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Chapter5 色欲の唇
第53話 決別の刻
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眉をひそめ、不快感を露にする二人の女性。
冷徹な人間だとは思っていたけれど、ここまでくると冷徹というより冷酷だ。冷酷で残酷で悪魔よりも悪魔らしい、と彩香ですらそう思った。
これまで彩香が黒時に賛同し従い続けてきたのは、別に好きだからとかそんな幼稚な理由からではない。
単に一番頼りがいがあって役に立ちそうだったから。それだけである。
役に立つものは誰だって欲しくなるのは当たり前なことで、ならば強欲である彩香が黒時をその腕の中に収めようとしていたのは至極自然なことだったと言えるだろう。
だがしかし、それもここまでだった。
役に立ちそうではあるが、それでも欲しくないものだってある。役に立っても嫌悪感を抱くものだってある。
理屈ではない、感情。
となれば、結局は好き嫌いの問題であったのかもしれないが、それでも構わないと言ってしまおう。
人間とは、感情に生きる人間とは、全て幼稚であるものなのだから。
彩香が発した言葉。それは一言だった。時間にしてみれば一秒か二秒、そんな程度の時間しか要しない言葉だった。
それが、黒時に決別を告げる言葉となった。
あまり耳にしない言葉――ではない。
むしろ、人によれば何度も耳にしている言葉かもしれない。
特に恋多き男性は、何人もの女性に言われたのではないだろうか。まあ、今回の彩香の言葉とそれは少々重みというか、程度の差みたいなものがあるわけだが、まあ、どのみち言われてしまえば傷つくものではある。
黒時が傷ついたかどうかは、知る由もないが。
死んだ後輩に対して、死んだ教師に対して、死に際に立つ仲間に対して黒時が放った冷徹な言葉。
それを聞いて彩香が放った言葉は――
「最低」
だった。
彩香の声とは思えぬほど低く、ドスの利いた声。もし駄紋が生きていて、聞いていたら泣いていたかもしれない。
彩香の言葉に続いて瑠野が口を開く。
「妬美、だっけ? あいつはアンタの目の前で死んだ?」
「いや」
「そう。でも、あの子は目の前で死んだよ」
そう言いながら瑠野は、道端に寝転がる駄紋の亡骸を指差した。黒時は指差された方向に目を向けることなく、じっと瑠野の目を見つめている。
「アタシはさ、アンタたちと知り合ったばっかだし、ほとんど会話らしいこともしてない。でもさ、それでも子豚ちゃんが目の前で殺された時、すごく気分が悪くなった。グロかったからとかそんなんじゃなくて、アタシの知ってる奴が死ぬのを見るのが辛かった。アンタにはそんな感情もないワケ?」
「……お前には関係ないだろ」
だん、と大きな音が響いた。
どうやら瑠野が地面を踏みしめたらしい。怠惰の脚が発動しているわけではないので破壊は伴ってはいないが、それでも相当な大きさの音だった。
「あのホテルの屋上。アンタの友達が闘ってるんだよね?」
「…………」
友達?
誰のことを言っているのか分からないわけでは当然ない。
けれど黒時には分からなかった。何故ここで【友】という単語が出てくるのか分からなかった。
何故、そんな荒唐無稽な単語を口に出来るのか分からなかった。
「助けに行かないの? 殺されちゃうかもよ?」
「さっきも言ったはずだ。俺は行かない」
と言って、黒時は気付いた。
自分が栄作を助けに行ったところで悪魔を殺すことはできやしないので行く意味はないのだが、確かに瑠野の言う通りに栄作が殺されたとしたら、困ったことになる。
七体の悪魔それぞれに適応した七つの器。
それらが悪魔を殺せる唯一の存在なのだとしたら、栄作はまだ必要な存在なのだ。
彼はまだ悪魔を殺していない。
その器の中に適応した悪魔のコアを収めてはいないのだ。もしも栄作が死んでしまったら、彼に適応した悪魔は永遠に殺せないということになってしまう。
それだけはなんとしても避けなければならない。なんとしても。どんな手を使っても。
しかし、自分が行ってまた生死の境をさまようことになってしまうのはいい加減御免被りたい。
栄作を死なすわけにもいかないし、自分が死ぬわけにもいかないのだから。
黒時は考える。その時間わずか三秒。それで答えは出た。
いや、もしかしたら初めからそう仕向けるためにあえて面倒を引き起こす発言をしたのかもしれない。まあ、それは嘘なのだが。
ともあれ結果良ければば全てよし。最後のダメ押しと言わんばかりに、黒時は言った。
「あいつを助けたいなら、お前たちで行って来ればいい。二人とも力を持っているんだ。きっと助けられるさ」
責められていた男の声とは思えぬほどにその声は優しかった。
