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一章 Mock Up
七話 狂える楽園の東にて
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一五八年前、疫病が世界的に流行した時、未曽有の危機を前に全人類の力を合わせることを目標に掲げたワールド・サルベーション・オーガナイゼーション――WSOなる組織が誕生し、全ての国家の上に君臨した。
WSOが手始めに行ったのが、道に、山に、『海』にナノマシンの壁を建設することだ。
無限に自己修復し、近付く人間を攻撃するこの壁は、人の行き来による病の伝染を防止するのに非常に有効であった。
続いてWSOが全人類の団結を深める為に行ったことは、人文分野を破壊し、科学という価値観で思想を一つにする政策であった。
各地域から相互理解の妨げとなり得る伝統文化を根絶する目的で、宗教を禁じて聖地を毀した。
自国の文化にしがみ付く者は排他的な封建主義者、他国の文化を吸収する者は無礼な簒奪者だと喧伝し、
風土による特徴を抑えた新様式こそ平和な世界の実現に不可欠として装飾が一切無い建築物や服装を推奨した。
更に、生まれ持った顔を化粧で偽ることは美意識を過度に戦わせるので禁止しろ、華美な服装は貧富の差を可視化するので禁止しろ、
肌を見せる服装を好む女性は女性の地位向上に逆行しているので弾圧しろといった規制がどんどん増えていった。
また、情報を更新出来ない紙媒体は事実の伝達性で劣るため、焚書を行い全ての出版物を電子化、その電子書籍にも厳しい検閲を行い、空想を描くことを禁じた。
そうこうしているうちに、拡大するサイバー空間に追い付けなくなりバーチャル世界での様々な権利の保障を整えるのがどんどん遅れて行ったにも関わらず高額な税を義務付け続けた『日本』の国家は、民衆から激しい反発を食らい、WSOからも見捨てられて崩壊した。
それ以降、『日本』と呼ばれた地域からは県や市町村といった区分けも廃され、WSOのみが法となった。
他の国家の顛末については伝わっておらず、それが記されているであろう電子書籍にアクセスする手段をさすらいの地は持たないため、由利には知る由の無いことだ。
不要となった県庁の跡地にはWSO開発目標指導府が置かれ、更なる計画を実施しながら、AIと共に民衆を監視し始めた。
WSOへの批判は勿論、くだらない冗句に猥談、果ては由利の好きな『頑張る』という語句さえ『向上心は競争を生む』という理由で罰則の対象とされた。
当然ながらどの地区にもWSOへ反抗する者は居た。
特にネオ南都は文化遺産を売りにした観光地であったため、人文分野を軽視した政策には抵抗を示す者が多く、粛清しきれない程のレジスタンスを抱えることとなった。
思い思いのファッション、雅な町並みなどの華やかな文化を愛することが彼らの叛逆であった。
丁度この時期、サイバー空間へダイブしてWSOのコンピューターに攻撃を仕掛ける、通称『グレムリン』なる正体不明の電脳戦士達が登場し、ますます世相は混乱を極めた。
疫病の発生からここまでは僅か二年だ。
やがて疫病は鳴りを潜めたが、WSOがナノマシンの壁を取り払うことは無かった。
飛行機やヘリコプター――今ではロストテクノロジーとなったため、由利は写真でしか見たことが無い乗り物だ――ならば空を飛んで壁を越えられなくもないが、
中に人間が乗っている以上は、少しでもミスをすればナノマシンに攻撃されて機体も乗客も粉砕されてしまう危険性があった。
代わりにWSOが推進したのは、テレポート技術による移動であった。
疫病の流行以前から存在していたものの、人体消失のおそれがあったため普及していなかった技術だが、生体スキャンで感染者や危険思想保持者を探知して渡航を防ぐシステムの付与により一転もてはやされた。
