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第十六話
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クリームケーキが好きなマイルのため、退院日が決まったお祝いにフルーツをたっぷり乗せた生クリームのケーキを大佐に作ってもらった。約束の誕生日ケーキでもあるのでホールの半分は俺とハロルド様が食べて、その残りを持って病室に見舞う。
「半分足りないんですけど」
それでも甘党からホール半分死守したんだけどな……。
俺の誕生日ケーキなのに結局俺は半分のホールケーキの四分の一しか口に入らなかった。まあハロルド様がご満悦だったのでいいんだけど。
不満顔に笑って謝り、少し天気の話をして別れる。二日ごとのお見舞いだから、ひと月も見舞えばほとんど会話の種なんてなくなるのだ。マイルも食べ物目当てなので俺ののろけ話には耳を塞いでみせるし、仕事の忙しさが落ち着いて休憩の必要もなくなった今ではそんなマイルをいい根性だなあとしみじみ再確認するばかりだった。
来月には冬の寒さも落ち着いて春が来るだろう。本格的な春が来たなら予定通りパレード警備をして、春入隊の新人育成が始まる。新年度は訓練に追われる日々で実戦などなく平和に過ごしたい。心からそう思う。目指せのんびりデート三昧だ。
「ライカ、マイルは完治してるんだったか?」
「今週いっぱいで退院ですが、どうかしました?」
「少数精鋭隊でさくっと出るんだが、編成に組み込んで大丈夫だな」
「退院早々可哀想に……」
大佐が向かうなら東西南北もちろん俺も付き従うので、俺も大概可哀想だ。もちろん俺ひとりでもどこへでも参戦するが。
「平和ってどこにあるんでしょうね……」
どこに出兵かは聞かずに両手でコーヒーカップを持ち熱を冷ますように息を吹きかける。ふう、と息に白い湯気が目の前で霧散していくのを虚ろな瞳に映してそう呟けば、ダルム大佐は「うーん」と一考し、まじめなトーンで「結婚式にあるだろうな」なんて答えるものだから、どこまでもついていこうと内唇を噛んで肩を震わせた。大佐はたまに、ピュアを駆け抜ける。ハロルド様ですら口元を手で塞いで明後日の方向に顔を背けている。
打ち合わせは一先ず隊内の役職数名で執り行うことになった。ダルム大佐と、大佐のお付きの俺と、役職としてなら大佐のすぐ下のハロルド様に、ダン中尉とロッジオ少尉だ。
役職だけなら曹長の俺が一番したっぱである下士官だが、ふたつみっつほど年下の中尉と少尉を士官候補生のときから指導していたのは俺なので、萎縮がなかなか消えず発言権を譲られているのが現状にある。俺を命令でこき使えるようにならなければ成長が見込めない。本隊の悩みの種である。
「本題だが、先日ラザロ自治区で爆破テロ未遂があったらしい。犯人は確保できなかったそうだ」
「ん……?」
ラザロ。俺の視線に大佐は目を伏せる。どうやら聞き違いではないらしい。
「確か、北の山脈のふもとの大森林でしたね。駅は山と森に挟まれているんでしたっけ」
ダン中尉が俺の顔を見て確認するように口を開いた。俺の情報をちゃんと頭に入れているのだろう。頷けば、続けてロッジオ少尉が疑問に首をかしげた。
「森? 森でテロをする意味なんてあるんですか?」
「駅があるだろ。線路もある。冬の厳しい時期にだけ定期的に食料を届けているのは知ってるか? 運良く配送日にかち合ったこともあり未遂に防げたが、どうもまだ狙われてるようだ」
「強奪ではなくテロですか」
今度はハロルド様が問いかける。
「ああ。食料には目もくれなかったらしい。あそこは雪が酷いだろ。駅が壊されちまったら維持より修復の方がコストかかるんだ。一日でも除雪車が走れなきゃ直す線路も見えんし、直してるうちに凍死か遭難かだからな。で、最悪天候によっては半年から一年は物流が滞る。そっちの損害の方が怖い」
「時短のコストカットに慣れきっている現状確かに痛手になりますね」
痛手は痛手だが、それでもわからない。ハロルド様も俺も納得のいかない表情をしている。
「駅テロはわりとある手ですけど、他の地域ならともかくラザロの駅を壊してなにを主張したいんですか? 犯行声明もおそらくしなさそうですし」
「それがどうもわからんくてな……。ラザロ出身はお前くらいだから、この話がうちにきた」
「うーん……」
伐採されゆく故郷の森を見ていたギリギリ当事者なのであまり言いたくはないが、せっかく先住民の命という犠牲を払い切り開いた土地なのに乗降客のいない駅しかないので、もう壊されたら壊されたで駅閉鎖すればよいのでは、くらいは思ってしまう。帝都リラを中心に花咲くような円形で作られた循環鉄道の一路線が、循環せずラザロの両隣駅が始点と終点になるだけだ。そして森を縦断する鉄道さえなくなれば、数百年後にはもともとの森の姿を取り戻すだろう。
――そんな、簡単な話ではないことくらいわかってはいるんだけど。
「あんななにもないところ潰してもなあ。なんにも変わらないって言うか、森がない分昔より酷い環境になるだけなのに。でもその方が……嬉しい……のかも?」
