あなたのライカ

さかしま

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第九話

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 起きて朝一番に、ぼやけた頭でハロルド様について考える。ふかふかと言うよりはしっかりと身を支えてくれるソファベッドで、二度寝の微睡みに枕に頬擦りをして、十代半ばの男の子のように身悶える。
 彼は、自己否定モードに入らなければ、それなりにいい男だ。別に否定モードでも好きなことに変わりはないが、唐突に自分を蔑まれると反応に困ってしまう。俺はマイナス点に対して両目を塞いで見ない見ないしていられるほどの全肯定気質な恋はしていない。気にくわないところはそれとなく意見させてもらっているくらいには、全部ガン見だ。
 ガン見していればすぐにわかるが、ハロルド様は自分への評価は低いくせにプライドが高くて、なのに世話焼きな一面もある。介護的な接し方は天然が入っているんだろう。そもそも「人と付き合ったことがないのでどういう距離感でいればいいのかわからない」と自分自身で匙を投げていたことが判明した。つまり童貞同士だ。悪くない。

「美しいお顔立ちなので何人かと浮名を流していてもおかしくないと思っていました」
「……私を美しいと言うのは貴方くらいですよ。私はそこら辺にいる中年のひとりです」

 俺にとっては真面目な話でも、夢見がちとでも内心呟いていそうなため息で返される。つまり俺が大佐に美人と言われるようなものなんだろう。言うなれば、大佐のは身内贔屓で俺のは色眼鏡かな。
 ハロルド様を見ていれば、もう薄汚い他人の使い走りにされるのは嫌だと視線で呪いをかけていることには早々に気づいていた。共にあればこそ、かつて軍法会議でお目にした汚職上官殿らに声をかけられることもある。ローテーションで監視兼護衛がついていてトイレくらいしかひとりにはしないが、それでも寄ってくるギンバエの多さにまだまだハロルド様が権力者の注目の的だということがわかる。まったくひっきりなしだ。堪え性がないのか? 挨拶程度でも接触があれば逐一ダルム大佐に報告がいくので、むしろ大佐の方が我慢の限界に近いだろう。
 そういった風に、他人に自分が消費させられることが嫌なくせ、生活においてハロルド様は若干尽くし症気味だった。
 料理も皿洗いも順番に、洗濯はハロルド様に。掃除は気がついた方がやるのだが、だいたいハロルド様が俺の仕事を奪い全てをちゃちゃっと済ませてしまっている。全てをだ。俺の立つ瀬がないと、これでも説得を重ねた結果なのだから、ハロルド様の考えていることはちょっとよくわからない。ペットは飼えないくらい面倒見の悪い男を自称していたはずなのに。
 ……自分のことは自分でしたいんだろうか。
 ……むしろ、ここは俺のことまで自分のことに含めてもらえていると考えていいのかもしれない。
 いや、自惚れるな、俺。俺については、そう。ついで色が強い。それだけだ。
 ……でも、俺の気持ち、ちゃんと考えてくれての行動だってそこにちゃんとあるはずだ。特に最近は、外を歩くときの距離が近い。繋ぎはしないが腕と腕がくっついている。というかハロルド様がくっつけに来ている。
「…………っ」
 思い出しにひとしきりぷるぷると身悶えて、ふう、と息を漏らし、薄目を開く。そろそろ起きようか。布団から出した足が寒くて反射的に背中が丸くなる。人の姿は毛皮がないからだめだ。それでも人よりは寒さに強いけれど。
 もう、冬が来た。

