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第十七話
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森の奥に入るにつれて雪は激しさを増す。アリビナは歩けば膝裏まで埋まるような道もない道を迷いなく素足で進むものだから、一旦引き留めズボンと靴を脱ごうとした。けれど笑っていらないよと俺を止めて、代わりにぽつぽつと話し始める。
「あたしたち狼はただの逃亡のときの道案内役。これからもっと天気崩れるから、足の遅い子を連れて走るはずだったの。でも、その役目は必要なさそうだから、契約違反だけど早速解散。もともとこの件に興味はなかったんだけど、森での付き合いもあったし、ここで何かしたらお兄ちゃん来るかなって。だから一枚噛んでみたの。狼に敵意はないから安心してね」
敵意がないなら駅舎に帰してほしかった。そんな雰囲気を出せば脇を固める狼たちが唸るので、繋いだままの手のひらを引っ張られるまま歩き、吐息する。
「こんなことに関わるなんて、父さんは許さないだろ」
アリビナは一瞬呆けて、次いで悲しげに目を伏せる。
「そう、なのかも。でも、家族はあたししか残らなかったから、誰も止めてくれなかったよ」
その言葉に今度は息を呑む。目を見開いてアリビナを見れば、嘘は言っていないと首を振られ、胸が酷く痛んだ。何人かはと覚悟していたはずなのに、今さらなのに。
自分の声がこだまする。誰かの父親や兄を殺されたのは、俺もだったみたいだ。
「……自分の直感でこの案件に手を貸したんだとすれば、俺が叱るべき、かな」
「叱らなくて、いいわよ。どうせ失敗するってわかってたから」
「なのに手を貸したのか? そんなに考えなしじゃなかったはずだ。アリビナは兄弟の中でも賢かった。人間の共通語も、上手だね」
「ふふっ、森の中なら内緒話にいいでしょ? でもお兄ちゃんほどじゃないからまだまだだわ。十年以上頑張れば言葉に不自由はなくなったけど、文字の読み書きと計算に躓いてるの。服も二足歩行も苦手。あと、言ったでしょ。手を貸したらお兄ちゃんに会えるって直感したから。それだけ。あたしが動くのは、たったそれだけのことでなの」
夏場ならひらけた草原が広がるだろう雪原に出て、アリビナは周りの狼にお礼を言って解散させる。友人か聞けば養ってくれたのと微笑んだ。なら、無体な真似はできないと見逃した。
木々に守られていない雪原の風は強い。それでも粉雪ではない分寒さは控えめに、大きめな雪の結晶の塊が視界を埋め尽くしていく。アリビナの肌はもう真っ赤に染まって、やっぱり靴ぐらいは履いてもらおうと差し出せば困ったように眉を下げ、けれど素直にそれを履いた。
「おっきい。ふふっ、あったかい」
予想外にお気にめしたようだ。
「昔はほとんど同じ大きさだったのにな」
「顔も同じだったわ。なんでも同じだった。だからお兄ちゃんに会いたいときは、川に映り込む自分の顔を見て我慢できたの。一目でわかったけど、あたし達会わないうちにずいぶん違っちゃってたのね」
それが悲しいと、うつむいて呟く。
「怒られてもいいの。会いたかったから、それだけで動いちゃった。だって、あたしたちって、そういうふうにしか生きられないでしょ?」
身に覚えがありすぎて言葉に詰まる。会いたかったから、俺も山を降りて、人をたくさん殺してきた。言葉にすると、やっぱり俺は、生き汚い。
「……戻るよ。発砲音が聞こえた」
「行かないで」
「だめ。助けないと」
遠くで銃器音が聞こえる。狼は本当に解散したのだろう。肉食の獣がいても狼がいないなら、今から駆ければまだ誰も死んでいないかもしれない。鳥類が厄介だな。でもこの天気じゃ外に出れば動きも鈍るだろう。そこまで考えたところで強く腕を引かれアリビナに視線を戻す。
「そりゃあ何人かは死ぬかもしれないけど、でも、ただの寄せ集めの老いた動物が人間に敵うわけないもの。お兄ちゃんがいかなくても平気よ」
「その何人かが大事なんだよ」
「でも、やられたらやり返すのは、人も動物も変わらないわ。軍人ならそれだけで恨まれるにあたいする」
「俺も軍人なんだよ、アリビナ」
「あたしの家族でもあるわ。お願い、まだ戻らないで。まだ……」
「アリビナ……」
無理に手を離せば狼になったアリビナに足止めされるだろう。多少の怪我は厭わない本気の牙で。野生の世界はシビアだ。そういうふうにしか生きさせてもらえないから、そういうふうに生きるしかなくなる。やりあえば、ここをホームにし続けたアリビナにこそ軍配が上がるだろうか。
なんの罪も持たなくていいはずの子どもだった俺たちは、とことんツケを払わされる。
兵士を殺すたびに可哀想なことをしたと思う。そんなこと、戦後の夜中にひとりベッドでようやく思い出すべきことなのに。昔の俺は他の多くの兵と同じように、その時の気持ちをその時にしか受け止められない子どもだった。