「なにがいいんだ?」
「食料配給が止まれば弱い個体は死ぬかもしれませんが、たった十数年前に戻るだけなんですよ。獣人ならきっと与えられる食料よりこれからの森を選びますね。おそらくこの感性は種や生まれのプライドの問題です」
停車駅こそ雪避けを兼ねてすぐ隣は森だが、少し列車が走れば無駄に視界が開けてなにもない。無意味に森を奪われたとしか言えないのだ。伐り倒した木は薪として各都市の非常用に保管され過剰分は売りに出されたが、十年ほど経っているのに在庫が尽きていない。このやるせなさを胸にすれば、どこかからやってきた人間に町でも作られて我が物顔された方がまだマシだった。それすらなかったんだから、怒りやむなしさで腹の中は消化不良だ。
「まあ、俺はもう根っからの軍の犬なので気持ちの理解はできても賛同はしません。今生きてる弱い個体の命を見捨てるなんて、それこそ。誰もが生きられる選択肢は尊ばれるべきだ。俺としては飢えなんてない方が安心できますし」
ここまで言葉にして、ようやくピンときた。
「ああ、主犯は森の獣人なのか。ただ単に廃駅にさせたいんですね」
ストレートこそ獣人の本懐だ。そりゃあ壊すよな、駅。恨みを晴らせる対象が駅しかないからむしろそれしかできない。
あそこには狼の他に、熊と狐とウサギも居たかな。イタチと鳥系も居たし、どの種族だろう。数は少なかったが多種だった記憶がある。
「獣人相手なら俺も出る方がいいのか……」
腕を組み大佐が呟く。
「年も越してラザロは安定した真冬。むしろ今は極寒の真冬ですね。俺が行かないなら誰が行く案件でしょうか」
「そりゃあ俺だな」
「さすが俺の大佐です」
「ふ、もっと誉めろ」
「今日も一段と筋肉が格好いいですね。素敵です」
「ふっふっふ、そうだろう、触ってもいいぞ」
「では遠慮なく。……はぁ、なんて男らしい二頭筋……! むっちむち!」
「また始まりましたねふたりの世界。でも相変わらず仲の良いお二人を見るとこの隊でよかったと思います。ピリピリしてるところは酷いと聞きますから、イチャイチャしてくれる方が平穏です」
「そうだな、だが思っていても言うなロッジオ少尉。ハロルド中佐殿の前だ」
「中佐殿の前だとだめなんですか?」
「いいから、しっ」
「そろそろ馬鹿丸出しな茶番は止めてくださいませんか。……不快です」
ピリッとした圧を肌で感じて素早く大佐から距離をとる。
自然の中に生きる獣人は基本無学なので、馬鹿とは違うが知識が圧倒的に片寄っている。生活の知識と群れの伝統と生存本能にポイントを振っているので、未遂で済んだ駅テロも爆薬の量なんて計算もしない行き当たりばったりのものだったのかもしれない。俺も森生まれ森育ちなら、線路を一本一本外すようなやり方くらいしかできなかっただろう。
「ごほん。で、実際のところ編成はどうする気なんですか? 俺とマイルは決定なんですよね。少数なら十人前後班か。俺としてはダン中尉に指揮を執ってもらうのが適任だと思っていますが大佐もいらっしゃるなら悩みますね。経験を積める機会は貴重ですから。あ、ハロルド様はお留守番ですよ」
ね、と人差し指を立てて確認したのを、ハロルド様は一瞥してふい、とそっぽを向いた。自己紹介の日を彷彿させる横顔の無表情さに冷や汗が背を伝う。
いや、そんな無言で返されても留守番ですよ。
ラザロの季節は冬と春の陽気の夏しかない。国の季節が冬ならば、ラザロは極寒の真冬である。
帝都リラを中心にいくつかある円形の循環鉄道の、その最も外側の路線まで乗り継ぎに乗り継いで、あと数十時間でラザロの駅に到着するところまできた。窓の外は一面の雪景色だ。ごうごうと吹き荒れる猛吹雪に走行スピードは安全面からグッと遅くなり、かつ見える景色は窓にへばりついた雪の白さと薄暗さしか見えないので、冬景色を楽しむこともできない。
「寒い……むり……つらい……」
「…………」
「わふぅ……」
列車内の温度が下がるにつれて、マイルは小さく縮こまり、暖を逃がさないようマフラーに顔半分以上を埋めた上で、太ももに乗っている狼の俺の腰にマフラーごと顔を埋めていた。ちなみにマイルの隣にはハロルド様が座っていて、自分の足と俺の胸の間に手を突っ込み暖をとっている。
見ればわかるが、俺はマイルとハロルド様の膝の上に伏せをする湯たんぽあるいは膝掛けになっていた。
「行ったところで駅内の警備くらいしかできないのに……」
「わふん……」
南生まれのマイルは単純に暑さに強く寒さに弱い。夏によく倒れている俺をまだ涼しいくらいですよと言いながら医務室に引きずってくれるのはマイルなので、日頃の感謝を込めて湯たんぽになるのもやぶさかではなかった。ひとりで溢すだけ溢している愚痴も相づちくらい打とう。ハロルド様は無言の同意を示しているふうだが、マイルには伝わっていないようだし。
「そもそも、見るからに軍人のいる駅に獣人のテロリストがくるわけないんですよ……」
「わっふ」
「周辺の巡回ってなんなんですか、遭難するっつーの……」
「がぅわん」
