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一章
11 恋への憧れ、悪夢の靴音
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艶子は私室で、窓辺に置いた籐椅子に腰かけ、午前の光で手元を照らし、小説を読んでいた。
家にはそこそこの蔵書があるが、艶子は真祈のように詩集から経済論に武術の教本まで節操なく読み漁る方ではない。
好むのは主に小説――それも恋愛小説であった。
蔵書があると言えども、その中で艶子のお眼鏡にかなうものは僅かだ。
かといって、誰が何をしたか筒抜けのこの島で図書館に通い恋愛小説を借りるのは、とてもはしたないことをしているようで出来そうにない。
なので暇が出来れば毎度同じ本を蔵から出して来て読んでいるが、全く構わなかった。
若草色のシートの列車に飛び乗って、少女と少年は愛のために町を出て行く。
たとえこれが人々に忘れられた無名の三文小説、夢物語だとしても、艶子の中では、少女は少年と連れだって町を出て行く。何度でも、何度でも。
そして、乗ったことの無い電車というものの乗り心地に想いを馳せるのだ。
真祈が生まれてから島を頻繁に出て行くようになり、女と遊び回っていた夫の淳一はきっと、電車の乗り心地を知っていたのだろうが。
ページを繰る手が止まっていたところに、電話が鳴る。
椅子を下りて、文机の横に置かれた電話に出た。
『もしもし。あの、宇津僚様のお電話ですか』
若い男の声だった。低い声だが喋り方が柔和で、すっと耳に入り込んでくる。
『私、赤松深夜美といいます。
六年前、母――赤松深海子の葬儀を執り行っていただき、大変お世話になった者です』
それを聞いて、記憶が蘇る。
上がり目の美しい少年の、雨に消え入りそうな喪服姿。
「これはご丁寧に……ええ、覚えておりますよ」
当時の深夜美は十八歳であったから、もう二十四歳になるのか――誕生日を知らないので、単純計算だが。
赤松家は元々、戦国時代後期に二ツ河島に移り住んだ一族らしい。
しかし昭和の初期には赤松家は島から姿を消し、本土で生活していたその末裔たちも深夜美の母である深海子が死に、その血を継ぐのは深夜美一人となった。
『実は、お願いがあるのです』
弦楽器のように張った声を震わせ、彼は艶子に囁く。
『私もこの身を、母が抱き続けた信仰――空磯信仰のために捧げたくなったのです。
ご迷惑でなければ、私を住み込みのハウスキーパーとして雇ってはいただけないでしょうか』
「あ……ええ、もちろんです。丁度吾宸子がもう一人、妻を娶って、姑さんも一緒に住み始めたものですから、人を新たに雇おうと思っていたのです」
新たに人を雇うなど特に考えてはいなかったのだが、あの美しい青年が宇津僚家に来る――そう思うと、理由づけが自分でも驚くほど上手く捻出出来た。
彼が笑みを浮かべ、感謝を告げるのが、顔は見えずとも分かった。
彼を真祈に重ね、その役に立てることを誇らしく思うと共に、なぜか亡き夫の後ろ姿が浮かんだ。
鎮神は全て悪夢であれと願っていたが、宇津僚家に来て二日目の生活は無情にも始まって、瞬く間に過ぎて行く。
艶子がそれを切り出したのは、夕食のために全員が食堂に揃った時だった。
「見ての通り家族が一気に増えて、お手伝いさんが田村さん一人だと負担が大きいんじゃないかと思っていたところに、住み込みでハウスキーパーをやりたいって方からの電話があって、了承しました。
赤松深夜美さんという方で、明後日にでもいらっしゃるそうです」
そう言われて鎮神はすんなり納得したが、意外にも慎重な意見を発したのは真祈だった。
「島のソトの方ですか。詳細は調べたのですか?」
「赤松深夜美さんですよ? 真祈も覚えているでしょう。
深夜美さんが、私たちの教えに関心を持ち、二ツ河島で暮らしたいと仰っているんです」
「覚えていますよ。しかし、私たちが知っている深夜美さんの詳細とは、つまり赤松家のことでしょう?