 街を白基調に特化しているリラの冬は、寒色が仇になったかのように木枯らしと共に閑散としだす。ベランダや階段にレイアウトされた植物もその鉢植えを室内に移し、数少ない暖色でしつらえた石畳もうっすらと積もる雪に隠されてしまう。今年は数年振りに雪がよく降る年のようだ。その分市民は濃い橙やオレンジ、赤といった暖色系統の服装で、恋人や家族と寄り添うように出歩いている。夏が恋の季節なら、冬は愛の季節なんだろう。
 出会い頭はカモの子よろしく俺の背中について歩いていたハロルド様は、今や俺の隣を定位置に歩くようになっていた。俺を置いて行ってしまうこともなく、完全に俺のペースに合わせた歩調でいてくれる。しれっと俺を壁にして冷えた風からささやかに身を守っていることに気付いたときは微妙に呆れたものだが、むしろもう、雪国育ちでよかったと寒さに強い自分を自ら壁用に差し出している。身長的に肩から上はまったく守れていないが、隣を歩くだけで充足感を得られるのだから俺という男は結構安い。むしろ大特価だ。
 息を吐けばうっすらと吐息は白く濁る。俺にとってはそこまで寒くもないが、横を歩くハロルド様を見上げれば赤い鼻っ柱を隠すようにぐるぐるとマフラーを巻いているものだから、寒がりにはつらい季節なんだろう。
 そう。ハロルド様は、存外寒がりだった。
 風呂上がりの真っ裸はそれでも下着一枚履くか履かないかの違いしか今のところないようだけど、寝る前の読書タイムは俺のソファベッドに寝転がり、狼の俺を胸の上に乗せて天然の毛皮湯たんぽで暖をとりながら満喫している。寝間着はちゃんと着てもらっているのであしからず。ハロルド様はもうそこまで獣臭さを気にしなくなったようだ。受け入れられているみたいでちょっと嬉しくて、パタパタと尻尾が揺れる。尻尾を振っていると片手に本を持ちかえて、あやすようにぽんぽんと頭を撫でてくれる。そのまま耳の付け根を掻いてくれるので、気持ちよさに無意識に力強く尻尾がブンブンと振れてしまい「こら」と額を小突かれる。毎日のことだが、尻尾はどうにも止まらない。
 ……しかし、いい感じだ。いい雰囲気だ。
 食事のときでさえ会話が途切れない。初日の俺に安心しろと伝えてあげたい。

「他人と過ごすのは初めてでしたが、それほど大したことはなかったなと思っています」
「そうなんですか? 俺は成人まで軍宿舎で過ごしてたんで人との暮らしには慣れてるんですけど、我が家だと家族とだって過ごしたことないのでわりとずっと新鮮な気持ちでいます」

 どういうことだと問いかけてくるように首をかしげるハロルド様に、思い出にくすりと笑って答える。

「子どものころは雪山で狼として暮らしてたので、家なんてなくて。ナワバリ内で兄妹と団子状態で寝るって感じでした」
「兄妹いらしたんですか」
 呟きの問いかけに頷く。
「妹は好きでした。俺と似た毛色で可愛いかったです。いや、むしろ群れの中で一番の可愛らしさでした」
「他は違ったような言い方ですね」
「兄が三人、姉が一人に弟が二人の、妹が一人いたんです。動物で半生以上を過ごしてる部落だったので、一度に多産なんですよ。まあ、きょうだいなんて言っても腹から出たのなんてたかだか秒から数分しか違いませんし、出生順より根本的に身体の強さで順位が決まるので兄だから弟だからってのはないんです。なのでみんな互いに名前呼び」

 アリビナ、と口内で妹の名前を呟き、胸がむず痒くも暖かくなる。

「それなのに妹だけは、俺のことお兄ちゃんって呼んでくれて。それだけでもうすっごく可愛いでしょう?」
「そういうものですかね」
「弟にお兄ちゃんって呼んでもらいたくなるくらいには可愛かったですよ。呼んでくれたのは妹だけでしたけど」

 ひとりで立てないなら生きるな。立った上で群れとなれ。野生暮らしは基本的にそんな感じだ。
 個として生きるにはどうしようもないほどシビアで、だからこそ、群れに固執してしまいがちになる。
 俺を引きとめてくれた妹を想えば、今でも胸が痛む。群れ全員とはさすがに言えないけれど、彼女だけは生きていてほしい。

「私は三人兄弟の真ん中でしたよ。何をするにも上からは押さえつけられ下からは奪い取られる。そもそも家族仲は悪かったですね。名前を呼ばれるのも兄さんと呼ばれるのも嫌だった。だから早々に家を出ました」
「ハロルド様って結構スピード出世ですよね? 帝都を中心に鉄道を引いたのってハロルド様の案件でしょう? 俺が十歳のときだから、二十歳そこらでそれはすごいですよね」
「貴方がそれを言いますか」

