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第十一章 共犯者の肉体
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冷たい汗が背中を伝い、ワイシャツをじっとりと濡らしていた。
会議室のざわめきが、遠い水底の音のように響く。
「おい、権藤! しっかりしろ!」
誰かが私の肩を揺さぶっている。課長の堂本だ。その顔が、ぐにゃりと歪んで見えた。
私は荒い息を吐きながら、机に突っ伏していた体を起こした。
視界がゆっくりと焦点を結ぶ。
大丈夫だ。意識はある。
だが、脳裏に焼き付いたあの映像――雨に濡れた倉庫の床、発砲の硝煙反応、そして、血の海に沈んでいく自分自身の姿――は、鮮明に残っていた。
あれは、俺(相沢)の記憶じゃない。
俺を撃った側、あるいはそれを見ていた側の視点だ。
つまり、この「権藤平八」という男の記憶だ。
吐き気がこみ上げた。
私は自分の両手を見た。しわだらけで、タバコのヤニが染み付いた指先。
この手は、あの日、何をしていた?
引き金を引いたのか? それとも、俺の遺体を冷たい床に引きずったのか?
自分が自分を殺した人間に「憑依」しているというおぞましい事実が、全身の血を凍らせた。あの三途の川の渡し守――権藤の魂は、このことを知っていて私に取引を持ちかけたのか。
『俺ごと断罪してくれ』
あの言葉の意味が、重くのしかかる。
「……すまん、課長。持病の癪(しゃく)が触ってな」
私は嗄れた声で、なんとかそう絞り出した。
堂本は露骨に嫌な顔をした。
「まったく……体調管理も仕事のうちだぞ。これだからロートルは」
舌打ちしながら離れていく背中を見送り、私はハンカチで額の汗を拭った。
その時、会議室のドアが開き、日下部が戻ってきた。
私と目が合うと、彼は微かに頷いた。何かを掴んだ顔だ。
私はよろめきながら立ち上がった。
「ちょっと、空気を吸ってくる」
屋上への階段は、老体にはきつかった。
踊り場で膝に手をつき、ゼイゼイと息をする。心臓が早鐘を打っている。これが、あの日の権藤の状態だったのかもしれない。罪悪感と恐怖で、心臓が破裂しそうだったのだろうか。
屋上の扉を開けると、昼下がりの強烈な日差しが目に突き刺さった。
フェンスの向こうに、横浜の街並みと、その先に青い海が広がっている。あの海のどこかに、私が死んだ倉庫がある。
「大丈夫ですか、権藤さん」
遅れてやってきた日下部が、心配そうに声をかけてきた。
「顔色が土気色ですよ。やっぱり、無理しすぎなんじゃ……」
「構うな。……それより、どうだった」
私はタバコを取り出そうとして、手が震えてうまく箱から出せないのに気づいた。日下部が黙って私の手から箱を取り、一本抜いて火をつけてくれた。
紫煙を深く吸い込む。ニコチンが血管を駆け巡り、少しだけ震えが収まった。
「……ビンゴでしたよ」
日下部が声を潜めた。
「あの監察官、会議室を出てすぐに非常階段で電話をかけてました。相手は分かりませんが、かなり焦った様子で。『権藤が気づいているかもしれない』『あのジジイを黙らせろ』って」
やはりか。私の道化芝居は功を奏したようだ。
敵は、私が何かを知っていると疑い始めた。
「それと、もう一つ」
日下部の表情が険しくなる。
「電話の後、奴は地下駐車場へ向かいました。そこで接触した相手がいます。……『掃除屋』ですよ」
掃除屋。
警察内部の隠語で、汚れ仕事を請け負う裏社会の人間を指す。証拠隠滅、脅迫、そして時には――口封じ。
「どんな男だ」
「中肉中背、目深に帽子を被ってて顔は見えませんでしたが、右手の甲にサソリのタトゥーがありました」
サソリのタトゥー。
私の脳内のデータベースが検索を始める。相沢としての記憶だ。
広域暴力団「山王会」の武闘派組織に、そんな男がいたはずだ。以前、傷害事件で一度引っ張ったことがある。名前は……忘れたが、残忍な手口で知られる男だ。
「事態は急を要するな」
私はタバコをもみ消した。
「奴らは本気だ。俺たちを――特に俺を、排除しようとしている」
「どうします? このままじゃ、先手を取られますよ」
日下部が焦りを滲ませる。
私は迷った。
今、私が知った「権藤の記憶」について、彼に話すべきか。
もし話せば、彼はどう反応する? 尊敬する先輩を殺した(かもしれない)男の肉体を、相棒として受け入れられるか?