「いつ来るかわからないテロリストを待つなんて軍の仕事じゃないはずだ……」
「わふぅ……」
そうしてまた「寒い」「つらい」「むり」しか言わなくなったマイルに尻尾をふぁさふぁさしてあやす。可哀想に。正論だから誰も声をかけることができない。
終わりの見えない仕事は誰だって気が重くなるものだ。テロリストを捕まえることができなくとも春のパレードに間に合うように他から交代の隊があてがわれる手はずなので、一応春には一時帰還できるのだが。
「つらい……」
その春が今は遠い。
結局の留守番はロッジオ少尉と大佐で、ダン中尉と数人の兵を連れて俺たちはラザロに向かっていた。
俺としては誰の湯たんぽにでもなる所存だが、あまりのマイルの寒がり方にハロルド様以外は俺で暖をとるのを遠慮してしまっているので、ふたりの専属膝掛けのまま列車に揺られている。
ハッハッと口を開けて息をすれば白いもやが生まれて消える。肺に取り込んだ空気は冷たいが、そこまでのものではない。でも少し、その冷たさが嬉しかった。
故郷に帰るのは初めてだ。なにかあれば報告書類を閲覧する程度はしてきたけれど、本当に、それだけ。だって帝都からすごく遠い。なにかあればとか、実際ほぼなにもなかったし。帰る時間も、その必要もまるでなかった。
じっと窓の外を見ている。雪でなんにも見えないけれど、色はわかる。白に、灰色。黒と青みのかかった影。晴れればきらきらと輝く雪の結晶は思い出の中のものだ。そうやって見えないものも想像して、静かに心が騒ぐ。
早くつかないかな。尻尾が揺れる。
任務なのに楽しんでいるなんてバレたくないから、尻尾はマイルの頭を撫でているんですよと、未だに溢れている愚痴にくぅんと鳴いた。
人は本当に無理になると言葉をなくす。息が色付く列車内は、それでも最低限の暖房がついていた。風雪は壁天井に守られ、水も液体のまま凍ることはなかった。
駅に停車し、俺も人型に戻り荷物を持って一歩外に出る。乗降客のいない駅の排雪事情は悲惨だ。食料配給のある日は獣人が雪かきをしてくれているんだろうが、今回はそうではないのだから足が埋まる。腰まで埋まる。一応停車場は屋根がついているので駅外と比べればそりゃあ風に乗って積もり積もった雪の量は少ないだろうが、数年に一度うっすら積もるくらいしか経験のないリラ軍部兵は絶句したままとりあえず列車から降りるくらいしかできていない。みんな脇の下に手を挟み、マフラーの下でカタカタ歯を震わせるのに夢中だった。
「マイル、しゃがんだら気持ちが折れて二度と立てなくなるから立ってなさい。皆さん、とりあえず駅舎内に入って一息ついて、雪かきしますよ! ダン中尉、先導して、落ち着いたら指示してください。ハロルド様、まずは列車から降りましょう。はい、俺にお尻蹴られないうちに皆さん動いてください!」
雪かきは重労働だ。やっていれば簡単に身体は暖まる。駅構内に火を灯し、交代で駅周辺の雪を積もる端から片付けていく。雪や風が弱まれば俺をつれて周辺の巡回をして、駅にストックしてある薪を可能な限り節約するために隣接している森の入り口付近で枯れ枝を探す。食料もレーションこそあるがなるべく自給自足なのでウサギや鳥を狩る。鹿が狩れたら英雄扱い。週に一度の食料配給に集まる獣人にそれとなく怪しい人物の情報を聞いてと、だいたいそんなルーチンを続けている。
危なげなことはなにもなく二週間少し経つが、テロリストには未だにお会いしたことがない。もうこれ雪上訓練だ。大佐がマイルを選んだのはその有能さからではなくこの訓練のためだった。日に日に動きがよくなる様子を見れば、毎年暑さで倒れている俺もいつか南の戦場か訓練に飛ばされるんだろうと憂鬱になる。
慣れは怖い。誰にでも慣れがあると思ってしまわれることが怖い。
勘としてはこれから酷く天気は崩れるが、珍しく晴れたまま一日が過ぎようとしていた。元から低い位置だった太陽も落ち、駅外で鼻っ柱を真っ赤に染めたダン中尉とマイルの見張りを交代する。組み合わせは日中の仕事内容でいろいろ変えるが、だからこそ、ここに来て初めてのハロルド様とのふたりきりだった。俺は概ね巡回役だから、見張り番には極端なほどならなかった。だからたぶん、見張りは今日が最初で最後だろう。
鼻も隠れるくらいにマフラーをぐるぐるに巻いて、分厚いコートに肩幅を広くして、すらりと伸びた指先も手袋に隠されて。ハロルド様がそこまでしたって、ほんの少し露出した目元の肌は赤く冷たそうに見える。
「犬になります?」
「そのままでいいです」
じゃあ、とぴったり隣にくっついて雪の上に座る。職務中なのであまりべたべたはできないが、これくらいなら暖のキープのためセーフだ。
「出張はあれど、ここまでの外勤は初めてでしょう?」
「ええ。過酷ですね」
「普段の遠征に慣れてても今回のは気温的に随一じゃないかと。でももう一週間したら交代で帰れますよ。それまでの辛抱です」
頑張りましょうとグッと拳をつくり笑いかけるも、その一週間が遠いのだと魂が抜けるように白い吐息がマフラーに濾され空気に舞い散っていく。