そうではなくて、深夜美さん個人が私たちの秘儀や奇蹟を狙っているかどうかを見極める必要があると申し上げているのです。
実はオカルト系の記者だったとか、実は私たちに敵意を持つ宗教者だったなんてことになったら面倒でしょう」
鎮神のような余所者を置き去りにして、真祈はつらつらと並べ立てる。
心なしか、その勢いに艶子は委縮しているように見えた。
「まあ、人手があった方が良いのは事実です。
念のため情報の取り扱いにはこれまで以上に注意してください。島民たちにも改めて注意を促しましょう。
すぐに各班長と集会を開き、赤松さんには余所者同様に島の信仰についての一切を伏せておくよう通達しなくては」
てきぱきと計画を立てていく真祈を横目に、通達もとい強迫だな、と有沙が不穏なことを呟くのが聞こえた。
艶子は気を取り直したように正面に向き直ると、深夜美のことについて鎮神、玖美、有沙に向けて説明を始める。
「赤松家は、戦国時代から昭和の始めまで二ツ河島に居た一族です。
深夜美さんはその末裔で、真祈と歳の近い男性。
六年前にお母様の深海子さんが亡くなられて、その遺言に二ツ河島へ土葬してほしいとの旨が書かれていたのですが……。
ご主人が強く反対された上に、既に赤松家の血を引く者は深夜美さん一人となっていたためにお父様を止めてくれる方もおらず……。
私たちは深海子さんの遺体を奪取するところから協力することになりました」
奪取、という言葉に鎮神はきょとんとする。
「葬儀屋に根回しし、遺体をすり替えたりしてどうにか深海子さんを二ツ河島に葬り、弔うことに成功しました。
そういう経緯で、お母さまも信じておられた私たちの教えに惹かれたとのことで、深夜美さんは宇津僚家にいらっしゃるのです。
皆さまどうか仲良くね」
遺体を奪取なんて窃盗だが、経緯を聞くと義賊じみていてかっこいいと鎮神は思ってしまった。
深夜美は剛胆な、鎮神のようにくよくよしない性格の人物だろうか。
しかし彼も二ツ河島を支配する信仰に何かを求めているのだ。
帝雨荼に空磯――真祈たちが信じているものは、一体何なのだろう。
「二ツ河島か。貴方みたいなシティ派って感じの人が、なんだってそんなドのつく田舎へ」
川辺の経営するバーには、ホテルに一泊して次の日の朝にフェリーで本土を発ち離島へ観光、避暑に行くという客がよく訪れる。
何もない港の近くに道楽で開いた店だったが、離島が活性化を掲げて観光客を呼び込み、フェリーの本数が増え、本土ではその玄関口にあたるこの地に安価なホテルが作られてからは以前と比べものにならないほどに潤っていた。
カウンター席で川辺の正面に一人で座る男に興味を持ち話しかけ続けているのは、彼が長い黒髪と猫のように形の良い蘇芳色の上がり目をもつこれまでに見たことのないような美貌だったこと、
色こそ黒一色だが素材遣いのバランスが良く洒落た格好をしているくせにソフトドリンクとローストビーフにマルガリータという少し子どもじみた注文をしたことが面白かったこと、
一言どこに行くのかと問えば、明日の朝いちで二ツ河島へ行くと言ったことなどが理由だ。
二ツ河島といえばこの海に点在する島の中でも、他の島影が見えないほど離れており、観光には一切力を入れないうえに、
フェリーの本数が恐ろしく少ない、極めつけはオカルト話に事欠かないといういわくつきの地である。
「望まない結婚をするのです」
男は軽く目を伏せて、小声でそう言った。
扇のような睫毛が頬にまで影を落とし、イタリア料理のオリーブオイルで艶やかに濡れた唇が物欲しげに震えた。
自分の息子でもおかしくないくらいの、二十代前半の青年が、なにやら思い運命を背負い、打ちひしがれている。
聞くべきではなかったかと川辺が慌てていると、青年はこちらの驚いた顔を確認して意地悪く笑った。
「驚きました?」
「ええ、そりゃあもう……」
このくらいの息子がいてもおかしくないのだと思ったばかりの青年に対して蠱惑的な色香を感じとったことを恥じる。
全ては女のグロスのように唇を艶めかせているオリーブオイルのせいだと、万物の霊長は植物油に責任転嫁する。
