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四章
3 凡俗の嘆き
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家に帰ると、艶子と深夜美、そして有沙が食堂に居て甘味を食べていた。
話し込んでいるのは夫婦だけで、有沙は高級焦がしバウムクーヘン目当てでその場に居るだけのようだった。
鎮神と真祈もそれに加わる。
しばらくして真祈が思い出したように、深夜美に訊ねた。
「士師宮庄司さんとは、以前に何か関わりでもあったのですか?」
「いえ、心当たりはございませんね。
今日訪問なさった団さんのご家族ですか?」
庄司の名を聞いても、深夜美はきょとんとしている。
「お父様です。
深夜美さんにお祝いを言いたいと熱心に仰っていたので」
「なんかキモいな、そいつ。ストーカーじゃねえの」
有沙が口を挟んだことで、一気に不穏な方向へ話が転がる。
鎮神は、あっと叫んだ。
「深夜美さんが『深海魚』によく行くってこと、士師宮庄司さんに喋っちゃいました!」
庄司が本当にストーカーならば、行きつけの店を教えてしまったのはまずかったのではないか。
「ああ、そういえば。不用意でしたね」
喋ってしまった張本人の真祈はいたって冷静にしている。
そんな真祈を鎮神が睨めつけるのを見て、深夜美はくすっと笑った。
「まだストーカーと決まった訳じゃないでしょう。
本当にお祝いしたいと思ってくれているのかもしれませんし、今夜深海魚に行ってみようかな。
警戒されるとまずいから私一人で」
「大丈夫なの?」
艶子は心配げな顔をする。
深夜美はケーキ用のナイフをひらひらと弄びながら答えた。
「ええ。艶子を不安にさせるものは一刻も早く解決しておかないとね。
夫の義務でしょ」
頬を赤らめる艶子、歯が浮くような台詞にしかめっ面をする有沙、無反応の真祈、と周囲は三者三様だった。
そして鎮神は、頼もしく響く義父の言葉に、安堵の笑みを零していた。
団の奇矯さに驚かなかったのは、真理那と鎮神だけ――その通りだ。
私はかつて息子が風変わりな言動をした時、嫌悪を露わにしてしまった。
今日だってそうだ。
人の傷口にインスピレーションを受けた絵など、不謹慎で悍ましいと思ってしまった。
天才に常識を壊された折の凡俗の狼狽を、歴史は嘲笑混じりに伝える。
そして私は、嘲笑されるべき凡俗の側だ。
息子はアトリエに籠り、妻はリビングで寛いでいる。
庄司は財布と鍵だけを持って外に出て、後ろ手に扉を閉めながら夜空を見遣った。
生まれてから四十年以上この島に住んでいるが、酒の誘惑を振り払いながら生きて来たので、カラオケスナックなど足を踏み入れたこともない。
狭い島なので深海魚の店主とは顔見知りだが、庄司は馴れ馴れしくて過ぎたことをいつまでも覚えている彼女が嫌いだった。
好きなものは、誰も来ないアトリエで絵を描くことただ一つ。
庄司の城は今や団に奪われ、筆胼胝はすっかり癒えてしまった。
しかし、遠目に長い黒髪の青年を見た時、生活の隅に追いやって消してしまったはずの詩情が甦った。
宇津僚深夜美、彼に会いたい。
彼に近付けば、自分が失ってしまった何かが見えてくるような気がするのだ。
その一心で深海魚の扉を押すと、店主が媚びたような声をあげる。
「庄司さん、うちに来てくれるなんて、どうしちゃったの! お酒は解禁?
