメとなり太一はその場にしゃがみ込んでしまう。
太一とて、なにも物件がここだけでないことは理解している。もう少し都心から外れた、閑静な住宅街を狙っていけば幾分にもマシな物件はいくらでも見つかるだろう。それこそ、真由美の住んでいた『リオパレス』が良い例だ。
しかし、あれだけ充実した支援制度を設けている浄土が、いくら二十三区内とはいえこんなオンボロ物件を紹介するなどあり得ないと勝手に高を括っていた。
もしかしたら、憧れの街で、かつて憧れた暮らしが実現できるかもしれない。そんな希望に浸り、太一の期待値は限りなく持ち上がっていたのだ。
理想と現実のギャップに心を蝕まれ、地面にへたり込む太一。
顔を上げてしまえば、またあのオンボロ物件を見なければならない。それならば、地面を見つめていた方がずっとマシだろう。そんなことを考えながらアスファルトを睨みつけていると、不意に太一の視界に細い影が入り込む。
「な、中村さん……」
へたり込む太一の心中を察したのか、春香の立ち位置は実に秀逸だ。完璧なまでに計算されたポジショニングで、太一の視界にオンボロアパートを欠片も写さない。
おかげで太一も顔を上げることができた。
のだが——
「ウッドストックってかっこいいでしょ? 歴史的なロックフェスと同名の物件に住めるなんてうらやまぁ~」
太一の想像を超越する春香の発言。つまりは、春香の中で太一の『ウッドストック』入居は既に決定事項なのだろう。
となれば、太一も黙ってはいられない。文句の一つでも言うべく、停止しかけた思考をフル回転させる
「ちょちょちょっぉぉっ! 絶対うらやましいとか思ってないっしょ!? 可愛い顔して腹ん中では、こんな豚小屋に住む少年哀れなりぃー、とか嘲笑ってるっしょ!?」
「あら、私のこと可愛いって思ってくれるの? やだ、うれしぃ~」
「うっせぇババァ!」
「あ゛?」
太一は凄まじい勢いで反撃を繰り出すが、春香から出たおぞましい声色にたじろぎ思わず停止。改めて自分の失言に気付く。
罵声を浴びせたことを謝るべきかと悩むものの、ここで引いてしまえば相手の思うツボになってしまう。自分のペースを維持するためにもここは攻め続けるのが得策。瞬時に方針を固めた太一は、再び口を開く。
「だいたいなんだよこのオンボロは!? 歴史的ロックフェスなんかじゃなくて、単に余した木材で作った家だからウッドストックなんじゃねぇーの?」
「はいはい。無駄に鋭いツッコミをありがと」
「そんな冷たい御礼を言われるために言ったんじゃないからね!?」
春香は太一の皮肉を華麗にスルーすると、その場でくるりとターン。なんの躊躇いもなく太一を置き去りにして、オンボロアパートの中へと歩いて行ってしまった。
「まっ、待って、どこいくんすかっ!?」
「ん? 管理人呼んでくるのよ。鍵開けてもらわないと中見れないからね」
「管理人!!」
『ウッドストック』の強すぎる存在感のせいで忘れていたが、この物件の管理人は美しい名前を有する聖母。太一の抱いた期待値を底上げしていた要因の一つと言ってもいいだろう。
しかし、正面に堂々と佇むオンボロアパートは、太一が引いた『人の住める環境』のボーダーラインには遠く及ばない。確かに、一風変わった隣人に囲まれながら美人管理人との波乱万丈共同生活というシチュエーションも憧れないわけではないのだが——
「それにしたってボロすぎる。あれは昭和の話だから許されるのであって、今の時代にこの外観はダメだ」
春香が退いたことにより、太一の視界には再び寂れた外壁が入り込む。せめてなにか一つでも魅力はないものかと模索してみるも、依然としてボロい以外の感想が出てこない。
唯一の魅力は管理人なのだが、それはここで働く人の話であって、物件の持つスペックとはまた別ものだ。やはりここは断り、諦めて二十三区外にするべきだろうか。
と、太一が苦渋の決断を強いられていると、再び黒い影が太一の視界に蓋をする。
「あら? まだそんなとこで蹲ってたの?」
「うっ……」
春香が管理人を連れて来てしまったのだ。
