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第十五章 亀裂
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路地裏の冷たいアスファルトの上で、私は荒い息を繰り返していた。肺が悲鳴を上げ、心臓が不規則に脈打つ。死の淵から舞い戻ったこの肉体が、再び限界を訴えていた。
だが、それよりも苦しいのは、目の前の男の視線だった。
日下部が私の胸ぐらを掴み上げている。その腕は怒りで震え、街灯の逆光になった顔は、夜叉のように険しかった。
「答えろよ、権藤! 黙ってちゃ分からねえだろうが!」
日下部の怒号が、狭い路地に反響する。
「あんた、あの桐島とどういう関係だ? 『仕事』ってなんだ? 相沢さんが殺された夜、あんたはどこで何をしてたんだ!」
私は彼の問いに答えることができない。
「私は相沢だ」と言えば、その瞬間に私は消滅する。
「権藤は無実だ」と言えば、それは嘘になる。私の脳裏に焼き付いているあのフラッシュバック――雨の倉庫で、倒れた私を見下ろしていた記憶――が、それを否定している。
私は、権藤の罪を背負ったまま、相沢としての目的を果たさなければならない。この矛盾が、私の魂を引き裂こうとしていた。
「……俺は」
ようやく絞り出した声は、掠れて聞き取りにくかった。
「俺は……何も覚えていない」
それは、半分は真実で、半分は卑怯な逃げだった。権藤としての完全な記憶はない。だが、断片的な罪の意識はある。
「ふざけんな!」
日下部が私を突き飛ばした。私は背中をコンクリート塀に強打し、呻き声を上げた。
「記憶喪失だなんて都合のいい言い訳が通じるかよ! あんた、ずっと俺を騙してたのか? 相沢さんの仇を討つフリをして、本当は証拠隠滅のために動いてたのか!?」
彼の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
怒りではない。深い失望の涙だった。
「俺は……あんたを信じかけたんだぞ。あんたの中に、少しでもあの人の面影を見た俺が馬鹿だった」
その言葉が、ナイフのように私の胸を抉った。
違う。日下部、そうじゃない。俺はお前を騙してなどいない。
だが、今の私にそれを証明する術はない。彼の目には、私は尊敬する先輩を裏切り、死に追いやった薄汚い老刑事にしか映っていないのだ。
「……警察へ行きましょう」
日下部が冷たい声で言った。
「あんたを任意同行する。桐島との関係を、洗いざらい吐いてもらう」
彼は腰の手錠に手をかけた。
「待て」
私は痛みをこらえ、よろめきながら立ち上がった。
「今、警察に戻れば、俺たちは消される」
「は?」
「考えろ。署内には奴らの内通者がいる。監察官だけじゃないかもしれない。俺たちが桐島と接触したことを知れば、奴らはなりふり構わず潰しに来る」
私は壁に手をつき、日下部を真っ直ぐに見据えた。
「俺を疑うのは勝手だ。だが、今ここで俺を捕まえれば、真犯人に辿り着く道は永遠に閉ざされるぞ。それでもいいのか」
日下部は手錠を握りしめたまま、葛藤に顔を歪めた。
刑事としての正義感と、目の前の現実。そして相沢への思いが、彼の中で渦巻いているのが分かった。
「……くそっ!」
日下部は手錠を戻し、壁を思い切り殴りつけた。拳から血が滲む。
「なんでだよ……なんで、こんなことになっちまったんだよ!」
彼はしばらく天を仰いでいたが、やがて深く息を吐き、私を睨みつけた。その目から、先ほどまでの熱い信頼の色は消え失せていた。あるのは、冷徹な計算と、深い軽蔑だけだ。
「……いいでしょう。警察には戻らない。だが、勘違いするなよ、権藤」
日下部の声は、氷点下のように冷たかった。
「俺はあんたを許したわけじゃない。あんたが相沢さんの死に関わっているなら、俺は絶対に許さない。……だが、今はあんたを利用する」
「利用?」
「ああ。あんたは真犯人に繋がる唯一の手がかりだ。あんたを使って、黒幕を引きずり出す。その上で、あんたの罪もきっちり暴いてやる」
彼は私に背を向けた。
「ついて来い。とりあえず、身を隠せる場所を探す」
私は、小さくなっていく彼の背中を見つめながら、苦い唾を飲み込んだ。
これでいい。