ただし、テレポートターミナルを使用して良いのはWSOが配布した生体データ取得チップを体内に埋め込んだ者のみ。
こんなものを体に埋めれば、町角どころか、家の中、頭の中にまで監視の目が入り込んで来るのではないか。
レジスタンスはチップの埋め込みを拒んだが、その頃には殆どの人間がWSOの方針に疑問を持つことなど無く、
たとえ疑問を持っていたとしても、チップを埋めなければテレポートの他にもインターネットが使用出来なくなる、進学や就業に制限が付くなどと様々な条件を追加されてしまえば、生活の為に渋々チップを埋める者は多かった。
WSOに不信を抱きつつもチップを埋めた者が、その先WSOを批判することは二度と無かった。
チップを通じ、脳をハックされていたのだ。
そして疫病の発生から七年後、とうとう世界中に、各地区に一つずつの『ロトス』が建設された。
気紛れな自然に左右されない効率的な生活、AIやロボットを不要とする程の優れた頭脳と肉体をバイオテクノロジーにより実現し万人が活躍出来る社会、バーチャル空間を利用した無限の娯楽、永遠の世界平和。
それがロトスの中にあるものだ。
そしてロトスの中に入るにも、チップの埋め込みは不可欠であった。
全人口の九十五パーセントがロトスの中へ入って行った。
レジスタンスの中にも、ついに地上に顕現した楽園に心惹かれてチップを受け入れた者は少なくなかった。
希望者が全員ロトスに入ると『永遠の世界平和』が作動した。
チップが人々の脳を完全に支配して、世界中にある全ロトスの全住民の意識を集合精神に組み込んでしまったのだ。
人工培養脳『ベイバロン・アイディアル』に宿った『唯一の清く正しい精神』を何億もの人間が共有し、文字通り心を一つにした。
集合精神が割り振った仕事を熟し、定められた安息日には仰臥してバーチャル空間に接続し無邪気に遊ぶ夢を見る。
周りに居るのは自分と同じ精神や思考を持つ人間ばかりなので争いなど起きる筈もなく、皆が同じ方向だけを見ている。
バイオテクノロジーにより人体が強化され、仕事における落ち零れなど発生しようがない。
足並みが完璧に揃った優しい社会。
それが、WSOが齎した平和であった。
テレポート技術、インターネットにサイバー空間など様々なものがロトスの中に集約され、外界から消えてしまった。
ロトス完成から一年程経ったところでAIが反乱を起こし、それを厭うようにロトスは門を閉ざした。
それから約一五〇年間、今に至るまで、少なくともネオ南都のロトスは開いたことが無い。
由利達が生きる『さすらいの地』は、体制に立ち向かいはしたが打倒することは叶わなかったレジスタンス達の子孫が生きる、バッドエンドを迎えたサイバーパンクの成れの果てなのだ。
さすらいの地は一つの環境として完結しており、危険を冒してまでテレポート技術を奪い取りたいだのナノマシンの壁を壊したいだのと考える者は居ない。
敵は、自然の摂理の一部と化した旧文明の遺物のみ。
ロトスはさすらいの地に興味など無く、由利達にとってもWSOは打ち倒すべき体制ではない。
一度分かれた二つの世界は、決して交わらない。
狂える楽園の東、叛逆や文明の後退と進歩を経て、今のネオ南都がある。
アルミコンテナを背負ったトラックが、高田の細い路地を駆け上がり、東の鎮守の森を目指す。
流れていく町の灯りを受けた白刃がコンテナの上で蛍火のように飛び交う。
コンテナの上、由利は小路と斬り結んでいた。
右手には、加賀見が遺した清けし雪村。
「お前を殺す気はあらへん。俺は新人類の味方や。
お前のことも、彼のことも、俺は差別から守りたい。
野蛮な真似は止めて戻って来るんや。由利」
小路が言う。
幼い頃から聞かされ続けた、吐き気のしそうな綺麗事。
行動が伴っているならば構わないが、彼に言われると虫唾が走る。