可哀想なことをしている。
可哀想なことをされている。
酷い目にあわせて、あわされている。
やったらやり返される。そんな当たり前を不眠症の瞼で受け入れてしまえばよく眠れた。一方的で理不尽な怒りは、それを感じること自体が無駄だといつの間にか捨ててしまっていた。だからなんでもできるようになった。ただの人の子どもの服を着て、敵地にて引き金を引くことも。
もういちいち葛藤なんてしない。罪悪感で胸を痛めても動きは鈍らない。過ぎて近い心の傷に折り合いをつけて、いまだにたまに、戦争に近い抗争で化膿した傷を増やして。その痛みを、なんでもない顔で受けとめられる。
受けとめられると信じていなければ、到底まともじゃいられない。
人の腕を折ることにためらいはない。たぶんそれは正しくない。救助のために人をためらいなく庇える。きっとそれだって正しくはない。遺体だろうが火を放つなんて、それこそ論外だろう。
――もう、先人たちのツケとかじゃない。
他人を思いやらない行為に正しさは濁っている。自分を省みない行為に濁りは増して、かつてあったはずの理想の自分の姿はどこにも見えなくなった。理想なんてそもそもなかったのかも。
そんな自分だから、人を殺めた手のひらで自分の涙を拭えてしまうんだ。
――可哀想。
そう、悲観するくらいなら吹っ切れたかった。だって俺は、負けず嫌いなんだ。正しくなくても、それに近いところで、せめてしたたかでありたかった。俺は、そうやって自分のために生きられる。
「アリビナは、今まで俺のために我慢してくれたんだね」
寂しいのを我慢することの、どんなに悲しいことか。
一方的に繋がれるだけだった手のひらに力を込めて握りしめる。
俺は、自分のために生きられる。だからこそ、選んだ人たちは手離さないでいようと行動できる。離れることに適正がある? どこがだ。選ばれた人にとってはいい迷惑だ。諦めてあげるのが下手なのは、叶った初恋を見ればわかることだった。
俺は自分のために、どんなことだってやれるようになった。人間の都合のいい消耗品にだってなれる。だからあのとき妹を置いていったのは、こんなに泣かれていても、やっぱり正解だったと思う。俺が受けてきた酷い目にあわせるなんて、できなかった。
けれど、俺はもう必要最低限の自分だけしか持てなかった少年ではない。少なからずの地位がある。力がある。好きな人が生きやすいように、自分がやりたいことをやりきれる。
「今度は、迎えに行くから」
だから行かせてほしいと、泣いている女の子を抱きしめる。俺に近くて、少し違う、どこか懐かしいにおいがして胸が痛い。肩口が温かく湿っていく。風が吹けば冷たくて、それが悲しみを誘って、俺も一粒くらい目頭が濡れたけど、すぐに凍ってしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ。お兄ちゃんだけは、助けたかったの……!」
ぐらぐらと目の前が揺れて、めまいかと思った。山から響き渡る重たい地鳴りに身体は固まる。
ごめんなさいと繰り返す妹を胸から引き剥がせば彼女は背に抱きついてでも俺の足を止める。ここにいれば大丈夫だと行動が示している。それはここ以外は危ないと同義だった。
轟音と共に、たかだか十分程度の距離が目の前で雪崩れていく。
大丈夫、それでも絶望的な大きさではない。
爆薬がきっと足りなかった。足りてても設置距離の計算能力がなかったんだろう。
きっと大丈夫。まだ。
ドッドッと心臓が早まるけれど、室内にいれば、流されることもなく掘り出せる。
圧死が怖いだけ。けれどそれが一番怖い。
脚力は昔から自慢だった。
妹を振り払い邪魔な服を脱ぎ破き四つ足で駆ける。
ごろごろと転がっている雪の固まりの上を走るのは思ったよりも楽だった。
転がる雪の塊に潰れた駅舎屋根を見る。
あー、もう。俺の肉球ぼろっぼろ確定。
どうしてこうまで尽くしてしまうのか。そりゃあ尽くすだろ、恋人が中にいるんだ。
底無しのおひとよしなんて柄じゃない。打算と計算は捨てきれない。物事の良し悪しは良いことを選びたいけど、必要なら道徳的に悪いことだって選んでここまでやってきた。自分が幸せになることへの余念がない。だって、弱くありたくなかった。弱い自分が嫌だった。いわばこれが俺のプライドだから。
感覚は研ぎ澄まされて、ひとつの呻き声も逃さない。最優先は個人的な感情で。それ以外は、ただの、同郷のよしみだろうか。
ぽたり頬に落ちてきたぬるい水に意識が浮上して、パチパチまばたきを数回してそれが涙だと気付く。
病院の一室かな、ここは。
腕を伸ばせば肩のつけねからもげてしまいそうな痛みが走って、同時に筋肉痛にも気付いてちょっと笑った。それでもようやく伸ばした指を頬に沿わせ――やわらかな包帯を布にして――あたたかな涙を拭った。
黒い髪に閉じ込められるように覗き込まれている。好きなシチュエーションににんまり微笑んでみせると、ハロルド様は下唇を噛んで、嗚咽もなくさめざめと涙を落とすばかりだった。
