どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲

文字の大きさ
14 / 55

帆船を見に行く

しおりを挟む
ゲルハルトは、その朝も、いろいろなものをエレーヌに食べさせた。それは色とりどりの野菜だったり肉だったり魚だったりした。

そして、最後には冷たい氷菓子が用意されていた。

(これは葡萄を擦って凍らせたものね。これもとてもおいしいわ)

昨日の朝食のとき、エレーヌが最初に葡萄を口に入れたことを、ゲルハルトは見ていたのかもしれなかった。

(私の好物が葡萄だと思って、これを作らせたのかしら?)

エレーヌはそう考えてみたものの、すぐに打ち消した。王都を囲う丘陵には葡萄畑が並んでいるし、今は収穫の季節だ。

(多分、たまたまだわ)

ディミーがときおり会話に入りたそうにしていたが、ゲルハルトが片言のブルガン語で喋るのをやめないために、ディミーの出番はほとんどなかった。

食事が済むと、ゲルハルトは、チェストに立てかけている望遠鏡に気づいた。

日に数度は、エレーヌは望遠鏡で外を眺めているために、いつも手の届く、居間に置いている。

ゲルハルトは手に取った。

「エレーヌ、###、スキ?」

≪###≫が望遠鏡を指すのだと理解したエレーヌは、大きくうなづいた。

「ボウエンキョウ、アリガトウ」

エレーヌがラクア語でそう言うと、ゲルハルトは嬉しそうな笑顔を向けてきた。そして、エレーヌに手を差し出した。エレーヌがその手に自分の手を重ねると、ゲルハルトはエレーヌをバルコニーへと連れていく。

「スキ?」

(何が好きか訊いているのかしら?)

「大聖堂も、市場も、よく見てるわ」

エレーヌはその方向に望遠鏡を向けて覗いてみた。

ゲルハルトはバルコニーから遠くを指さす。その指は王都の町並みの途切れたところに向いている。

「ウミ」

遠景には海が広がっている。

「ええ、海が見えるわね」

「ウミ、スキ?」

エレーヌは答えられなかった。海がどんなものか、エレーヌには想像がつかなかった。本でそれはとても広いものだとは知っていたが、空と似たようなものでつかみどころがないものだと思うに過ぎない。

「わからないわ」

「ウミ、イク」

エレーヌは首を傾げて、それから、うん、と、うなずいてみせた。

エレーヌにとって、ゲルハルトの言葉は、自分とは関係のないもののように聞こえていた。

(行けるものなら、行ってみたいわね)

エレーヌには外に出ることなど思いもつかないことだった。ラクア王国を追い出されるいつかその日まで、この部屋で過ごすものだ、ときおり命じられてどこかに出ることがあっても、それは以外はずっと部屋で過ごすものだ、そう思い込んでいた。

しかし、ゲルハルトはエレーヌのうなずきに、顔を輝かせた。勢い込んで言ってくる。

「エレーヌ、イク。ウミ、イク」

(えっ? 海に行くの?)

エレーヌが戸惑っていると、ゲルハルトは、困ったような、ねだるような顔つきをエレーヌに向けてきた。

「イヤ?」

「えっと」

「ウミ、イヤ? ###」

ゲルハルトはジェスチャーで、大きいものを作った。それが揺れる様に、「船」だと思った。

「船?」

「フネ! フネ、イヤ?」

海を船で移動するという。やはり本で読んだことがあったが、エレーヌにとっては途方もなさ過ぎて、現実味がない。

(いや、というか、想像がつかないわ)

エレーヌはそのときになってはじめて、部屋の外に出る、という行為についてはっきりと認識した。エレーヌはずっと塔の中で生活してきており、外に出る、という行動を思いつくこともなかったのだ。

誰に部屋を出ることを禁止されているわけでもないにも関わらず、エレーヌは部屋でずっと過ごしてきた。それが当たり前のように感じてきた。

(もしかして、私は部屋を出られるの?)

「私、外に行けるの?」

ゲルハルトはエレーヌに笑顔を向けている。

「じゃあ、行きたい……。わたし、外に行きたいわ!」

エレーヌから思わず大きな声が出た。

(わたし、ずっと外に行きたかったの……?)

自分でも気づいていない要求だった。それを、そのときになって自覚する。

(私、出たかった。この部屋から出て、外に行ってみたかった。ただ、出るということを思いつかなかっただけなんだわ。ううん、外に出たい気持ちを抑え込んでた)

