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第十話
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「ライカ」
夜の雑踏でも自分の名前は聞き逃さない。それが誰の声なのかも、人より耳がいいからもちろんすぐにわかる。そしてこの目は夜にこそ強い。
「ハーウィン?」
「よぉ」
「わあ、久しぶり……でもないか。それなりにぶり。ちょっと頬寄越せ」
「ぐあっ!」
挨拶で抱擁した身体が離れる一瞬の不意打ちで、一発殴らせてもらった。殴られた頬に手を添え尻餅をつく友人の呆気の表情で、俺とハロルド様がちょっと妙なことになっていた原因を手打ちにしよう。俺は友人を甘やかし大切にする方だ。
「なに、俺はなんで殴られたわけ」
「それに関しては終わり。はい、立つ。通行の邪魔」
手を差し伸べてハーウィンを立たせる。本気の一発にもしなかったし、腫れてもいない頬を見れば痛みもそこまでないのだろう。そんなんだから、本人も納得していないけれど俺がなんかしたんだなと察して気にしないことにしたようだ。理解の早い友人で喜ばしい。
なぜこんなところに、と首をかしげれば、ハーウィンは後回しにしていた必要書類の記入だなんだを年内に帝都で済まさなければならないらしく一週間だけ滞在すると言う。トップ自ら町から離れて大丈夫なのか。
「部下に任せてきた。……あんたに育てられた俺が育てた部下たちなんだから安心しとけ」
「とか言って年末最後の新作家電チェックしたくて来ただけのくせに」
「ぐっ……、勤務時間外くらい趣味させろっつーの」
頬をつねられたので戯れにその指に向かって噛みつくそぶりをみせてじゃれつく。ハーウィンは表情をほころばせぐりぐりと俺の両頬を揉みしだいた。
「なんだ、今日は随分と最初から気安いな。普段のだんだんと素がでてくるのもいいもんだが、やっぱこっちのが嬉しいな。この後暇か? ダイナーも連れてきたから、晩飯一緒に食おう」
「ダイナーくんいるの? どこ?」
「田舎者丸出しにわあわあ楽しんでたから隣歩くの恥ずかしくてな、道中置き去りにしてきた」
「悪い大人だ……」
嬉しいお誘いだが、ここでようやく隣にいた買い物袋を腕に抱くハロルド様に視線を向ける。その長身を活かし威圧を向けるようハロルド様はハーウィンを睨んでいた。
……ちょっと引くほど怖いので、ハーウィンから離れハロルド様の脇に立つ。
「ハロルド様、俺の友人のハーウィン・カブスマン中佐です。ハーウィン中佐、この方がハロルド・モーガン中佐」
「顔程度なら知っています」
「言ってなかったか? こいつとは同い年で士官学校の同期」
「えっ」
「俺はできが悪くてこいつは優秀ってことで挨拶もろくにしたことなかったけどな」
ハーウィンはふんと鼻で笑い、それから鋭い青色の瞳でハロルド様を睨みつける。ふたりの間に見えない火花が散っている。仕方がないのでハロルド様からも数歩離れた。ふたりの仲が悪いことはそこら辺の子どもでも察せる。巻き込まれるのはごめんだ。
「私の件でライカ・ローデン曹長がお世話になったそうで」
「ああ、あんたの尻拭いするにゃこいつが必要だったもんで」
「な、なんでナチュラルに俺を巻き込む……」
せっかく逃げたのに当事者だろうがとハーウィンにデコピンされ反射的に一歩下がると、ハロルド様に腕を引かれ買い物袋を託されて、その背にすっぽりと隠されてしまった。
当事者なのか、当事者から外されたのか、いまいちわからない。
「あんたと同じランクっつうのは士官学校振りだな中佐殿。いやあ、エリート様かと思ってりゃずいぶんと動きが鈍ったようで」
「ようやく昇格ですか。ですが年齢としては平均より早めですね。若くしての出世、おめでとうございます。聞いたところ、西部勤務に移ったとか。資金のやりくりに心得はありますか? よければ助言差し上げますよ」