黒の睫毛が涙の粒を掬って、金色にきらきらしてる。頬にぽろぽろ落ちて弾ける涙はぬくくてくすぐったい。肩の震えもなく、呼吸の乱れもなくなんだから、らしいなあと、そう思う。
微笑んでしまうほど、ハロルド様らしい泣き顔だった。
「ここで、どうして笑うんですか……」
「はは……、だって……」
泣きながら怒ってる。怒ったら涙も止まって、視線がきつくなる。なんて不器用で可愛い人なんだろう。やっぱり、ハロルド様は美しい人だ。
俺が生きていたことが嬉しくて泣いてくれてたのかな。安心してかな。俺を止められなかった不甲斐なさとか? どれでもいい。嬉しさにくつくつと腹から笑えば全身が痛い。それなのにまだまだ笑えてしまうから、ようやく戦場から心が帰還したみたい。今回のは、戦場とはまた違うけど。
「ご無事そうで、なによりです。みんなも生きてますよね?」
「救助が早かったお陰さまで、他は打撲と軽度の凍傷程度で、重症は貴方くらいです」
「なるほど、この指の包帯は重度の凍傷か。うぅ、足も痛い。……いーおとこじゃないです? 勲章みたいな」
「どこがですか。怪我なんてない方がいいに決まっています。見ていて痛くなるから嫌なんですよ。傷跡も少ない方が、ずっといい」
「えー、それ、もうちょっとはやく知りたかったです……」
もう俺はどこもかしこも傷だらけなのに。
苦笑しながらも、はっきりと言ってくれるハロルド様のそういうところが好きだと思った。ハーウィンは包帯男の俺を格好いいと言ってくれるけど、俺は、強がりの仮面を剥がしてくれることの方が、嬉しかった。
「俺も、痛いの大嫌いだから、傷なんて作りたくないです」
「なのに貴方は怪我が治れば何食わぬ顔で戦場に復帰する。被虐趣味でもあるんですか?」
「ないですって。でも、あなたが安心できるなら、本当は、首輪で繋いでもらってかまわないんですよ? むしろ飼い狼になりたいくらいです。ぜんぜん、人として対等じゃなくてもいいんです。どっちにしたって俺は、ハロルド様の隣にいられることが幸せなんですから」
あなたの涙がそれでとまるのなら。あなたの憂いをそれで吹き飛ばせるなら。
あなたのために生きたい。俺はそうやって俺のためにしか生きてない。
馬鹿ですか。指の代わりに呆れた声で額を撫でられ、馬鹿なのですと同意する。
人をやめて、飼い狼になったって、別にいい。散歩はしたいけど、家に閉じ込められてもよかった。でもきっと、少なくとも互いの上官は苦虫を食んだ顔でぶつくさなにか言ってくるだろう。それだけが気掛かりで、それだけが、消化不良のもとになる。
大佐にいつかだめになるぞと言われたら、たぶん俺はそれを信じてしまう。でも、俺はその忠告を、狼の俺にハロルド様がくれるさまざまな愛情を大佐から上手に隠して、笑って誤魔化して、なんにも言われていない顔で、ハロルド様の隣に立つことができる。メリーバッドエンドとかいうやつだ。
だって。
「あなたのためらいがちな愛は、ちゃんと届いています。とても素直じゃなくて不器用で可愛らしい。大好きなところなので、そこは変わらないでいてほしい」
「……私は生き物は飼わないと、既に言ってあるはずなんですが」
「ありゃ、振られちゃった。なら、このまま人としてハロルド様を支えられるよう頑張ります。……ね、そんなに心配しなくていいですよ。獣人の生命力は人間と比べ物にならないんです。こんな傷またすぐに治ります。それで、どこに行っても俺はちゃんとあなたのもとに帰ってこれる」
傷に触れることを恐れて俺に触れることができない。それなのに俺から触れることを許してくれる、その臆病さが愛しい。
もうだめだなーと思っても、数日後にはけろっと起きている。俺はだいたいそんな感じをこれからも繰り返す。繰り返せるだろう。だって、こんなにもあなたが愛おしい。死んでる暇なんてないと身体が知ってるみたいだ。
「私は、目に見えない不確かさを信じていません」
「なら見えるところから始めましょう。軍服に穴をあけて尻尾を出します。部分的に獣の要素出すのって結構つらいんですけど、俺、あなたを目にするたびに意識無意識両方ですごい尻尾振ってるので。見せてあげたいです」
「軍服は支給品です。やめなさい。なんでそんなに懐くんですか。私は貴方を私のものであるかのように使い果たしますよ」
「なに言ってるんですか。もう俺はあなたのものですよ。あなたが望まなくなっても、あなたに捨てられても。ずっと、ずーっと、あなたのものです」
「そんな、確証もない未来は信じるにあたいしません」
「見えないですからね、信じていただけないのは当たり前です。では、手始めに十年ほど一緒にいてくださいませんか? この瞬間に信じてもらうことはできませんけど、俺、証明ならできますもん。少なくとももう十六年目ですね。その集大成である今の俺は、現時点で持ち出せる最大の証左です」
十年無事に生きて証明してみせますよ。ね?