 これだから才能の塊は、と忌々しげに舌打ちされて苦笑する。
 獣人はあまり人間の社会に出てこない。何世紀か昔なら仲は良くなくとも同じ街で数を同じく共存できていたらしいが、現代じゃ似て非なる者への忌避感からか互いに不可侵を装っている。獣人は獣人と、人間は人間と。だからこそ獣人は別の獣人メインの大陸に居を構えるし、人間の国に住む獣人ももともと数が少ない。同じ大陸に住んでいても全くの未交流で、好き好んで戦争の駒になろうとする輩はなおさら少ない。けれど、居ないわけではないのだ。
 戦地は獣人の独壇場になり、功績はすぐに授けられる。戦地に臨み、屠り、勲章授与を経てまた戦地に赴く繰り返し。だからこそ、戦地にて出会う敵国の獣人だって、自分と同じく地位とその強さが単純に比例している。出会えば相手は自分以外の誰にもできない。
 その上で、俺は少年兵でもあった。戦場で少年兵を殺すのに躊躇してしまう故郷に自らの息子を残してきた大人の代わりに、同い年くらいの少年も相手にしてきた。そしてそういった、躊躇してしまう大人だって相手にしてきたのだ。
 自分でも認めているほどに、俺はとても使い勝手のいい兵だった。文字通りの軍の犬だ。

「若い獣人が戦時に出世できるのは当たり前のことです。むしろ戦時以外じゃ差別対象で出世なんてできないでしょう。平時はやっかみの対象ですから。この姿なら単純に負けてしまう大の大人相手でも、獣の姿になれば狩りの対象になりますし、ポテンシャルが根本から違うんです。だから、そんなに強くないはずの人間のハロルド様の方が、ずっとずっとすごいんですよ」
「……あの頃は戦時真っ只中で必死でしたから。それでも現在は中佐止まりですので、ダルムシュタット大佐と比べればどうということはないでしょう。士官学校でも優秀だった同期がちらほら中佐階級に上がってきていますし、ようやく年相応に混じれたところです」

 この件はもう話したくない。ハロルド様は居心地が悪いとでも呟くように息を吐いて食事に戻った。
 俺も大佐も超スピード出世で周りの視線からの苦労は知っているつもりだが、そこは現場の力こそ正義と実力主義が黙らせた。精神的な苦労ならハロルド様の方がずっと大きかったんだろう。思い出したくない思い出なら、口は閉じるに限る。

「俺がそばにいられたら悪意の視線なんて頭ごと蹴り飛ばしたのに」

 冗談半分で呟けば、ハロルド様は「ふ」と僅かに目を細めて笑った。


 年末に向けての事務が増えていく時期は、真夏の茹だる暑さのなかの事務処理よりも嫌いだった。夏場は熱中症による気絶で毎年早々にリタイアしているので、俺にとって精神的負担はこの時期の方がつらいのだ。でも、それは去年までの話だ。俺は声高々に夏の事務が一番嫌いだと言わせてもらおう。

 ハロルド様はダルムシュタット脳筋部隊のボスのように室内を仕切っていた。大佐はサインを書くだけでいいから楽だなんてじんわり目元を濡らしているし、不備で出戻りしてくる書類も最初からハロルド様に弾かれているので他部署からのねちねちした嫌味や罵倒気味な批難の声もまだ今年は聞いていない。
 帝都勤務の半数以上を占める頭脳派エリートの、あの蔑みの視線がないだけで、メンタルが正常に働いている。素晴らしい。全てハロルド様の手腕だ。筋肉面では全く期待していなかったが、うちの部隊に来てくれてよかった、とは部隊の総意である。
 もちろん俺はハロルド様がいてくれるだけで十分なのだけれど、実際問題戦場以外で頭を使えないぽんこつ筋肉バカ部隊の内勤に事務処理能力の強い人員を要求しても、こんな筋肉バカのところに来たがる非戦闘員頭脳派エリートはいないのだ。だって、左遷と同義なのだから。
 今年は楽だ。本当に楽だ。
 ハロルド様も淡々と作業をこなしている。一字一句を正確に読み取るすっと尖らせた視線の先で、すらりと長い指先が書類をめくりペンを走らせる。姿勢は疲労と共に次第に前屈みになっていくが、猫背が一定のレベルに達すると首をほぐすように手で揉みながらぐっと背を伸ばす。視界の邪魔にならないよう耳にかけていた黒い長髪がなめらかに頬に流れ落ち、それをまた耳に掬い上げる、この動作。俺の視線に気付くと用があるのかとでも問いかけるだけのアイコンタクトに俺はにっこりと微笑み自分の仕事に戻る。――なんという眼福。
 そうやって過ごすうちに、ハロルド様が内勤に優秀過ぎるからか、緩めてはいけない気が緩んでいたのかもしれない。いや、確実に緩んでいた。