望遠鏡で見た王都の町並み、それを自分の目で見てみたい。一度、その要求を自覚すれば、もう抑えられなくなった。

「私、外に行きたいわ! 海に行きたいわ! 船も見たい!」

エレーヌが言うと、ゲルハルトはますます顔をほころばせた。

「エレーヌ、ウミ、イク。ワタシ、ウレシイ」

しかし、エレーヌには不安も湧き起こる。

「でも、怖いわ」

「ワタシ、コワイ、シナイ。ナカヨク」

ゲルハルトはエレーヌをしっかりと見つめて、そう答えた。

「ゲルハルトさまも一緒に行ってくれるのよね?」

外の世界はエレーヌには怖いような気がしたが、ゲルハルトは国王だ。これ以上頼もしい存在はいない。

エレーヌはおずおずとゲルハルトに笑顔を向けた。

「じゃあ、連れて行ってもらおうかしら。海に。外の世界に」

エレーヌがゲルハルトに言うと、ゲルハルトは破顔した。
しおりを挟む
感想 88

あなたにおすすめの小説

結婚して5年、冷たい夫に離縁を申し立てたらみんなに止められています。

真田どんぐり
恋愛
ー5年前、ストレイ伯爵家の美しい令嬢、アルヴィラ・ストレイはアレンベル侯爵家の侯爵、ダリウス・アレンベルと結婚してアルヴィラ・アレンベルへとなった。 親同士に決められた政略結婚だったが、アルヴィラは旦那様とちゃんと愛し合ってやっていこうと決意していたのに……。 そんな決意を打ち砕くかのように旦那様の態度はずっと冷たかった。 (しかも私にだけ!!) 社交界に行っても、使用人の前でもどんな時でも冷たい態度を取られた私は周りの噂の恰好の的。 最初こそ我慢していたが、ある日、偶然旦那様とその幼馴染の不倫疑惑を耳にする。 (((こんな仕打ち、あんまりよーー!!))) 旦那様の態度にとうとう耐えられなくなった私は、ついに離縁を決意したーーーー。

旦那様は離縁をお望みでしょうか

村上かおり
恋愛
 ルーベンス子爵家の三女、バーバラはアルトワイス伯爵家の次男であるリカルドと22歳の時に結婚した。  けれど最初の顔合わせの時から、リカルドは不機嫌丸出しで、王都に来てもバーバラを家に一人残して帰ってくる事もなかった。  バーバラは行き遅れと言われていた自分との政略結婚が気に入らないだろうと思いつつも、いずれはリカルドともいい関係を築けるのではないかと待ち続けていたが。

【完結】お世話になりました

⚪︎
恋愛
わたしがいなくなっても、きっとあなたは気付きもしないでしょう。 ✴︎書き上げ済み。 お話が合わない場合は静かに閉じてください。

お認めください、あなたは彼に選ばれなかったのです

・めぐめぐ・
恋愛
騎士である夫アルバートは、幼馴染みであり上官であるレナータにいつも呼び出され、妻であるナディアはあまり夫婦の時間がとれていなかった。 さらにレナータは、王命で結婚したナディアとアルバートを可哀想だと言い、自分と夫がどれだけ一緒にいたか、ナディアの知らない小さい頃の彼を知っているかなどを自慢げに話してくる。 しかしナディアは全く気にしていなかった。 何故なら、どれだけアルバートがレナータに呼び出されても、必ず彼はナディアの元に戻ってくるのだから―― 偽物サバサバ女が、ちょっと天然な本物のサバサバ女にやられる話。 ※頭からっぽで ※思いつきで書き始めたので、つたない設定等はご容赦ください。 ※夫婦仲は良いです ※私がイメージするサバ女子です(笑) ※第18回恋愛小説大賞で奨励賞頂きました! 応援いただいた皆さま、お読みいただいた皆さま、ありがとうございました♪

探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?

雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。 最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。 ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。 もう限界です。 探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。

1度だけだ。これ以上、閨をともにするつもりは無いと旦那さまに告げられました。

尾道小町
恋愛
登場人物紹介 ヴィヴィアン・ジュード伯爵令嬢  17歳、長女で爵位はシェーンより低が、ジュード伯爵家には莫大な資産があった。 ドン・ジュード伯爵令息15歳姉であるヴィヴィアンが大好きだ。 シェーン・ロングベルク公爵 25歳 結婚しろと回りは五月蝿いので大富豪、伯爵令嬢と結婚した。 ユリシリーズ・グレープ補佐官23歳 優秀でシェーンに、こき使われている。 コクロイ・ルビーブル伯爵令息18歳 ヴィヴィアンの幼馴染み。 アンジェイ・ドルバン伯爵令息18歳 シェーンの元婚約者。 ルーク・ダルシュール侯爵25歳 嫁の父親が行方不明でシェーン公爵に相談する。 ミランダ・ダルシュール侯爵夫人20歳、父親が行方不明。 ダン・ドリンク侯爵37歳行方不明。 この国のデビット王太子殿下23歳、婚約者ジュリアン・スチール公爵令嬢が居るのにヴィヴィアンの従妹に興味があるようだ。 ジュリエット・スチール公爵令嬢18歳 ロミオ王太子殿下の婚約者。 ヴィヴィアンの従兄弟ヨシアン・スプラット伯爵令息19歳 私と旦那様は婚約前1度お会いしただけで、結婚式は私と旦那様と出席者は無しで式は10分程で終わり今は2人の寝室?のベッドに座っております、旦那様が仰いました。 一度だけだ其れ以上閨を共にするつもりは無いと旦那様に宣言されました。 正直まだ愛情とか、ありませんが旦那様である、この方の言い分は最低ですよね?

恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ

恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。 王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。 長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。 婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。 ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。 濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。 ※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています

婚姻契約には愛情は含まれていません。 旦那様には愛人がいるのですから十分でしょう?

すもも
恋愛
伯爵令嬢エーファの最も嫌いなものは善人……そう思っていた。 人を救う事に生き甲斐を感じていた両親が、陥った罠によって借金まみれとなった我が家。 これでは領民が冬を越せない!! 善良で善人で、人に尽くすのが好きな両親は何の迷いもなくこう言った。 『エーファ、君の結婚が決まったんだよ!! 君が嫁ぐなら、お金をくれるそうだ!! 領民のために尽くすのは領主として当然の事。 多くの命が救えるなんて最高の幸福だろう。 それに公爵家に嫁げばお前も幸福になるに違いない。 これは全員が幸福になれる機会なんだ、当然嫁いでくれるよな?』 と……。 そして、夫となる男の屋敷にいたのは……三人の愛人だった。

処理中です...