もちろんその間隣に居させてもらうのだと微笑むと、わずかにハロルド様の肩が震えだす。ぐっと噛んでいる唇が痛そうで、そこに指を沿わせると顔をそらされた。
「……俺、今回すっごく頑張りました。いつも頑張ってるけど、ハロルド様がいるから特に頑張ったんです。指から血が出て肉がカチカチに凍っても雪掘るの止めなかったし、気絶した大の男と動物を何人も掘り起こしては引っ張りだして、火なんてどうやってつけたか思い出せない。助けは妹が呼んでくれたのかな。言葉にするとそれで済んじゃうんですが、でもそれくらい、頑張りました」
ハロルド様は俺を見ない。褒めてもらいたい犬からすれば、こんなに飼い主に向いていない男はいないだろう。でも、素直になれないとか、そういう部類でもないのだと思う。
本当に頭の中から抜け落ちている。優しくされたこともなにもかもが遠い昔か、むしろ、そんな経験一度もないのかもしれない。
だから言わなくちゃ。うんと甘えた声色で。うんと恋を滲ませた瞳で。
「ご褒美が欲しいです。積み立てはしたくない。いま、欲しくて。だめですか?」
「……なにが、欲しいんですか」
「俺が欲しいものなんて、いつだってひとつです」
見えない未来なんて信じていない美しい人。リアリストのくせにどこかロマンチストで、汚れ仕事に心が疲れてしまっている。自分を守ることだけに忙しくしている、そんなあなたの瞳に俺が映るだけで、こんなにも胸が震える。
いつか言われた言葉を思い出す。
あんたばっかり好きみたいだ。あほらしいと思わないのか。
まさか。そんなこと。思うはずがない。だって、そうだろ。
「見えるものなら信じてもらえるって、これ以上単純に愛が伝わるものはないですよ。それってすごくよくないですか? 俺たち相性いいですよ。俺は目に見えてハロルド様を好いているでしょう?」
俺が欲しいもの。俺を見て、わかってもらえますか。
尋ねるように見上げると、ようやく呼吸を詰まらせて奥歯を噛み、ハロルド様が覆いかぶさってきた。
俺は笑い声をだしながら、両手を広げて迎え入れる。首の後ろに腕をまわして、痛みなんてちっとも気にしない。ぎゅうぎゅうに抱きついた。
「俺、ハロルド様しか欲しいのないです。ずっとずっとそうでした。だからどこに行ったってハロルド様のもとに戻ってこれる。あなたは重力だ。帰巣本能舐めないでくださいよ。俺はあなたを中心にしか走り回れない。俺は、俺はね、ハロルド様。俺はあなたの狼だ。そんな自分に誇りを持ってるんですよ」
子どものころからそうだった。そんなふうに生きたらそんなふうにしか生きられなくなった。だからそれ以外の生き方は忘れてしまった。
今さら他のひとを選ぶなんてどだい無理な話だ。選んでしまったんだから。
ハーウィンでもなく、大佐でもなく。ダイナーくんでもない。
肌が触れたところから心の物音が沁み込んで、おだやかな幸福が確かに身体中を循環する。
指は最悪欠けてるかもしれない。怪我は治っても傷跡は残るだろう。先にあった多くの忘れえぬ怪我の跡とおんなじように、皮膚のひきつりと、それに伴うぎこちなさと共に。
ハロルド様はそれを見て、瞳に影を落とす。きっと犯した悪事のツケはこれからもどんどん露呈して、俺はそれにどうしたって首を突っ込んでしまうから心は日々磨耗するのかもしれない。
それでも、あなたが救われるのなら、俺はなんでもないですよと不自由を心から笑い飛ばそう。いつか本当に、何でもないことなのだと信じてくれるまで。
触れるだけの唇を交わす。ハロルド様は、本当に怪我人には手を出さない。この物足りないもどかしさも愛しかった。
俺は美しいものが好きだ。だから好きという言葉でなるだけすべてを満たしたかった。愛してるという言葉で見開きとその前後のページを埋め尽くすように。さすがに引いてしまわれるのは困るから、代わりに美しいさまざまに心を隠すのだ。
あなたの見る世界が、せめて、ワンシーンだけでもいい。小説の見開きページ分だけでいい。
雨上がりの庭園の花弁の甘露を覚えてる。
晴れた日に足元を走り回る子どもたちの軽やかな靴音に気を晴らして、腕に抱える食材が重たい紙袋にほんの少し嫉妬を込めて眺める昼間の日射し。
窓を開けて、カーテンから漏れる暖かな光を布団にする穏やかな微睡みだとかも。
今年の夏は、茹だる暑さを共に過ごせるんだなあ。閃光のような光に照らされながら、汗ばんだ肌を体温のぬるい方が拭ったりする。
過ごした日々と夢物語まで、過去も未来も残さずに。
そうやって、美しいものがあったと思い出に微笑むことができるよう、願ってる。
あの雪の日を覚えてる。毎日が雪だったけど、特別なのはその日だけ。
あの人が、俺の運命。
胸にすとんと落ちてきたのはまだ芽吹いてもいないただの種。
あの人に、出逢いたい。
そう望み、追いかけてきたのは紛れもない俺の意思で。
本能と言えばロマンスが薄れてしまうけれど、血管を巡り心臓に届いてしまった捨てられない激情を言い表すなら、やはり本能と呼ぶのもいいかなと今では思ってる。
