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第十四話(幕間)
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『フリードリヒ・ダルムシュタット大佐の場合』
父譲りの金色の髪はふわふわで、肌は透けるように白く、転べば折れてしまうかもしれない細い手足は女の子のよう。物心がついたころの俺は、そんな、酷く情けない子どもだった。
雨の日には風邪をひき、風の強い日も熱を出す。そんなんだから、十にも満たない子どもの俺でも自分はひとりでは生きられないのだと本能的に知っていた。それでいて寄り添いを許すのは誰でもいいわけではなく、身売りできない誇りがどこまでも高く胸にあるのだから、家族は大層困惑しただろう。
これは生きるのに向いていない。
それが家族の総意で、口にはされなかったが、穀潰しを見る視線というのは自業自得でも堪えるものがあった。
ひとりでは無理だ。そう自認しているのにひとりでいることを選んでいるのも自分である。慢性的な寂しさに瞳は濁り、気力という気力はベッドに沈むほどに身体から抜け出して、食事も排泄もなにもかもが億劫だった。
「難しく考えるな。シンプルに生きればいい」
風邪をひけば必ず拗らせる。衰弱した俺を、兄が優しく撫でる。年の離れた長兄は俺が生まれたときから軍学校に通っていた。生まれるのが数年遅ければ年の近い親子ほどに年齢差があったから、弟というよりは、俺は本当に兄の息子として接せられていたのかもしれない。
兄は家督を継ぐ。じゃあ、俺は?
「お前に軍人は無理だろう。好きに生きろ」
兄が帰郷のたびに弱っていく俺を甘やかすように、父は俺を目にするたびに重い息を吐き俺を突き放した。
陸軍名家の屋敷に生まれ、従軍せずに生きた子どもはどれほどいただろう。女児も男児も家の勤めを果たすため、戦場で生きて死ぬか次代に繋げるために生き残っている。その誇りは俺のなかにも確かにあって、捻れたプライドとしてこうして怠惰な生活を享受させている。
俺は結局、兄が言うようにシンプルに生き長らえた。
満たされた道筋を歩いているのだと思う。足りないものがあるとすれば、隣にあってくれる何者か。その寂しさにさえ目をそらせば、この屋敷は存外快適だった。
用意される着替えに食事。欲しいと思ったものは外国の書籍だろうと最短で部屋にある。悩むこともなければ考えることもない。だから自分の食が細いと気付くのも遅かった。あまりにも食べると吐くを繰り返したので、幼いころの俺は今の身体と比べれば驚くほどに線が細かった。あれは天使だったと家族は言うが、ミイラの間違いだろう。
吐くのはつらい。今でも続けている食前の祈りは胃液を味わいたくない一心からだ。食べられるものを知りたくて、調理場に立つようになった。フライパンを持つのもままならない筋力が無性に恥ずかしくて、それでもただベッドから降りて立っている俺に喜ぶ家人に閉口したのを覚えている。むしろ忘れない。
俺はずいぶんと情けない子どもだった。立っているだけで息が上がる。ナイフとフォークで食事を完食することすらその銀の重さでままならない。たいした体重もないのに自分が重くて潰れそうだった。
だから兄も使用人も俺を甘やかす。俺はそれを受け入れていた。身体を鍛え始めたのは、これがいけなかったからかとようやく気付いたそれからだ。くつ紐も結べない自分が嫌だった。
みなが俺を甘やかしたのはミイラのような、その見た目からだろう。あの天使の見る影もない、とたまに兄が義姉さんと甥姪を連れて帰ってくるたびに残念なものを見る視線で息を吐かれている。ミイラよりゴリラの方がよっぽどいいだろうに。