お疲れの様子だ。中年男性の切ないため息だ。
苦笑してその肩に身体を預け、寒さの入り込むほんの少しの隙間も閉じてしまう。べたべたする気は本当になかったけれど、してしまえば離れがたい。「仕事中ですよ」と言われてしまったが、それは口だけだ。身体は暖かさに正直に俺を拒否せず受け入れている。
雪が降っていない分風が少し強いから、肌を叩くように刺してくる冷気にただの人ならこのまま凍ってしまいそうだと思う。人なら防寒具なしに耐えられないような冬の寒空も、俺にとってはそれすら心地よかった。慣れてしまえばマフラーも手袋もいらない。コートも必要ならハロルド様の肩にかけたっていい。人のかたちをとっていれば多少寒さは厳しいけれど、こういうものだと受け入れているから楽しいのだ。
これは子どもの感性と、たぶん、おんなじ。
はぁ、と熱い息を出して、代わりに冷たい空気を肺に送ればちりりと胸が痛い。それでも冷気に気持ちがしゃんと引き締まり、はっきりとした意識で空の一番遠くまで見通せる。濃紺の夜空に大きく瞬く星がきれいだ。
「好きな人と冬の星空デートって言葉がなくても楽しいんだなあ……」
ポツリと呟けば、時間差で「これがデートですか」と呆れた声を返された。これがデートじゃなかったらなんなんだ。あ、お仕事か。
「ハロルド様、ちょっと痩せましたね。やつれたと言うか……」
「貴方はふっくらしましたね」
「え、やっぱりですか?! 最近すこぶる調子がよくて! すごしやすいからかな……、狩りたてのお肉おいしいですし」
「帰りたくないんじゃないですか?」
「まさか! 帰ったら向こうはもう暖かいですからね、ピクニックとか、ハロルド様とデート三昧ですごすので帰るのも楽しみです。たくさん出掛けましょうね!」
ね、と顔を覗き込んでにっこり笑えば、冷気に赤らんでいた目元がもっと赤くなったような気がした。鋭く細められた目をそらされそっぽを向かれるけど、俺の彼氏はこういうところが可愛いと今なら思える。
「まずどこに行きましょう。春と言えば新作スイーツですかね。街のカフェテリア制覇します?」
「男ふたりで行くんですか?」
「あ、ウサギ。狩ろうかな。マイルも誘えば喜んで来るとは思いますけど、それってデートなんですかね?」
「見逃しなさい、貴方が狩った鹿肉が残っているでしょう。……はぁ、ふたりで行きましょう。仕方がないので、どこへでもお付き合いしますよ」
「ふふっ、了解です。だからハロルド様大好きです。ふたりで選んで、どこにでも行きましょう」
危ないことはなにも起きない。血なまぐさいこともしないと決め込んだので、交代までほどほどにいちゃつこう。そうシフトしつつあった意識は遠くに響く鳴き声にぶん殴られるよう止められて、すぐさま立ち上がり耳を澄ませた。
風が出てきた。いつの間にか雪が舞い始め、静寂に狼の遠吠えを聴く。俺はそれを理解できる。
「回り込まれてる。中に戻って敵襲に備えるようダン中尉に伝えてください。狼……以外にもいますね。風切り音が聞こえたので鳥と、あと四つ足の動物です。外に出ず、ドアと窓に注意させてください。狼たちは俺が相手してきます」
「ひとりで行かせるわけないでしょう」
「狼の姿の俺と他の狼の見分けがつくんならお手伝いしてもらったかもしれないですね」
冷たい言い方になったが、これでハロルド様は引き下がった。納得なんてしていないのは雰囲気でわかる。あとできっと怒られるだろう。……生きて、いられたらだけど。
俺がひとりになると、森からいくつもの金の光が揺らめき近付いてくる。恐らくは同じように俺の目も金に揺れている。……五、六。数の把握は大事だ。生き残ることこそ大事な使命だから。
持っていた銃剣を片手に両手を上げて、降参の姿勢で歩み寄る。白と灰色と黒の混じった毛皮を見ると、懐かしさにじわり胸が詰まる。けれど衝撃までとはいかない。見知らぬ狼に抱けるのはただの同郷へのよしみくらいだ。なのに、中から一頭が前に出る、その姿を見て一瞬息をとめた。
「きみは……」
俺の声に反応して彼女は目を細めた。そして四つ足が人の手足になる。毛皮は頭部や下腹部だけに残り、柔らかに見える四肢は雪色に近い肌色で、風雪に晒されほのかに赤みを帯びていく。
裸体の女性にぎょっとしてコートを脱ぎ差し出せば、彼女は破顔してそれを受けとり羽織った。
たとえ何年会わずとも、自分の家族は見紛えない。彼女も、俺も。
俺より少し背が低く、俺と同じ瞳の色で、同じ髪色を肩まで伸ばした、引き締まりつつも華奢な女の子。人の姿を見るのは初めてでも、目鼻立ちは鏡の中の俺とそっくりだった。
「アリビナ……」
名前を呼べば彼女は俺に抱きつき、手にしていた銃はするりと取り上げられ仲間の狼に投げ渡される。
「お帰りなさい、お兄ちゃん!」
ぎゅうぎゅうに腕に抱きつかれ、参ってしまう。うまく頭が働かない。なにかの動物の鳴き声は聞こえていて、仲間のもとに駆けつけなければいけないのに足は重い。
他の狼が「行こう」と唸る。妹は頷き、胸に抱きしめていた腕から離れ、代わりに指を手に絡ませ繋いでみせた。
「しばらくお話しよう。もし逃げたら、そうだなあ……」