額と額をくっつけて、鼻と鼻を擦り寄せて。ひとつになれる距離で甘えることができるのだから、この十六年の俺は随分と頑張った。
「好きです。俺は、あなたがいいな。だからこんな俺なんだと負けてあげてください。どこに行ってもちゃんとハロルド様のところに帰ってきますし、俺、自分の面倒は自分で見れますよ。散歩だって毎日ひとりで行けるから、手はかけません」
ああ、でも、やっぱり。
「やっぱり、散歩はできるだけハロルド様と行きたいです。春のカフェ巡りは手を繋いで、夕日を眺めてゆっくり歩きましょう」
人の目が気になるなら腕組でも及第点です。言えばハロルド様は、ようやく泣くでもなく怒るでもなく、けれどどっちものような表情で、不器用に笑ってくれた。
「あたしたち狼はただの逃亡のときの道案内役。これからもっと天気崩れるから、足の遅い子を連れて走るはずだったの。でも、その役目は必要なさそうだから、契約違反だけど早速解散。もともとこの件に興味はなかったんだけど、森での付き合いもあったし、ここで何かしたらお兄ちゃん来るかなって。だから一枚噛んでみたの。狼に敵意はないから安心してね」
敵意がないなら駅舎に帰してほしかった。そんな雰囲気を出せば脇を固める狼たちが唸るので、繋いだままの手のひらを引っ張られるまま歩き、吐息する。
「こんなことに関わるなんて、父さんは許さないだろ」
アリビナは一瞬呆けて、次いで悲しげに目を伏せる。
「そう、なのかも。でも、家族はあたししか残らなかったから、誰も止めてくれなかったよ」
その言葉に今度は息を呑む。目を見開いてアリビナを見れば、嘘は言っていないと首を振られ、胸が酷く痛んだ。何人かはと覚悟していたはずなのに、今さらなのに。
自分の声がこだまする。誰かの父親や兄を殺されたのは、俺もだったみたいだ。
「……自分の直感でこの案件に手を貸したんだとすれば、俺が叱るべき、かな」
「叱らなくて、いいわよ。どうせ失敗するってわかってたから」
「なのに手を貸したのか? そんなに考えなしじゃなかったはずだ。アリビナは兄弟の中でも賢かった。人間の共通語も、上手だね」
「ふふっ、森の中なら内緒話にいいでしょ? でもお兄ちゃんほどじゃないからまだまだだわ。十年以上頑張れば言葉に不自由はなくなったけど、文字の読み書きと計算に躓いてるの。服も二足歩行も苦手。あと、言ったでしょ。手を貸したらお兄ちゃんに会えるって直感したから。それだけ。あたしが動くのは、たったそれだけのことでなの」
夏場ならひらけた草原が広がるだろう雪原に出て、アリビナは周りの狼にお礼を言って解散させる。友人か聞けば養ってくれたのと微笑んだ。なら、無体な真似はできないと見逃した。
木々に守られていない雪原の風は強い。それでも粉雪ではない分寒さは控えめに、大きめな雪の結晶の塊が視界を埋め尽くしていく。アリビナの肌はもう真っ赤に染まって、やっぱり靴ぐらいは履いてもらおうと差し出せば困ったように眉を下げ、けれど素直にそれを履いた。
「おっきい。ふふっ、あったかい」
予想外にお気にめしたようだ。
「昔はほとんど同じ大きさだったのにな」
「顔も同じだったわ。なんでも同じだった。だからお兄ちゃんに会いたいときは、川に映り込む自分の顔を見て我慢できたの。一目でわかったけど、あたし達会わないうちにずいぶん違っちゃってたのね」
それが悲しいと、うつむいて呟く。
「怒られてもいいの。会いたかったから、それだけで動いちゃった。だって、あたしたちって、そういうふうにしか生きられないでしょ?」
身に覚えがありすぎて言葉に詰まる。会いたかったから、俺も山を降りて、人をたくさん殺してきた。言葉にすると、やっぱり俺は、生き汚い。
「……戻るよ。発砲音が聞こえた」
「行かないで」
「だめ。助けないと」
遠くで銃器音が聞こえる。狼は本当に解散したのだろう。肉食の獣がいても狼がいないなら、今から駆ければまだ誰も死んでいないかもしれない。鳥類が厄介だな。でもこの天気じゃ外に出れば動きも鈍るだろう。そこまで考えたところで強く腕を引かれアリビナに視線を戻す。
「そりゃあ何人かは死ぬかもしれないけど、でも、ただの寄せ集めの老いた動物が人間に敵うわけないもの。お兄ちゃんがいかなくても平気よ」
「その何人かが大事なんだよ」
「でも、やられたらやり返すのは、人も動物も変わらないわ。軍人ならそれだけで恨まれるにあたいする」
「俺も軍人なんだよ、アリビナ」
「あたしの家族でもあるわ。お願い、まだ戻らないで。まだ……」
「アリビナ……」
無理に手を離せば狼になったアリビナに足止めされるだろう。多少の怪我は厭わない本気の牙で。野生の世界はシビアだ。そういうふうにしか生きさせてもらえないから、そういうふうに生きるしかなくなる。やりあえば、ここをホームにし続けたアリビナにこそ軍配が上がるだろうか。
なんの罪も持たなくていいはずの子どもだった俺たちは、とことんツケを払わされる。