刹那、太一の脳裏に後悔の念が過る。春香が太一に『ウッドストック』を押し付けようとしているのは言うまでもない。また、普通に考えれば物件を管理する人間が、自分の管理物を訪問客に勧めないわけがない。
つまり、二対一。太一は美人管理人という魅惑の響きに翻弄され、イージーに断れるチャンスを逃してしまったのだ。
ここから断るには相当な意志力が要求されるだろう。
まさに逆境。太一は悔しさを抑えきれず、無意識に下唇を噛み締めた。
「その子が入居者かい?」
この上ない敗北感に押し潰される太一の鼓膜を震わせる低い声。聞き慣れない声につられて、太一は俯く顔を持ち上げる。
すると、春香のすぐ隣に見慣れない中年女性が立っているではないか。
「はい。この子が椎名太一君です——ほら、立って挨拶なさい」
春香は隣の女性に相槌を打つと、すぐ太一の方へ向き直り手を伸ばす。太一は素直に春香の手を借て立ち上がると、すぐさま中年女性を凝視する。
白い割烹着に包まれたふくよかな体型と、髪の毛はカップ焼きそばのようなちりちりパーマ。下垂する頬肉のせいでくっきりと現れた口元の皺は、この女性がそれなりに歳を重ねているのことを物語っている。実にどこにでも居そうな近所のおばちゃんだ。普段なら取り留めない風景の一片として、気にもかけないだろう。
が、この場合は違う。今この瞬間ここに現れたということは——
「ど、ども……えっと、この人が管理人さん?」
もはや疑いの余地はないのだが、それでも太一は春香に疑問を投げ掛ける。万が一にも、この女性が急遽やってきた管理人代理の可能性もあるかもしれない。
淡い希望に縋る太一だったが、残念ながら春香は首を縦に振ってしまった。
「またまたぁ~。ほんと、ハルちゃんは冗談が好きだなぁ~。こんなババァが真理亜なんて綺麗な名前のわけないじゃん? 俺もそう何度も引っかかんないから——ふゔぇあっ!?」
事実を聞いて尚も悪あがきを続ける太一だったが、言葉を終える前に凄まじい衝撃が襲った。そのまま太一は衝撃に押されバランスを崩し、尻餅をついて転倒。完全に想定外の出来事であり、全く身構えていなかった故に太一の意識はスタンしてしまう。
痛みの根源が頬からきているのは分かるが、なにが起こったのかが一切分からないままだ。
「ま、真理亜さん!? それはやりすぎですって!」
「なに言ってんのさ? こういう口の利き方の知らない奴には、これぐらいが丁度いいんだよ」
「い、いや……でも、昨日こっちに来たばかりの子に暴力は流石にマズイですって」
珍しく取り乱す春香の声を聞いて、太一の意識は回復。同時に状況を把握する。
頬から伝わる強烈な痛みの正体は真理亜の放ったビンタ。太一の暴言が彼女の逆鱗に触れ、その制裁として肉体言語が与えられたのだろう。
とはいえ、春香の言う通りでなにも体罰で訴えなくてもと太一も思う。自分が死後間もないことを除いても、もし間違いがあったのなら言葉で伝えるべきだ。
そう考えると、太一の中で怒りがふつふつと沸き立ってくる。
「おいゴルァ!! ババァてめぇ、痛ぇじゃねぇか!! いきなりなにしやがん——ぬぶぇっ!」
真理亜は尻餅をついたまま悪態付く太一の頭に、丁度いい位置と言わんばかりにゲンコツをお見舞い。勢いよく口を開いていた太一は、そのまま舌を噛んでしまった。
頬の痛みに後頭部と舌の痛みが加わり、太一のライフは目に見えて減少する。
「ちょっとあんた!! 調子に乗るのもいい加減にしなさいよ!」
「う、うるへぇー!」
真理亜はドスの効いた声で怒鳴りつけるが、太一も負けじと舌の痛みをこらえ反抗。そんな太一に、真理亜はもう一撃お見舞いしようと一歩距離を詰めると、間に春香が割って入る。
「まぁまぁ、ちょっと落ち着いてくださいよ。これ以上の乱暴は私が帰ってからにしてくださいよ」
「いやいやいや、ハルちゃん? なに言ってるの? 助けに入ったんじゃないの!?」
てっきり助けてくれるものだと思っていたが、春香に限ってそんなことするはずもない。これがいわゆるイジメの黙認というやつだ。