顔を覗きこみ、にっと犬歯を出して笑みを作る。
「みんなで噛みつくからね」
歯をかちりと鳴らした妹は、俺より十数年、よっぽど野生のいきものだった。
「半分足りないんですけど」
それでも甘党からホール半分死守したんだけどな……。
俺の誕生日ケーキなのに結局俺は半分のホールケーキの四分の一しか口に入らなかった。まあハロルド様がご満悦だったのでいいんだけど。
不満顔に笑って謝り、少し天気の話をして別れる。二日ごとのお見舞いだから、ひと月も見舞えばほとんど会話の種なんてなくなるのだ。マイルも食べ物目当てなので俺ののろけ話には耳を塞いでみせるし、仕事の忙しさが落ち着いて休憩の必要もなくなった今ではそんなマイルをいい根性だなあとしみじみ再確認するばかりだった。
来月には冬の寒さも落ち着いて春が来るだろう。本格的な春が来たなら予定通りパレード警備をして、春入隊の新人育成が始まる。新年度は訓練に追われる日々で実戦などなく平和に過ごしたい。心からそう思う。目指せのんびりデート三昧だ。
「ライカ、マイルは完治してるんだったか?」
「今週いっぱいで退院ですが、どうかしました?」
「少数精鋭隊でさくっと出るんだが、編成に組み込んで大丈夫だな」
「退院早々可哀想に……」
大佐が向かうなら東西南北もちろん俺も付き従うので、俺も大概可哀想だ。もちろん俺ひとりでもどこへでも参戦するが。
「平和ってどこにあるんでしょうね……」
どこに出兵かは聞かずに両手でコーヒーカップを持ち熱を冷ますように息を吹きかける。ふう、と息に白い湯気が目の前で霧散していくのを虚ろな瞳に映してそう呟けば、ダルム大佐は「うーん」と一考し、まじめなトーンで「結婚式にあるだろうな」なんて答えるものだから、どこまでもついていこうと内唇を噛んで肩を震わせた。大佐はたまに、ピュアを駆け抜ける。ハロルド様ですら口元を手で塞いで明後日の方向に顔を背けている。
打ち合わせは一先ず隊内の役職数名で執り行うことになった。ダルム大佐と、大佐のお付きの俺と、役職としてなら大佐のすぐ下のハロルド様に、ダン中尉とロッジオ少尉だ。
役職だけなら曹長の俺が一番したっぱである下士官だが、ふたつみっつほど年下の中尉と少尉を士官候補生のときから指導していたのは俺なので、萎縮がなかなか消えず発言権を譲られているのが現状にある。俺を命令でこき使えるようにならなければ成長が見込めない。本隊の悩みの種である。
「本題だが、先日ラザロ自治区で爆破テロ未遂があったらしい。犯人は確保できなかったそうだ」
「ん……?」
ラザロ。俺の視線に大佐は目を伏せる。どうやら聞き違いではないらしい。
「確か、北の山脈のふもとの大森林でしたね。駅は山と森に挟まれているんでしたっけ」
ダン中尉が俺の顔を見て確認するように口を開いた。俺の情報をちゃんと頭に入れているのだろう。頷けば、続けてロッジオ少尉が疑問に首をかしげた。
「森? 森でテロをする意味なんてあるんですか?」
「駅があるだろ。線路もある。冬の厳しい時期にだけ定期的に食料を届けているのは知ってるか? 運良く配送日にかち合ったこともあり未遂に防げたが、どうもまだ狙われてるようだ」
「強奪ではなくテロですか」
今度はハロルド様が問いかける。
「ああ。食料には目もくれなかったらしい。あそこは雪が酷いだろ。駅が壊されちまったら維持より修復の方がコストかかるんだ。一日でも除雪車が走れなきゃ直す線路も見えんし、直してるうちに凍死か遭難かだからな。で、最悪天候によっては半年から一年は物流が滞る。そっちの損害の方が怖い」
「時短のコストカットに慣れきっている現状確かに痛手になりますね」
痛手は痛手だが、それでもわからない。ハロルド様も俺も納得のいかない表情をしている。
「駅テロはわりとある手ですけど、他の地域ならともかくラザロの駅を壊してなにを主張したいんですか? 犯行声明もおそらくしなさそうですし」
「それがどうもわからんくてな……。ラザロ出身はお前くらいだから、この話がうちにきた」
「うーん……」
伐採されゆく故郷の森を見ていたギリギリ当事者なのであまり言いたくはないが、せっかく先住民の命という犠牲を払い切り開いた土地なのに乗降客のいない駅しかないので、もう壊されたら壊されたで駅閉鎖すればよいのでは、くらいは思ってしまう。帝都リラを中心に花咲くような円形で作られた循環鉄道の一路線が、循環せずラザロの両隣駅が始点と終点になるだけだ。そして森を縦断する鉄道さえなくなれば、数百年後にはもともとの森の姿を取り戻すだろう。
――そんな、簡単な話ではないことくらいわかってはいるんだけど。
「あんななにもないところ潰してもなあ。なんにも変わらないって言うか、森がない分昔より酷い環境になるだけなのに。でもその方が……嬉しい……のかも?」
「なにがいいんだ?」
「食料配給が止まれば弱い個体は死ぬかもしれませんが、たった十数年前に戻るだけなんですよ。獣人ならきっと与えられる食料よりこれからの森を選びますね。おそらくこの感性は種や生まれのプライドの問題です」
