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第十三章 路地裏の獣たち
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心臓が破裂しそうだった。
権藤の老いた血管が、許容量を超えた血液を送り出そうと悲鳴を上げている。
肺が焼けつくように熱い。喉の奥で、鉄錆のような血の味がした。
「こっちだ、権藤さん!」
日下部が私の腕を引き、強引に角を曲がらせた。
直後、私たちがいた場所のアスファルトが、乾いた音と共に弾け飛んだ。三発目。正確無比な狙撃だ。
私たちは、腐った生ゴミとカビの臭いが充満する狭い路地裏を、獣のように駆けた。
足がもつれる。膝が笑う。三十歳の私の意識は「もっと速く走れ」と命じるが、五十八歳の肉体は「もう限界だ」と泣き言を言う。この乖離が、もどかしくてたまらない。
生前の私なら、あのビルの屋上まで駆け上がり、狙撃手を制圧することだってできたはずだ。だが今の私には、泥だらけになって這いずり回ることしかできない。
「ハァ、ハァ……クソッ、本気で殺しに来てやがる!」
日下部が毒づきながら、大型のゴミコンテナの陰に滑り込んだ。私もその横に倒れ込むように身を隠す。
コンテナの錆びた鉄板に背中を預け、荒い呼吸を整える。
ヒュー、ヒューと、私の気管支が笛のような音を立てていた。
「……大丈夫ですか、アンタ」
日下部が私の顔を覗き込む。暗闇でも、その目に強い焦燥の色が浮かんでいるのが分かった。
「……なんとか、な。まだ死んじゃいない」
私は震える手で胸ポケットを探り、タバコを取り出そうとしたが、箱は潰れて中身が飛び出していた。舌打ちをして、それを投げ捨てる。
「応援を呼びましょう。この状況はヤバすぎる」
日下部が懐からスマートフォンを取り出した。
「よせ!」
私は彼の腕を掴み、強い口調で制止した。権藤の声ではなく、かつての相沢の威圧感を込めて。
「……え?」
日下部が動きを止める。
「考えろ。奴らは俺たちの動きを正確に把握していた。ママの店を出た瞬間を狙っていたんだ。……警察無線が傍受されているか、あるいは中に内通者がいて、俺たちの現在地を流している」
「そんな……まさか」
「今、応援を呼べば、来るのは味方とは限らない。逆に包囲網を狭めるだけだ」
日下部は唇を噛み、ゆっくりとスマホをしまった。
「じゃあ、どうすりゃいいんですか。このままじゃ袋の鼠だ」
彼は拳でコンテナを叩いた。
「畜生! なんでこんなことに……ただの窓際刑事と、そのお守り役の俺たちが、なんでスナイパーに狙われなきゃならないんだ!」
彼の怒りはもっともだ。
だが、答えは単純だ。私たちが――正確には、この「権藤」という男が、触れてはならない核心に近づきすぎているからだ。
いや、近づいているのではない。「元々そこにいた」のだ。
私は胸の痛みをこらえながら、暗い空を見上げた。ビルとビルの隙間から、都会の濁った夜空が見える。
「日下部。奴らは焦っている」
私は静かに言った。
「昼間の俺の芝居が効いたんだ。俺が何かを知っていると思い込み、口を封じに来た。つまり、俺たちの方向性は間違っていない」
逆説的だが、この襲撃こそが、私たちが真実に近づいている証拠だった。
署長たちは、権藤が「記憶を取り戻す」ことを恐れている。あるいは、権藤が良心の呵責に耐えかねて、すべてを暴露することを。
「……反撃するぞ」
「反撃って、丸腰でスナイパーとやり合う気ですか!?」
「違う。狙うのは『掃除屋』だ。桐島という男」
私は立ち上がろうとして、よろめいた。日下部が慌てて肩を貸す。
情けないが、今は彼の若さと体力に頼るしかない。