兵士を殺すたびに可哀想なことをしたと思う。そんなこと、戦後の夜中にひとりベッドでようやく思い出すべきことなのに。昔の俺は他の多くの兵と同じように、その時の気持ちをその時にしか受け止められない子どもだった。
可哀想なことをしている。
可哀想なことをされている。
酷い目にあわせて、あわされている。
やったらやり返される。そんな当たり前を不眠症の瞼で受け入れてしまえばよく眠れた。一方的で理不尽な怒りは、それを感じること自体が無駄だといつの間にか捨ててしまっていた。だからなんでもできるようになった。ただの人の子どもの服を着て、敵地にて引き金を引くことも。
もういちいち葛藤なんてしない。罪悪感で胸を痛めても動きは鈍らない。過ぎて近い心の傷に折り合いをつけて、いまだにたまに、戦争に近い抗争で化膿した傷を増やして。その痛みを、なんでもない顔で受けとめられる。
受けとめられると信じていなければ、到底まともじゃいられない。
人の腕を折ることにためらいはない。たぶんそれは正しくない。救助のために人をためらいなく庇える。きっとそれだって正しくはない。遺体だろうが火を放つなんて、それこそ論外だろう。
――もう、先人たちのツケとかじゃない。
他人を思いやらない行為に正しさは濁っている。自分を省みない行為に濁りは増して、かつてあったはずの理想の自分の姿はどこにも見えなくなった。理想なんてそもそもなかったのかも。
そんな自分だから、人を殺めた手のひらで自分の涙を拭えてしまうんだ。
――可哀想。
そう、悲観するくらいなら吹っ切れたかった。だって俺は、負けず嫌いなんだ。正しくなくても、それに近いところで、せめてしたたかでありたかった。俺は、そうやって自分のために生きられる。
「アリビナは、今まで俺のために我慢してくれたんだね」
寂しいのを我慢することの、どんなに悲しいことか。
一方的に繋がれるだけだった手のひらに力を込めて握りしめる。
俺は、自分のために生きられる。だからこそ、選んだ人たちは手離さないでいようと行動できる。離れることに適正がある? どこがだ。選ばれた人にとってはいい迷惑だ。諦めてあげるのが下手なのは、叶った初恋を見ればわかることだった。
俺は自分のために、どんなことだってやれるようになった。人間の都合のいい消耗品にだってなれる。だからあのとき妹を置いていったのは、こんなに泣かれていても、やっぱり正解だったと思う。俺が受けてきた酷い目にあわせるなんて、できなかった。
けれど、俺はもう必要最低限の自分だけしか持てなかった少年ではない。少なからずの地位がある。力がある。好きな人が生きやすいように、自分がやりたいことをやりきれる。
「今度は、迎えに行くから」
だから行かせてほしいと、泣いている女の子を抱きしめる。俺に近くて、少し違う、どこか懐かしいにおいがして胸が痛い。肩口が温かく湿っていく。風が吹けば冷たくて、それが悲しみを誘って、俺も一粒くらい目頭が濡れたけど、すぐに凍ってしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ。お兄ちゃんだけは、助けたかったの……!」
ぐらぐらと目の前が揺れて、めまいかと思った。山から響き渡る重たい地鳴りに身体は固まる。
ごめんなさいと繰り返す妹を胸から引き剥がせば彼女は背に抱きついてでも俺の足を止める。ここにいれば大丈夫だと行動が示している。それはここ以外は危ないと同義だった。
轟音と共に、たかだか十分程度の距離が目の前で雪崩れていく。
大丈夫、それでも絶望的な大きさではない。
爆薬がきっと足りなかった。足りてても設置距離の計算能力がなかったんだろう。
きっと大丈夫。まだ。
ドッドッと心臓が早まるけれど、室内にいれば、流されることもなく掘り出せる。
圧死が怖いだけ。けれどそれが一番怖い。
脚力は昔から自慢だった。
妹を振り払い邪魔な服を脱ぎ破き四つ足で駆ける。
ごろごろと転がっている雪の固まりの上を走るのは思ったよりも楽だった。
転がる雪の塊に潰れた駅舎屋根を見る。
あー、もう。俺の肉球ぼろっぼろ確定。
どうしてこうまで尽くしてしまうのか。そりゃあ尽くすだろ、恋人が中にいるんだ。
底無しのおひとよしなんて柄じゃない。打算と計算は捨てきれない。物事の良し悪しは良いことを選びたいけど、必要なら道徳的に悪いことだって選んでここまでやってきた。自分が幸せになることへの余念がない。だって、弱くありたくなかった。弱い自分が嫌だった。いわばこれが俺のプライドだから。
感覚は研ぎ澄まされて、ひとつの呻き声も逃さない。最優先は個人的な感情で。それ以外は、ただの、同郷のよしみだろうか。
ぽたり頬に落ちてきたぬるい水に意識が浮上して、パチパチまばたきを数回してそれが涙だと気付く。
病院の一室かな、ここは。
腕を伸ばせば肩のつけねからもげてしまいそうな痛みが走って、同時に筋肉痛にも気付いてちょっと笑った。それでもようやく伸ばした指を頬に沿わせ――やわらかな包帯を布にして――あたたかな涙を拭った。