停車駅こそ雪避けを兼ねてすぐ隣は森だが、少し列車が走れば無駄に視界が開けてなにもない。無意味に森を奪われたとしか言えないのだ。伐り倒した木は薪として各都市の非常用に保管され過剰分は売りに出されたが、十年ほど経っているのに在庫が尽きていない。このやるせなさを胸にすれば、どこかからやってきた人間に町でも作られて我が物顔された方がまだマシだった。それすらなかったんだから、怒りやむなしさで腹の中は消化不良だ。
「まあ、俺はもう根っからの軍の犬なので気持ちの理解はできても賛同はしません。今生きてる弱い個体の命を見捨てるなんて、それこそ。誰もが生きられる選択肢は尊ばれるべきだ。俺としては飢えなんてない方が安心できますし」
ここまで言葉にして、ようやくピンときた。
「ああ、主犯は森の獣人なのか。ただ単に廃駅にさせたいんですね」
ストレートこそ獣人の本懐だ。そりゃあ壊すよな、駅。恨みを晴らせる対象が駅しかないからむしろそれしかできない。
あそこには狼の他に、熊と狐とウサギも居たかな。イタチと鳥系も居たし、どの種族だろう。数は少なかったが多種だった記憶がある。
「獣人相手なら俺も出る方がいいのか……」
腕を組み大佐が呟く。
「年も越してラザロは安定した真冬。むしろ今は極寒の真冬ですね。俺が行かないなら誰が行く案件でしょうか」
「そりゃあ俺だな」
「さすが俺の大佐です」
「ふ、もっと誉めろ」
「今日も一段と筋肉が格好いいですね。素敵です」
「ふっふっふ、そうだろう、触ってもいいぞ」
「では遠慮なく。……はぁ、なんて男らしい二頭筋……! むっちむち!」
「また始まりましたねふたりの世界。でも相変わらず仲の良いお二人を見るとこの隊でよかったと思います。ピリピリしてるところは酷いと聞きますから、イチャイチャしてくれる方が平穏です」
「そうだな、だが思っていても言うなロッジオ少尉。ハロルド中佐殿の前だ」
「中佐殿の前だとだめなんですか?」
「いいから、しっ」
「そろそろ馬鹿丸出しな茶番は止めてくださいませんか。……不快です」
ピリッとした圧を肌で感じて素早く大佐から距離をとる。
自然の中に生きる獣人は基本無学なので、馬鹿とは違うが知識が圧倒的に片寄っている。生活の知識と群れの伝統と生存本能にポイントを振っているので、未遂で済んだ駅テロも爆薬の量なんて計算もしない行き当たりばったりのものだったのかもしれない。俺も森生まれ森育ちなら、線路を一本一本外すようなやり方くらいしかできなかっただろう。
「ごほん。で、実際のところ編成はどうする気なんですか? 俺とマイルは決定なんですよね。少数なら十人前後班か。俺としてはダン中尉に指揮を執ってもらうのが適任だと思っていますが大佐もいらっしゃるなら悩みますね。経験を積める機会は貴重ですから。あ、ハロルド様はお留守番ですよ」
ね、と人差し指を立てて確認したのを、ハロルド様は一瞥してふい、とそっぽを向いた。自己紹介の日を彷彿させる横顔の無表情さに冷や汗が背を伝う。
いや、そんな無言で返されても留守番ですよ。
ラザロの季節は冬と春の陽気の夏しかない。国の季節が冬ならば、ラザロは極寒の真冬である。
帝都リラを中心にいくつかある円形の循環鉄道の、その最も外側の路線まで乗り継ぎに乗り継いで、あと数十時間でラザロの駅に到着するところまできた。窓の外は一面の雪景色だ。ごうごうと吹き荒れる猛吹雪に走行スピードは安全面からグッと遅くなり、かつ見える景色は窓にへばりついた雪の白さと薄暗さしか見えないので、冬景色を楽しむこともできない。
「寒い……むり……つらい……」
「…………」
「わふぅ……」
列車内の温度が下がるにつれて、マイルは小さく縮こまり、暖を逃がさないようマフラーに顔半分以上を埋めた上で、太ももに乗っている狼の俺の腰にマフラーごと顔を埋めていた。ちなみにマイルの隣にはハロルド様が座っていて、自分の足と俺の胸の間に手を突っ込み暖をとっている。
見ればわかるが、俺はマイルとハロルド様の膝の上に伏せをする湯たんぽあるいは膝掛けになっていた。
「行ったところで駅内の警備くらいしかできないのに……」
「わふん……」
南生まれのマイルは単純に暑さに強く寒さに弱い。夏によく倒れている俺をまだ涼しいくらいですよと言いながら医務室に引きずってくれるのはマイルなので、日頃の感謝を込めて湯たんぽになるのもやぶさかではなかった。ひとりで溢すだけ溢している愚痴も相づちくらい打とう。ハロルド様は無言の同意を示しているふうだが、マイルには伝わっていないようだし。
「そもそも、見るからに軍人のいる駅に獣人のテロリストがくるわけないんですよ……」
「わっふ」
「周辺の巡回ってなんなんですか、遭難するっつーの……」
「がぅわん」
「いつ来るかわからないテロリストを待つなんて軍の仕事じゃないはずだ……」
「わふぅ……」
そうしてまた「寒い」「つらい」「むり」しか言わなくなったマイルに尻尾をふぁさふぁさしてあやす。可哀想に。正論だから誰も声をかけることができない。