 脳筋を自負するうちの部隊の誰もがハロルド様に自分のデスクを解放していた。引き出しの中の書類はプライベートな手紙だろうが、紙面なら全てデスクに存在するだけでハロルド様の目に触れ、チェックを受ける。事務処理に関係あるかないかはハロルド様が決めるのだ。バカに決定権はない。適材適所。文字通りの丸投げだ。だからこの失敗は、完璧に、言い訳もできない俺のミスだった。

「これ、どういうつもりですか」
「……どういうつもりもなかったんですけどね」

 俺のデスクにこれ見よがしに置かれていたのは、いつかハーウィン中佐に書かせた念書だった。
 普段よりも少し低い声色も、獣人の耳からすればそれだけで背中に冷や汗をかくにあたいする圧迫感があった。ハロルド様の目には怒りが見えて、自然に喉がきゅっと絞まる。
 眉間のシワと鋭く細められた視線、曲がった唇。不機嫌さを体現してみせたハロルド様を前にすると、何を言ってもハロルド様は納得せず、ただの言い訳になるだろうことは十分に理解できていた。

「私を理由にされるのは、虫酸が走る」

 それは、そうだろう。ハロルド様のことは、ガン見しているから他人よりよくわかってる。
 自己評価が低くて、プライドが高い、食後に珈琲を飲むときは砂糖五つを入れて、その後丸々一つを直でかじり食べる甘党で。自分を利用する者を視線で呪っている世話焼きで。利用されることが大嫌いな、ハロルド様はそんな普通のお人だった。
 ハロルド様を利用したのはハーウィン中佐だ。でも俺はそれをよしとしてしまった。働かされるのはハロルド様ではないから、なんて言い訳、プライドの高いハロルド様には通じるものか。
 時限式の地雷を、俺はすでに踏んでいたのだ。

「そろそろ出ていこうかと思っていました」

 一方は苛立ち、一方はしょげている。そんなふたりの気まずい雰囲気の自宅で、早々に蹴りをつけようとしたのはハロルド様だった。少ない私物をバッグに収納し、引き留めても無駄だと行動で示している。
 目の前が真っ暗になる。言葉が喉仏につっかかってなかなか出てこない。どうしてだろう。無駄でもいいから引きとめろよ自分。そう自分に促すのに、どうしても言葉が出ていかない。
 当たり前だ。俺は、近付いたり離れたりするのは得意だった。手を繋ぎ引き留めてくれた妹を残し雪山をひとりで降りたくらいには、特に離れることには適正がある。

 ……俺がこんなんだから、別に、恋や愛が全てなんて気持ちで生きてる訳じゃないんだけれど。

 逃げるように視線をそらした瞼の裏でハーウィンの言葉を思い出す。
 ――確かにこれは、死にたくなる。

「……わかりました」

 泣きそう。年甲斐もなく。
 お世話になりましたと言葉を残し、ドアの閉じるささやかな音に、じんわりと目頭が熱を持つ。それをどうにかしたくて、八つ当たりで目の前のテーブルにあったコップを手の甲で振り払う。コップは壁に当たり、破片が中の水ごと飛び散った。

「ああ、くそ……!」

 自分へのやり場のない怒りによる激情を、深い呼吸で整える。怒るのは、疲れるからだめだ。しゃがみ、冷静に吐息して、腕に数滴の涙を吸わせたら、やるべきことがすぐに見えてくる。
 立て続けにミスをしてしまった。きつけに誰かに殴ってもらいたい気持ちを自分の手のひらで代用して、落ち込む前に立ち上がり、ハロルド様を追いかけた。
 俺は足が早いので、幸い、ハロルド様はすぐに見つかった。ゴミ捨て場に殴り倒されている最中だったけれど。

 拳を握り、自宅から走り出たスピードをさらに加速させ、ひとりの男に殴り込む。数はたったのふたりなので、手を煩わせるようなことは起きなかった。
 殴り倒した男に声をかけさせる暇もなくもうひとりの顔面目掛けて回し蹴りを食らわせて、怯んだ男ふたりに遠慮のない確実な金的で苦しみ悶えさせる。
 自分でやっておいてなんだが、こういう現行犯逮捕は憐れだ。

