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一章
9 黄泉竈食ひ、そしてお風呂の誘い
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「でも、鎮神が私のことをたくさん考えてくれているのは分かる。
たとえ『嫌い』を理解することができたとしても、私はきっと鎮神のことが好きだったはず」
真祈はおそらく、嘘を吐いてなどいない。
負の感情が無いとすれば納得のいく言動もあった。
美で、倒錯で、そして今度は心で、真祈は鎮神を虜にしようとする。しかし――。
視界の端で襖が勢いよく開く。見ると廊下には有沙が立っていた。
「あ、悪かったな」
開いたときより凄まじい勢いで、襖が閉まり、有沙の姿は廊下へ消える。
そこで鎮神はすぐに相関図を整理し、思い出す。
ベッドの上で手を掴み合っている今の鎮神と真祈は、有沙からすれば、第二夫人と夫が睦み合っているとしか見えなかっただろう。
「ちょっ……違います!」
鎮神は廊下に転がり出て、有沙を引き止めた。
「いや、飯の時間だから呼びに来ただけだ。続きやってな」
「いえ、始まってすらないです! すぐ行きます!」
真祈に心を許しかけていたのが今になって恥ずかしく、さらに有沙に白い眼で見られたのも手伝って、即刻この場を去りたかった。
丁度よく顔を出した真祈を伴って、一階の北側、苦々しい思い出の残る玖美の部屋の向かいにある食堂へ向かう。
食堂は二十畳ほどの板張りで、重厚な長押に、会議でもする気かというほど大きな古めかしい食卓、牛皮のソファにビリヤード台まである。
この家で最も、家人が集まって和やかに過ごすことに特化した部屋であった。
最も上座に艶子が座り、その傍らに玖美と、鎮神と真祈が客間に居た時にお茶を持って来てくれた小太りの中年女性が座っている。
彼女は立ち上がり、抑揚が無くぶっきらぼうに聞こえる声に似合わず深々と頭を下げた。
「ご挨拶が遅れました。
私は宇津僚家で家政婦をしております、田村と申します。
家は魞戸で、四時から十四時までこちらにおりますので何なりと御申しつけを」
「あ、どうも……ご丁寧に……」
年上の者にへりくだられたことのない鎮神はかえって居心地が悪く、同じくらい深々と礼をする。
と、田村の細い目がぎらりと光ったのを見た。
「鎮神様は宇津僚家の奥方!
島の長の妻なのですから、礼節があるのはけっこうですがもっと威厳をもって、しゃんとなされませ」
「は、はい……すみません……」
予想外のタイミングと理由で説教を食らって、余計に威厳どころではなくなる。
その脇を通り過ぎて、有沙が下座の方にどっかりと座る。
「宇津僚の嫁は偉そうにしておくのが仕事だ。
居るだけで飯が出て来るってもんよ」
有沙は、鎮神の少し荒れた手を見て言ったようだった。
真祈は当然のように上座へ行き、艶子の三つ隣に座る。
鎮神は適当に、誰からも同じくらい距離の空いたところに掛けた。
そして並べられた、昔絵本で見た竜宮城で供されるような豪華なお膳と向かい合う。
異界で食物を口にした者は元の世界には戻れない、といつか翔が言っていた。
鎮神は箸を持ち、少し逡巡した後、鮮やかな赤身の刺身を口に運んだ。
与えられた部屋で膝を抱えて蹲っているうちに、空は濃紫へと色を変えていた。
一日の間にすっかり頭に灼きついた、真祈の瞳の奥底を思い出す色。
こうしてとりとめもないことを考えて時間を浪費していく感覚を鎮神は知っている。
世界に否定されたと思い、他人を恐れた日々。死を希うようになる前兆だ。
これでは駄目だ、自分は母のために真祈に身を差し出さなくてはならないのに――。
だだっ広い天井の木目を眺めていると、襖が開いて真祈が顔を覗かせた。
「鎮神、そろそろお夕飯ですが……顔色が優れませんね。体調が悪いのですか?」
意外にも真祈は目敏く指摘してくる。
生まれつき感情の機微は分からないが、観察眼自体は優れているのだろう。
「……ちょっと、怠くて……悪いけど、夕飯はパスで……」
「分かりました。
急激な環境の変化は生物にストレスを与えるものです。
それを考慮せずに、休まず連れ回してしまいました……ごめんなさい」
しょげている長身は、悲しみを感じているのではなく、単に鎮神の身体を気遣い、反省しているのだ。
ポーズは合っているが、心情が絶妙に噛み合わない。
「お風呂には入れそうですか? 皆は食後しばらくしてから入るので、体調の良い時にお好きに使ってください」
「じゃあ、ありがたく……」
「はい。ではご一緒に」
真祈からの提案は素直に嬉しかった。
