未来で愛人を迎える夫など、要りません!

文野多咲

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人質

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地下牢は奥に進めば進むほど、腐った血の匂いとカビ臭さが強くなっていく。水滴の音に、ときおり、カサコソとネズミの動く気配がある。

(侯爵さま、どうぞ、ご無事で)

衛兵に案内されれば、石壁に両手を鎖で拘束されている姿があった。黒髪は侯爵に違いなかった。

「侯爵さま……!」

ジュリエッタの声に侯爵は顔を上げた。

「ジュリエッタ……」

ジュリエッタを認識すると侯爵は目を細めた。そして薄く微笑んできた。目の奥には安堵と情愛とが浮かんでいる。互いの信頼にほんのわずかのひびも入っていないことを確信する。

(私たちは心が通じている。誰にも邪魔できない)

「侯爵さま……」

侯爵の上半身には鞭の痕があった。痛ましい姿に喉が詰まる。

ジュリエッタの背後にいるバルベリ騎士からも殺気が立っている。

侯爵に近寄る直前で、衛兵が阻止してきた。

ジュリエッタは衛兵に命令する。

「離れなさいっ」

衛兵はびくっと動きを止めた。

「侯爵さまの鎖を外しなさい」

「できません……」

衛兵の腰には鍵がぶら下がっている。それを見たバルベリ騎士が衛兵に襲い掛かろうとするも、ジュリエッタはそれを制した。バルベリ騎士は十数人、王宮には5千を超える衛兵がいる。そして、王都には2万の王国兵がいる。下手すればバルベリ騎士は皆殺しとなり、侯爵邸に残してきた騎士に使用人、その家族までどうなるかわからない。

「誰か、清潔な布と薬を」

バルベリ騎士がそれらを差し出してきた。

せめて、侯爵の怪我を手当てしたい。衛兵の制止を無視して、侯爵に近づいた。

「侯爵さまっ……」

あまりの痛ましさに涙がこぼれる。

「大丈夫だ、ジュリエッタ。これくらい慣れてる」

侯爵は笑ったが、しかし、笑ったくらいで心配がなくなるはずもない。ジュリエッタは侯爵の背中を手当てする。

(どうして侯爵さまがこんな目に。私のせいなの?)

エドウィンを、あるいはシャルロットを、怒らせたせいなのか。あるいはテイラーを追求したせいなのか。侯爵を守れなかった。怒りと悔しさ、そして、苦しみとでジュリエッタの頬を涙が伝う。

侯爵は薬が沁みるに違いなかったが、うめき声一つあげなかった。

ジュリエッタが手当てする間じゅう、バルベリ騎士から、悔し泣きが漏れていた。

「夫人……」

奥の牢屋からも、むせび泣く声が聞こえてきた。侯爵とともに捕縛されたヤンスら側近の声だ。そちらは鞭は打たれていないようで、牢屋にいるとはいえ、無傷のようだった。

「必ず、あなたを、あなたたちを助けます……」

侯爵は首を横に振った。

「ジュリエッタ、何もするな。あなたにもしものことがあったら俺は……」

ジュリエッタは言いかける侯爵の唇に人差し指を当てた。

「何としてでもあなたを助けるの。私はあなたとずっとそばにいるの。あなたが死ねば私も死ぬのよ。だから絶対に無事でいて」

***

侯爵邸に戻ったジュリエッタはファビオのいる部屋に向かった。

「伯爵さま、あなたの忠誠はどこにあるの? ブルフェン、それとも、バルベリ?」

ファビオはジュリエッタの問いに迷いなく答えた。

「私は閣下と夫人の忠実なしもべ。それで、閣下はいずこに?」

ファビオはファビオで侯爵のことを心配しているようで、声には切実な心配がこもっていた。

「王宮の地下牢です。謀反の罪を負っていますが、でっちあげられたものです。至急、バルベリ兵を全軍、王都に向けて南下させてください。バルベリの兵数は?」

「約3万」

「それなら王都の衛兵をしのぐわ。我らに勝機あり」

「ですがバルベリが空になってしまいます」

「バルベリは放棄します。領民にも、城郭の都市民にも、ノルラントの侵攻を受ければ、無抵抗で降伏するように伝えてください。ノルラントも無抵抗の民には手を出さないでしょう。バルベリの領民を育ててきたあなたには悪いけど、そうするしかありません。そのかわり、ヌワカロール軍の協力は要りません。あなたは今回のことは関知していないことにするの。そして、領地はご自分の兵士でしっかり守るのよ」