「二ツ河島は母の故郷なんです。母は、六年前に亡くなりましたけど……。
母の躰もね、二ツ河島に居るんですよ」
「そうなのですか……申し訳ないです、つい根掘り葉掘りと……」
「構いませんよ、昔話は嫌いじゃないから」
しばらく有線から流れてくる音楽を話題に喋った後、男は店を出て行く。
そこで川辺は気付く。結婚の件について彼は、否定はしなかったのではないかと。
家にはそこそこの蔵書があるが、艶子は真祈のように詩集から経済論に武術の教本まで節操なく読み漁る方ではない。
好むのは主に小説――それも恋愛小説であった。
蔵書があると言えども、その中で艶子のお眼鏡にかなうものは僅かだ。
かといって、誰が何をしたか筒抜けのこの島で図書館に通い恋愛小説を借りるのは、とてもはしたないことをしているようで出来そうにない。
なので暇が出来れば毎度同じ本を蔵から出して来て読んでいるが、全く構わなかった。
若草色のシートの列車に飛び乗って、少女と少年は愛のために町を出て行く。
たとえこれが人々に忘れられた無名の三文小説、夢物語だとしても、艶子の中では、少女は少年と連れだって町を出て行く。何度でも、何度でも。
そして、乗ったことの無い電車というものの乗り心地に想いを馳せるのだ。
真祈が生まれてから島を頻繁に出て行くようになり、女と遊び回っていた夫の淳一はきっと、電車の乗り心地を知っていたのだろうが。
ページを繰る手が止まっていたところに、電話が鳴る。
椅子を下りて、文机の横に置かれた電話に出た。
『もしもし。あの、宇津僚様のお電話ですか』
若い男の声だった。低い声だが喋り方が柔和で、すっと耳に入り込んでくる。
『私、赤松深夜美といいます。
六年前、母――赤松深海子の葬儀を執り行っていただき、大変お世話になった者です』
それを聞いて、記憶が蘇る。
上がり目の美しい少年の、雨に消え入りそうな喪服姿。
「これはご丁寧に……ええ、覚えておりますよ」
当時の深夜美は十八歳であったから、もう二十四歳になるのか――誕生日を知らないので、単純計算だが。
赤松家は元々、戦国時代後期に二ツ河島に移り住んだ一族らしい。
しかし昭和の初期には赤松家は島から姿を消し、本土で生活していたその末裔たちも深夜美の母である深海子が死に、その血を継ぐのは深夜美一人となった。
『実は、お願いがあるのです』
弦楽器のように張った声を震わせ、彼は艶子に囁く。
『私もこの身を、母が抱き続けた信仰――空磯信仰のために捧げたくなったのです。
ご迷惑でなければ、私を住み込みのハウスキーパーとして雇ってはいただけないでしょうか』
「あ……ええ、もちろんです。丁度吾宸子がもう一人、妻を娶って、姑さんも一緒に住み始めたものですから、人を新たに雇おうと思っていたのです」
新たに人を雇うなど特に考えてはいなかったのだが、あの美しい青年が宇津僚家に来る――そう思うと、理由づけが自分でも驚くほど上手く捻出出来た。
彼が笑みを浮かべ、感謝を告げるのが、顔は見えずとも分かった。
彼を真祈に重ね、その役に立てることを誇らしく思うと共に、なぜか亡き夫の後ろ姿が浮かんだ。
鎮神は全て悪夢であれと願っていたが、宇津僚家に来て二日目の生活は無情にも始まって、瞬く間に過ぎて行く。
艶子がそれを切り出したのは、夕食のために全員が食堂に揃った時だった。
「見ての通り家族が一気に増えて、お手伝いさんが田村さん一人だと負担が大きいんじゃないかと思っていたところに、住み込みでハウスキーパーをやりたいって方からの電話があって、了承しました。
赤松深夜美さんという方で、明後日にでもいらっしゃるそうです」
そう言われて鎮神はすんなり納得したが、意外にも慎重な意見を発したのは真祈だった。
「島のソトの方ですか。詳細は調べたのですか?」
「赤松深夜美さんですよ? 真祈も覚えているでしょう。
深夜美さんが、私たちの教えに関心を持ち、二ツ河島で暮らしたいと仰っているんです」
「覚えていますよ。しかし、私たちが知っている深夜美さんの詳細とは、つまり赤松家のことでしょう?