終わりの見えない仕事は誰だって気が重くなるものだ。テロリストを捕まえることができなくとも春のパレードに間に合うように他から交代の隊があてがわれる手はずなので、一応春には一時帰還できるのだが。
「つらい……」
その春が今は遠い。
結局の留守番はロッジオ少尉と大佐で、ダン中尉と数人の兵を連れて俺たちはラザロに向かっていた。
俺としては誰の湯たんぽにでもなる所存だが、あまりのマイルの寒がり方にハロルド様以外は俺で暖をとるのを遠慮してしまっているので、ふたりの専属膝掛けのまま列車に揺られている。
ハッハッと口を開けて息をすれば白いもやが生まれて消える。肺に取り込んだ空気は冷たいが、そこまでのものではない。でも少し、その冷たさが嬉しかった。
故郷に帰るのは初めてだ。なにかあれば報告書類を閲覧する程度はしてきたけれど、本当に、それだけ。だって帝都からすごく遠い。なにかあればとか、実際ほぼなにもなかったし。帰る時間も、その必要もまるでなかった。
じっと窓の外を見ている。雪でなんにも見えないけれど、色はわかる。白に、灰色。黒と青みのかかった影。晴れればきらきらと輝く雪の結晶は思い出の中のものだ。そうやって見えないものも想像して、静かに心が騒ぐ。
早くつかないかな。尻尾が揺れる。
任務なのに楽しんでいるなんてバレたくないから、尻尾はマイルの頭を撫でているんですよと、未だに溢れている愚痴にくぅんと鳴いた。
人は本当に無理になると言葉をなくす。息が色付く列車内は、それでも最低限の暖房がついていた。風雪は壁天井に守られ、水も液体のまま凍ることはなかった。
駅に停車し、俺も人型に戻り荷物を持って一歩外に出る。乗降客のいない駅の排雪事情は悲惨だ。食料配給のある日は獣人が雪かきをしてくれているんだろうが、今回はそうではないのだから足が埋まる。腰まで埋まる。一応停車場は屋根がついているので駅外と比べればそりゃあ風に乗って積もり積もった雪の量は少ないだろうが、数年に一度うっすら積もるくらいしか経験のないリラ軍部兵は絶句したままとりあえず列車から降りるくらいしかできていない。みんな脇の下に手を挟み、マフラーの下でカタカタ歯を震わせるのに夢中だった。
「マイル、しゃがんだら気持ちが折れて二度と立てなくなるから立ってなさい。皆さん、とりあえず駅舎内に入って一息ついて、雪かきしますよ! ダン中尉、先導して、落ち着いたら指示してください。ハロルド様、まずは列車から降りましょう。はい、俺にお尻蹴られないうちに皆さん動いてください!」
雪かきは重労働だ。やっていれば簡単に身体は暖まる。駅構内に火を灯し、交代で駅周辺の雪を積もる端から片付けていく。雪や風が弱まれば俺をつれて周辺の巡回をして、駅にストックしてある薪を可能な限り節約するために隣接している森の入り口付近で枯れ枝を探す。食料もレーションこそあるがなるべく自給自足なのでウサギや鳥を狩る。鹿が狩れたら英雄扱い。週に一度の食料配給に集まる獣人にそれとなく怪しい人物の情報を聞いてと、だいたいそんなルーチンを続けている。
危なげなことはなにもなく二週間少し経つが、テロリストには未だにお会いしたことがない。もうこれ雪上訓練だ。大佐がマイルを選んだのはその有能さからではなくこの訓練のためだった。日に日に動きがよくなる様子を見れば、毎年暑さで倒れている俺もいつか南の戦場か訓練に飛ばされるんだろうと憂鬱になる。
慣れは怖い。誰にでも慣れがあると思ってしまわれることが怖い。
勘としてはこれから酷く天気は崩れるが、珍しく晴れたまま一日が過ぎようとしていた。元から低い位置だった太陽も落ち、駅外で鼻っ柱を真っ赤に染めたダン中尉とマイルの見張りを交代する。組み合わせは日中の仕事内容でいろいろ変えるが、だからこそ、ここに来て初めてのハロルド様とのふたりきりだった。俺は概ね巡回役だから、見張り番には極端なほどならなかった。だからたぶん、見張りは今日が最初で最後だろう。
鼻も隠れるくらいにマフラーをぐるぐるに巻いて、分厚いコートに肩幅を広くして、すらりと伸びた指先も手袋に隠されて。ハロルド様がそこまでしたって、ほんの少し露出した目元の肌は赤く冷たそうに見える。
「犬になります?」
「そのままでいいです」
じゃあ、とぴったり隣にくっついて雪の上に座る。職務中なのであまりべたべたはできないが、これくらいなら暖のキープのためセーフだ。
「出張はあれど、ここまでの外勤は初めてでしょう?」
「ええ。過酷ですね」
「普段の遠征に慣れてても今回のは気温的に随一じゃないかと。でももう一週間したら交代で帰れますよ。それまでの辛抱です」
頑張りましょうとグッと拳をつくり笑いかけるも、その一週間が遠いのだと魂が抜けるように白い吐息がマフラーに濾され空気に舞い散っていく。
お疲れの様子だ。中年男性の切ないため息だ。
苦笑してその肩に身体を預け、寒さの入り込むほんの少しの隙間も閉じてしまう。べたべたする気は本当になかったけれど、してしまえば離れがたい。「仕事中ですよ」と言われてしまったが、それは口だけだ。身体は暖かさに正直に俺を拒否せず受け入れている。