「ですが」

「夫人とエセルを守るのよ」

ファビオに申し訳なさと感謝とが浮かんでいる。ヌワカロールに累が及ばないための措置に違いなかった。

「はっ……、承知しました」

「また会いましょう」

「ええ、必ずや」

ファビオは、バルベリへと発った。

バルベリ軍が王都に進軍してくるまで、少なく見積もっても7日はかかる。それまでに侯爵を何としてでも救い出さなければならない。全面対決となっては、侯爵が人質に取られてしまう。

これまで最も頼りにしていた父母が浮かぶも、今となっては二人とも当てにならない。

(当てにならないけど、利用させてもらうわ)

***

ジュリエッタは公爵家に向かった。娘時代に母親にあつらえてもらったドレスを着て、しおらしく馬車で向かう。

公爵とマルコは留守だった。そういえば、二人は船出したはずだった。

ジュリエッタは、二人の留守にほっとする。これで二人とまで対立しないで済む。よって、ジュリエッタの対立する相手は夫人ただ一人。

「お母さま、私、侯爵に騙されておりましたわ」

ジュリエッタは夫人の前で、しくしくと泣いて見せた。夫人は目を丸めて、慰めるようにジュリエッタの肩を抱いてきた。

「まあ、ジュリエッタ。散々な目に遭ったわね。可愛そうに。お母さまも心配していたのですよ」

「寄りにもよって謀反だなんて。あんな人を夫だと思っていたなんて、恥ずかしいですわ。所詮は卑しき生まれの人だったのよ」

ジュリエッタの涙に、夫人も目に涙を浮かべた。ジュリエッタは泣いて母親を責める。

「お母さま、どうして元平民なんかと結婚させたの? どうしてこんなに私をつらい目に遭わせたの? 私、公爵家に戻りたいわ」

「それならいつでも、戻ってらっしゃい。最初からお母さまはそのつもりだったのよ。あの男の処刑ののちは、すべて良いように向かうから安心なさい」

ジュリエッタは泣き止んだ。

(お母さまには侯爵さまの処刑までもう予定に入っているの?)

ジュリエッタに腹立ちと悲しみがたぎったが、嬉しそうに笑って声を上げてみせた。

「まあ、いいのね? ありがとう。では、私はもう一度公爵家の令嬢に戻らせてもらうわ。そうして、以前のように私と一緒にお買い物に出たり、お茶をしたりしてくださる?」

王都の馬車通りの華やかな店で、母娘で贅沢三昧をして過ごしてきたことが、ついこの間のことのようだ。

(この先、もう二度とあの頃の生活には戻れない。でも、それでいいの、それがいいの)

「ええ、もちろんよ」

その夜、母娘は公爵邸で楽しく過ごした。ジュリエッタは娘に戻り、はしゃいで過ごした。

翌日、ジュリエッタは夫人を侯爵邸に誘った。

「ねえ、お母さま、久しぶりに侯爵邸にも来てくださいな。バルベリに向かう前はよく来てくださっていたわ。でも、もうあの人もいないんだし、来てくださってもいいでしょう。見てもらいたいものもあるの」

「何、それは?」

警戒を抱いたように見える夫人に、ジュリエッタはとびっきりの甘え声を出す。

「新しくしつらえた客間をお見せしたいの。カーテン生地に迷っているのよ。お母さまが選んでくださるでしょう?」

「ふふふ、ジュリエッタたら、すっかり以前に戻ったようで安心したわ」

夫人が客間に上がったところで、入り口はバルベリ騎士によって封鎖された。騎士がドアの前に立ち塞がる。それに気づいた夫人は機嫌の良い顔をしかめた。

「ジュリエッタ、騎士のしつけがなってないわね」

夫人はジュリエッタを見るなり、顔色を変えた。

「ジュリエッタ?」

「ごめんなさい、お母さま」

ジュリエッタの表情は明るく陽気なものから、堅苦しいものへと変わっていた。
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