「部下を使い捨てる大将の屑が、愛だの平等だの言うたかて薄ら寒いだけなんじゃ。
死にさらせ」
由利は吐き捨てる。
新人類の地位向上を謳う裏で、誰よりも新人類を差別し、由利の存在を恥じていた父。
管理者の能力など無く、与える飴すら持っていないくせにネオ南都を暗黒時代に叩き込み、ディストピア以下の世界にした男。
これ以上のさばらせていてはならない。
少しは剣を振るう練習をしてきたとはいえ、長年碌な食事を与えられず痩せ細った身体では、風に打ち負かされてよろめいてしまう。
小路の振るう長刀の切っ先が目前にぐんと迫った。
恐怖は、意外な程に湧いてこなかった。
左側の額から頬にかけて、燃えるような痛みが縦走る。
反射的に身を縮こめてしまったが、勘を頼りに屈み、死角となった左側に回り込んだ小路の繰り出す一撃を躱す。
瞼から流れ出る血を掌に溜めて小路にぶちまけ、視界を潰す。
そんな小細工で一時的に不利を脱したところで、手負いでは碌に攻め掛かることが出来ず、二人は再び時速六〇キロの戦野で睨み合いとなる。
その時、モーター音が耳を震わせた。
力強く澄んだ重低音が、確実にこちらに近付いている。
トラックが数秒前に側を掠めて行った路地裏から、勢いよく一台のバイク『クロコマ』が飛び出して来て表通りに合流した。
機体を御しているのは、佐久良だ。
長髪と羽織を靡かせながら、小路を討つ為に追って来る。
勝った。由利はそう確信する。
「お前は散々見下しとった新人類の力で滅びる!」
叫ぶ佐久良の周囲に、桜色の光が広がった。
今夜は狩り応えがある邪機の出現をこれ以上期待出来そうにない。
佐久良の住居を兼ねている詰所から、栗栖と相馬、そして由利は帰路に就いた。
高田は人気が無いが、泥梨大路にまで下ってくると、遅くまで酒や料理を供している店の多さに比例して人通りが増える。
「聞いたか、Domの暴走事件。とうとう波你坡でも三カ月前に起こっとったらしいで」
「かなんなぁ」
道行くUsual達が噂話をしている。
ナノマシンの向こうの地区とは、技師がドローンを用いて物や情報を交換している。
そうして得た情報の一つが、Domが原因不明の暴走を起こし、理性を失って周囲の人々に危害を加える事件が度々発生しているというものであった。
ネオ南都ではまだ暴走事件は起きていないが、Domに眠る未知の生態は、恐怖の対象としては十分だ。
SwitchとしてDom性を持つ以上、由利も暴走してしまう可能性はある。
Domを怖がらないでくれ、だなんて無責任なことは言えない。
由利の姿を見るなり、楽しげだった表情を失い、声を潜めて何やら話し始める者も居る。
過去のことで由利を疑い続けている者も居れば、単に侮蔑して憂さを晴らしたい者も居る。
自由と義の為に浄世講を打倒した結果、少なくない人々が由利に抱いた感情がこれだ。
浄世講消滅によりあからさまな二項対立は無くなったが、やはりUsualと新人類の間に刻まれた溝は、埋まりはしない。
帰宅して、三善に無事を報告すると、さっさと湯浴みを済ませ床に入る。
そのまま眠るつもりだったが、また佐久良の夢を見てしまったらと思うと胸が痛んだ。
少しでも欲求を満たしてから眠れば変な夢を見なくて済むだろうか、と立ち上がって、押入れから低周波パルスの機械を出す。
大層な装置ではなく、電流を調節する本体から伸びたコードの先にパッドが付いているだけの、手に収まるサイズのものだ。
新人類がいくら特殊な生態をしているとはいえ、他人と恋をしたり性的な接触を持ったりすることを望まない者も当然居る。
DomやSubならサプレッサーを飲めば済むが、副作用のあるSwitchはそうもいかない。
Switchかつ、恋愛は出来ないし好きでもない相手に触られたくない、という由利は、考え得る限り最も生きづらいパターンだろう。
しかし低周波パルスの機械で自身に痛みを与えれば、Sub神経を宥めることは出来る。
