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五章
3 苦悩を喰らう悪魔
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「小町、高校のパンフレットは貰ってきたんだろうな。見せてみなさい」
与半が言うと、それまで寛いだ様子でテレビを眺めていた小町――十五歳になる与半の一人娘は、広げていた菓子を片付けて去ろうとした。
「忘れてた。今度貰ってくる」
娘が地声ではなくわざと低めた声で受け答えするようになって、何年が経つだろう。
「いつもそう言って忘れてるじゃないか。
まだ諦めてないのか、島で就職するって話」
それに対する返事は無い。
肯定と受け取っていいだろう。
娘は、高校へ進学する気が無いらしい。
与半はまた同じ説教をするはめになる。
「いいか、小町。
お前にはきょうだいがいない。
若者の少ない、出会いの無い島で暮らしていれば、気付いた時には一人になっているぞ。
気が変わって島の外で働こうとしても学歴が無いと困る。
お前のためを思って言っているんだ。
幸いうちには余裕があるんだから、高校へは行っておきなさい」
なかなか進路を決めなかった小町が、担任教師と母――与半の妻の祥子に三者面談でせっつかれた末に、中学を卒業したらすぐ二ツ河島で仕事に就くと言ったと聞いたときは、与半も驚いた。
少し前まで彼女は、多くの若者がそうであるように都会に憧れていたはずだ。
頭も良いのだから、都会で今時の少女らしい幸せを追うものだと思っていたのに。
「父さんだって、高校行かずにすぐ漁師継いだんだよね。
じゃあ何、父さんには仕事できて私にはできないって言うの」
「そういうわけじゃない」
「嘘、何が違うの」
言いあっているところに、祥子が来た。
祥子は小町に目配せする。
何のことか分かりかねた与半が黙り込んだとき、小町は盛大に溜め息を吐いた。
「ああ、もう面倒くさいな……。
結婚の約束してる人がいるの、私」
「え……いや、本当かそれ……私は知らんぞ」
与半が間の抜けた声をあげている間にも、娘はつらつらと説明する。
「屋江将太と付き合ってるんだ、私。
将太が十八歳になるのを待って結婚するつもり。
将太は島を出ないんだって……だから私も島を出る気が無いわけ」
小町が挙げた男の名は、同じ中学三年生の少年のものだった。
「そんな子どもの時分の口約束だけで、この先何十年もある人生を決めてしまうのは軽率なんじゃないか」
「あと何十年かそこらしか無いからこそ、島に残って将太と一緒になるって決めたの!
父さんさっき出会いがどうだとか言ってたけど、出会いあったじゃん。
これで解決でしょ」
「いや、まだ十五でそんな大事なことを決めてしまうのは……」
「宇津僚の隠し子が無理やり結婚させられるのには手助けするくせに、私が自分の意志で結婚するのには反対なんだ」
娘に吐き捨てられた途端、白銀と赤のコントラストが、眼前に甦った。
鉈で首を掻き切った鎮神。流れ出す血。
自分のせいだ、という思いが与半の中を渦巻いた。
「小町、今は宇津僚様のことは関係ないでしょう。
そんなふうに言うのはやめなさい」
祥子が娘を窘める声が、やけに遠く聞こえる。
与半は何も言えずその場に立ち尽くし、気付かぬ間に背中の半ばまで伸びていた娘の髪の毛先をぼんやり眺めていた。
妻が娘を宥めている間、与半は外で時間を潰すことになった。
与半は港の近くの食堂へ行き、魚の切り出しが乗った丼を掻き込む。
あと何年か、少なくとも今は、娘を庇護の対象としか見れない。
学業のために親元を離れるかもしれないとは想像していた。
しかし、男と約束を交わして子どもでさえなくなろうとする未来がこんなに早く来るとは思ってもいなかった。
考えすぎて頭が熱くなったせいか、美味しいはずの魚が生臭く感じられ、やたらと醤油を注いでしまう。
娘だけでなく、鎮神のことも頭から離れてくれない。
与半が真祈の命じるままに連れて来てしまった少年。
ルッコラ畑の物置、土埃の中。
与半が運んできた運命に、死で否を突きつけようとした少年。
「鷲本与半さんですよね」
ふいに降ってきた声に顔を上げる。
初対面ではあったが、目の前の相手が誰かはすぐに分かった。