栄養を摂り、筋力がつき、身長が伸び始めたころ、俺は父の反対を押しきり士官学校へ通うようになった。なぜ軍人になりたかったのか、と言われれば家格が理由だ。父も、兄も、祖父もその兄弟も、皆が従軍し国に忠義を尽くしてきた。誇り、プライドは血に宿り、この道しかないと俺を急かした。
兄の結婚と同時に、家督は兄に引き継がれた。別邸に移ることも考えたが、俺が未だに本家に住み続けているのは義姉が実家から離れなかったからだ。古めかしい屋敷は幽霊嫌いには不人気らしい。
それでもダルムシュタットの家名は軍人を志すにあたり憧れや計算があるのか、身の周りに人は尽きない。これを当たり前だと思う一方、窮屈だと辟易もする。だから、人よりは犬や猫の方がいいと考えるようになった。シンプルに、打算もなにもない動物なら、人じゃない分ずっとマシだ。
犬や猫、馬。屋敷に増えるいきものは単純に可愛がることができた。それでも、隣にはまだ、誰も許したわけではなかった。
初陣は散々だった。一生残る傷痕の三分の一はここで負った。
優秀な軍曹、曹長はすでに多くを戦死して、兵士は素人の司令官に反発する。家名はある程度の学のある者にしか有効ではなく、だがむしろ、見離された気分が逆に心地よかった。命の危険より心の安寧が勝るとは、死臭と土埃にまみれた戦場での唯一得た成果だったかもしれない。
独断身勝手に動く兵との絆など邪魔だと思う。皮膚の表面がえぐれた背中を預けるには壁や木の方がまだマシだ。
血が不足し重たく感じる身体を引きずって、せめて独りになれる場所をと野営地の中心から離れ、小脇の林に入る。
頭が痛い。血が足りない。寒い。
適当な木を選ぶことも出来ず、地面に倒れ込む。口のなかに土の味が広がって、苛立つ。
情けなくて、悔しくて、八つ当たりのように唇を噛みしめたいのにその力もなく脱力する。
朝、俺を探す兵はいるのだろうか。もしかすると、不名誉な逃亡兵として家名を汚すのかもしれない。なんて惨めな最期だ。
そのとき、枝がパキリと折れる音を聞いた。
反射的に土に預けていた顔が上がり、存外自分にはまだ体力が残っていることに気付く。けれどそれもすぐに忘れた。
琥珀の瞳が光っている。黒混じりでも夜に紛れることのない白と灰色の毛皮が風にふわりと揺れ、黒く艶のある鼻が鮮やかな紅色の舌に舐めずられヒクヒクと動く。
目の前に現れたのは、大きな、美しい狼だった。
呼吸すら忘れ、狼に動きを止める。揺れる琥珀の瞳が俺の目を捉えると、そいつはゆっくりと近付いてきた。
食い殺されるのだろうか。敵兵にやられるよりはマシか、と思えば乾いた笑いが漏れる。むしろ役得ではないか。こんなに美しいいきものなら、その血肉になれるなら。
無意識に起き上がり、近場の木に背を預けて狼に手を伸ばす。一瞬警戒した狼の動きは止まるが、俺がなにをするでもないと知れば眼前にまで近づいてきた。くんくんと鼻息が指を撫で、頬を撫でる。痛みに鈍くなった皮膚に、くすぐったさを感じる感覚が戻ってくる。
心地いい呼吸だと胸がぎゅっと絞まる。ついそのふさふさの耳や付け根、頬を撫でれば、狼は目をつむりそれを受け入れた。寒さに堪えていた末端が暖かな毛皮に包まれると、堰を切ったように涙が溢れだしていた。狼は俺の頬を涙ごとぺろりと舐めて、居心地が悪いだろうに、膝の上に横になる。
暖かさに、どうしようもなく涙が出る。泣くのは慣れていないんだ。男泣きなどしたことがない。泣き止みかたなどわからない。あやすように尻尾はふさふさ地面を叩くが、その実泣いていいと言われているような気がして、睡魔に負けるまで泣いて一晩を過ごした。
「ライカ、どこだ」