画業の方は順調? っと……今は息子さんの方が絵描きさんなのよね」
ぺちゃくちゃとよく喋る店主を軽くあしらいながらカウンターの奥を見ると、照明を淀みなく照り返す艶やかな黒髪があった。
薄っすらと刺繍の施されたサテンのブラウスとワイドパンツに、中華王朝風の柄が入った毒々しいジャケットを着ている。
紅を差した華やかな顔は柄物に負けていない。
澄ました顔をしているが下戸なのか、軽食をお供にカラオケの曲目を漁っているのが可笑しかった。
庄司は努めて冷静を装って声を掛けた。
「深夜美さん」
話し込んでいるのは夫婦だけで、有沙は高級焦がしバウムクーヘン目当てでその場に居るだけのようだった。
鎮神と真祈もそれに加わる。
しばらくして真祈が思い出したように、深夜美に訊ねた。
「士師宮庄司さんとは、以前に何か関わりでもあったのですか?」
「いえ、心当たりはございませんね。
今日訪問なさった団さんのご家族ですか?」
庄司の名を聞いても、深夜美はきょとんとしている。
「お父様です。
深夜美さんにお祝いを言いたいと熱心に仰っていたので」
「なんかキモいな、そいつ。ストーカーじゃねえの」
有沙が口を挟んだことで、一気に不穏な方向へ話が転がる。
鎮神は、あっと叫んだ。
「深夜美さんが『深海魚』によく行くってこと、士師宮庄司さんに喋っちゃいました!」
庄司が本当にストーカーならば、行きつけの店を教えてしまったのはまずかったのではないか。
「ああ、そういえば。不用意でしたね」
喋ってしまった張本人の真祈はいたって冷静にしている。
そんな真祈を鎮神が睨めつけるのを見て、深夜美はくすっと笑った。
「まだストーカーと決まった訳じゃないでしょう。
本当にお祝いしたいと思ってくれているのかもしれませんし、今夜深海魚に行ってみようかな。
警戒されるとまずいから私一人で」
「大丈夫なの?」
艶子は心配げな顔をする。
深夜美はケーキ用のナイフをひらひらと弄びながら答えた。
「ええ。艶子を不安にさせるものは一刻も早く解決しておかないとね。
夫の義務でしょ」
頬を赤らめる艶子、歯が浮くような台詞にしかめっ面をする有沙、無反応の真祈、と周囲は三者三様だった。
そして鎮神は、頼もしく響く義父の言葉に、安堵の笑みを零していた。
団の奇矯さに驚かなかったのは、真理那と鎮神だけ――その通りだ。
私はかつて息子が風変わりな言動をした時、嫌悪を露わにしてしまった。
今日だってそうだ。
人の傷口にインスピレーションを受けた絵など、不謹慎で悍ましいと思ってしまった。
天才に常識を壊された折の凡俗の狼狽を、歴史は嘲笑混じりに伝える。
そして私は、嘲笑されるべき凡俗の側だ。
息子はアトリエに籠り、妻はリビングで寛いでいる。
庄司は財布と鍵だけを持って外に出て、後ろ手に扉を閉めながら夜空を見遣った。
生まれてから四十年以上この島に住んでいるが、酒の誘惑を振り払いながら生きて来たので、カラオケスナックなど足を踏み入れたこともない。
狭い島なので深海魚の店主とは顔見知りだが、庄司は馴れ馴れしくて過ぎたことをいつまでも覚えている彼女が嫌いだった。
好きなものは、誰も来ないアトリエで絵を描くことただ一つ。
庄司の城は今や団に奪われ、筆胼胝はすっかり癒えてしまった。
しかし、遠目に長い黒髪の青年を見た時、生活の隅に追いやって消してしまったはずの詩情が甦った。
宇津僚深夜美、彼に会いたい。
彼に近付けば、自分が失ってしまった何かが見えてくるような気がするのだ。
その一心で深海魚の扉を押すと、店主が媚びたような声をあげる。
「庄司さん、うちに来てくれるなんて、どうしちゃったの! お酒は解禁?
画業の方は順調? っと……今は息子さんの方が絵描きさんなのよね」
ぺちゃくちゃとよく喋る店主を軽くあしらいながらカウンターの奥を見ると、照明を淀みなく照り返す艶やかな黒髪があった。
薄っすらと刺繍の施されたサテンのブラウスとワイドパンツに、中華王朝風の柄が入った毒々しいジャケットを着ている。
紅を差した華やかな顔は柄物に負けていない。
澄ました顔をしているが下戸なのか、軽食をお供にカラオケの曲目を漁っているのが可笑しかった。
庄司は努めて冷静を装って声を掛けた。
「深夜美さん」
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