蟲籠の島 夢幻の海 〜これは、白銀の血族が滅ぶまでの物語〜

二階堂まりい

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三章

2 森の翠と、少し昔の物語

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 真祈まき深夜美みやびに話をつけている間、鎮神しずかは二階に上がっていた。

 まず昨日から着たままになっている、血の染みた服を着替えることにする。
 首の包帯が邪魔で、チョーカーなどは着けられない。
 仕方ないので、包帯を活かす恰好をすることにした。
 あえてくったりした雰囲気の白いコットンで織られたフリルブラウスに、厳めしい金具は付いているが素材自体は柔らかな黒いズボンで、白ゴスとしてまとめる。
 軽く化粧をして振り向くと、部屋の中央に見知らぬカーペットが敷かれているのに気付いた。

 そろりと捲ると、青い香りが鼻をつく。
 カーペットの下だけ、真新しい畳に張り替えられていた。
 ここは、自分が母の目にはさみを突き刺した所。
 母の血が滴り、広がった所。
 それを踏み越えて、部屋を出て行く。

 廊下の開け放たれた窓の桟に掛けてあるライフジャケットを回収すると、速やかに一階へ下りる。

 真祈はもう詩祈うたき山へ行ってしまったらしく、深夜美だけが玄関に待ち受けていた。
 家事をしないときはその長い黒髪は結われることなく、風に舞っている。
 白いニットのワンピース、黒いタイツ、キンキーブーツという女性的なラインの服が華奢な体を包んでいて、真祈とは違った趣の中性らしさが醸し出されていた。
「行きましょうか、鎮神様」
 柘榴石のような紅い瞳を穏やかに揺らめかせ、体躯のわりに低い声で人を酔わす。
 少し上擦った返事をして、鎮神は深夜美と共に家を出た。
 
 有沙の釣り場は、深夜美が真祈から聞いていた。
 鎮神は後を付いて行こうとしたが、深夜美の方から歩幅を合わせてきて、いつの間にか並んで歩いていた。

 人と擦れ違えば、好奇の目で見られる。
 島の長の妻である鎮神は、全く島を出歩いていなかったというのも相まって、畏敬の対象となっていた。

 深夜美も、鎮神よりは出歩いていたが、やはり島に来て日が浅いこと、赤松一族が元は二ツ河島に根付いていたということ、そしてその美しい見目から同様の視線に晒されていた。
 中には話しかけてくる者も居たが、それは深夜美が上手くかわしてくれた。
 鎮神はただ隣で彼をぽかんと見ているしかなかった。
 毅然としているのに角がない話術は見事としか言いようが無い。
 感心するあまり彼を見上げていると、深夜美が鎮神と目を合わせて笑いかけてきた。
 見ていなかったふりなどできないほどに瞳を捕えられ、気恥ずかしくなる。
 彼が単に社交的でぐいぐい関わってくるような人ならば苦手だったかもしれない。
 しかし、深夜美はどんなに冗談を言っていても、夜のような穏やかさがどこかに漂っていた。

「鎮神様、そのお洋服、アリスインナウのやつですよね」
「あ、はい……」
「私も好きなブランドです。
 靴はゴーティエですか? 
 銀髪だと黒い服が重苦しくならなくていいなあ、凄く似合ってます」
「ありがとうございます……」
 よれたジャージを着ても絵になりそうな美青年に褒められても虚しいが、やはり素直に嬉しさが沸き上がる。
 愛用している服のブランドを世界的に有名なものから少しマニアックなものまで言い当てられたことも、初めてのことで感心していた。

「深夜美さんがいつも着てる服も、恰好いいなって思って前から見てました。
 レイジサカモトとか、モルガン・イーストウッドとかお好きなんですね」
「そうなんです。
 いやぁ、都会に居た頃でさえこんなに服の趣味が合う人はとうとう見つけられなかったのに、田舎に来て、こんなに趣味の合うご主人様と巡り合えるなんて」
「そのご主人様って言うのは……ついでに様付けも、していただかなくていいっていうか」
「それは譲れませんよ。
 ハウスキーパーとしての矜持みたいなものですから」
 話しているうちに、民家や人通りは途絶えて森の中に踏み入っていた。
 川の水音が、そう遠くないところから聞こえる。

「この流れは千楠ちぐす川だそうですよ。
 森も案外涼しくていいものですね。
 でも、せっかくバーベキューに行っても、お肉を食べた後は結局ずっと読書なんかしちゃって……。
 身支度するのも面倒だから、ついアウトドアから足が遠のくんですよね」
「分かります。
 それに、陽に灼けると赤くなって痛いし、ちょっと虫に刺されただけで熱出る性質だから、屋外は苦手で」
「それは大変ですね。アレルギーなんでしょうか」
「どうなんでしょう、検査したら分かるのかな」