腰を曲げ身体を折り畳むよう、毛皮を抱きしめ突っ伏していたからか、身体が変に固まっていた。それでもその暖かさに夢も見ず寝られた充足感がある。毛皮の暖を得られなかったうなじの表面が冷えきっている朝一番、その声に意識ははっきりと覚醒した。
あれは、ハーウィン・カブスマン少佐か。
声の方向に上半身を起き上がらせ顔を向けると、俺が起きるのを待っていたのか狼は俺の足の上から立ち上がる。
名残惜しさに眉が下がる。そんな俺に狼は瞳を細めて笑った気がした。知能の高い個体なのかもしれない。じっと狼を見つめていると、木の影から薄っぺらな支給毛布を口で引っ張りだし、二足歩行へ起き上がるようにそれは人の形になった。
言葉がでなかった。生唾も飲めなかった。
獣人というやつを初めて見たが、考えてみれば人慣れした野生の狼がここにいること自体がおかしな話だと妙に納得した。
少年と青年の中間にありそうな、まだ幼さの残った彼が、裸体を隠すように毛布を羽織り、カブスマン少佐に視線をやって、俺を見る。
ライカ。それがこの青年の名前なんだろう。
ライカは俺の膝に小さな手のひらを起き、顔を覗き込ませるように身を寄せてきた。
「なあ、あんた、次の戦場からは俺を連れていってくれないか?」
「っ!」
カッと身体が熱くなる。胸が震えた。あの狼を、これからも隣に置けるのか。あの美しいいきものを。
馴れ馴れしい言葉遣いは気にならなかった。それどころか、もっと話していたいという欲求にようやくゴクリと喉が鳴る。
「名前は?」
「ふ、フリードリヒ、ダルムシュタット」
「ダルムシュタット? ああ……初陣の少尉殿か」
彼の声から発せられた家名に心臓が早まる。憧れと計算、尊敬と野心。家名を知れば、そんなものばかりの視線で品定めされてきた。
「俺はライカ。ライカ・ローデン軍曹。俺はあんたの群れに入ろう。だから次は、必ず指名してくれ。ダルムシュタットの家名を出せば軽いだろう?」
権力の行使をいとけなく言葉にされ、胸に刺さる。一瞬で心象が割れるように砕けたのに、それなのに目の前の少年は輝かしいほどまっすぐに微笑んで見せるものだから、胸が痛んだのは一度きりだった。
呆気にとられた顔を見せると、ライカは困ったような表情をみせ、そしてひとり納得したように頷いた。
「これからは一緒にいよう。ダルムシュタット少尉をひとりにするのは、不安だ。見ず知らずのまま添い寝してしまうくらいには、ね」
からかうように俺を心配してみせる。いたずらに笑って、ライカは狼に戻りその額を俺の頬に擦り付けて自分を呼ぶ上官の元へと離れていく。
そんな短いやりとりだった。けれど赤面するほどにドクドクと心臓が跳ねている。
人は好きになれなかった。嫌いでもないが、俺は動物の方がいい。馬や犬、猫。暖かく、俺の元にいてくれて、それで人じゃないなら、なんでもいい。
なんでもいいと思っていたから、隣には選べなかった。
「ライカ……」
カブスマン少佐の足元に擦り寄り、少佐はそれに愛しさを滲ませた口元でしゃがみライカを抱きしめる。尾を振って、頬をぺろりと舐めてライカはそれに応えた。
視線の先の光景が、羨ましい。そう、素直に思った。あれが欲しい。なにを捨ててでも、なにを奪おうとも。
初めて抱いた欲だった。抗えない感情の渦だった。
欲しいと言えば最短で翌日には屋敷にそれがあった。最新の家電も、流行り舞台のチケットも、異国の楽器すら家庭教師を添えてだ。
けれど、きっとそれらのどれよりも、渇望していたものがある。
ひとりでは生きられないから、隣に欲しい。共にいきてくれる誰かが。子どものころからの本能的な欲求が、疼く。
あれがいい。あれ以外は無理だ。
俺を見つけ、選んでくれたあの狼が、いい。
