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第十六章 安宿の長い夜
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私たちが潜り込んだのは、港湾地区の外れにある、労働者向けの古びた簡易宿泊所だった。
三畳一間の部屋はカビ臭く、薄い布団が二組敷かれているだけだ。壁は薄く、隣の部屋の男のいびきや、テレビの音が筒抜けだった。
日下部は部屋に入るなり、コンビニで買ってきた救急セットを取り出し、私の手当てを始めた。
割れた灰皿で切った手のひらの傷を消毒し、包帯を巻く。その手つきは事務的で、一切の感情がこもっていなかった。
「……すまん」
私が礼を言うと、彼は無視した。
治療を終えると、日下部は部屋の隅に座り込み、缶ビールを開けた。私には勧めなかった。
重苦しい沈黙が部屋を支配する。
私は布団の上に胡座をかき、瞑目した。身体は悲鳴を上げているが、神経が高ぶって眠気は来ない。
隣で日下部がビールを飲む音だけが響く。
彼はずっと、相沢(わたし)のことを考えているのだろう。
尊敬していた先輩。その死の裏に、目の前の薄汚い老人が関わっていたかもしれないという疑念。彼の心中を思うと、胸が締め付けられる。
「……なぁ」
不意に、日下部が口を開いた。視線は床に落としたままだ。
「相沢さんは、俺のことをどう思ってたのかな」
私は目を開けた。
「……どういう意味だ」
「俺はいつもあの人に突っかかってた。生意気な口ばかりきいて、困らせてばかりいた。……嫌われて当然だよな」
彼の声は、懺悔のように震えていた。
私は、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
『嫌ってなんていなかった。お前の熱意を、買っていたんだ』
そう言ってやりたかった。だが、今の私がそれを言えば、それは権藤の口から出る嘘、あるいは気休めにしかならない。
「……あいつは、そんな狭量な男じゃなかったはずだ」
私は、権藤として言える精一杯の言葉を選んだ。
「お前のことを、見ていたと思うぞ。不器用だが、真っ直ぐな男だと」
日下部はフンと鼻を鳴らした。
「ジジイの知ったかぶりだな。……でも、そうだったらいいな」
彼は残りのビールを飲み干し、空き缶を握りつぶした。
「寝ましょう。明日は忙しくなる」
彼は電気を消し、壁の方を向いて横になった。その背中は、ひどく小さく見えた。
私は暗闇の中で、天井のシミを見つめた。
リミットまで、あと四日。
時間は残酷なほど早く過ぎ去っていく。
私の体調は悪化の一途を辿っていた。咳き込むたびに血の味が濃くなり、手足のしびれも酷くなっている。この「借り物の肉体」は、もう限界に近い。
だが、止まるわけにはいかない。
日下部の信頼を失った今、私を動かすのは、彼に対する贖罪の念と、家族を守らねばならないという使命感だけだった。
次の標的は決まっている。
早紀のクマのぬいぐるみ。あの中に隠された決定的な証拠。
警察内部が敵に回った今、あの家に近づくのは至難の業だ。だが、やらなければならない。
私は、隣で寝息を立て始めた日下部の背中を見つめた。
お前を巻き込んでしまったことを詫びる。だが、最後まで付き合ってもらうぞ、相棒。
私は静かに目を閉じ、短い眠りについた。
三畳一間の部屋はカビ臭く、薄い布団が二組敷かれているだけだ。壁は薄く、隣の部屋の男のいびきや、テレビの音が筒抜けだった。
日下部は部屋に入るなり、コンビニで買ってきた救急セットを取り出し、私の手当てを始めた。
割れた灰皿で切った手のひらの傷を消毒し、包帯を巻く。その手つきは事務的で、一切の感情がこもっていなかった。
「……すまん」
私が礼を言うと、彼は無視した。
治療を終えると、日下部は部屋の隅に座り込み、缶ビールを開けた。私には勧めなかった。
重苦しい沈黙が部屋を支配する。
私は布団の上に胡座をかき、瞑目した。身体は悲鳴を上げているが、神経が高ぶって眠気は来ない。
隣で日下部がビールを飲む音だけが響く。
彼はずっと、相沢(わたし)のことを考えているのだろう。
尊敬していた先輩。その死の裏に、目の前の薄汚い老人が関わっていたかもしれないという疑念。彼の心中を思うと、胸が締め付けられる。
「……なぁ」
不意に、日下部が口を開いた。視線は床に落としたままだ。
「相沢さんは、俺のことをどう思ってたのかな」
私は目を開けた。
「……どういう意味だ」
「俺はいつもあの人に突っかかってた。生意気な口ばかりきいて、困らせてばかりいた。……嫌われて当然だよな」
彼の声は、懺悔のように震えていた。
私は、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
『嫌ってなんていなかった。お前の熱意を、買っていたんだ』
そう言ってやりたかった。だが、今の私がそれを言えば、それは権藤の口から出る嘘、あるいは気休めにしかならない。
「……あいつは、そんな狭量な男じゃなかったはずだ」
私は、権藤として言える精一杯の言葉を選んだ。
「お前のことを、見ていたと思うぞ。不器用だが、真っ直ぐな男だと」
日下部はフンと鼻を鳴らした。
「ジジイの知ったかぶりだな。……でも、そうだったらいいな」
彼は残りのビールを飲み干し、空き缶を握りつぶした。
「寝ましょう。明日は忙しくなる」
彼は電気を消し、壁の方を向いて横になった。その背中は、ひどく小さく見えた。
私は暗闇の中で、天井のシミを見つめた。
リミットまで、あと四日。
時間は残酷なほど早く過ぎ去っていく。
私の体調は悪化の一途を辿っていた。咳き込むたびに血の味が濃くなり、手足のしびれも酷くなっている。この「借り物の肉体」は、もう限界に近い。
だが、止まるわけにはいかない。
日下部の信頼を失った今、私を動かすのは、彼に対する贖罪の念と、家族を守らねばならないという使命感だけだった。
次の標的は決まっている。
早紀のクマのぬいぐるみ。あの中に隠された決定的な証拠。
警察内部が敵に回った今、あの家に近づくのは至難の業だ。だが、やらなければならない。
私は、隣で寝息を立て始めた日下部の背中を見つめた。
お前を巻き込んでしまったことを詫びる。だが、最後まで付き合ってもらうぞ、相棒。
私は静かに目を閉じ、短い眠りについた。
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