「それは助かるが、前任者と同じ轍は踏みたくないからな。丁重にお断りさせていただく。あんたも実働部隊に移動したばかりだろ? 内勤と外勤じゃ随分と空気違うだろ。俺でよければいつでも相談にのってやるよ。意識のすれ違いは簡単に関係を壊すからな」
「お言葉だけありがたく受け取っておきます。私には面倒見のよい未来ある上官殿と公私共に優秀なサポートがおりますから、お構いなく」
「チッ」
「ふん」
「うわぁ……」
うっわぁ……。皮肉のきいた嫌味の応酬で睨みあっている。急になにし始めたんだこの人たちは、全くもって大人げない……。触らぬ神になんとかだろう。
ねちねちと口論するふたりを背に家電量販店のディスプレイを眺めながら買い物袋を抱え直していると、また覚えのある声に呼ばれて振り向いた。
「ライカ曹長! わあ、こんな広い街中で出会えるなんて感激です! お怪我の具合はもうよろしいんですか? あの日からもう心配で心配で……。あ、荷物お持ちします!」
「いいよ、このくらい持てる。相変わらずの行動力だね。俺は大丈夫だったよ。怪我もすっかり完治してる。ダイナーくんこそ元気にしてた?」
「はい! 日々訓練で中佐に鍛えられています。成長具合を見ていただきたいくらいです!」
褒めてほしいオーラがひたすら強いキラキラと輝く瞳が細まり、ニッと笑みをみせるダイナーくんにつられて微笑む。後ろの険悪なふたりも彼を見習ってほしい。
「なんだ、もう来たのかダイナー。鼻がいいな」
「ああっ! ハーウィン中佐酷いです! ライカ曹長と会うお約束があるなら置いていかないでくださいよぉ!」
「約束なんてしてねーよ」
「どうやら連れが到着したようなので我々は帰りましょう。今すぐに」
「あ、ハロルド様、ハーウィンとダイナーくん夕食に招待してもいいですか?」
「……再来週ならご自由に」
「再来週だと帰ってるだろ、何年経っても苛つく奴だな。ライカ、今週末よろしく」
「ライカ曹長とごはん……! 楽しみです!」
ふんすふんすと鼻息を荒げて俺の片手を握り喜ぶダイナーくんをハロルド様が引き剥がし、代わりにその手に繋ぎ引っ張られる。急ぎ週末二連休の一日目に約束を交わしてふたりと別れ、そのまま帰路を再開したのだが、ハロルド様はふたりに若干ストレスを受けたようでいつもより歩調は早まり次第に競歩になっていった。手は繋ぎっぱなしだ。
……やばい、引きずられる。
歩幅が違うせいで競歩でついていくにはややつらい。さすがに走るか、と買い物袋を抱く腕の力を強め軽く駆けようとしたところでハロルド様は自らのスピードに気付いたのか、人通りの少なくなった路地で急に立ち止まる。もちろん俺も咄嗟に止まろうとしたけれど、足のブレーキに上半身が投げ出されるかたちで広い背中に衝突してしまった。
ぶぎゅう、と情けない息が潰れた鼻腔から漏れる。
「す、すみません……」
くぐもった声で見上げて振り向いたハロルド様と目を合わせる。
「……」
言いたいことはあるが言うのは癪だ、なんてしかめっ面でハロルド様は俺を見る。俺は少し萎縮して首をかしげなんなんですかと催促するくらいしかできなかった。
「……貴方の人間関係に口を挟むつもりはありませんが」
その言葉は、挟みますよと暗に言っているようなものだ。ごくりと息をのみ身構える。
「貞操観念だけはきちんとしてください」
「すごい失礼なことを言われてしまった」
ガーン、と、頭のてっぺんから電流が走り落ちたかフルスイングでぶん殴られた気持ちだ。
貞操観念。
いたいけな十代の性欲を爆発させることもなく二十代後半に突入している俺が誰に操立てしていると思ってるんだこの人は。