「好きに生きろとは言ったが、少年の愛人を作るとは思わなんだ……」
「さすがに失礼だ。ライカはもうすぐ成人する青年ですよ父さん」
「従軍しているとは言え未成年を捕まえてきてなにを言う。天使のままなら黙認もしたがお前はもう筋肉ダルマだろう、庇い立てする気も起きんわ!」
俺が筋肉ダルマなのは父の遺伝子のせいだ。父もゴツく、兄もゴツいのだから、俺もゴツくなって然るべきだ。むしろミイラもとい天使期間があったことが奇跡だ。
「ライカとはプラトニックです。手を出すことはありえません」
「手離しもしないのだろう? どうしてこんな気持ちの悪い男に育ったのかがわからん。放任しすぎたか?」
「な、ライカ。言った通り息子に対して酷いだろ……」
家名を使いライカを俺の隊に捩じ込んだことで親父と多少の言い合いもしたが、あまりに予想外だったのは、その親父とライカの仲が、結構いい感じに収まったということだ。
「こんな息子だ、ライカくんになにかあれば私の養子にしよう」
上機嫌でワインを開ける親父に一瞬少年趣味を問う視線を向けてしまったのも無理はない。獣人は軍の中でも消耗品として扱われることが多いため、味方が増えたことについては喜ばしいが、相手が親父だとなかなかに複雑だ。
「俺、一等兵のときに少尉のお父さんの指揮する前線に居たことあるんですよ。目があったのなんて一瞬だったのに覚えてくださってて、感激でした」
俺の運命がよりにもよって親父を想いぽっと頬を赤らめる。とても複雑な心境に表情が強張る。そんな俺を親父は酒のつまみとして愉快に笑うのだ。
「息子よりも若い少年が銃を抱えて走る。記憶に残らないわけないだろう。あの頃のこいつはしみったれたクソガキだった。ナイーブすぎて手がつけられんほどのな。フレデリック……こいつの兄が甘やかした分のツケを払い終えるまでは厳しくしてもいいだろう」
「ふふ、じゃあ俺は甘めに接しますね」
そう言って、当たり前のようにちょこんと隣に立ちライカは俺に笑いかける。それだけで十分だった。生きてしまえるには、それだけで。
恋人にはならなくていい。
家族にもならなくていい。
必要ならどんな手助けもしよう。
けれど、誰のものになったとしても、俺は手離さない。離してやれない。
子どものころの俺は酷く情けない子どもだった。おそらくは今も、根本はなんら変わっていないのだろう。
父譲りの金色の髪はふわふわで、肌は透けるように白く、転べば折れてしまうかもしれない細い手足は女の子のよう。物心がついたころの俺は、そんな、酷く情けない子どもだった。
雨の日には風邪をひき、風の強い日も熱を出す。そんなんだから、十にも満たない子どもの俺でも自分はひとりでは生きられないのだと本能的に知っていた。それでいて寄り添いを許すのは誰でもいいわけではなく、身売りできない誇りがどこまでも高く胸にあるのだから、家族は大層困惑しただろう。
これは生きるのに向いていない。
それが家族の総意で、口にはされなかったが、穀潰しを見る視線というのは自業自得でも堪えるものがあった。
ひとりでは無理だ。そう自認しているのにひとりでいることを選んでいるのも自分である。慢性的な寂しさに瞳は濁り、気力という気力はベッドに沈むほどに身体から抜け出して、食事も排泄もなにもかもが億劫だった。
「難しく考えるな。シンプルに生きればいい」
風邪をひけば必ず拗らせる。衰弱した俺を、兄が優しく撫でる。年の離れた長兄は俺が生まれたときから軍学校に通っていた。生まれるのが数年遅ければ年の近い親子ほどに年齢差があったから、弟というよりは、俺は本当に兄の息子として接せられていたのかもしれない。
兄は家督を継ぐ。じゃあ、俺は?