最近はコマンドやアフターケアを疑似的に体験出来る音声作品なんてものが売られているらしいが、誰にも知られずに入手する経路が無いので、由利はそちらには手を出していない。
機械をコンセントに繋ぎ、浴衣の上からパッドを太腿に押し当てる。
静寂の中、眉間に皴を寄せ、唇を堅く引き結んで、暗がりに浮き上がる白い爪先を睨む。
息を吐いている途中で、不意に低周波が流れる。
ランダムで流される電気は、最小出力でも、肌の上で棘が飛び散るような痛みとなる。
身が強張り、吐き損ねた息が喉の奥で蟠った。
小さな機械が与える無作為な刺激に踊らされるうちに、何となく心地良い感覚が脚に滲んで来る。
Sub神経が被虐の悦びを拾っているのだ。
使い慣れない由利のSub神経は未熟な為、痛みを全て快楽に変換することは難しい。
Sub神経が成熟した者は、最大出力の低周波を受けて狂い悶えるような性感を得るようだが、由利には自力でその域に達する程の探求心は無い。
後ろめたい夢見から逃れられれば、それで良い。
パッドを徐々に、皮膚が柔い脚の付け根へと近付けていく。
軽く酔ったように温度の上がる下肢とは対照的に冷めた頭で、効率良く神経を高められる箇所を探る。
浴衣の裾を肌蹴させ、素肌にパッドを当てて次の衝撃を大人しく待つ。
淑やかに揃えられた脚に、またも電気が突き刺さる。
許容量を超えて染み渡る弱々しい快感に溜め息を漏らしてから、ぶつりと電源を切った。
機械を押入れに戻すと布団に潜り込み、適当に太腿を擦る。
この程度の被虐にアフターケアが必要かは分からないが、ドロップになってからでは遅いので取りあえずやっておく。
撫でるのはアフターケアの基本的動作らしいので、効果が無いということは無いだろう。
暫くしてアフターケアを切り上げると、乱れた浴衣の前を掻き抱いて眠りに落ちた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
WSOは完全悪ではなく、もう一つの正義みたいなイメージです。
そもそもWSOは単なる舞台装置で、本作の敵は別に居るという。
WSOが手始めに行ったのが、道に、山に、『海』にナノマシンの壁を建設することだ。
無限に自己修復し、近付く人間を攻撃するこの壁は、人の行き来による病の伝染を防止するのに非常に有効であった。
続いてWSOが全人類の団結を深める為に行ったことは、人文分野を破壊し、科学という価値観で思想を一つにする政策であった。
各地域から相互理解の妨げとなり得る伝統文化を根絶する目的で、宗教を禁じて聖地を毀した。
自国の文化にしがみ付く者は排他的な封建主義者、他国の文化を吸収する者は無礼な簒奪者だと喧伝し、
風土による特徴を抑えた新様式こそ平和な世界の実現に不可欠として装飾が一切無い建築物や服装を推奨した。
更に、生まれ持った顔を化粧で偽ることは美意識を過度に戦わせるので禁止しろ、華美な服装は貧富の差を可視化するので禁止しろ、
肌を見せる服装を好む女性は女性の地位向上に逆行しているので弾圧しろといった規制がどんどん増えていった。
また、情報を更新出来ない紙媒体は事実の伝達性で劣るため、焚書を行い全ての出版物を電子化、その電子書籍にも厳しい検閲を行い、空想を描くことを禁じた。
そうこうしているうちに、拡大するサイバー空間に追い付けなくなりバーチャル世界での様々な権利の保障を整えるのがどんどん遅れて行ったにも関わらず高額な税を義務付け続けた『日本』の国家は、民衆から激しい反発を食らい、WSOからも見捨てられて崩壊した。
それ以降、『日本』と呼ばれた地域からは県や市町村といった区分けも廃され、WSOのみが法となった。
他の国家の顛末については伝わっておらず、それが記されているであろう電子書籍にアクセスする手段をさすらいの地は持たないため、由利には知る由の無いことだ。
