未来で愛人を迎える夫など、要りません!

文野多咲

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人質2

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客間で母親と対峙するジュリエッタは、背後のハンナに向けて言った。夫人にも聞かせる。

「人質にするの。ずいぶんひどい娘よね。でも、どうしてかしら、それを親不孝だとは少しも思えないの」

ジュリエッタは夫人を人としては尊敬できなくなっていた。

王家にも母親にも従来のような信頼も敬愛も消え失せていた。

(侯爵さまを救うためなら何でもやるわ)

悲壮な決意を抱くジュリエッタを、ハンナもまた悲壮な決意を抱いて見守っている。

夫人がジュリエッタを見つめ返して呆れ果てた声を上げた。

「ジュリエッタ、あなた、私を騙したのね」

「お母さま、私は侯爵さまを助けるためには何でもするの。だから申し訳ありませんが」

ジュリエッタは騎士から短剣を受け取った。それを母親に向けて構えた。

「王宮の秘密通路を教えてください」

自分に剣を向けるジュリエッタに夫人は眉をひそめただけだった。

「そんなの知らないわ」

夫人はジュリエッタが本気で母親に剣を向けているとは思っていないようだった。

「お母さまに私の覚悟をお見せしますわ」

ジュリエッタは短剣を振り上げた。そして、打ち下す。

「きゃああっ」

夫人は叫び声をあげて避けた。しかし、その切っ先が向かったのはジュリエッタの左腕だった。ジュリエッタのドレスの上腕に短剣が突き刺さっている。

「ああっ……」

気を失った夫人は、騎士に支えられた。ジュリエッタは短剣を腕に刺したまま、夫人の口に気付けのブランデーを含ませる。

夫人はジュリエッタに頭を抱えられながら目を開けた。

「ああ、なんてこと……。誰ぞ、ジュリエッタの手当てをっ、早うっ」

夫人が言うも、ジュリエッタは短剣を腕に刺したまま首を横に振った。

「お母さま! 王宮の秘密通路を教えてください。今すぐ教えてくださらなければ、次は私の胸を刺します」

ジュリエッタはそう言って、腕から短剣を抜いた。傷口から血が盛り上がり、ドレスの袖を赤く染め始めた。じわじわと赤い染みが広がっていく。

「ああ……、誰ぞ、早くジュリエッタの止血を……」

夫人はジュリエッタの後ろに控えるハンナに言う。

「ハンナ、早うジュリエッタの手当てを」

ハンナは顔面蒼白だが、それでも、動こうとはしなかった。

「早う、ハンナ!」

ハンナは黙って強い目線で夫人を見つめ返すだけだ。

「お母さま、早く、教えてくださいませ」

抜いた短剣をジュリエッタは振りかざす。その切っ先を自分の胸に当てた。ゆっくりと沈めていく。胸に赤い染みができたところで、夫人は叫んだ。

「やめてっ。やめなさいっ、れ、霊廟のフィリップ1世の墓が、玉座の真下とつながっているわぁっ」

「他には」

「………」

「まだ秘密通路はあるでしょう。全部教えて」

ジュリエッタの目には気迫があった。もう一度短剣を胸に当てる。

「大聖堂のオルガンと王妃の寝室のドレスルームっ」

「他には!」

「もうやめて……」

「ほかにはっ!」

ジュリエッタは短剣を振り上げる。

「きゃああっ。ああ、ああっ、に、二重橋の像の土台と地下牢。これで全部よ、本当にこれで全部ぅっ、もうやめてっ」

ジュリエッタはバルベリ騎士を見た。バルベリ騎士はジュリエッタにうなずくと部屋から出て行った。すぐに庭から邸を出ていく蹄の音が聞こえてきた。

ジュリエッタはハンナの胸に倒れこんだ。

「姫さまっ……」

腕から血を流して倒れた娘を夫人は苦しげに眺めていたが、すぐさま、ドレスの裾を裂いて、止血を始めた。

***

「姫さま、起きてくださいませ」

もう窓の外は日が暮れようとしている。ハンナの横には夫人の姿があった。

「ハンナ、ジュリエッタを寝かせたままにして」

しかし、ハンナは夫人に従わずに、ソファに横たわるジュリエッタを起こす。

「姫さま、起きてくださいませ」

ジュリエッタは目が開くと、バネが弾むほどの勢いで飛び起きた。

(倒れている場合じゃないわ)