「うっかりしてました。俺はハロルド様の監視役もとい護衛なので、喧嘩別れとかしてらんないです。俺ひとりが護衛しなきゃいけない夜は、特に。職務放棄すみませんでした」
「……感情のままに視野が狭くなっていたのは私も同じです。この件で貴方を責めることはありません」
「そう言っていただけていくらかは気持ちが軽くなりました。……殴られただけですか? 刺されたりしてないです?」
「殴られただけです」
「倒れたときに頭ぶつけたりしてませんか?」
「していません。痛むのは頬と口内だけです」

 ゴミ袋をクッションにしているハロルド様に手を差しのべることはなかった。男のプライドは互いに守っていきたいので、俺がやることは、逃げ防止に泡を吹く男の片腕を掴み膝をあて、テコの原理で綺麗に折ることだった。
 ボキンと鈍く、それなのに軽い音が二人分の二回鳴る。心ない追い討ちと言うなかれ、同じ男だろうが金たまに容赦はしなかったが、せめて綺麗に折ったくらいには良心は残ってる。犯罪者を引き渡すまでが護衛なのだからいちいち回復してきた頃合いを見計らって金たまを蹴りあげ歩くことすらままならなくさせるのは時間の無駄なのだ。腕を折ってそれを掴んで歩く方が行きたいところに早く行ける。シャツを破って舌を噛み切らないよう口輪にするのも忘れてはいけない。

「貴方とは口喧嘩しかしたくありませんね」

 唇から垂れる血を指で拭い、ハロルド様は渋い顔で呟く。これには苦笑するしかない。人としてどうなんだ、という行為をしていることは、重々理解している。同じ男としても、容赦ない金的を食らわせるのに戸惑いもない俺なのだからごもっともだ。こんな暴力男を前にしたら引いて当たり前。

「俺がハロルド様に手足をあげる日は生涯ないですよ。お約束します」
「そうしてください。引き渡しは軍で?」
「この時間ですし大佐のところに置いてきましょう。お家が古き良き貴族様のお屋敷ですから、すごいですよね、地下牢完備です。ついでに、俺のところに戻るの嫌でしょう? 大佐のところのゲストルームを借りてください。数日住ませてもらったことがあるんですが、すごい豪華ですよ」
「こういう目に遭えばこそ反発する気も起きませんね。そうします」

 自分で提案したことだが、素直に受け取られるとちくりと胸が痛かった。
 夜中でも嫌な顔ひとつせず不審者の腕を捻りあげ対応してくれる執事と、その執事に叩き起こされて口元をへの字に曲げきった大佐に挨拶としてにこりと微笑んで見せる。

「お前らな……、この時間だぞ……」
「人の眠りを妨げる者、汝の眠りを妨げられん。聖典にも記されていそうな言葉を俺の大佐に贈ります」
「だーくそっ、小生意気に得意気なのが腹立たしい!」

 就寝していた大佐の唇は曲がりに曲がっていたけれど、それほどお叱りは受けずに済んだ。
 あれからハロルド様とは、残念ながら接点が減りに減った。かと言って仕事のときはちゃんとお話しするので、ますます同居していたころが夢みたいだ。顔には出さないが、寂しくてどうしようもない。
 そばにいるだけでとか以前に、軍という同じ空間にいられるだけでよかったんだから、遠くから眺めていただけのころから比べると、俺はずいぶんと我が儘になった。
 今までは夢だった。そうだな、夢なら上等の悪夢だ。俺のバカさ加減が嫌になる。せめて昼間はなんでもない顔をして、夜は泣き出さないように枕に顔を埋めて窒息するように眠った。
 まだ割ってしまったコップの掃除はしていない。それどころかふとした瞬間に自分への苛立ちが再加熱されて、もうひとつコップを駄目にした。モノに当たるのはよくないと考え直せば夜中だろうが街中を汗だくになるまで走った。食事は缶詰め。洗濯物は溜まりっぱなし。掃除なんてする気も起きない。花は花瓶のなかで枯れている。たった一週間で、そんな、なにもできない自分が出来上がってしまった。
 ……出来上がってしまったんだけどなぁ。