黒い髪に閉じ込められるように覗き込まれている。好きなシチュエーションににんまり微笑んでみせると、ハロルド様は下唇を噛んで、嗚咽もなくさめざめと涙を落とすばかりだった。
黒の睫毛が涙の粒を掬って、金色にきらきらしてる。頬にぽろぽろ落ちて弾ける涙はぬくくてくすぐったい。肩の震えもなく、呼吸の乱れもなくなんだから、らしいなあと、そう思う。
微笑んでしまうほど、ハロルド様らしい泣き顔だった。
「ここで、どうして笑うんですか……」
「はは……、だって……」
泣きながら怒ってる。怒ったら涙も止まって、視線がきつくなる。なんて不器用で可愛い人なんだろう。やっぱり、ハロルド様は美しい人だ。
俺が生きていたことが嬉しくて泣いてくれてたのかな。安心してかな。俺を止められなかった不甲斐なさとか? どれでもいい。嬉しさにくつくつと腹から笑えば全身が痛い。それなのにまだまだ笑えてしまうから、ようやく戦場から心が帰還したみたい。今回のは、戦場とはまた違うけど。
「ご無事そうで、なによりです。みんなも生きてますよね?」
「救助が早かったお陰さまで、他は打撲と軽度の凍傷程度で、重症は貴方くらいです」
「なるほど、この指の包帯は重度の凍傷か。うぅ、足も痛い。……いーおとこじゃないです? 勲章みたいな」
「どこがですか。怪我なんてない方がいいに決まっています。見ていて痛くなるから嫌なんですよ。傷跡も少ない方が、ずっといい」
「えー、それ、もうちょっとはやく知りたかったです……」
もう俺はどこもかしこも傷だらけなのに。
苦笑しながらも、はっきりと言ってくれるハロルド様のそういうところが好きだと思った。ハーウィンは包帯男の俺を格好いいと言ってくれるけど、俺は、強がりの仮面を剥がしてくれることの方が、嬉しかった。
「俺も、痛いの大嫌いだから、傷なんて作りたくないです」
「なのに貴方は怪我が治れば何食わぬ顔で戦場に復帰する。被虐趣味でもあるんですか?」
「ないですって。でも、あなたが安心できるなら、本当は、首輪で繋いでもらってかまわないんですよ? むしろ飼い狼になりたいくらいです。ぜんぜん、人として対等じゃなくてもいいんです。どっちにしたって俺は、ハロルド様の隣にいられることが幸せなんですから」
あなたの涙がそれでとまるのなら。あなたの憂いをそれで吹き飛ばせるなら。
あなたのために生きたい。俺はそうやって俺のためにしか生きてない。
馬鹿ですか。指の代わりに呆れた声で額を撫でられ、馬鹿なのですと同意する。
人をやめて、飼い狼になったって、別にいい。散歩はしたいけど、家に閉じ込められてもよかった。でもきっと、少なくとも互いの上官は苦虫を食んだ顔でぶつくさなにか言ってくるだろう。それだけが気掛かりで、それだけが、消化不良のもとになる。
大佐にいつかだめになるぞと言われたら、たぶん俺はそれを信じてしまう。でも、俺はその忠告を、狼の俺にハロルド様がくれるさまざまな愛情を大佐から上手に隠して、笑って誤魔化して、なんにも言われていない顔で、ハロルド様の隣に立つことができる。メリーバッドエンドとかいうやつだ。
だって。
「あなたのためらいがちな愛は、ちゃんと届いています。とても素直じゃなくて不器用で可愛らしい。大好きなところなので、そこは変わらないでいてほしい」
「……私は生き物は飼わないと、既に言ってあるはずなんですが」
「ありゃ、振られちゃった。なら、このまま人としてハロルド様を支えられるよう頑張ります。……ね、そんなに心配しなくていいですよ。獣人の生命力は人間と比べ物にならないんです。こんな傷またすぐに治ります。それで、どこに行っても俺はちゃんとあなたのもとに帰ってこれる」
傷に触れることを恐れて俺に触れることができない。それなのに俺から触れることを許してくれる、その臆病さが愛しい。
もうだめだなーと思っても、数日後にはけろっと起きている。俺はだいたいそんな感じをこれからも繰り返す。繰り返せるだろう。だって、こんなにもあなたが愛おしい。死んでる暇なんてないと身体が知ってるみたいだ。
「私は、目に見えない不確かさを信じていません」
「なら見えるところから始めましょう。軍服に穴をあけて尻尾を出します。部分的に獣の要素出すのって結構つらいんですけど、俺、あなたを目にするたびに意識無意識両方ですごい尻尾振ってるので。見せてあげたいです」
「軍服は支給品です。やめなさい。なんでそんなに懐くんですか。私は貴方を私のものであるかのように使い果たしますよ」
「なに言ってるんですか。もう俺はあなたのものですよ。あなたが望まなくなっても、あなたに捨てられても。ずっと、ずーっと、あなたのものです」
「そんな、確証もない未来は信じるにあたいしません」
「見えないですからね、信じていただけないのは当たり前です。では、手始めに十年ほど一緒にいてくださいませんか? この瞬間に信じてもらうことはできませんけど、俺、証明ならできますもん。少なくとももう十六年目ですね。その集大成である今の俺は、現時点で持ち出せる最大の証左です」
十年無事に生きて証明してみせますよ。ね?