雪が降っていない分風が少し強いから、肌を叩くように刺してくる冷気にただの人ならこのまま凍ってしまいそうだと思う。人なら防寒具なしに耐えられないような冬の寒空も、俺にとってはそれすら心地よかった。慣れてしまえばマフラーも手袋もいらない。コートも必要ならハロルド様の肩にかけたっていい。人のかたちをとっていれば多少寒さは厳しいけれど、こういうものだと受け入れているから楽しいのだ。
これは子どもの感性と、たぶん、おんなじ。
はぁ、と熱い息を出して、代わりに冷たい空気を肺に送ればちりりと胸が痛い。それでも冷気に気持ちがしゃんと引き締まり、はっきりとした意識で空の一番遠くまで見通せる。濃紺の夜空に大きく瞬く星がきれいだ。
「好きな人と冬の星空デートって言葉がなくても楽しいんだなあ……」
ポツリと呟けば、時間差で「これがデートですか」と呆れた声を返された。これがデートじゃなかったらなんなんだ。あ、お仕事か。
「ハロルド様、ちょっと痩せましたね。やつれたと言うか……」
「貴方はふっくらしましたね」
「え、やっぱりですか?! 最近すこぶる調子がよくて! すごしやすいからかな……、狩りたてのお肉おいしいですし」
「帰りたくないんじゃないですか?」
「まさか! 帰ったら向こうはもう暖かいですからね、ピクニックとか、ハロルド様とデート三昧ですごすので帰るのも楽しみです。たくさん出掛けましょうね!」
ね、と顔を覗き込んでにっこり笑えば、冷気に赤らんでいた目元がもっと赤くなったような気がした。鋭く細められた目をそらされそっぽを向かれるけど、俺の彼氏はこういうところが可愛いと今なら思える。
「まずどこに行きましょう。春と言えば新作スイーツですかね。街のカフェテリア制覇します?」
「男ふたりで行くんですか?」
「あ、ウサギ。狩ろうかな。マイルも誘えば喜んで来るとは思いますけど、それってデートなんですかね?」
「見逃しなさい、貴方が狩った鹿肉が残っているでしょう。……はぁ、ふたりで行きましょう。仕方がないので、どこへでもお付き合いしますよ」
「ふふっ、了解です。だからハロルド様大好きです。ふたりで選んで、どこにでも行きましょう」
危ないことはなにも起きない。血なまぐさいこともしないと決め込んだので、交代までほどほどにいちゃつこう。そうシフトしつつあった意識は遠くに響く鳴き声にぶん殴られるよう止められて、すぐさま立ち上がり耳を澄ませた。
風が出てきた。いつの間にか雪が舞い始め、静寂に狼の遠吠えを聴く。俺はそれを理解できる。
「回り込まれてる。中に戻って敵襲に備えるようダン中尉に伝えてください。狼……以外にもいますね。風切り音が聞こえたので鳥と、あと四つ足の動物です。外に出ず、ドアと窓に注意させてください。狼たちは俺が相手してきます」
「ひとりで行かせるわけないでしょう」
「狼の姿の俺と他の狼の見分けがつくんならお手伝いしてもらったかもしれないですね」
冷たい言い方になったが、これでハロルド様は引き下がった。納得なんてしていないのは雰囲気でわかる。あとできっと怒られるだろう。……生きて、いられたらだけど。
俺がひとりになると、森からいくつもの金の光が揺らめき近付いてくる。恐らくは同じように俺の目も金に揺れている。……五、六。数の把握は大事だ。生き残ることこそ大事な使命だから。
持っていた銃剣を片手に両手を上げて、降参の姿勢で歩み寄る。白と灰色と黒の混じった毛皮を見ると、懐かしさにじわり胸が詰まる。けれど衝撃までとはいかない。見知らぬ狼に抱けるのはただの同郷へのよしみくらいだ。なのに、中から一頭が前に出る、その姿を見て一瞬息をとめた。
「きみは……」
俺の声に反応して彼女は目を細めた。そして四つ足が人の手足になる。毛皮は頭部や下腹部だけに残り、柔らかに見える四肢は雪色に近い肌色で、風雪に晒されほのかに赤みを帯びていく。
裸体の女性にぎょっとしてコートを脱ぎ差し出せば、彼女は破顔してそれを受けとり羽織った。
たとえ何年会わずとも、自分の家族は見紛えない。彼女も、俺も。
俺より少し背が低く、俺と同じ瞳の色で、同じ髪色を肩まで伸ばした、引き締まりつつも華奢な女の子。人の姿を見るのは初めてでも、目鼻立ちは鏡の中の俺とそっくりだった。
「アリビナ……」
名前を呼べば彼女は俺に抱きつき、手にしていた銃はするりと取り上げられ仲間の狼に投げ渡される。
「お帰りなさい、お兄ちゃん!」
ぎゅうぎゅうに腕に抱きつかれ、参ってしまう。うまく頭が働かない。なにかの動物の鳴き声は聞こえていて、仲間のもとに駆けつけなければいけないのに足は重い。
他の狼が「行こう」と唸る。妹は頷き、胸に抱きしめていた腕から離れ、代わりに指を手に絡ませ繋いでみせた。
「しばらくお話しよう。もし逃げたら、そうだなあ……」
顔を覗きこみ、にっと犬歯を出して笑みを作る。
「みんなで噛みつくからね」
歯をかちりと鳴らした妹は、俺より十数年、よっぽど野生のいきものだった。
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