「泊めてください」
「困ります」

 ハロルド様の申し出に即答する。汚部屋を晒すなんて無理だ。俺たちがどんなに微妙な雰囲気で喧嘩別れしたか思い出しながら、せめて一日前に言ってくれ。

「ダルムシュタット大佐の自宅は私には無理です」
「大丈夫、大体の庶民には無理ですよ。大佐は生粋の古き良き貴族様です。使用人に洋服でも着せられそうになりましたか? 寝間着に着替える手伝いも淡々と行われますし、全裸派にはきついでしょう。お察しします。プライバシーなんにもないですよね。だから俺も早々に大佐のお家から自立させてもらい今に至ります。ハロルド様、あの家のルールに従い諦めましょう」
「無理です。あれを当然と受け入れられるのはそういった環境で育った者か子どものみです」
「じゃあどうするんです。大佐と俺の部屋で生活するんですか? 俺、大佐のところ一泊はできても連日は無理です。俺か大佐以外にハロルド様の護衛は荷が重いので誰もいませんし、俺が出張のときみたく大佐に外部の警護雇ってもらうのはお金の無駄ですし、我慢しろとしか……」
「……貴方の護衛にどれほど甘やかされていたか理解できました。感情のまま飛び出した結果貴方を振り回すことになったと重々承知した上です。……そもそも、私の不始末でしたし。申し訳ありませんでした」
 えぇ……謝ったよこの人……。
「そこまで弱ってるんですか……?」

 三十を過ぎた中年のおっさんには、世話で下着までひんむかれることを許容できないようだ。十歳若い俺ですら無理で一日二日でさっさと今の部屋を契約したくらいには無理だったから、それでももった方なのかもしれないが。

「俺と同居するならセックスありきですよ。俺だって男です。ほら、おとなしく大人として大佐のお家の世話を受けてください。慣れると堕落した生活ができますよ」
「そんな気持ちの悪い生活享受したくありませんよ。……貴方のことは、抱けるとは、思っています」
「はは、するときはそうしましょう。でも現実的に俺相手じゃ勃起し続けるのも至難でしょう。獣人が人の同性とするためのお薬は数は少ないですが流通しているので、それを飲んでいただくことになりますね」
「人体に影響はないんですか? ふむ……」

 ハロルド様は口元に拳を当てて、一考するそぶりを見せる。
 ……え、これもしかして冗談じゃなく考えてくれているのだろうか。遠ざけようとしたのに!
 なんてことだ、とハロルド様から距離をとるように大佐の腕に隠れる。

「……はぁ。お前ら、そういう痴話は他の場所でやってくれないか」
「ダルム大佐の個室が一番人の出入りがなくて人の目を気にすることなく居られてなに話すにも安心なんですよ」
「なら俺が留守のときにしろよ。俺の耳目も数に入れろ。……そんなに使用人に世話を焼かれるのはおかしいか?」
「貴族階級内ではおかしくありませんよ。おそらくは。ね、ハロルド様」
「平民出には居たたまれない世界だっただけです」
「お前は一応下位貴族出だろ」
「下位過ぎて平民と変わりませんよ」

 大佐は貴族のお坊っちゃまだ。風呂上がりに大事なところまで使用人にタオルで拭かれるくらいにお世話されているのに、なぜ料理長ほどに料理上手なのかがわからない。お坊っちゃまには料理なんてさせられませんと断るべきところだろうに。
 顔良し、性格良し、やらせてみれば料理上手でとどまり知らずの才能の塊であるエリート階級ゴリラマッチョを主人に持てて、あの屋敷の人々はきっと甘やかしたい気持ちを抑えられなかったんだろう。それが客人である俺たちにまで向くのだ。
 さすがに風呂上がりは自分でやると苦笑されても俺たちはお世話されたぞ、と恨みがましい目でふたりして大佐を見つめた。そしてその視線に気分を害した大佐に、そのままハロルド様は家から追い出されたのだった。まずった。
 そうしてハロルド様が出戻ったわけだが……。

