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下巻 第七章 (1)
しおりを挟む翌朝、天美は日課のジョギングをしていた。例の事件に巻き込まれ、できなかったので、久しぶりのジョギングである。走行中、まずは、
「ドーブラエ ウートラ お元気でしたか」
ロシア人のナターシャさんが、続いて、にっこりと微笑みながら、いつものトレードマークのミニヘッドホンをつけた、ドイツ人少年のヨルク君が、
「グーテン モルゲン 久しぶりだね」
と背中をたたき、あいさつをしてきた。なおも、走っていると、
「おはよう、少しの間、見なかったけど、安心したよ」
「よ、おはようさん。姉ちゃん、しばらくぶり達者だったかい」
次々と、常連が声をかけてきた。彼らは、新聞で、ある程度の事件の情報を得ていたが、まさか、目の前の少女が事件に関係をしていたなんて、夢にも思ってない様子である。
だが、今朝に限り、ある人物だけが最後まで姿を現さなかった。
「やはりね。しかし、こうも、わかりやすい行動するなんて」
難しい顔をした彼女は、大きな決意を固めると、ある場所に行くことにした。
「確か、このあたりと言っていたような。なかったら、今度こそ調べてこないと」
天美はそうつぶやきながら、南麻布の住宅地を歩いていた。とそのとき、彼女のよく知っている生き物が目に入った。その生き物は小さな庭に放たれていた。
「アンディ!」
天美は、その犬の名を呼んだ。そう、それは、彼女の早朝のジョギング中に、いつも、じゃれついてきた、スピッツのアンディであったのだ。
つまり、ここは、その飼い主の家であった。表札にはカーマイクルと表記されていた。
アンディは、門扉越しに、近づいてきた天美の姿を見て、立ち上がった。そして、
「クーン、クーン、ハアハア」
目を細めながら舌を出してきた。その興奮により、門扉がカチャカチャと音を立てた。
「アンディ、どうしたのだい? 朝っぱらから」
庭に男性があらわれた。天美のよく知っている人物アロンだ。アロンは、玄関先にいる天美を見つけると、ギョッとしたような顔をした。だが、驚いてばかりはおれずに、
「き、君か」
「グッドモーニング、ミスターアロン」
そして、天美も笑いながら英語であいさつをした。
「グッドモーニング、天美ちゃん。おどかしっこは、なしにしてくれよ。それで、朝っぱらから、どうしたのかな?」
アロンは動揺をさとられないように冷静に尋ねてきた。
「今日、姿、見なかったから、何か、あったかな、と思って来たのだけど」
「そうなんだ。ちょっと、色々あってね」
「もしかしたら、ここから、引っ越すのかな」
「ど、どうして、それを?」
アロンは再び反応した。図星であったのだ。
「どうしたのって、ただ、そう思っただけなのだけど」
「なーんだ、ただのカンか」
アロンは、ホッとしたような表情をすると、
「まっ、せっかく来たのだから、入ってくれ」
そう言って、アロンは天美を室内に招いた。
天美が通された場所は、庭が見渡すことができる来客用の部屋である。庭は芝生がよく手入れされており、アンディは目をうるませながら天美を見つめていた。
彼女もまた、テーブルに座りながら、そのアンディを目を細めて見ていた。
「お待ちどうさま」
声とともに、様々な食事が乗った銀のプレートを持った女性が現れた。そして、アロンは、にっこりとした表情で言った。
「紹介するよ。妻のテセラだ」
彼女もまた、天美に微笑みながら、目の前に、いくつかのパンが入った大きなかご、紅茶の入ったティポット、ミルクが入ったミルク入れを置いた。
続いて、小皿にのった、スプーンとティーカップを、主人であるアロンと天美の前に並べた。最後に、バターとジャムが入った、それぞれの容器と小皿、グラスに入ったスティックシュガーをテーブルに置くと、その場を去っていった。
「これは?」
天美が尋ねると、
「むろん、朝食だよ。こんな時間だから、まだ終わらせていないんだ」
アロンは笑いながら答えた。何も屈託もない様子である。
「でも・・」
「遠慮するなよ、君もまだなのだろ。ワイフの焼いたパンはおいしいよ」
アロンは手に取ったパンを手に天美に食事をすすめた。天美は、そのアロンの行動をしっと観察をしていた。そして、同様に、かごからパンを手に取って口に運んだ。
アロンは次に、ティーカップの中にティーポットから二人分の紅茶をそそいだ。そして、
「どっちでもいいから、取りなよ」
と言った。ティーカップの選択権は天美に任せたということか、天美は、手前の方のカップとスプーンを手に取った。それを見たアランは、グラスから一本のスティックシュガーをとりだし、封を開けて自分の紅茶の中に入れた。
そして、ミルクは入れずに口に運んだのである。その行動を見た天美。目の前のミルクを皿に注ぎ込むと、そのまま、庭にいるアンディをのところに持って行こうとした。
「天美ちゃん、どうしたの?」
アロンの驚いた顔をよそに、
「せっかくの朝でしょ。わったしからも、アンディ君に、ミルクあげようと思って」
天美は微笑みながら答えた。そして、相手も、
「そうかい、天美ちゃんが、直接、くれるのなら、アンディも大喜びだね」
という言葉を返してきたのだ。その応答に天美は戸惑った。アロンは、紅茶にミルクを入れなかった。つまり、ミルクに何か入っているはずだ。
だからこそ、アンディに飲ませようとしたのに、この態度は、アロンは、表向き、公園の散歩を怪しまれないようにだけの理由で、アンディを小道具として飼っているのか。
だから、睡眠薬が入っていることがわかっていても驚かない。人間だったら、わずかの時間で昏睡する量、スピッツなら悶死するかもしれない。
目の前の人間はそこまで、冷徹な人間なのか。彼女の直感は違うと判断していた。だが、その直感は同時に警告をも発していた。その結果、考えついたことは!
彼女は、まさかここまで? と思いながら、グラスから、無造作に一本のスティックシュガーを取り出した。そして、その封を開け、目の前のミルクの皿に注いだ。その途端、
「それをあげるのは、やめてくれ!」
アンディの叫び声がした。
「どうしたの? 悲鳴なんかあげて、子供のように可愛がってるアンディ君でしょ。ここは、平等にあつかうべきでしょ」
「負けたよ。僕の負けだよ」
アロンは椅子にへたりこんだ。彼にとってアンディは、やはり、大切であったのだ。
読み通り、スティックシュガーの方に強力な睡眠薬が混ぜてあった。おそらく、アロンが取ったスティックシュガー以外は、すべて、睡眠薬入りであろう。何かの目印があり、その目印がついた一本を、先に彼が取ったということである。
「HEY,YOU!」
天美が振り返ると、二十二口径のリボルバーを持った女性が立っていた。テセラである、彼女は天美に向かって銃口を向けていた。
当然、それをにらみつける天美。両者の間には険悪な空気が、たまらず、
「やめなさい、テセラ!」
アロンが叫んだが、作戦が失敗し、冷静を失ったテセラは銃を下ろさなかった。
「聞こえないのか、テセラ。今の君では、この子に当たりやしない、やめるんだ!」
「でも、せっかく、引っ越さなくてもよくなるのに、あたしたち!」
その興奮をしているテセラに、アロンは近づいて耳もとでささやきを、おそらく、説得をしているのであろう。やがて、説得が功をなしたのか、テセラは銃を引いた。
「あとは、僕がなんとかする。だから、ここは、わかったね」
結局、テセラは、その場から去っていった。
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