「お前に軍人は無理だろう。好きに生きろ」
兄が帰郷のたびに弱っていく俺を甘やかすように、父は俺を目にするたびに重い息を吐き俺を突き放した。
陸軍名家の屋敷に生まれ、従軍せずに生きた子どもはどれほどいただろう。女児も男児も家の勤めを果たすため、戦場で生きて死ぬか次代に繋げるために生き残っている。その誇りは俺のなかにも確かにあって、捻れたプライドとしてこうして怠惰な生活を享受させている。
俺は結局、兄が言うようにシンプルに生き長らえた。
満たされた道筋を歩いているのだと思う。足りないものがあるとすれば、隣にあってくれる何者か。その寂しさにさえ目をそらせば、この屋敷は存外快適だった。
用意される着替えに食事。欲しいと思ったものは外国の書籍だろうと最短で部屋にある。悩むこともなければ考えることもない。だから自分の食が細いと気付くのも遅かった。あまりにも食べると吐くを繰り返したので、幼いころの俺は今の身体と比べれば驚くほどに線が細かった。あれは天使だったと家族は言うが、ミイラの間違いだろう。
吐くのはつらい。今でも続けている食前の祈りは胃液を味わいたくない一心からだ。食べられるものを知りたくて、調理場に立つようになった。フライパンを持つのもままならない筋力が無性に恥ずかしくて、それでもただベッドから降りて立っている俺に喜ぶ家人に閉口したのを覚えている。むしろ忘れない。
俺はずいぶんと情けない子どもだった。立っているだけで息が上がる。ナイフとフォークで食事を完食することすらその銀の重さでままならない。たいした体重もないのに自分が重くて潰れそうだった。
だから兄も使用人も俺を甘やかす。俺はそれを受け入れていた。身体を鍛え始めたのは、これがいけなかったからかとようやく気付いたそれからだ。くつ紐も結べない自分が嫌だった。
みなが俺を甘やかしたのはミイラのような、その見た目からだろう。あの天使の見る影もない、とたまに兄が義姉さんと甥姪を連れて帰ってくるたびに残念なものを見る視線で息を吐かれている。ミイラよりゴリラの方がよっぽどいいだろうに。
栄養を摂り、筋力がつき、身長が伸び始めたころ、俺は父の反対を押しきり士官学校へ通うようになった。なぜ軍人になりたかったのか、と言われれば家格が理由だ。父も、兄も、祖父もその兄弟も、皆が従軍し国に忠義を尽くしてきた。誇り、プライドは血に宿り、この道しかないと俺を急かした。
兄の結婚と同時に、家督は兄に引き継がれた。別邸に移ることも考えたが、俺が未だに本家に住み続けているのは義姉が実家から離れなかったからだ。古めかしい屋敷は幽霊嫌いには不人気らしい。
それでもダルムシュタットの家名は軍人を志すにあたり憧れや計算があるのか、身の周りに人は尽きない。これを当たり前だと思う一方、窮屈だと辟易もする。だから、人よりは犬や猫の方がいいと考えるようになった。シンプルに、打算もなにもない動物なら、人じゃない分ずっとマシだ。
犬や猫、馬。屋敷に増えるいきものは単純に可愛がることができた。それでも、隣にはまだ、誰も許したわけではなかった。
初陣は散々だった。一生残る傷痕の三分の一はここで負った。
優秀な軍曹、曹長はすでに多くを戦死して、兵士は素人の司令官に反発する。家名はある程度の学のある者にしか有効ではなく、だがむしろ、見離された気分が逆に心地よかった。命の危険より心の安寧が勝るとは、死臭と土埃にまみれた戦場での唯一得た成果だったかもしれない。
独断身勝手に動く兵との絆など邪魔だと思う。皮膚の表面がえぐれた背中を預けるには壁や木の方がまだマシだ。
血が不足し重たく感じる身体を引きずって、せめて独りになれる場所をと野営地の中心から離れ、小脇の林に入る。
頭が痛い。血が足りない。寒い。
適当な木を選ぶことも出来ず、地面に倒れ込む。口のなかに土の味が広がって、苛立つ。
情けなくて、悔しくて、八つ当たりのように唇を噛みしめたいのにその力もなく脱力する。