「……荒れていますね」

 出戻りの一言目に、ぐうの音も出ない。だから困るって言ったのに。自分の恥を前にいじけて涙目に頬を膨らませれば、隣の大男は仕方のない子どもだとでも言うように小さく笑った。
 ハロルド様の家事能力は、すでに俺と同レベルか少し越えたところだろうか。内勤メインでも佐官は佐官だ。並列思考で的確に俺に指示を出し、炊事洗濯掃除をシングルタスクの集中力でマルチタスクに終わらせていく。ただ、汚れた洗濯物が積まれ、空き缶と割れたコップが散乱した汚部屋は、仕事終わりに大掃除するものじゃなかった。休日に休憩を挟みながらするものだ。まだ街中を走っていた方が疲れない。
 そうしてなんとか清潔さを取り戻した部屋の仕上げにへとへとな身体をシャワーで潤して、濡れた髪のままソファベッドに腰掛ければすぐに睡魔が襲ってくる。
 寝たい。眠たい。精神的にも疲れが限界だった。
 身体を横倒しに丸まり、うとうとと微睡んでいると、頭の横にハロルド様が座り、水滴を拭うように俺の額をひと撫でした。それだけで一拍置いて瞬時にぶあっと体温が上昇して、ぱっちりと目が冴えた。

「しないんですか?」

 なにをだ。カチコチに緊張した身体で、顔だけ僅かに動かしハロルド様を見上げる。ハロルド様はその俺の顔の真上に自分の顔を覗き込ませ、長髪の黒いカーテンで俺を閉じ込める。片想いしている人にこれをされてときめかないでいられるほど不感症じゃない。色気がすごい。真っ赤に染まった顔が、情けなく狼狽えてしまう。

「セックスはしないんですか?」
「……し、ませんよ。さすがに、爛れた関係はごめんです。大事なことは清く正しく、です」

 ハロルド様は俺を上から眺めながら、納得がいかないような表情で、それでいて安心したように息を吐く。

「本当に好かれているのかわからないですね」

 この真っ赤に茹であがった俺の肌色をちゃんと見ろ! 触って温度を確認しろッ!
 さすがにカチンときて、顔の横に垂れていた艶髪を柔く掴んで引き、顔を俺に寄せ、同時に腹筋で上半身を起こして唇を押し付ける。えいや、と。
 ファーストキスだ。
 唇と唇をくっつけるだけなのだからなんの味もしないけれど、鼓動が唇までジンジンと伝わって痺れてくるものだから、やっぱり初めてって特別なんだろう。

「あのですね! ……中年のおっさんの一挙一動に一喜一憂してしまう青年を相手にしていることを、もっと、自覚してください。あなたが好きですよ、俺は。あなたばかりが美しくかっこよく見えてしまうくらいには」

 好きです、と腹筋から力を抜いてソファに沈み、熟れた顔のまま、まっすぐハロルド様を見上げる。手のひらが汗をかいている。そのうちに額にもかくだろう。
 眉を下げた真剣な眼差しで恋を伝える。そんな俺の精一杯は、目を丸くしたハロルド様の「殴られるかと思いました」という殴られなかった安堵の呟きにスルーされてしまった。
 くそう、この男、意外にマイペースだ。めんどくさい!
 暴力は振るわないとお約束したはずですよと拗ねるように唇を尖らせ、身をよじりソファに顔面を押しつけ隠す。耳がジンジンとしているからそこも真っ赤なんだろう。見せつけるようにふて寝をしようとすれば、耳たぶを指でひと撫でされて、毛布と掛け布団をかけられ「おやすみなさい」ときたものだ。
 心臓がばごんとへっこんでどごんと弾ける。もう全身が発汗して火照ってしかたない。
 ひとり残されたソファベッドで何日か振りに思春期の少年のように身悶えて、ころげて、ハロルド様について考える。きっと明日の朝もおんなじように考えてしまうだろう。
 遠目でガン見していたころは本当にただ美しく、かっこよかった。
 切れ長の瞳に漆黒の長髪。その姿を脳裏に思い浮かべるだけで頬が赤らみ胸が騒ぐ。ああ、やっぱり好きだ。
 今はただの三十路陰キャ童貞に好みの顔スタイルを張り付けた、俺特攻の色気がすごい中年男性という意識が無きにしもあらずだった。それでも今日を含めたった数ヵ月の思い出の端々にくずぐずのぐでんぐでんに照れてしまうのだから、初恋は呪いだ。
 ……絶対、ぜったい、諦められない。
 指先で唇をふにふにしながら、頑張ろ、とはにかんだ。
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碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

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