「ママの話じゃ、奴は雀荘に入り浸っていると言っていたな」
「ええ。この近くだと……『緑一色(リューイーソー)』って店が怪しいですね。ヤクザ御用達の店です」
「そこへ行く」
「今から!? 自殺行為ですよ!」
「今だからこそ、行くんだ」
私はニヤリと笑ってみせた。権藤の顔で浮かべる笑みは、きっとひどく歪んで見えただろう。
「奴らは今、俺たちが恐怖で震え上がって、どこかに隠れていると思っている。まさか、自分たちの懐に飛び込んでくるとは夢にも思わないはずだ」
虚を突く。それが、弱者が強者に勝つ唯一の方法だ。かつてのエリート刑事としてのプライドは捨てろ。今は、泥水をすすってでも生き延びる、野良犬の戦い方をするんだ。
日下部はしばらく私を睨みつけていたが、やがて大きく溜息をつき、覚悟を決めたように頷いた。
「……分かりましたよ。アンタといると、心臓がいくつあっても足りねえな」
彼は私の腕をしっかりと支え直した。
「行きましょう、相棒。地獄の底まで付き合いますよ」
私たちは路地裏の闇に紛れ、再び歩き出した。
背後で、遠いパトカーのサイレンが聞こえた。おそらく、発砲音を通報されたのだろう。
警察の到着は、私たちにとっても敵にとっても、状況を複雑にする要素だ。時間がない。
歩きながら、私は再びあのフラッシュバックに襲われそうになった。
――雨音。倉庫の冷たい空気。そして、見下ろす視線の先にいる、血まみれの自分。
記憶の中の「権藤」は、ただ立ち尽くしていた。銃は持っていない。だが、その目には深い絶望と、諦めが浮かんでいた。
お前は、ただ見ていたのか? 止められなかったのか?
それとも、それがお前の「仕事」だったのか?
問いかけても、権藤の魂は答えない。
ただ、この肉体の奥底にある重苦しい澱(おり)のような感情だけが、私の心を蝕んでいく。
リミットまで、あと四日と十時間。
私たちは、ネオンサインが滲む歓楽街の光の中へと、足を踏み入れた。
権藤の老いた血管が、許容量を超えた血液を送り出そうと悲鳴を上げている。
肺が焼けつくように熱い。喉の奥で、鉄錆のような血の味がした。
「こっちだ、権藤さん!」
日下部が私の腕を引き、強引に角を曲がらせた。
直後、私たちがいた場所のアスファルトが、乾いた音と共に弾け飛んだ。三発目。正確無比な狙撃だ。
私たちは、腐った生ゴミとカビの臭いが充満する狭い路地裏を、獣のように駆けた。
足がもつれる。膝が笑う。三十歳の私の意識は「もっと速く走れ」と命じるが、五十八歳の肉体は「もう限界だ」と泣き言を言う。この乖離が、もどかしくてたまらない。
生前の私なら、あのビルの屋上まで駆け上がり、狙撃手を制圧することだってできたはずだ。だが今の私には、泥だらけになって這いずり回ることしかできない。
「ハァ、ハァ……クソッ、本気で殺しに来てやがる!」
日下部が毒づきながら、大型のゴミコンテナの陰に滑り込んだ。私もその横に倒れ込むように身を隠す。
コンテナの錆びた鉄板に背中を預け、荒い呼吸を整える。
ヒュー、ヒューと、私の気管支が笛のような音を立てていた。
「……大丈夫ですか、アンタ」
日下部が私の顔を覗き込む。暗闇でも、その目に強い焦燥の色が浮かんでいるのが分かった。
「……なんとか、な。まだ死んじゃいない」
私は震える手で胸ポケットを探り、タバコを取り出そうとしたが、箱は潰れて中身が飛び出していた。舌打ちをして、それを投げ捨てる。
「応援を呼びましょう。この状況はヤバすぎる」
日下部が懐からスマートフォンを取り出した。
「よせ!」
私は彼の腕を掴み、強い口調で制止した。権藤の声ではなく、かつての相沢の威圧感を込めて。
「……え?」