口をぽかんと開けてハロルド様を凝視する。「失礼だという自覚はあります」と苦虫を噛む表情をみせるくらいには、確かに言いづらいことをストレートでもらった。ストレートすぎてこんなの毒気もわかない。
「……ハロルド様があまりにも俺のアプローチをスルーしっぱなしなので忘れてしまうんですが、そう言えばハロルド様はハロルド様で、俺のこと真剣に考えてくれてるんですよね……」
そういう話をしたことを思い出す。
ハロルド様にガン惚れしている俺を牽制してどうするんだろう。ハロルド様の口から今は自分が口説かれているのだから近付くなとハーウィンに直接言ってほしいものだ。言ってくれたらその気もないハーウィンにこそ悪いが、俺はたいそう喜んだだろうに。
「……私は不器用だと何度言わせるんですか」
「たぶん、恋人関係になれば少しは安心して愛情の裏返しだとか裏目に出たんだとか納得できるとは思いますけど、いかんせんハロルド様が不器用すぎて俺のアプローチ失敗してるな、としか思えなくて……」
「失敗なんてしてないでしょう」
「うそだぁ……。俺ばっかり真っ赤になってるじゃないですか……」
「その気にさせられていなければキスなんてさせませんし、しませんよ」
頬に手を添えられ、角度を調整される。そのまま顔が近づいて、唇を塞がれた。いきなりのことすぎてまばたきも忘れ眼前の瞼と睫毛を見つめていると、離れていくけれどまだ至近距離のハロルド様と視線がかち合って、ハロルド様の頬がボッと赤くなる。誤魔化すように力の入る表情筋に眉間のしわと鋭さを増す瞳を前にして、ようやくときめきドキドキと胸が高鳴る。
「っ、目を閉じるのはマナーでは?」
「ぁ、ごめんなさい……。あ、あの、でも、いきなりされた俺より照れるなんて思わなくて……つい、見いっちゃって……」
「……緊張せずにできるようになれと? それには前もっての覚悟か回数が必要です」
「そ、そうですか……」
「この間のキスは抱くまでの覚悟がありましたから赤らむのは抑えられましたが、まあ、多少混乱しておかしなことは口走りました。……私は不意討ちには弱いですよ。前にも貴方に赤くなったことなんていくらかあったでしょう」
「そ、う、でしたか……? あの、いますごく、あたまはたらかなくて……おもいだせない……」
「あんな見ただけで不味いとわかるものを食べるなんて言い出すんです。不意討ちでしたよ」
「あ、あのときか……」
確かに、好きな人の手料理は食べたいと言ったときにハロルド様は赤く照れていた。もしかしてあのときからだいぶ脈アリだったんだろうか。
心臓の鼓動が肋骨背骨を伝って頭の天辺から爪先まで、全部をドキドキと揺らしている。買い物袋を支える手のひらは湿って紅葉型に紙袋が湿ってる。
人目なんて気にならない。ハロルド様しか見えてない。
ハロルド様の洋服の裾を摘まんで、見上げる。日は沈んでも街灯と電光看板の明かりで互いの顔色くらいはわかる。俺に至っては夜の黒とハロルド様の輪郭を彩る黒髪の境目だってばっちりと見えてしまう。
目の前にいるのは、あの日遠目で見ただけの人だ。そう思うと胸がいっぱいいっぱいに詰まってしまう。何度も言っている言葉は何度だって緊張してしまうものだけど、今日のは特別みたいだ。きっと情けない顔をしてる。眉を下げて、気持ちを伝える精一杯の瞳は少し潤んで。
「す、すき、……好きです。お付き合い、し、て、ほしい……です……」
ようやく開いた唇からは震えた声が出てしまう。吐息も白く染まる冬なのだから、背中まで汗をかいた身体は全身が湯気だってるようにすら思う。暑い。目の前がぐるぐるする。だから聞き違いかもしれない。
「よろしくお願いします」
「っ……!」
人より性能のいい聴覚が信じられなくて口をパクパクと開閉しているとハロルド様は困ったように小さく笑い、辺りを左右に見渡す格好だけみせて、もう一度、俺の頬を指の腹で撫でさらう。今度はぎゅうっと力強く瞼を閉じる。一瞬、ふは、と笑う吐息が鼻先にかかって、くすぐったかった。