思わぬ肩透かしから条件反射的にツッコンでしまった太一だったが、これがまた真理亜の逆鱗に触れる。
「こらっ、あんたはまたっ! 自分の世話してくれるカウンセラーにそんな口の利き方するやつがあるかい!!」
元々しゃがれ気味だった声に怒気が加わった真理亜の声は、太一を震え上がらせるのに充分な効力を発揮する。結果、太一の中に疼いていた怒りは完全に意気消沈。口を開こうものなら、叩かれるか怒鳴られてしまう。
唯一、太一に出来ることはぼそりと他の二人に聞こえないよう独り言ちることだけだ。
「もぉなんなんだよ……なにが聖母だよ……」
期待していたアパートはオンボロで、救いを求めた聖母はかかあ天下さながらの強烈なキャラクター。太一は浅はかさだった数分前の自分に向けて深い溜息を吐いた。そして、当事者の意思に関係なく管理人とカウンセラーの会話は続く。
「まぁ多少変わったところはありますが、根はいい子なんですよ彼」
「どんな子が来ようとも、あたしゃ拒んだりしないから安心しなよ」
「ええ。そこは信頼してますよ」
真理亜との会話に一区切りつけた春香は、目線を太一に戻へと戻し手を伸ばす。
本日二度目となる春香から差し出された手を掴み、太一はゆっくりと立ち上がる。
「ほら、改めてちゃんと自己紹介しなさい。ちゃんとしてれば怒られないんだから」
春香の口調は真理亜の人柄をよく知っているような口ぶりだ。やはり、この二人はそれなりに近しい関係なのだろうか。
二人の関係にちょっとした興味が湧く太一だったが、それよりも今はもっと重大なことがある。言わねばならぬことがあるのだ。
太一は大きく息を吸い、腹に溜めていた感情を言葉にする。
「自己紹介とか以前に……俺、ここに住みたくないんですけど」
本当はもっと綺麗な流れを用意して、丁重にお断りしたかった。だが、この一刻を争う状況下においてそんな悠長なことを言っている暇はない。
せっかく二人が黙っているこのチャンスを生かさない馬鹿がどこにいる。ましてや自己紹介などしてしまえばもう後戻りはできなくなってしまう。オンボロアパートで鬼婆との共同生活など願い下げだ。
という思いを込めて心の底から絞り出した勇気の言葉だったのだが、春香と真理亜の表情には一切と変化が感じられない。もしや聞こえてないのでは、と不安になった太一はもう一度いおうと試みる。イ
「え、えっと……俺、ここに住みたくな——」
「それ以上は言うんじゃないよ」
太一の言葉を遮る低い声。てっきり春香の秀逸なカットインによって話題がすり替えられることを予想していたのだが、声の主は真理亜だった。
予想外の展開に驚く太一だったが、真理亜が出てきたということはこの後の展開は殴られる可能性が高い。太一は咄嗟に両腕を前にかざし、即席のガード態勢をとる。
が、想像していた衝撃が訪れることはなかった。
「うっ……え、あ、あれ?」
太一はゆっくりとガードを緩め、腕の隙間から恐る恐る真理亜を見る。すると、そこには先程から全く姿勢を変えていない真理亜が立っていた。唯一の変化といえば、温度感の高かった表情が少しばかり冷めたことだろうか。
「ま、立ち話もなんだ。部屋の内装見てから決めても遅くはないだろうさ」
そう言うと、真理亜は割烹着のポケットからチープな鍵を取り出し、それを太一へと放る。
随分と強引に太一の言葉を遮った割には、なんとも煮え切らない展開。これには太一も疑念を抱かずにはいられない。
「い、いや……外観がこんなんじゃ、中見る必要もないっしょーが?」
「つべこべうるさい子だねあんたはっ!!」
「ちょぉぉぉ、殴らないで殴らないでってばぁ!!」
舞い戻った真理亜の怒気と振り上げられた腕に、太一は身を仰け反って回避を試みる。
しかし、真理亜はそんなこと御構い無しに太一へと肉薄する。
「分かった、分かったから! 部屋見てきますから!!」
脳内で蘇る痛切な感覚に耐えきれず、太一は真理亜の意見を肯定。こうして、太一の物件見学は室内へと駒を進めるのだった。
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