日下部が動きを止める。
「考えろ。奴らは俺たちの動きを正確に把握していた。ママの店を出た瞬間を狙っていたんだ。……警察無線が傍受されているか、あるいは中に内通者がいて、俺たちの現在地を流している」
「そんな……まさか」
「今、応援を呼べば、来るのは味方とは限らない。逆に包囲網を狭めるだけだ」
日下部は唇を噛み、ゆっくりとスマホをしまった。
「じゃあ、どうすりゃいいんですか。このままじゃ袋の鼠だ」
彼は拳でコンテナを叩いた。
「畜生! なんでこんなことに……ただの窓際刑事と、そのお守り役の俺たちが、なんでスナイパーに狙われなきゃならないんだ!」
彼の怒りはもっともだ。
だが、答えは単純だ。私たちが――正確には、この「権藤」という男が、触れてはならない核心に近づきすぎているからだ。
いや、近づいているのではない。「元々そこにいた」のだ。
私は胸の痛みをこらえながら、暗い空を見上げた。ビルとビルの隙間から、都会の濁った夜空が見える。
「日下部。奴らは焦っている」
私は静かに言った。
「昼間の俺の芝居が効いたんだ。俺が何かを知っていると思い込み、口を封じに来た。つまり、俺たちの方向性は間違っていない」
逆説的だが、この襲撃こそが、私たちが真実に近づいている証拠だった。
署長たちは、権藤が「記憶を取り戻す」ことを恐れている。あるいは、権藤が良心の呵責に耐えかねて、すべてを暴露することを。
「……反撃するぞ」
「反撃って、丸腰でスナイパーとやり合う気ですか!?」
「違う。狙うのは『掃除屋』だ。桐島という男」
私は立ち上がろうとして、よろめいた。日下部が慌てて肩を貸す。
情けないが、今は彼の若さと体力に頼るしかない。
「ママの話じゃ、奴は雀荘に入り浸っていると言っていたな」
「ええ。この近くだと……『緑一色(リューイーソー)』って店が怪しいですね。ヤクザ御用達の店です」
「そこへ行く」
「今から!? 自殺行為ですよ!」
「今だからこそ、行くんだ」
私はニヤリと笑ってみせた。権藤の顔で浮かべる笑みは、きっとひどく歪んで見えただろう。
「奴らは今、俺たちが恐怖で震え上がって、どこかに隠れていると思っている。まさか、自分たちの懐に飛び込んでくるとは夢にも思わないはずだ」
虚を突く。それが、弱者が強者に勝つ唯一の方法だ。かつてのエリート刑事としてのプライドは捨てろ。今は、泥水をすすってでも生き延びる、野良犬の戦い方をするんだ。
日下部はしばらく私を睨みつけていたが、やがて大きく溜息をつき、覚悟を決めたように頷いた。
「……分かりましたよ。アンタといると、心臓がいくつあっても足りねえな」
彼は私の腕をしっかりと支え直した。
「行きましょう、相棒。地獄の底まで付き合いますよ」
私たちは路地裏の闇に紛れ、再び歩き出した。
背後で、遠いパトカーのサイレンが聞こえた。おそらく、発砲音を通報されたのだろう。
警察の到着は、私たちにとっても敵にとっても、状況を複雑にする要素だ。時間がない。
歩きながら、私は再びあのフラッシュバックに襲われそうになった。
――雨音。倉庫の冷たい空気。そして、見下ろす視線の先にいる、血まみれの自分。
記憶の中の「権藤」は、ただ立ち尽くしていた。銃は持っていない。だが、その目には深い絶望と、諦めが浮かんでいた。
お前は、ただ見ていたのか? 止められなかったのか?
それとも、それがお前の「仕事」だったのか?
問いかけても、権藤の魂は答えない。
ただ、この肉体の奥底にある重苦しい澱(おり)のような感情だけが、私の心を蝕んでいく。
リミットまで、あと四日と十時間。
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