もちろんその間隣に居させてもらうのだと微笑むと、わずかにハロルド様の肩が震えだす。ぐっと噛んでいる唇が痛そうで、そこに指を沿わせると顔をそらされた。
「……俺、今回すっごく頑張りました。いつも頑張ってるけど、ハロルド様がいるから特に頑張ったんです。指から血が出て肉がカチカチに凍っても雪掘るの止めなかったし、気絶した大の男と動物を何人も掘り起こしては引っ張りだして、火なんてどうやってつけたか思い出せない。助けは妹が呼んでくれたのかな。言葉にするとそれで済んじゃうんですが、でもそれくらい、頑張りました」
ハロルド様は俺を見ない。褒めてもらいたい犬からすれば、こんなに飼い主に向いていない男はいないだろう。でも、素直になれないとか、そういう部類でもないのだと思う。
本当に頭の中から抜け落ちている。優しくされたこともなにもかもが遠い昔か、むしろ、そんな経験一度もないのかもしれない。
だから言わなくちゃ。うんと甘えた声色で。うんと恋を滲ませた瞳で。
「ご褒美が欲しいです。積み立てはしたくない。いま、欲しくて。だめですか?」
「……なにが、欲しいんですか」
「俺が欲しいものなんて、いつだってひとつです」
見えない未来なんて信じていない美しい人。リアリストのくせにどこかロマンチストで、汚れ仕事に心が疲れてしまっている。自分を守ることだけに忙しくしている、そんなあなたの瞳に俺が映るだけで、こんなにも胸が震える。
いつか言われた言葉を思い出す。
あんたばっかり好きみたいだ。あほらしいと思わないのか。
まさか。そんなこと。思うはずがない。だって、そうだろ。
「見えるものなら信じてもらえるって、これ以上単純に愛が伝わるものはないですよ。それってすごくよくないですか? 俺たち相性いいですよ。俺は目に見えてハロルド様を好いているでしょう?」
俺が欲しいもの。俺を見て、わかってもらえますか。
尋ねるように見上げると、ようやく呼吸を詰まらせて奥歯を噛み、ハロルド様が覆いかぶさってきた。
俺は笑い声をだしながら、両手を広げて迎え入れる。首の後ろに腕をまわして、痛みなんてちっとも気にしない。ぎゅうぎゅうに抱きついた。
「俺、ハロルド様しか欲しいのないです。ずっとずっとそうでした。だからどこに行ったってハロルド様のもとに戻ってこれる。あなたは重力だ。帰巣本能舐めないでくださいよ。俺はあなたを中心にしか走り回れない。俺は、俺はね、ハロルド様。俺はあなたの狼だ。そんな自分に誇りを持ってるんですよ」
子どものころからそうだった。そんなふうに生きたらそんなふうにしか生きられなくなった。だからそれ以外の生き方は忘れてしまった。
今さら他のひとを選ぶなんてどだい無理な話だ。選んでしまったんだから。
ハーウィンでもなく、大佐でもなく。ダイナーくんでもない。
肌が触れたところから心の物音が沁み込んで、おだやかな幸福が確かに身体中を循環する。
指は最悪欠けてるかもしれない。怪我は治っても傷跡は残るだろう。先にあった多くの忘れえぬ怪我の跡とおんなじように、皮膚のひきつりと、それに伴うぎこちなさと共に。
ハロルド様はそれを見て、瞳に影を落とす。きっと犯した悪事のツケはこれからもどんどん露呈して、俺はそれにどうしたって首を突っ込んでしまうから心は日々磨耗するのかもしれない。
それでも、あなたが救われるのなら、俺はなんでもないですよと不自由を心から笑い飛ばそう。いつか本当に、何でもないことなのだと信じてくれるまで。
触れるだけの唇を交わす。ハロルド様は、本当に怪我人には手を出さない。この物足りないもどかしさも愛しかった。
俺は美しいものが好きだ。だから好きという言葉でなるだけすべてを満たしたかった。愛してるという言葉で見開きとその前後のページを埋め尽くすように。さすがに引いてしまわれるのは困るから、代わりに美しいさまざまに心を隠すのだ。
あなたの見る世界が、せめて、ワンシーンだけでもいい。小説の見開きページ分だけでいい。
雨上がりの庭園の花弁の甘露を覚えてる。
晴れた日に足元を走り回る子どもたちの軽やかな靴音に気を晴らして、腕に抱える食材が重たい紙袋にほんの少し嫉妬を込めて眺める昼間の日射し。
窓を開けて、カーテンから漏れる暖かな光を布団にする穏やかな微睡みだとかも。
今年の夏は、茹だる暑さを共に過ごせるんだなあ。閃光のような光に照らされながら、汗ばんだ肌を体温のぬるい方が拭ったりする。
過ごした日々と夢物語まで、過去も未来も残さずに。
そうやって、美しいものがあったと思い出に微笑むことができるよう、願ってる。
あの雪の日を覚えてる。毎日が雪だったけど、特別なのはその日だけ。
あの人が、俺の運命。
胸にすとんと落ちてきたのはまだ芽吹いてもいないただの種。
あの人に、出逢いたい。
そう望み、追いかけてきたのは紛れもない俺の意思で。
本能と言えばロマンスが薄れてしまうけれど、血管を巡り心臓に届いてしまった捨てられない激情を言い表すなら、やはり本能と呼ぶのもいいかなと今では思ってる。
額と額をくっつけて、鼻と鼻を擦り寄せて。ひとつになれる距離で甘えることができるのだから、この十六年の俺は随分と頑張った。
「好きです。俺は、あなたがいいな。だからこんな俺なんだと負けてあげてください。どこに行ってもちゃんとハロルド様のところに帰ってきますし、俺、自分の面倒は自分で見れますよ。散歩だって毎日ひとりで行けるから、手はかけません」
ああ、でも、やっぱり。
「やっぱり、散歩はできるだけハロルド様と行きたいです。春のカフェ巡りは手を繋いで、夕日を眺めてゆっくり歩きましょう」
人の目が気になるなら腕組でも及第点です。言えばハロルド様は、ようやく泣くでもなく怒るでもなく、けれどどっちものような表情で、不器用に笑ってくれた。
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