夜の雑踏でも自分の名前は聞き逃さない。それが誰の声なのかも、人より耳がいいからもちろんすぐにわかる。そしてこの目は夜にこそ強い。
「ハーウィン?」
「よぉ」
「わあ、久しぶり……でもないか。それなりにぶり。ちょっと頬寄越せ」
「ぐあっ!」
挨拶で抱擁した身体が離れる一瞬の不意打ちで、一発殴らせてもらった。殴られた頬に手を添え尻餅をつく友人の呆気の表情で、俺とハロルド様がちょっと妙なことになっていた原因を手打ちにしよう。俺は友人を甘やかし大切にする方だ。
「なに、俺はなんで殴られたわけ」
「それに関しては終わり。はい、立つ。通行の邪魔」
手を差し伸べてハーウィンを立たせる。本気の一発にもしなかったし、腫れてもいない頬を見れば痛みもそこまでないのだろう。そんなんだから、本人も納得していないけれど俺がなんかしたんだなと察して気にしないことにしたようだ。理解の早い友人で喜ばしい。
なぜこんなところに、と首をかしげれば、ハーウィンは後回しにしていた必要書類の記入だなんだを年内に帝都で済まさなければならないらしく一週間だけ滞在すると言う。トップ自ら町から離れて大丈夫なのか。
「部下に任せてきた。……あんたに育てられた俺が育てた部下たちなんだから安心しとけ」
「とか言って年末最後の新作家電チェックしたくて来ただけのくせに」
「ぐっ……、勤務時間外くらい趣味させろっつーの」
頬をつねられたので戯れにその指に向かって噛みつくそぶりをみせてじゃれつく。ハーウィンは表情をほころばせぐりぐりと俺の両頬を揉みしだいた。
「なんだ、今日は随分と最初から気安いな。普段のだんだんと素がでてくるのもいいもんだが、やっぱこっちのが嬉しいな。この後暇か? ダイナーも連れてきたから、晩飯一緒に食おう」
「ダイナーくんいるの? どこ?」
「田舎者丸出しにわあわあ楽しんでたから隣歩くの恥ずかしくてな、道中置き去りにしてきた」
「悪い大人だ……」
嬉しいお誘いだが、ここでようやく隣にいた買い物袋を腕に抱くハロルド様に視線を向ける。その長身を活かし威圧を向けるようハロルド様はハーウィンを睨んでいた。
……ちょっと引くほど怖いので、ハーウィンから離れハロルド様の脇に立つ。
「ハロルド様、俺の友人のハーウィン・カブスマン中佐です。ハーウィン中佐、この方がハロルド・モーガン中佐」
「顔程度なら知っています」
「言ってなかったか? こいつとは同い年で士官学校の同期」
「えっ」
「俺はできが悪くてこいつは優秀ってことで挨拶もろくにしたことなかったけどな」
ハーウィンはふんと鼻で笑い、それから鋭い青色の瞳でハロルド様を睨みつける。ふたりの間に見えない火花が散っている。仕方がないのでハロルド様からも数歩離れた。ふたりの仲が悪いことはそこら辺の子どもでも察せる。巻き込まれるのはごめんだ。
「私の件でライカ・ローデン曹長がお世話になったそうで」
「ああ、あんたの尻拭いするにゃこいつが必要だったもんで」
「な、なんでナチュラルに俺を巻き込む……」
せっかく逃げたのに当事者だろうがとハーウィンにデコピンされ反射的に一歩下がると、ハロルド様に腕を引かれ買い物袋を託されて、その背にすっぽりと隠されてしまった。
当事者なのか、当事者から外されたのか、いまいちわからない。
「あんたと同じランクっつうのは士官学校振りだな中佐殿。いやあ、エリート様かと思ってりゃずいぶんと動きが鈍ったようで」
「ようやく昇格ですか。ですが年齢としては平均より早めですね。若くしての出世、おめでとうございます。聞いたところ、西部勤務に移ったとか。資金のやりくりに心得はありますか? よければ助言差し上げますよ」