そうではなくて、深夜美さん個人が私たちの秘儀や奇蹟を狙っているかどうかを見極める必要があると申し上げているのです。
実はオカルト系の記者だったとか、実は私たちに敵意を持つ宗教者だったなんてことになったら面倒でしょう」
鎮神のような余所者を置き去りにして、真祈はつらつらと並べ立てる。
心なしか、その勢いに艶子は委縮しているように見えた。
「まあ、人手があった方が良いのは事実です。
念のため情報の取り扱いにはこれまで以上に注意してください。島民たちにも改めて注意を促しましょう。
すぐに各班長と集会を開き、赤松さんには余所者同様に島の信仰についての一切を伏せておくよう通達しなくては」
てきぱきと計画を立てていく真祈を横目に、通達もとい強迫だな、と有沙が不穏なことを呟くのが聞こえた。
艶子は気を取り直したように正面に向き直ると、深夜美のことについて鎮神、玖美、有沙に向けて説明を始める。
「赤松家は、戦国時代から昭和の始めまで二ツ河島に居た一族です。
深夜美さんはその末裔で、真祈と歳の近い男性。
六年前にお母様の深海子さんが亡くなられて、その遺言に二ツ河島へ土葬してほしいとの旨が書かれていたのですが……。
ご主人が強く反対された上に、既に赤松家の血を引く者は深夜美さん一人となっていたためにお父様を止めてくれる方もおらず……。
私たちは深海子さんの遺体を奪取するところから協力することになりました」
奪取、という言葉に鎮神はきょとんとする。
「葬儀屋に根回しし、遺体をすり替えたりしてどうにか深海子さんを二ツ河島に葬り、弔うことに成功しました。
そういう経緯で、お母さまも信じておられた私たちの教えに惹かれたとのことで、深夜美さんは宇津僚家にいらっしゃるのです。
皆さまどうか仲良くね」
遺体を奪取なんて窃盗だが、経緯を聞くと義賊じみていてかっこいいと鎮神は思ってしまった。
深夜美は剛胆な、鎮神のようにくよくよしない性格の人物だろうか。
しかし彼も二ツ河島を支配する信仰に何かを求めているのだ。
帝雨荼に空磯――真祈たちが信じているものは、一体何なのだろう。
「二ツ河島か。貴方みたいなシティ派って感じの人が、なんだってそんなドのつく田舎へ」
川辺の経営するバーには、ホテルに一泊して次の日の朝にフェリーで本土を発ち離島へ観光、避暑に行くという客がよく訪れる。
何もない港の近くに道楽で開いた店だったが、離島が活性化を掲げて観光客を呼び込み、フェリーの本数が増え、本土ではその玄関口にあたるこの地に安価なホテルが作られてからは以前と比べものにならないほどに潤っていた。
カウンター席で川辺の正面に一人で座る男に興味を持ち話しかけ続けているのは、彼が長い黒髪と猫のように形の良い蘇芳色の上がり目をもつこれまでに見たことのないような美貌だったこと、
色こそ黒一色だが素材遣いのバランスが良く洒落た格好をしているくせにソフトドリンクとローストビーフにマルガリータという少し子どもじみた注文をしたことが面白かったこと、
一言どこに行くのかと問えば、明日の朝いちで二ツ河島へ行くと言ったことなどが理由だ。
二ツ河島といえばこの海に点在する島の中でも、他の島影が見えないほど離れており、観光には一切力を入れないうえに、
フェリーの本数が恐ろしく少ない、極めつけはオカルト話に事欠かないといういわくつきの地である。
「望まない結婚をするのです」
男は軽く目を伏せて、小声でそう言った。
扇のような睫毛が頬にまで影を落とし、イタリア料理のオリーブオイルで艶やかに濡れた唇が物欲しげに震えた。
自分の息子でもおかしくないくらいの、二十代前半の青年が、なにやら思い運命を背負い、打ちひしがれている。
聞くべきではなかったかと川辺が慌てていると、青年はこちらの驚いた顔を確認して意地悪く笑った。
「驚きました?」
「ええ、そりゃあもう……」
このくらいの息子がいてもおかしくないのだと思ったばかりの青年に対して蠱惑的な色香を感じとったことを恥じる。
全ては女のグロスのように唇を艶めかせているオリーブオイルのせいだと、万物の霊長は植物油に責任転嫁する。
「二ツ河島は母の故郷なんです。母は、六年前に亡くなりましたけど……。
母の躰もね、二ツ河島に居るんですよ」
「そうなのですか……申し訳ないです、つい根掘り葉掘りと……」
「構いませんよ、昔話は嫌いじゃないから」
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