彼に軽蔑され、憎まれること。それもまた、権藤の肉体を借りた私が背負うべき罰なのだ。
奇妙な、そしてあまりにも脆い、新たな共闘関係が始まった。
だが、それよりも苦しいのは、目の前の男の視線だった。
日下部が私の胸ぐらを掴み上げている。その腕は怒りで震え、街灯の逆光になった顔は、夜叉のように険しかった。
「答えろよ、権藤! 黙ってちゃ分からねえだろうが!」
日下部の怒号が、狭い路地に反響する。
「あんた、あの桐島とどういう関係だ? 『仕事』ってなんだ? 相沢さんが殺された夜、あんたはどこで何をしてたんだ!」
私は彼の問いに答えることができない。
「私は相沢だ」と言えば、その瞬間に私は消滅する。
「権藤は無実だ」と言えば、それは嘘になる。私の脳裏に焼き付いているあのフラッシュバック――雨の倉庫で、倒れた私を見下ろしていた記憶――が、それを否定している。
私は、権藤の罪を背負ったまま、相沢としての目的を果たさなければならない。この矛盾が、私の魂を引き裂こうとしていた。
「……俺は」
ようやく絞り出した声は、掠れて聞き取りにくかった。
「俺は……何も覚えていない」
それは、半分は真実で、半分は卑怯な逃げだった。権藤としての完全な記憶はない。だが、断片的な罪の意識はある。
「ふざけんな!」
日下部が私を突き飛ばした。私は背中をコンクリート塀に強打し、呻き声を上げた。
「記憶喪失だなんて都合のいい言い訳が通じるかよ! あんた、ずっと俺を騙してたのか? 相沢さんの仇を討つフリをして、本当は証拠隠滅のために動いてたのか!?」
彼の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
怒りではない。深い失望の涙だった。
「俺は……あんたを信じかけたんだぞ。あんたの中に、少しでもあの人の面影を見た俺が馬鹿だった」
その言葉が、ナイフのように私の胸を抉った。
違う。日下部、そうじゃない。俺はお前を騙してなどいない。
だが、今の私にそれを証明する術はない。彼の目には、私は尊敬する先輩を裏切り、死に追いやった薄汚い老刑事にしか映っていないのだ。
「……警察へ行きましょう」
日下部が冷たい声で言った。
「あんたを任意同行する。桐島との関係を、洗いざらい吐いてもらう」
彼は腰の手錠に手をかけた。
「待て」
私は痛みをこらえ、よろめきながら立ち上がった。
「今、警察に戻れば、俺たちは消される」
「は?」
「考えろ。署内には奴らの内通者がいる。監察官だけじゃないかもしれない。俺たちが桐島と接触したことを知れば、奴らはなりふり構わず潰しに来る」
私は壁に手をつき、日下部を真っ直ぐに見据えた。
「俺を疑うのは勝手だ。だが、今ここで俺を捕まえれば、真犯人に辿り着く道は永遠に閉ざされるぞ。それでもいいのか」
日下部は手錠を握りしめたまま、葛藤に顔を歪めた。
刑事としての正義感と、目の前の現実。そして相沢への思いが、彼の中で渦巻いているのが分かった。
「……くそっ!」
日下部は手錠を戻し、壁を思い切り殴りつけた。拳から血が滲む。
「なんでだよ……なんで、こんなことになっちまったんだよ!」
彼はしばらく天を仰いでいたが、やがて深く息を吐き、私を睨みつけた。その目から、先ほどまでの熱い信頼の色は消え失せていた。あるのは、冷徹な計算と、深い軽蔑だけだ。
「……いいでしょう。警察には戻らない。だが、勘違いするなよ、権藤」
日下部の声は、氷点下のように冷たかった。
「俺はあんたを許したわけじゃない。あんたが相沢さんの死に関わっているなら、俺は絶対に許さない。……だが、今はあんたを利用する」
「利用?」
「ああ。あんたは真犯人に繋がる唯一の手がかりだ。あんたを使って、黒幕を引きずり出す。その上で、あんたの罪もきっちり暴いてやる」
彼は私に背を向けた。
「ついて来い。とりあえず、身を隠せる場所を探す」
私は、小さくなっていく彼の背中を見つめながら、苦い唾を飲み込んだ。
これでいい。
彼に軽蔑され、憎まれること。それもまた、権藤の肉体を借りた私が背負うべき罰なのだ。
奇妙な、そしてあまりにも脆い、新たな共闘関係が始まった。
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