暖かく、心が安らいでしまうような声。人間は時として、心を動かされるそんな声をこう比喩していた。
悪魔の囁き――と。
「行こ、瑠野。もうだめだ。彩香はもうあの人いらない。彩香たちで栄ちゃん先輩の加勢に行こう」
「だね。あの女教師はあいつの側から離れたくないみたいだし、放っといていいよね」
「うん。いいんじゃない? 彩香には関係ないし」
「だね」
そう言いながら二人の女性は、屋上に仲間が待つであろうホテルへと歩いて行った。
黒時は思う。その背を見ながら思う。
どうか、栄作を救ってくれ、と。
お前たちは既に適応した悪魔を殺しそのコアを器へと収めた。つまり、お役御免である。
だから。
だから死んでもいい。死んでくれていい。栄作を守る為の盾となって死んだら、褒めてやる。心の底から褒めてやる。俺が褒めてやる。
だから。
腕が千切れても、脚が砕けても、栄作を守れ。
何があっても、なんとしても栄作を守れ。栄作が生きて帰ってきたら、言ってやる。お前たちではなく、栄作が生きていてくれたら。
「殺されないでよかった。本当に良かった」
と、泣きながら言ってやる。お前たちは、別に殺されてくれていい。
黒時はそう思いながら未だ二人の背を見つめていた。
どうやら、己の中の変化とは例外なく気付きにくいものであるらしい。普通とは少しずれている黒時も気付いてはいないようだ。
妬美に殺されそうになったあの窮地ですら黒時は人間の本質が見えた瞬間を楽しみ、笑っていた。けれど、今はそうではない。
もしかしたら。
黒時の中には楽しんでいられる余裕が既になくなっているのかもしれなかった。
これまで何度も死の瀬戸際に立たされたのだ、そうなってもいても可笑しくはない。現に、瑠野が力を発現させた時、つまり人間の本質を見せた時、黒時は楽しむことなくただ希望をそこに見出していた。
生き残る為の希望を。
黒時は選ばれた。神によって選ばれた。新たな世界を描き出す為の存在として選ばれた。彼はそう信じている。信じているのだ。
彼が――そう信じているのだ。
【友】を信じる瑠野のように、黒時は信じているのだ。
冷徹な人間だとは思っていたけれど、ここまでくると冷徹というより冷酷だ。冷酷で残酷で悪魔よりも悪魔らしい、と彩香ですらそう思った。
これまで彩香が黒時に賛同し従い続けてきたのは、別に好きだからとかそんな幼稚な理由からではない。
単に一番頼りがいがあって役に立ちそうだったから。それだけである。
役に立つものは誰だって欲しくなるのは当たり前なことで、ならば強欲である彩香が黒時をその腕の中に収めようとしていたのは至極自然なことだったと言えるだろう。
だがしかし、それもここまでだった。
役に立ちそうではあるが、それでも欲しくないものだってある。役に立っても嫌悪感を抱くものだってある。
理屈ではない、感情。
となれば、結局は好き嫌いの問題であったのかもしれないが、それでも構わないと言ってしまおう。
人間とは、感情に生きる人間とは、全て幼稚であるものなのだから。
彩香が発した言葉。それは一言だった。時間にしてみれば一秒か二秒、そんな程度の時間しか要しない言葉だった。
それが、黒時に決別を告げる言葉となった。
あまり耳にしない言葉――ではない。
むしろ、人によれば何度も耳にしている言葉かもしれない。
特に恋多き男性は、何人もの女性に言われたのではないだろうか。まあ、今回の彩香の言葉とそれは少々重みというか、程度の差みたいなものがあるわけだが、まあ、どのみち言われてしまえば傷つくものではある。
黒時が傷ついたかどうかは、知る由もないが。
死んだ後輩に対して、死んだ教師に対して、死に際に立つ仲間に対して黒時が放った冷徹な言葉。
それを聞いて彩香が放った言葉は――
「最低」
だった。
彩香の声とは思えぬほど低く、ドスの利いた声。もし駄紋が生きていて、聞いていたら泣いていたかもしれない。
彩香の言葉に続いて瑠野が口を開く。
「妬美、だっけ? あいつはアンタの目の前で死んだ?」
「いや」
「そう。でも、あの子は目の前で死んだよ」
そう言いながら瑠野は、道端に寝転がる駄紋の亡骸を指差した。黒時は指差された方向に目を向けることなく、じっと瑠野の目を見つめている。
「アタシはさ、アンタたちと知り合ったばっかだし、ほとんど会話らしいこともしてない。でもさ、それでも子豚ちゃんが目の前で殺された時、すごく気分が悪くなった。グロかったからとかそんなんじゃなくて、アタシの知ってる奴が死ぬのを見るのが辛かった。アンタにはそんな感情もないワケ?」
「……お前には関係ないだろ」
だん、と大きな音が響いた。
どうやら瑠野が地面を踏みしめたらしい。怠惰の脚が発動しているわけではないので破壊は伴ってはいないが、それでも相当な大きさの音だった。
「あのホテルの屋上。アンタの友達が闘ってるんだよね?」
「…………」
友達?
