蟲籠の島 夢幻の海 〜これは、白銀の血族が滅ぶまでの物語〜

二階堂まりい

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五章

1 深夜美と艶子、ある裏切り合う夫婦の話

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 優しい子だと言われ続けてきた。
 それが生来のものか、他人の顔色ばかり伺っていたために身に付けた性質か、もはや自分でも分からない。

 父は職場や友人、そして余所で作った女に対しては常に良い外面を向けていた。
 しかし家では酒に溺れ、アルコールの入っていない時でも度々醜い本性を晒す。
 婚姻しているというだけで、血が繋がっているというだけで、どれだけ怒鳴り散らしても、どれだけ嘲笑っても、おれは家族を愛しているなどとうそぶけてしまう、ありふれた異常者。

 いつ爆発するか分からない化け物が、家の中に、母の隣に居る。
 自分の血の中に在る。
 苦しい。
 ぼくは生まれた時から穢れている。いっそ、死んでしまえば――。

 息苦しさに深夜美みやびは起こされる。
 ここは艶子の部屋の向かいに宛がわれた私室。
 決して、あの北原家ではない。

 窓からは青白い朝陽が差し込んでいる。
 夜が追いやられ、二ツ河ふたつがわ島は今日もカルーの民の領分である陽の光に包まれていく。

 布団に横たわったまま、母の形見である手鏡を手繰り寄せ、自らの顔かたちを眺める。
 化粧をしていない時はまだ幼さが滲むが、年々母の深海子みみこに似てきている。

 いかに冷たい家庭でも、この体に傷が出来るようなことはされなかった。
 ただ、怪我をしたのに心配してもらえないどころか、泣くなと怒鳴られたうえにろくな手当もされず放っておかれたという幼少期の記憶はある。
 父は深夜美を傷つけたくなかったのではなく、自分が証拠ある加害者になりたくなかっただけなのだろう。
 
 体に傷を付けられなかった代わりに、言葉と態度で深夜美の心はとっくに殺された。
 母は黙って耐え忍ぶだけで、そもそもこの状況を問題視さえしていなかった。
 深夜美が父に逆らうと、父とその親族たちはお前の教育が行き届いていないせいだと言って母をなじる。

 何も、何も出来なかった。

 いっそ殴られたかった、と思うこともある。
 目に見える傷が刻まれていれば、どこかの誰かが助けてくれたかもしれない。
 母だって父の異常性を認め、一緒にどこかへ逃げてくれたかもしれない。
 
 しかし大人たちは自分たちにとって分かりやすい傷を負った子どもたちばかり救って、良いことをした気になっている。
 不可視の痛みは彼らにとって、甘ったれが構って欲しいばかりに吐くだけの戯言に過ぎない。
 悲しくなるほど、美しい身体をしていた。

 だが母は深夜美に、赤松家の秘密を託して去った。
 父は赤松の一族をおとし めた。
 ならば奴を葬るのは赤松家が受け継いできた呪術こそが相応しい。
 人の法が裁けぬ罪ならば、人外が裁こう。
 目に見えない傷には、形無き呪いで報いよう。
 そして、母を現世に呼び戻す。

 私はもう、息を潜めて泣く北原深夜美ではない。
 蟲籠むしかごの頂点に立つ最強の呪物、赤松深夜美だ。
 そのためならば、真面目なハウスキーパーも、素晴らしき隣人も、魅力的だが鈍感な夫なんていう面倒な役柄まで、全て演じきってみせる。

 周囲の顔色を伺うあまり、他人の悲哀や苦痛、欲求に、自分が辛くなってしまうほどに鋭い心を得たのだ。
 他者が求める言葉も役割も仕草も、そして人の壊し方さえも、手にとるように分かる。
 
 母の葬儀を二ツ河島で行ったときに、宇津僚うつのつかさ家や荒津家の内情を断片的に知り、付け入る隙を見つけることができた。
 あの雨の日、この島を利用してやると決めた日から、世界は深夜美の劇場となった。
 
 少し涼んだ後、身なりを整えて食堂に顔を出す。
 田村が朝食を作っているところで、安荒寿を捧げる儀式のためにしっかり法衣を着込んだ真祈、少し眠そうな鎮神、そしてどこか怯えた顔の艶子が席に着いていた。
「おはようございます。いい香り……アラ汁ですか」
 私は今日も、演じる。



 なぜ、少し前まで嫌ってすらいた冥府の住人――荒津楼夫たかおなどに身も心も晒してしまったのか、自分でも分からない。
 しかし今日も彼のところに子の足は向いてしまうのだろう、と艶子は考えていた。

 不貞を働いた手で、口で、食卓に向かう。
 楼夫との関係が露呈すれば、私生児である鎮神しずかは艶子を嫌悪するだろうか。
 真祈まきはきっと何の興味も示さず、その事実を冷めた紫色の瞳で受け止めるだろう。
 想像するだけで恐ろしく、同時に笑いがこみあげてくる。
 夫も子も知らない、真の自分が居ることに。

「今日は士師宮ししみやさんのお家に行った帰りに、前から行ってみたかった港の食堂に寄ろうと思っているので、私のぶんのお昼ご飯は作っていただかなくて大丈夫です」
 深夜美が田村に言った。
 
 艶子はどんどん堕ちていくのに、その原因である彼は朗らかな日々を送っている――それも気に入らない。

「私も、今日のお昼は友人のお家で頂きますので、要りません」
 対抗するかのように艶子も言い放つ。
 楼夫の家で台所を借りて、互いだけを見つめ合いながら食卓を囲むのだ。
 
 鎮神だけが不思議そうな目で、艶子と深夜美をちらちらと伺っている。
 しかしあんな愚鈍で恋の何たるかも知らない子どもに、大人の女の気持ちが分かるはずがない。
 やっと人生は動きだしたのだ。
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