いや、言えない。今はまだ、不確定すぎる。それに、私が相沢だと明かすこともできない以上、説明がつかない。
「……日下部。お前は、俺を信じるか?」
私は彼を真っ直ぐに見つめた。
日下部は一瞬たじろいだが、すぐにその目から迷いが消えた。
「……正直、まだアンタが何者なのか、よく分かりません。権藤さんだけど、権藤さんじゃないような……。でも、アンタの目、あの人の目に似てるんすよ。俺が憧れてた、あの人の目に」
彼は拳を握りしめた。
「信じますよ。ここまで来たら、一蓮托生だ」
その言葉が、傷ついた私の魂に染み渡った。
ありがとう、相棒。
この薄汚れた肉体の中にいる俺を、お前は見つけてくれたんだな。
「よし。行くぞ」
私は風になびくコートの襟を立てた。
「奴らが『掃除』に来る前に、こちらから仕掛ける。権藤の……いや、俺の『古い馴染み』に会いに行く」
会議室のざわめきが、遠い水底の音のように響く。
「おい、権藤! しっかりしろ!」
誰かが私の肩を揺さぶっている。課長の堂本だ。その顔が、ぐにゃりと歪んで見えた。
私は荒い息を吐きながら、机に突っ伏していた体を起こした。
視界がゆっくりと焦点を結ぶ。
大丈夫だ。意識はある。
だが、脳裏に焼き付いたあの映像――雨に濡れた倉庫の床、発砲の硝煙反応、そして、血の海に沈んでいく自分自身の姿――は、鮮明に残っていた。
あれは、俺(相沢)の記憶じゃない。
俺を撃った側、あるいはそれを見ていた側の視点だ。
つまり、この「権藤平八」という男の記憶だ。
吐き気がこみ上げた。
私は自分の両手を見た。しわだらけで、タバコのヤニが染み付いた指先。
この手は、あの日、何をしていた?
引き金を引いたのか? それとも、俺の遺体を冷たい床に引きずったのか?
自分が自分を殺した人間に「憑依」しているというおぞましい事実が、全身の血を凍らせた。あの三途の川の渡し守――権藤の魂は、このことを知っていて私に取引を持ちかけたのか。
『俺ごと断罪してくれ』
あの言葉の意味が、重くのしかかる。
「……すまん、課長。持病の癪(しゃく)が触ってな」
私は嗄れた声で、なんとかそう絞り出した。
堂本は露骨に嫌な顔をした。
「まったく……体調管理も仕事のうちだぞ。これだからロートルは」
舌打ちしながら離れていく背中を見送り、私はハンカチで額の汗を拭った。
その時、会議室のドアが開き、日下部が戻ってきた。
私と目が合うと、彼は微かに頷いた。何かを掴んだ顔だ。
私はよろめきながら立ち上がった。
「ちょっと、空気を吸ってくる」
屋上への階段は、老体にはきつかった。
踊り場で膝に手をつき、ゼイゼイと息をする。心臓が早鐘を打っている。これが、あの日の権藤の状態だったのかもしれない。罪悪感と恐怖で、心臓が破裂しそうだったのだろうか。
屋上の扉を開けると、昼下がりの強烈な日差しが目に突き刺さった。
フェンスの向こうに、横浜の街並みと、その先に青い海が広がっている。あの海のどこかに、私が死んだ倉庫がある。
「大丈夫ですか、権藤さん」
遅れてやってきた日下部が、心配そうに声をかけてきた。
「顔色が土気色ですよ。やっぱり、無理しすぎなんじゃ……」
「構うな。……それより、どうだった」
私はタバコを取り出そうとして、手が震えてうまく箱から出せないのに気づいた。日下部が黙って私の手から箱を取り、一本抜いて火をつけてくれた。
紫煙を深く吸い込む。ニコチンが血管を駆け巡り、少しだけ震えが収まった。
「……ビンゴでしたよ」
日下部が声を潜めた。
「あの監察官、会議室を出てすぐに非常階段で電話をかけてました。相手は分かりませんが、かなり焦った様子で。『権藤が気づいているかもしれない』『あのジジイを黙らせろ』って」
やはりか。私の道化芝居は功を奏したようだ。
敵は、私が何かを知っていると疑い始めた。
「それと、もう一つ」
日下部の表情が険しくなる。
「電話の後、奴は地下駐車場へ向かいました。そこで接触した相手がいます。……『掃除屋』ですよ」
掃除屋。
警察内部の隠語で、汚れ仕事を請け負う裏社会の人間を指す。証拠隠滅、脅迫、そして時には――口封じ。
「どんな男だ」
「中肉中背、目深に帽子を被ってて顔は見えませんでしたが、右手の甲にサソリのタトゥーがありました」
サソリのタトゥー。
私の脳内のデータベースが検索を始める。相沢としての記憶だ。
広域暴力団「山王会」の武闘派組織に、そんな男がいたはずだ。以前、傷害事件で一度引っ張ったことがある。名前は……忘れたが、残忍な手口で知られる男だ。
「事態は急を要するな」
私はタバコをもみ消した。
「奴らは本気だ。俺たちを――特に俺を、排除しようとしている」
「どうします? このままじゃ、先手を取られますよ」
日下部が焦りを滲ませる。
私は迷った。
今、私が知った「権藤の記憶」について、彼に話すべきか。
もし話せば、彼はどう反応する? 尊敬する先輩を殺した(かもしれない)男の肉体を、相棒として受け入れられるか?
いや、言えない。今はまだ、不確定すぎる。それに、私が相沢だと明かすこともできない以上、説明がつかない。
「……日下部。お前は、俺を信じるか?」
私は彼を真っ直ぐに見つめた。
日下部は一瞬たじろいだが、すぐにその目から迷いが消えた。
「……正直、まだアンタが何者なのか、よく分かりません。権藤さんだけど、権藤さんじゃないような……。でも、アンタの目、あの人の目に似てるんすよ。俺が憧れてた、あの人の目に」
彼は拳を握りしめた。
「信じますよ。ここまで来たら、一蓮托生だ」
その言葉が、傷ついた私の魂に染み渡った。
ありがとう、相棒。
この薄汚れた肉体の中にいる俺を、お前は見つけてくれたんだな。
「よし。行くぞ」
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