「それは助かるが、前任者と同じ轍は踏みたくないからな。丁重にお断りさせていただく。あんたも実働部隊に移動したばかりだろ? 内勤と外勤じゃ随分と空気違うだろ。俺でよければいつでも相談にのってやるよ。意識のすれ違いは簡単に関係を壊すからな」
「お言葉だけありがたく受け取っておきます。私には面倒見のよい未来ある上官殿と公私共に優秀なサポートがおりますから、お構いなく」
「チッ」
「ふん」
「うわぁ……」
うっわぁ……。皮肉のきいた嫌味の応酬で睨みあっている。急になにし始めたんだこの人たちは、全くもって大人げない……。触らぬ神になんとかだろう。
ねちねちと口論するふたりを背に家電量販店のディスプレイを眺めながら買い物袋を抱え直していると、また覚えのある声に呼ばれて振り向いた。
「ライカ曹長! わあ、こんな広い街中で出会えるなんて感激です! お怪我の具合はもうよろしいんですか? あの日からもう心配で心配で……。あ、荷物お持ちします!」
「いいよ、このくらい持てる。相変わらずの行動力だね。俺は大丈夫だったよ。怪我もすっかり完治してる。ダイナーくんこそ元気にしてた?」
「はい! 日々訓練で中佐に鍛えられています。成長具合を見ていただきたいくらいです!」
褒めてほしいオーラがひたすら強いキラキラと輝く瞳が細まり、ニッと笑みをみせるダイナーくんにつられて微笑む。後ろの険悪なふたりも彼を見習ってほしい。
「なんだ、もう来たのかダイナー。鼻がいいな」
「ああっ! ハーウィン中佐酷いです! ライカ曹長と会うお約束があるなら置いていかないでくださいよぉ!」
「約束なんてしてねーよ」
「どうやら連れが到着したようなので我々は帰りましょう。今すぐに」
「あ、ハロルド様、ハーウィンとダイナーくん夕食に招待してもいいですか?」
「……再来週ならご自由に」
「再来週だと帰ってるだろ、何年経っても苛つく奴だな。ライカ、今週末よろしく」
「ライカ曹長とごはん……! 楽しみです!」
ふんすふんすと鼻息を荒げて俺の片手を握り喜ぶダイナーくんをハロルド様が引き剥がし、代わりにその手に繋ぎ引っ張られる。急ぎ週末二連休の一日目に約束を交わしてふたりと別れ、そのまま帰路を再開したのだが、ハロルド様はふたりに若干ストレスを受けたようでいつもより歩調は早まり次第に競歩になっていった。手は繋ぎっぱなしだ。
……やばい、引きずられる。
歩幅が違うせいで競歩でついていくにはややつらい。さすがに走るか、と買い物袋を抱く腕の力を強め軽く駆けようとしたところでハロルド様は自らのスピードに気付いたのか、人通りの少なくなった路地で急に立ち止まる。もちろん俺も咄嗟に止まろうとしたけれど、足のブレーキに上半身が投げ出されるかたちで広い背中に衝突してしまった。
ぶぎゅう、と情けない息が潰れた鼻腔から漏れる。
「す、すみません……」
くぐもった声で見上げて振り向いたハロルド様と目を合わせる。
「……」
言いたいことはあるが言うのは癪だ、なんてしかめっ面でハロルド様は俺を見る。俺は少し萎縮して首をかしげなんなんですかと催促するくらいしかできなかった。
「……貴方の人間関係に口を挟むつもりはありませんが」
その言葉は、挟みますよと暗に言っているようなものだ。ごくりと息をのみ身構える。
「貞操観念だけはきちんとしてください」
「すごい失礼なことを言われてしまった」
ガーン、と、頭のてっぺんから電流が走り落ちたかフルスイングでぶん殴られた気持ちだ。
貞操観念。
いたいけな十代の性欲を爆発させることもなく二十代後半に突入している俺が誰に操立てしていると思ってるんだこの人は。
口をぽかんと開けてハロルド様を凝視する。「失礼だという自覚はあります」と苦虫を噛む表情をみせるくらいには、確かに言いづらいことをストレートでもらった。ストレートすぎてこんなの毒気もわかない。