なのに、鎮神がクローゼットから替えの部屋着を出そうとする背後で真祈が言ったことに、喜びは一気に凋む。
「一緒にって……何がですか」
「入浴ですが」
たとえ『嫌い』を理解することができたとしても、私はきっと鎮神のことが好きだったはず」
真祈はおそらく、嘘を吐いてなどいない。
負の感情が無いとすれば納得のいく言動もあった。
美で、倒錯で、そして今度は心で、真祈は鎮神を虜にしようとする。しかし――。
視界の端で襖が勢いよく開く。見ると廊下には有沙が立っていた。
「あ、悪かったな」
開いたときより凄まじい勢いで、襖が閉まり、有沙の姿は廊下へ消える。
そこで鎮神はすぐに相関図を整理し、思い出す。
ベッドの上で手を掴み合っている今の鎮神と真祈は、有沙からすれば、第二夫人と夫が睦み合っているとしか見えなかっただろう。
「ちょっ……違います!」
鎮神は廊下に転がり出て、有沙を引き止めた。
「いや、飯の時間だから呼びに来ただけだ。続きやってな」
「いえ、始まってすらないです! すぐ行きます!」
真祈に心を許しかけていたのが今になって恥ずかしく、さらに有沙に白い眼で見られたのも手伝って、即刻この場を去りたかった。
丁度よく顔を出した真祈を伴って、一階の北側、苦々しい思い出の残る玖美の部屋の向かいにある食堂へ向かう。
食堂は二十畳ほどの板張りで、重厚な長押に、会議でもする気かというほど大きな古めかしい食卓、牛皮のソファにビリヤード台まである。
この家で最も、家人が集まって和やかに過ごすことに特化した部屋であった。
最も上座に艶子が座り、その傍らに玖美と、鎮神と真祈が客間に居た時にお茶を持って来てくれた小太りの中年女性が座っている。
彼女は立ち上がり、抑揚が無くぶっきらぼうに聞こえる声に似合わず深々と頭を下げた。
「ご挨拶が遅れました。
私は宇津僚家で家政婦をしております、田村と申します。
家は魞戸で、四時から十四時までこちらにおりますので何なりと御申しつけを」
「あ、どうも……ご丁寧に……」
年上の者にへりくだられたことのない鎮神はかえって居心地が悪く、同じくらい深々と礼をする。
と、田村の細い目がぎらりと光ったのを見た。
「鎮神様は宇津僚家の奥方!
島の長の妻なのですから、礼節があるのはけっこうですがもっと威厳をもって、しゃんとなされませ」
「は、はい……すみません……」
予想外のタイミングと理由で説教を食らって、余計に威厳どころではなくなる。
その脇を通り過ぎて、有沙が下座の方にどっかりと座る。
「宇津僚の嫁は偉そうにしておくのが仕事だ。
居るだけで飯が出て来るってもんよ」
有沙は、鎮神の少し荒れた手を見て言ったようだった。
真祈は当然のように上座へ行き、艶子の三つ隣に座る。
鎮神は適当に、誰からも同じくらい距離の空いたところに掛けた。
そして並べられた、昔絵本で見た竜宮城で供されるような豪華なお膳と向かい合う。
異界で食物を口にした者は元の世界には戻れない、といつか翔が言っていた。
鎮神は箸を持ち、少し逡巡した後、鮮やかな赤身の刺身を口に運んだ。
与えられた部屋で膝を抱えて蹲っているうちに、空は濃紫へと色を変えていた。
一日の間にすっかり頭に灼きついた、真祈の瞳の奥底を思い出す色。
こうしてとりとめもないことを考えて時間を浪費していく感覚を鎮神は知っている。
世界に否定されたと思い、他人を恐れた日々。死を希うようになる前兆だ。
これでは駄目だ、自分は母のために真祈に身を差し出さなくてはならないのに――。
だだっ広い天井の木目を眺めていると、襖が開いて真祈が顔を覗かせた。
「鎮神、そろそろお夕飯ですが……顔色が優れませんね。体調が悪いのですか?」
意外にも真祈は目敏く指摘してくる。
生まれつき感情の機微は分からないが、観察眼自体は優れているのだろう。
「……ちょっと、怠くて……悪いけど、夕飯はパスで……」
「分かりました。
急激な環境の変化は生物にストレスを与えるものです。
それを考慮せずに、休まず連れ回してしまいました……ごめんなさい」
しょげている長身は、悲しみを感じているのではなく、単に鎮神の身体を気遣い、反省しているのだ。
ポーズは合っているが、心情が絶妙に噛み合わない。
「お風呂には入れそうですか? 皆は食後しばらくしてから入るので、体調の良い時にお好きに使ってください」
「じゃあ、ありがたく……」
「はい。ではご一緒に」
真祈からの提案は素直に嬉しかった。
なのに、鎮神がクローゼットから替えの部屋着を出そうとする背後で真祈が言ったことに、喜びは一気に凋む。
「一緒にって……何がですか」
「入浴ですが」
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