 蝉時雨、木洩れ日、樹液の香りの中を潜り抜けながら、人の手の一切加わっていない森の中をゆったりと歩く。

 真祈が語った神代の祖先たちも、この森を歩いていたのだろうか。
 畔連べつれ町の街並みでは決して味わえなかった、足と土が同調する感覚。
 鎮神の命はこの島から始まったのだと、体が認識している。

 突如、指先に痛みが走る。低木の棘が指の腹を引き裂いていた。

 カルーの民の血。
 神の作品の血。昨日も流した血。美しくて汚い――。
ただの雫だったそれは、赤い蛇のように掌まで伝わっていく。
 見たくもないのに目が離せない。

 気付くと、深夜美がひざまずいて、鎮神の手を取っていた。
 ご無礼をとだけ囁くと、深夜美はてのひらに顔を摺り寄せ、血の筋に薄く開かれた唇を這わす。
 舌が触れることに嫌悪感は無かった。
 それよりも、小さな蛇を呑み下す大蛇のような深夜美の仕草が神秘的なものに思えて、目が離せなかった。

 木陰の中、いつもは蘇芳すおう色の上がり目が、鮮血のように輝く。

 これが正しい処置のはずがない。
 蘭子先輩がこの場に居れば、深夜美を張り倒していたことだろう。
 だが、逃れられない。
 美しい図像のような青年から目が離せない。
 彼は、自分の美しさを知っている。
 
 鎮神の血を啜ると、深夜美は絆創膏を取り出して、傷口に巻いてくれた。
「あ……どうも」
 礼を絞り出すと、深夜美は恭しく頭を下げてから立ち上がった。
「さ、行きましょう。釣り場まではもう少しですから」

二人はまた、似た歩調で歩き出す。
 深夜美の瞳の色は、いつもの暗赤色に戻っていた。
 川に沿って進むと、岩場に有沙の後ろ姿が見えた。
 そこで深夜美は立ち止まる。
「ここからはお一人で」
「え、どうしてですか?」
「私はただの付き添いです。
 有沙様にお届け物を渡しにいらしたのは、鎮神様ですから」
 そう言って、川岸へ送り出される。

 釣りをしているわりには、水面へ投げ入れた糸を辿る視線は熱心とは言い難い彼女に、そろりと近付く。
「あの……これ、持ってきました。
 やっぱり無いと危ないと思って」
 ライフジャケットを差し出すと、有沙は溜め息を吐いた。
「いらねーよ、頼んでもねぇし」
 路加に向けたのと同じ、石のように冷えた目が鎮神を睨む。
 それでもその場に立って逡巡していると、有沙は怒鳴った。
「自殺未遂するような奴に心配される筋合い無いっての! 
 あんたみたいに他人に振り回されてばっかりの奴を見ると、苛々する」
 声は森に響きもせず、鎮神に真っ直ぐ突き刺さる。
「そう……ですよね。すみませんでした」
 届け物だけ置いて、立ち去ろうとする。
 怒られるのは元々苦手だ。
 有沙のとび色の瞳が、映すもの全てを拒むようで恐ろしい。

 宇津僚うつのつかさ家でだらけているときの有沙と、少し別人じみてすらいる。
 踵を返した鎮神の背に、有沙は再び怒鳴った。
「あー、悪かったよ!
 今のは完全に八つ当たり!
 陰気な顔されると、別件で腹立つわ」
 有沙はちょいちょいと手招きをする。
 
 そろそろと近付いてみると、岩場に腰かける有沙に倣って、鎮神もしゃがんだ。
「和式便所みたいなしゃがみ方してないで、地べたに座りゃいいのに」
「すみません、服汚れるのが気になっちゃって……」
「へえ。ここまで思考が真逆だと、いっそ清々しいな。
 あんた、釣り餌のワーム触れる?」
「むっ、無理です! 絶対無理っ」
「やっぱり。そういうツラしてやがる」
 笑いながら、有沙はタックルボックスに座るよう促した。
 今の彼女は、家で寛いでいる時に近いように見えた。
 しかし鎮神が堅い箱の上に腰掛けるとすぐ、その目は怪しくくぐもった光を放つ。

「後学のために、この島がどんな所か教えてやる」
「地区の名前とかなら、真祈さんからだいたい聞いてますよ」
「そんなんじゃない。元余所者による客観的な意見みたいなものだ」
 辺りに人が居ないことを確かめるように首を振ってから、有沙は話しだした。
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