不要となった県庁の跡地にはWSO開発目標指導府が置かれ、更なる計画を実施しながら、AIと共に民衆を監視し始めた。
WSOへの批判は勿論、くだらない冗句に猥談、果ては由利の好きな『頑張る』という語句さえ『向上心は競争を生む』という理由で罰則の対象とされた。
当然ながらどの地区にもWSOへ反抗する者は居た。
特にネオ南都は文化遺産を売りにした観光地であったため、人文分野を軽視した政策には抵抗を示す者が多く、粛清しきれない程のレジスタンスを抱えることとなった。
思い思いのファッション、雅な町並みなどの華やかな文化を愛することが彼らの叛逆であった。
丁度この時期、サイバー空間へダイブしてWSOのコンピューターに攻撃を仕掛ける、通称『グレムリン』なる正体不明の電脳戦士達が登場し、ますます世相は混乱を極めた。
疫病の発生からここまでは僅か二年だ。
やがて疫病は鳴りを潜めたが、WSOがナノマシンの壁を取り払うことは無かった。
飛行機やヘリコプター――今ではロストテクノロジーとなったため、由利は写真でしか見たことが無い乗り物だ――ならば空を飛んで壁を越えられなくもないが、
中に人間が乗っている以上は、少しでもミスをすればナノマシンに攻撃されて機体も乗客も粉砕されてしまう危険性があった。
代わりにWSOが推進したのは、テレポート技術による移動であった。
疫病の流行以前から存在していたものの、人体消失のおそれがあったため普及していなかった技術だが、生体スキャンで感染者や危険思想保持者を探知して渡航を防ぐシステムの付与により一転もてはやされた。
ただし、テレポートターミナルを使用して良いのはWSOが配布した生体データ取得チップを体内に埋め込んだ者のみ。
こんなものを体に埋めれば、町角どころか、家の中、頭の中にまで監視の目が入り込んで来るのではないか。
レジスタンスはチップの埋め込みを拒んだが、その頃には殆どの人間がWSOの方針に疑問を持つことなど無く、
たとえ疑問を持っていたとしても、チップを埋めなければテレポートの他にもインターネットが使用出来なくなる、進学や就業に制限が付くなどと様々な条件を追加されてしまえば、生活の為に渋々チップを埋める者は多かった。
WSOに不信を抱きつつもチップを埋めた者が、その先WSOを批判することは二度と無かった。
チップを通じ、脳をハックされていたのだ。
そして疫病の発生から七年後、とうとう世界中に、各地区に一つずつの『ロトス』が建設された。
気紛れな自然に左右されない効率的な生活、AIやロボットを不要とする程の優れた頭脳と肉体をバイオテクノロジーにより実現し万人が活躍出来る社会、バーチャル空間を利用した無限の娯楽、永遠の世界平和。
それがロトスの中にあるものだ。
そしてロトスの中に入るにも、チップの埋め込みは不可欠であった。
全人口の九十五パーセントがロトスの中へ入って行った。
レジスタンスの中にも、ついに地上に顕現した楽園に心惹かれてチップを受け入れた者は少なくなかった。
希望者が全員ロトスに入ると『永遠の世界平和』が作動した。
チップが人々の脳を完全に支配して、世界中にある全ロトスの全住民の意識を集合精神に組み込んでしまったのだ。
人工培養脳『ベイバロン・アイディアル』に宿った『唯一の清く正しい精神』を何億もの人間が共有し、文字通り心を一つにした。
集合精神が割り振った仕事を熟し、定められた安息日には仰臥してバーチャル空間に接続し無邪気に遊ぶ夢を見る。
周りに居るのは自分と同じ精神や思考を持つ人間ばかりなので争いなど起きる筈もなく、皆が同じ方向だけを見ている。
バイオテクノロジーにより人体が強化され、仕事における落ち零れなど発生しようがない。
足並みが完璧に揃った優しい社会。
それが、WSOが齎した平和であった。