朝、俺を探す兵はいるのだろうか。もしかすると、不名誉な逃亡兵として家名を汚すのかもしれない。なんて惨めな最期だ。
そのとき、枝がパキリと折れる音を聞いた。
反射的に土に預けていた顔が上がり、存外自分にはまだ体力が残っていることに気付く。けれどそれもすぐに忘れた。
琥珀の瞳が光っている。黒混じりでも夜に紛れることのない白と灰色の毛皮が風にふわりと揺れ、黒く艶のある鼻が鮮やかな紅色の舌に舐めずられヒクヒクと動く。
目の前に現れたのは、大きな、美しい狼だった。
呼吸すら忘れ、狼に動きを止める。揺れる琥珀の瞳が俺の目を捉えると、そいつはゆっくりと近付いてきた。
食い殺されるのだろうか。敵兵にやられるよりはマシか、と思えば乾いた笑いが漏れる。むしろ役得ではないか。こんなに美しいいきものなら、その血肉になれるなら。
無意識に起き上がり、近場の木に背を預けて狼に手を伸ばす。一瞬警戒した狼の動きは止まるが、俺がなにをするでもないと知れば眼前にまで近づいてきた。くんくんと鼻息が指を撫で、頬を撫でる。痛みに鈍くなった皮膚に、くすぐったさを感じる感覚が戻ってくる。
心地いい呼吸だと胸がぎゅっと絞まる。ついそのふさふさの耳や付け根、頬を撫でれば、狼は目をつむりそれを受け入れた。寒さに堪えていた末端が暖かな毛皮に包まれると、堰を切ったように涙が溢れだしていた。狼は俺の頬を涙ごとぺろりと舐めて、居心地が悪いだろうに、膝の上に横になる。
暖かさに、どうしようもなく涙が出る。泣くのは慣れていないんだ。男泣きなどしたことがない。泣き止みかたなどわからない。あやすように尻尾はふさふさ地面を叩くが、その実泣いていいと言われているような気がして、睡魔に負けるまで泣いて一晩を過ごした。
「ライカ、どこだ」
腰を曲げ身体を折り畳むよう、毛皮を抱きしめ突っ伏していたからか、身体が変に固まっていた。それでもその暖かさに夢も見ず寝られた充足感がある。毛皮の暖を得られなかったうなじの表面が冷えきっている朝一番、その声に意識ははっきりと覚醒した。
あれは、ハーウィン・カブスマン少佐か。
声の方向に上半身を起き上がらせ顔を向けると、俺が起きるのを待っていたのか狼は俺の足の上から立ち上がる。
名残惜しさに眉が下がる。そんな俺に狼は瞳を細めて笑った気がした。知能の高い個体なのかもしれない。じっと狼を見つめていると、木の影から薄っぺらな支給毛布を口で引っ張りだし、二足歩行へ起き上がるようにそれは人の形になった。
言葉がでなかった。生唾も飲めなかった。
獣人というやつを初めて見たが、考えてみれば人慣れした野生の狼がここにいること自体がおかしな話だと妙に納得した。
少年と青年の中間にありそうな、まだ幼さの残った彼が、裸体を隠すように毛布を羽織り、カブスマン少佐に視線をやって、俺を見る。
ライカ。それがこの青年の名前なんだろう。
ライカは俺の膝に小さな手のひらを起き、顔を覗き込ませるように身を寄せてきた。
「なあ、あんた、次の戦場からは俺を連れていってくれないか?」
「っ!」
カッと身体が熱くなる。胸が震えた。あの狼を、これからも隣に置けるのか。あの美しいいきものを。
馴れ馴れしい言葉遣いは気にならなかった。それどころか、もっと話していたいという欲求にようやくゴクリと喉が鳴る。
「名前は?」
「ふ、フリードリヒ、ダルムシュタット」
「ダルムシュタット? ああ……初陣の少尉殿か」
彼の声から発せられた家名に心臓が早まる。憧れと計算、尊敬と野心。家名を知れば、そんなものばかりの視線で品定めされてきた。
「俺はライカ。ライカ・ローデン軍曹。俺はあんたの群れに入ろう。だから次は、必ず指名してくれ。ダルムシュタットの家名を出せば軽いだろう?」
権力の行使をいとけなく言葉にされ、胸に刺さる。一瞬で心象が割れるように砕けたのに、それなのに目の前の少年は輝かしいほどまっすぐに微笑んで見せるものだから、胸が痛んだのは一度きりだった。
呆気にとられた顔を見せると、ライカは困ったような表情をみせ、そしてひとり納得したように頷いた。