派手な格好に、中性的な美しい容姿。
艶子の後夫の、深夜美だった。
与半が言うと、それまで寛いだ様子でテレビを眺めていた小町――十五歳になる与半の一人娘は、広げていた菓子を片付けて去ろうとした。
「忘れてた。今度貰ってくる」
娘が地声ではなくわざと低めた声で受け答えするようになって、何年が経つだろう。
「いつもそう言って忘れてるじゃないか。
まだ諦めてないのか、島で就職するって話」
それに対する返事は無い。
肯定と受け取っていいだろう。
娘は、高校へ進学する気が無いらしい。
与半はまた同じ説教をするはめになる。
「いいか、小町。
お前にはきょうだいがいない。
若者の少ない、出会いの無い島で暮らしていれば、気付いた時には一人になっているぞ。
気が変わって島の外で働こうとしても学歴が無いと困る。
お前のためを思って言っているんだ。
幸いうちには余裕があるんだから、高校へは行っておきなさい」
なかなか進路を決めなかった小町が、担任教師と母――与半の妻の祥子に三者面談でせっつかれた末に、中学を卒業したらすぐ二ツ河島で仕事に就くと言ったと聞いたときは、与半も驚いた。
少し前まで彼女は、多くの若者がそうであるように都会に憧れていたはずだ。
頭も良いのだから、都会で今時の少女らしい幸せを追うものだと思っていたのに。
「父さんだって、高校行かずにすぐ漁師継いだんだよね。
じゃあ何、父さんには仕事できて私にはできないって言うの」
「そういうわけじゃない」
「嘘、何が違うの」
言いあっているところに、祥子が来た。
祥子は小町に目配せする。
何のことか分かりかねた与半が黙り込んだとき、小町は盛大に溜め息を吐いた。
「ああ、もう面倒くさいな……。
結婚の約束してる人がいるの、私」
「え……いや、本当かそれ……私は知らんぞ」
与半が間の抜けた声をあげている間にも、娘はつらつらと説明する。
「屋江将太と付き合ってるんだ、私。
将太が十八歳になるのを待って結婚するつもり。
将太は島を出ないんだって……だから私も島を出る気が無いわけ」
小町が挙げた男の名は、同じ中学三年生の少年のものだった。
「そんな子どもの時分の口約束だけで、この先何十年もある人生を決めてしまうのは軽率なんじゃないか」
「あと何十年かそこらしか無いからこそ、島に残って将太と一緒になるって決めたの!
父さんさっき出会いがどうだとか言ってたけど、出会いあったじゃん。
これで解決でしょ」
「いや、まだ十五でそんな大事なことを決めてしまうのは……」
「宇津僚の隠し子が無理やり結婚させられるのには手助けするくせに、私が自分の意志で結婚するのには反対なんだ」
娘に吐き捨てられた途端、白銀と赤のコントラストが、眼前に甦った。
鉈で首を掻き切った鎮神。流れ出す血。
自分のせいだ、という思いが与半の中を渦巻いた。
「小町、今は宇津僚様のことは関係ないでしょう。
そんなふうに言うのはやめなさい」
祥子が娘を窘める声が、やけに遠く聞こえる。
与半は何も言えずその場に立ち尽くし、気付かぬ間に背中の半ばまで伸びていた娘の髪の毛先をぼんやり眺めていた。
妻が娘を宥めている間、与半は外で時間を潰すことになった。
与半は港の近くの食堂へ行き、魚の切り出しが乗った丼を掻き込む。
あと何年か、少なくとも今は、娘を庇護の対象としか見れない。
学業のために親元を離れるかもしれないとは想像していた。
しかし、男と約束を交わして子どもでさえなくなろうとする未来がこんなに早く来るとは思ってもいなかった。
考えすぎて頭が熱くなったせいか、美味しいはずの魚が生臭く感じられ、やたらと醤油を注いでしまう。
娘だけでなく、鎮神のことも頭から離れてくれない。
与半が真祈の命じるままに連れて来てしまった少年。
ルッコラ畑の物置、土埃の中。
与半が運んできた運命に、死で否を突きつけようとした少年。
「鷲本与半さんですよね」
ふいに降ってきた声に顔を上げる。
初対面ではあったが、目の前の相手が誰かはすぐに分かった。
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艶子の後夫の、深夜美だった。
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