「……ハロルド様があまりにも俺のアプローチをスルーしっぱなしなので忘れてしまうんですが、そう言えばハロルド様はハロルド様で、俺のこと真剣に考えてくれてるんですよね……」
そういう話をしたことを思い出す。
ハロルド様にガン惚れしている俺を牽制してどうするんだろう。ハロルド様の口から今は自分が口説かれているのだから近付くなとハーウィンに直接言ってほしいものだ。言ってくれたらその気もないハーウィンにこそ悪いが、俺はたいそう喜んだだろうに。
「……私は不器用だと何度言わせるんですか」
「たぶん、恋人関係になれば少しは安心して愛情の裏返しだとか裏目に出たんだとか納得できるとは思いますけど、いかんせんハロルド様が不器用すぎて俺のアプローチ失敗してるな、としか思えなくて……」
「失敗なんてしてないでしょう」
「うそだぁ……。俺ばっかり真っ赤になってるじゃないですか……」
「その気にさせられていなければキスなんてさせませんし、しませんよ」
頬に手を添えられ、角度を調整される。そのまま顔が近づいて、唇を塞がれた。いきなりのことすぎてまばたきも忘れ眼前の瞼と睫毛を見つめていると、離れていくけれどまだ至近距離のハロルド様と視線がかち合って、ハロルド様の頬がボッと赤くなる。誤魔化すように力の入る表情筋に眉間のしわと鋭さを増す瞳を前にして、ようやくときめきドキドキと胸が高鳴る。
「っ、目を閉じるのはマナーでは?」
「ぁ、ごめんなさい……。あ、あの、でも、いきなりされた俺より照れるなんて思わなくて……つい、見いっちゃって……」
「……緊張せずにできるようになれと? それには前もっての覚悟か回数が必要です」
「そ、そうですか……」
「この間のキスは抱くまでの覚悟がありましたから赤らむのは抑えられましたが、まあ、多少混乱しておかしなことは口走りました。……私は不意討ちには弱いですよ。前にも貴方に赤くなったことなんていくらかあったでしょう」
「そ、う、でしたか……? あの、いますごく、あたまはたらかなくて……おもいだせない……」
「あんな見ただけで不味いとわかるものを食べるなんて言い出すんです。不意討ちでしたよ」
「あ、あのときか……」
確かに、好きな人の手料理は食べたいと言ったときにハロルド様は赤く照れていた。もしかしてあのときからだいぶ脈アリだったんだろうか。
心臓の鼓動が肋骨背骨を伝って頭の天辺から爪先まで、全部をドキドキと揺らしている。買い物袋を支える手のひらは湿って紅葉型に紙袋が湿ってる。
人目なんて気にならない。ハロルド様しか見えてない。
ハロルド様の洋服の裾を摘まんで、見上げる。日は沈んでも街灯と電光看板の明かりで互いの顔色くらいはわかる。俺に至っては夜の黒とハロルド様の輪郭を彩る黒髪の境目だってばっちりと見えてしまう。
目の前にいるのは、あの日遠目で見ただけの人だ。そう思うと胸がいっぱいいっぱいに詰まってしまう。何度も言っている言葉は何度だって緊張してしまうものだけど、今日のは特別みたいだ。きっと情けない顔をしてる。眉を下げて、気持ちを伝える精一杯の瞳は少し潤んで。
「す、すき、……好きです。お付き合い、し、て、ほしい……です……」
ようやく開いた唇からは震えた声が出てしまう。吐息も白く染まる冬なのだから、背中まで汗をかいた身体は全身が湯気だってるようにすら思う。暑い。目の前がぐるぐるする。だから聞き違いかもしれない。
「よろしくお願いします」
「っ……!」
人より性能のいい聴覚が信じられなくて口をパクパクと開閉しているとハロルド様は困ったように小さく笑い、辺りを左右に見渡す格好だけみせて、もう一度、俺の頬を指の腹で撫でさらう。今度はぎゅうっと力強く瞼を閉じる。一瞬、ふは、と笑う吐息が鼻先にかかって、くすぐったかった。
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