テレポート技術、インターネットにサイバー空間など様々なものがロトスの中に集約され、外界から消えてしまった。
ロトス完成から一年程経ったところでAIが反乱を起こし、それを厭うようにロトスは門を閉ざした。
それから約一五〇年間、今に至るまで、少なくともネオ南都のロトスは開いたことが無い。
由利達が生きる『さすらいの地』は、体制に立ち向かいはしたが打倒することは叶わなかったレジスタンス達の子孫が生きる、バッドエンドを迎えたサイバーパンクの成れの果てなのだ。
さすらいの地は一つの環境として完結しており、危険を冒してまでテレポート技術を奪い取りたいだのナノマシンの壁を壊したいだのと考える者は居ない。
敵は、自然の摂理の一部と化した旧文明の遺物のみ。
ロトスはさすらいの地に興味など無く、由利達にとってもWSOは打ち倒すべき体制ではない。
一度分かれた二つの世界は、決して交わらない。
狂える楽園の東、叛逆や文明の後退と進歩を経て、今のネオ南都がある。
アルミコンテナを背負ったトラックが、高田の細い路地を駆け上がり、東の鎮守の森を目指す。
流れていく町の灯りを受けた白刃がコンテナの上で蛍火のように飛び交う。
コンテナの上、由利は小路と斬り結んでいた。
右手には、加賀見が遺した清けし雪村。
「お前を殺す気はあらへん。俺は新人類の味方や。
お前のことも、彼のことも、俺は差別から守りたい。
野蛮な真似は止めて戻って来るんや。由利」
小路が言う。
幼い頃から聞かされ続けた、吐き気のしそうな綺麗事。
行動が伴っているならば構わないが、彼に言われると虫唾が走る。
「部下を使い捨てる大将の屑が、愛だの平等だの言うたかて薄ら寒いだけなんじゃ。
死にさらせ」
由利は吐き捨てる。
新人類の地位向上を謳う裏で、誰よりも新人類を差別し、由利の存在を恥じていた父。
管理者の能力など無く、与える飴すら持っていないくせにネオ南都を暗黒時代に叩き込み、ディストピア以下の世界にした男。
これ以上のさばらせていてはならない。
少しは剣を振るう練習をしてきたとはいえ、長年碌な食事を与えられず痩せ細った身体では、風に打ち負かされてよろめいてしまう。
小路の振るう長刀の切っ先が目前にぐんと迫った。
恐怖は、意外な程に湧いてこなかった。
左側の額から頬にかけて、燃えるような痛みが縦走る。
反射的に身を縮こめてしまったが、勘を頼りに屈み、死角となった左側に回り込んだ小路の繰り出す一撃を躱す。
瞼から流れ出る血を掌に溜めて小路にぶちまけ、視界を潰す。
そんな小細工で一時的に不利を脱したところで、手負いでは碌に攻め掛かることが出来ず、二人は再び時速六〇キロの戦野で睨み合いとなる。
その時、モーター音が耳を震わせた。
力強く澄んだ重低音が、確実にこちらに近付いている。
トラックが数秒前に側を掠めて行った路地裏から、勢いよく一台のバイク『クロコマ』が飛び出して来て表通りに合流した。
機体を御しているのは、佐久良だ。
長髪と羽織を靡かせながら、小路を討つ為に追って来る。
勝った。由利はそう確信する。
「お前は散々見下しとった新人類の力で滅びる!」
叫ぶ佐久良の周囲に、桜色の光が広がった。
今夜は狩り応えがある邪機の出現をこれ以上期待出来そうにない。
佐久良の住居を兼ねている詰所から、栗栖と相馬、そして由利は帰路に就いた。
高田は人気が無いが、泥梨大路にまで下ってくると、遅くまで酒や料理を供している店の多さに比例して人通りが増える。
「聞いたか、Domの暴走事件。とうとう波你坡でも三カ月前に起こっとったらしいで」
「かなんなぁ」
道行くUsual達が噂話をしている。
ナノマシンの向こうの地区とは、技師がドローンを用いて物や情報を交換している。
そうして得た情報の一つが、Domが原因不明の暴走を起こし、理性を失って周囲の人々に危害を加える事件が度々発生しているというものであった。