誰のことを言っているのか分からないわけでは当然ない。
けれど黒時には分からなかった。何故ここで【友】という単語が出てくるのか分からなかった。
何故、そんな荒唐無稽な単語を口に出来るのか分からなかった。
「助けに行かないの? 殺されちゃうかもよ?」
「さっきも言ったはずだ。俺は行かない」
と言って、黒時は気付いた。
自分が栄作を助けに行ったところで悪魔を殺すことはできやしないので行く意味はないのだが、確かに瑠野の言う通りに栄作が殺されたとしたら、困ったことになる。
七体の悪魔それぞれに適応した七つの器。
それらが悪魔を殺せる唯一の存在なのだとしたら、栄作はまだ必要な存在なのだ。
彼はまだ悪魔を殺していない。
その器の中に適応した悪魔のコアを収めてはいないのだ。もしも栄作が死んでしまったら、彼に適応した悪魔は永遠に殺せないということになってしまう。
それだけはなんとしても避けなければならない。なんとしても。どんな手を使っても。
しかし、自分が行ってまた生死の境をさまようことになってしまうのはいい加減御免被りたい。
栄作を死なすわけにもいかないし、自分が死ぬわけにもいかないのだから。
黒時は考える。その時間わずか三秒。それで答えは出た。
いや、もしかしたら初めからそう仕向けるためにあえて面倒を引き起こす発言をしたのかもしれない。まあ、それは嘘なのだが。
ともあれ結果良ければば全てよし。最後のダメ押しと言わんばかりに、黒時は言った。
「あいつを助けたいなら、お前たちで行って来ればいい。二人とも力を持っているんだ。きっと助けられるさ」
責められていた男の声とは思えぬほどにその声は優しかった。
暖かく、心が安らいでしまうような声。人間は時として、心を動かされるそんな声をこう比喩していた。
悪魔の囁き――と。
「行こ、瑠野。もうだめだ。彩香はもうあの人いらない。彩香たちで栄ちゃん先輩の加勢に行こう」
「だね。あの女教師はあいつの側から離れたくないみたいだし、放っといていいよね」
「うん。いいんじゃない? 彩香には関係ないし」
「だね」
そう言いながら二人の女性は、屋上に仲間が待つであろうホテルへと歩いて行った。
黒時は思う。その背を見ながら思う。
どうか、栄作を救ってくれ、と。
お前たちは既に適応した悪魔を殺しそのコアを器へと収めた。つまり、お役御免である。
だから。
だから死んでもいい。死んでくれていい。栄作を守る為の盾となって死んだら、褒めてやる。心の底から褒めてやる。俺が褒めてやる。
だから。
腕が千切れても、脚が砕けても、栄作を守れ。
何があっても、なんとしても栄作を守れ。栄作が生きて帰ってきたら、言ってやる。お前たちではなく、栄作が生きていてくれたら。
「殺されないでよかった。本当に良かった」
と、泣きながら言ってやる。お前たちは、別に殺されてくれていい。
黒時はそう思いながら未だ二人の背を見つめていた。
どうやら、己の中の変化とは例外なく気付きにくいものであるらしい。普通とは少しずれている黒時も気付いてはいないようだ。
妬美に殺されそうになったあの窮地ですら黒時は人間の本質が見えた瞬間を楽しみ、笑っていた。けれど、今はそうではない。
もしかしたら。
黒時の中には楽しんでいられる余裕が既になくなっているのかもしれなかった。
これまで何度も死の瀬戸際に立たされたのだ、そうなってもいても可笑しくはない。現に、瑠野が力を発現させた時、つまり人間の本質を見せた時、黒時は楽しむことなくただ希望をそこに見出していた。
生き残る為の希望を。
黒時は選ばれた。神によって選ばれた。新たな世界を描き出す為の存在として選ばれた。彼はそう信じている。信じているのだ。
彼が――そう信じているのだ。
【友】を信じる瑠野のように、黒時は信じているのだ。
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