侯爵を救う計画が進んでいる。ハンナと目が合えば、ハンナは着替え取ってくるために離れた。

夫人は、随分とげっそりしている。

人質は夫人ではなく、ジュリエッタ自身だった。そして、夫人はそれに負けた。

ジュリエッタはドレスを脱ぎ始めた。そして、ハンナの出したズボンに着替える。ハンナに髪をまとめてもらうと、やつれた夫人を横目に部屋を出ていこうとする。

「ジュリエッタ、どこに行くの? じっとしていなさいっ。傷口が開いてしまうわっ。お願い……、お願いよ……、私の可愛いジュリエッタ……」

夫人はヒステリックに言ったかと思えば、最後にはあえぐような声になった。ジュリエッタは夫人を無視して出ていく。そして、最後に夫人に振り向けば、にっこりと笑いかけた。

「お母さま、これまで、本当にありがとうございました。お母さまの幸福を祈っています。では、お元気で」

それだけ言うと、ハンナと騎士たちを引き連れて邸を出て行った。使用人には暇を出したのか、邸の中はがらんとしている。

部屋に一人残されて、夫人は立ち尽くしていた。

「これまで、ありがとう。お元気で……?」

まるでもう二度と会えないような口ぶりだ。

「おお、おおおっ………」

夫人はしゃがみ込み、絨毯に両手をついた。

「おおおっ、ジュリエッタ……、おおおっ………」

(いったい、あの子は何をやろうというの………)

夫人ははじめて自分の足元が崩れるような不安を抱いていた。

(あの子はどこに行くの……? どこに行ってしまうの……?)

心配した侍女が部屋に入ってきたのにも気づかず、夫人は嗚咽をあげていた。

***

ジュリエッタは日が暮れた王都の街を走っていた。騎乗では目立つために徒歩で、そして集団では目立つために、数人ずつに分かれて、薄闇の裏通りを走っている。

ときおり、ハンナが気遣ってくる。

「姫さま、大丈夫ですか?」

「ええ、私は大丈夫。それよりもあなたもみんなも巻き込んでごめんなさい」

ハンナは目を真っ赤にして首を横に振る。

「姫さまのおそばにいるのがハンナの喜びです」

向かう先は王都の片隅の空き家だった。秘密通路を使って侯爵らを救い出したバルベリ騎士らとそこで落ち合う約束をしている。

ときおり、ジュリエッタの足がもつれる。

お転婆とはいえ深窓の令嬢で、そのうえ出血もしている。今、ジュリエッタが動けているのは、侯爵を救う、その一心だった。

(侯爵さま、どうぞ、ご無事で)

ジュリエッタは途絶えそうになる意識を保とうとするも、空き家に着く前に足は進めなくなってしまった。

「姫さまっ」

ハンナの叫び声と同時に、騎士の一人がジュリエッタを抱え上げて背中に負った。

空き家には先着のバルベリ騎士がいた。

「侯爵さまは?」

騎士は首を横に振る。騎士から望遠鏡を借りて王宮を眺めると、騒ぎが起きているような気配はない。

順調ならそろそろ侯爵は空き家に現れるはずだ。しかし、待てども待てども、待ち人は来ない。

夜は更けていく。ジュリエッタの手が不安に白くなって、冷たくなってくる。その手をハンナが握ってきた。

「大丈夫ですわ。まさか秘密通路から脱出するなんて誰も思ってもいませんわ」

ジミー少年も励ましてきた。

「閣下は運の強い人です。何度も死線を潜り抜けて生き延びているんですから」

(わかってる。侯爵さまは無事、私のもとに戻ってくる。でも、遅い、遅いわ……)

埃の積もった部屋で長いこと侯爵らを待つ。

二重橋から王宮まで徒歩で四半刻もかからない。地下牢の衛兵の制圧に時間がかかったとしても、もうとっくに空き家に現れてもいい頃だ。

バルベリ騎士は衛兵に適わなかったのかもしれない。それならば、侯爵もハンスら側近らも無事ではいられまい。

(いや、いやよ、侯爵さまに何かあれば………)

これまでこれほど不安だったことはない。王都に戻る旅ではシャルロットのことで不安を抱いていたが、これほど目の前に危険が迫ってはいなかった。

不安が怒りに火をくべる。

無実だと知りながら罪人扱いして拘束し、その上処刑しようとするなど、ジュリエッタは国王への忠誠心は消えて、怒りしかない。

(国王も王太子もシャルロットもみんな許さない)

そうして、長い長い夜は更けていくなか、ジュリエッタはひたすら待ち続け、足音が聞こえてきたのは、日付けを超えたころだった。
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