「これからは一緒にいよう。ダルムシュタット少尉をひとりにするのは、不安だ。見ず知らずのまま添い寝してしまうくらいには、ね」
からかうように俺を心配してみせる。いたずらに笑って、ライカは狼に戻りその額を俺の頬に擦り付けて自分を呼ぶ上官の元へと離れていく。
そんな短いやりとりだった。けれど赤面するほどにドクドクと心臓が跳ねている。
人は好きになれなかった。嫌いでもないが、俺は動物の方がいい。馬や犬、猫。暖かく、俺の元にいてくれて、それで人じゃないなら、なんでもいい。
なんでもいいと思っていたから、隣には選べなかった。
「ライカ……」
カブスマン少佐の足元に擦り寄り、少佐はそれに愛しさを滲ませた口元でしゃがみライカを抱きしめる。尾を振って、頬をぺろりと舐めてライカはそれに応えた。
視線の先の光景が、羨ましい。そう、素直に思った。あれが欲しい。なにを捨ててでも、なにを奪おうとも。
初めて抱いた欲だった。抗えない感情の渦だった。
欲しいと言えば最短で翌日には屋敷にそれがあった。最新の家電も、流行り舞台のチケットも、異国の楽器すら家庭教師を添えてだ。
けれど、きっとそれらのどれよりも、渇望していたものがある。
ひとりでは生きられないから、隣に欲しい。共にいきてくれる誰かが。子どものころからの本能的な欲求が、疼く。
あれがいい。あれ以外は無理だ。
俺を見つけ、選んでくれたあの狼が、いい。
「好きに生きろとは言ったが、少年の愛人を作るとは思わなんだ……」
「さすがに失礼だ。ライカはもうすぐ成人する青年ですよ父さん」
「従軍しているとは言え未成年を捕まえてきてなにを言う。天使のままなら黙認もしたがお前はもう筋肉ダルマだろう、庇い立てする気も起きんわ!」
俺が筋肉ダルマなのは父の遺伝子のせいだ。父もゴツく、兄もゴツいのだから、俺もゴツくなって然るべきだ。むしろミイラもとい天使期間があったことが奇跡だ。
「ライカとはプラトニックです。手を出すことはありえません」
「手離しもしないのだろう? どうしてこんな気持ちの悪い男に育ったのかがわからん。放任しすぎたか?」
「な、ライカ。言った通り息子に対して酷いだろ……」
家名を使いライカを俺の隊に捩じ込んだことで親父と多少の言い合いもしたが、あまりに予想外だったのは、その親父とライカの仲が、結構いい感じに収まったということだ。
「こんな息子だ、ライカくんになにかあれば私の養子にしよう」
上機嫌でワインを開ける親父に一瞬少年趣味を問う視線を向けてしまったのも無理はない。獣人は軍の中でも消耗品として扱われることが多いため、味方が増えたことについては喜ばしいが、相手が親父だとなかなかに複雑だ。
「俺、一等兵のときに少尉のお父さんの指揮する前線に居たことあるんですよ。目があったのなんて一瞬だったのに覚えてくださってて、感激でした」
俺の運命がよりにもよって親父を想いぽっと頬を赤らめる。とても複雑な心境に表情が強張る。そんな俺を親父は酒のつまみとして愉快に笑うのだ。
「息子よりも若い少年が銃を抱えて走る。記憶に残らないわけないだろう。あの頃のこいつはしみったれたクソガキだった。ナイーブすぎて手がつけられんほどのな。フレデリック……こいつの兄が甘やかした分のツケを払い終えるまでは厳しくしてもいいだろう」
「ふふ、じゃあ俺は甘めに接しますね」
そう言って、当たり前のようにちょこんと隣に立ちライカは俺に笑いかける。それだけで十分だった。生きてしまえるには、それだけで。
恋人にはならなくていい。
家族にもならなくていい。
必要ならどんな手助けもしよう。
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子どものころの俺は酷く情けない子どもだった。おそらくは今も、根本はなんら変わっていないのだろう。
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