ネオ南都ではまだ暴走事件は起きていないが、Domに眠る未知の生態は、恐怖の対象としては十分だ。
SwitchとしてDom性を持つ以上、由利も暴走してしまう可能性はある。
Domを怖がらないでくれ、だなんて無責任なことは言えない。
由利の姿を見るなり、楽しげだった表情を失い、声を潜めて何やら話し始める者も居る。
過去のことで由利を疑い続けている者も居れば、単に侮蔑して憂さを晴らしたい者も居る。
自由と義の為に浄世講を打倒した結果、少なくない人々が由利に抱いた感情がこれだ。
浄世講消滅によりあからさまな二項対立は無くなったが、やはりUsualと新人類の間に刻まれた溝は、埋まりはしない。
帰宅して、三善に無事を報告すると、さっさと湯浴みを済ませ床に入る。
そのまま眠るつもりだったが、また佐久良の夢を見てしまったらと思うと胸が痛んだ。
少しでも欲求を満たしてから眠れば変な夢を見なくて済むだろうか、と立ち上がって、押入れから低周波パルスの機械を出す。
大層な装置ではなく、電流を調節する本体から伸びたコードの先にパッドが付いているだけの、手に収まるサイズのものだ。
新人類がいくら特殊な生態をしているとはいえ、他人と恋をしたり性的な接触を持ったりすることを望まない者も当然居る。
DomやSubならサプレッサーを飲めば済むが、副作用のあるSwitchはそうもいかない。
Switchかつ、恋愛は出来ないし好きでもない相手に触られたくない、という由利は、考え得る限り最も生きづらいパターンだろう。
しかし低周波パルスの機械で自身に痛みを与えれば、Sub神経を宥めることは出来る。
最近はコマンドやアフターケアを疑似的に体験出来る音声作品なんてものが売られているらしいが、誰にも知られずに入手する経路が無いので、由利はそちらには手を出していない。
機械をコンセントに繋ぎ、浴衣の上からパッドを太腿に押し当てる。
静寂の中、眉間に皴を寄せ、唇を堅く引き結んで、暗がりに浮き上がる白い爪先を睨む。
息を吐いている途中で、不意に低周波が流れる。
ランダムで流される電気は、最小出力でも、肌の上で棘が飛び散るような痛みとなる。
身が強張り、吐き損ねた息が喉の奥で蟠った。
小さな機械が与える無作為な刺激に踊らされるうちに、何となく心地良い感覚が脚に滲んで来る。
Sub神経が被虐の悦びを拾っているのだ。
使い慣れない由利のSub神経は未熟な為、痛みを全て快楽に変換することは難しい。
Sub神経が成熟した者は、最大出力の低周波を受けて狂い悶えるような性感を得るようだが、由利には自力でその域に達する程の探求心は無い。
後ろめたい夢見から逃れられれば、それで良い。
パッドを徐々に、皮膚が柔い脚の付け根へと近付けていく。
軽く酔ったように温度の上がる下肢とは対照的に冷めた頭で、効率良く神経を高められる箇所を探る。
浴衣の裾を肌蹴させ、素肌にパッドを当てて次の衝撃を大人しく待つ。
淑やかに揃えられた脚に、またも電気が突き刺さる。
許容量を超えて染み渡る弱々しい快感に溜め息を漏らしてから、ぶつりと電源を切った。
機械を押入れに戻すと布団に潜り込み、適当に太腿を擦る。
この程度の被虐にアフターケアが必要かは分からないが、ドロップになってからでは遅いので取りあえずやっておく。
撫でるのはアフターケアの基本的動作らしいので、効果が無いということは無いだろう。
暫くしてアフターケアを切り上げると、乱れた浴衣の前を掻き抱いて眠りに落ちた。
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WSOは完全悪ではなく、もう一つの正義みたいなイメージです。
そもそもWSOは単なる舞台装置で、本作の敵は別に居るという。
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