蟲籠の島 夢幻の海 〜これは、白銀の血族が滅ぶまでの物語〜

二階堂まりい

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二章

5 異様な傷口

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 宇津僚うつのつかさ家の地所を出て数十メートル歩いたところで、ライフジャケットを忘れていたことを有沙は思い出す。
 
 『あの日』から、もはや有沙に生死の拘りは無い。
 救命胴衣も無しに川岸に立ってその結果死のうがどうでもいい。
 しかし同じく川に集まってくる面倒見の良い太公望たちはそれを許さず、救命胴衣を着ろとしつこい。
 あれをあしらうことに比べれば大した手間ではない、と家に引き返して、橋を渡り、長屋門をくぐる。

 すると勢いよく母屋の玄関が開くのが見えた。
 飛び出てきたのは、鎮神しずかであった。
 平生へいぜいから決して明るくはない顔を真っ青にして、擦れ違う有沙を無視して走り去って行く。

 嫌な予感を覚え、鎮神の部屋に駆け上がった。

 裁縫道具が広げられた部屋の中央に、玖美がうつ伏せに倒れていた。
 頭の下の畳に、血が染みを広げていく。

 有沙のただならぬ足音に気付いた艶子つやこと田村、深夜美みやびも追って来て、部屋を覗き込むと悲鳴をあげた。

 うつぶせで呻く玖美を深夜美が抱き起こしたことで、流れる血の源流が露わになった。

「おい、大丈夫かよ……! さっきあんたんとこの息子が走って出てったけど、まさかあいつにやられたとか言わねえよな!」
 有沙は、意識の遠のいている玖美に呼びかける。

 玖美の右目には、裁ちはさみが刺さっていた。
 持ち手まで眼窩がんかにめり込んでおり、そこから際限なく血が流れている。
 眼球がどうなったかなど、想像したくもない。

 本当に鎮神が、あのひょろひょろした白い腕で、十数年を共に過ごした母の眼にこうも深々と鋏を押し込んだのだろうか。
 よほど殺意があったのかもしれないが、それでも他人の痛みを少しでも察することができる人間なら、裂ける肉、千切られる神経のきしみを凶器ごしに肌で感じ、生理的な恐怖や嫌悪から手が緩みそうなものだ。
 この凶行には、そういった皮膚感覚が欠如しているような気がした。
 人の手を介さず、憎悪がそのまま傷として刻み込まれたような気味の悪さがあった。

「鎮神さんも心配ですが、今はとりあえず玖美さんを……」
 艶子がそう言うと、玖美は弾かれたばねのように背筋を伸ばした。
 恐れるように、艶子を見つめている。

「化け物……」
 
 玖美はそれだけ呟くと、深夜美の手を振り払って部屋を走り出て行く。
 すぐに、小太りの体が階段の最上段から一階の廊下まで転げ落ちていく音がした。

 訳も分からぬまま、四人は玖美を追う。
 土間にうずくまって、玄関へ利き手の右腕を伸ばしているが、恐怖で力が入らないうえに右眼が失われて視界が悪いせいか、何度も空振りしている。

 すると、外側から扉を開く者があった。
 玄関先に、法衣姿の真祈が立ち、玖美を見下ろす。
 その銀髪が放つ緑の光が、玖美の血塗られた顔を照らした。

 真祈は、しゃがんで怪我人を気遣うような素振りも無く、仁王立ちのまま微笑すら浮かべている。
 それを見て有沙は悟る。
 真祈も、玖美の眼の傷に不気味なものを感知し、距離をとっているのだ。

「酷いお怪我だ。何があったのですか? 今日は島に医師がおりますが、呼びましょうか?」
 探るように問いかける真祈の足許を、玖美は這い擦りながら通り抜けようとする。
「もう、一秒だってこんな島に居たくない……まさか、あいつがあんな……! 全部、宇津僚の血のせいよ! あんたらが化け物だから……!」
「玖美さんには、連絡を取り始めて早いうちから粗方お話していたはずですが」
「だって、信じるわけないでしょ、神とか呪いとか、そのうえ超能力だなんて……! まさか鎮神がそんな……」
「島を出て行くということは」

 玖美の嘆きを掻き消すように真祈が言う。

「私に殺される覚悟があるということでしょうか」
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