7日間の執行猶予

雨垂 一滴

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第十八章 雨の断行

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​ 予報通り、夜になると冷たい雨が降り始めた。
 アスファルトを叩く雨音が、街の喧騒を塗りつぶしていく。湿った空気が、私の老いた肺に重くのしかかり、呼吸をするたびに胸の奥でゼイメイ音が鳴った。
​ 時刻は深夜一時。決行の時間だ。
 私たちは、相沢邸から少し離れたコインパーキングに停めた盗難車(日下部がどこからか調達してきた、目立たない軽自動車)の中で息を潜めていた。
​「……時間だ。行くぞ」
 私が声をかけると、助手席の日下部が短く頷いた。彼の顔は緊張で強張り、膝の上で握りしめた拳が微かに震えている。
「頼んだぞ、日下部。絶対に失敗するな」
「アンタこそ、死ぬなよ。……俺の前で二度も、相棒を死なせたくない」
 その言葉に、私は胸を突かれた。彼はまだ、私を相棒と呼んでくれるのか。疑念と憎悪の狭間で揺れ動きながらも。
​「フン、老いぼれを舐めるなよ」
 私はニヤリと笑ってみせ、車を降りた。
 冷たい雨が容赦なく体に打ちつける。コートの襟を立て、私は闇の中へと歩き出した。
​ 私の役割は、相沢邸を監視している連中の目を、一身に引きつけることだ。
 私は懐から、警察無線機を取り出した。これは昨日、ドサクサに紛れて署から持ち出したものだ。
 スイッチを入れる。ノイズ混じりの音声が流れてくる。
​「……こちら、捜査一課の権藤だ」
 私は無線に向かって、わざとしわがれた声を張り上げた。
「現在、マル被(被害者)の自宅付近にいる。不審な車両を発見した。これより職務質問を行う。応援を求む!」
​ これは賭けだ。
 奴らは警察無線を傍受している。私がここにいること、そして「不審車両(つまり奴ら自身)」に気づいたことを知れば、必ず動く。口封じのために。
​ 私は無線機をポケットに突っ込み、相沢邸の方へ向かってわざとらしく走り出した。
 案の定だった。
 通りの向こう、闇に溶け込むように停まっていた黒いセダンのヘッドライトが、カッと点灯した。
 獲物を見つけた肉食獣の目だ。
​ エンジン音が唸りを上げ、セダンが急発進する。
 来た!
 私は反転し、住宅街の狭い路地へと全力で逃げ込んだ。
​ 心臓が早鐘を打ち、息が続かない。足がもつれそうになる。
 背後から、タイヤが水を跳ね上げる音と、エンジンの轟音が迫ってくる。
 
 キィィン!
 鋭い金属音がして、私のすぐ脇の電柱から火花が散った。
 発砲! しかもサイレンサー付きだ。住宅街で躊躇なく撃ってきやがった。奴らは本気だ。
​「ハァ、ハァ、ハァ……ッ!」
 私は民家の塀を乗り越え、他人の家の庭を横切った。泥に足を取られながら、必死に走る。
 三十歳の意識が「もっと速く!」と叫ぶが、五十八歳の肉体は悲鳴を上げている。脇腹に激痛が走り、視界が明滅する。
​ だが、これでいい。
 奴らの注意は完全に私に向いた。
 今だ、日下部。行け!
​ 一方、日下部は。
 権藤が囮となって走り去り、それを追って監視車両が猛スピードで離れていくのを確認すると、彼は軽自動車を飛び出した。
 雨音と遠ざかるサイレンの音が、彼の足音を消してくれる。
​ 相沢邸の裏手に回る。勝手口の鍵は、ピッキングツールで数秒で開いた。刑事の習得すべき技能ではないが、こんな時に役に立つとは。
​ 家の中は静まり返っていた。
 忍び込んだリビングの空気は冷たく、線香の香りが微かに漂っている。
 日下部は階段を慎重に上り、二階の寝室へと向かった。
​ ドアを少しだけ開ける。
 ベッドには、由美と早紀が身を寄せ合うようにして眠っていた。小さな常夜灯の光が、二人の寝顔を薄っすらと照らしている。
 早紀の腕の中には、あの薄汚れたクマのぬいぐるみがしっかりと抱きしめられていた。
​ 日下部は息を飲み、忍び足でベッドに近づいた。
 由美が、気配を感じたのか、うっすらと目を開けた。
 見知らぬ男の影に、彼女が悲鳴を上げそうになる。
​「シッ! 奥さん、俺です、日下部です!」
 彼はマスクをずらし、小声で叫んだ。
「く、日下部さん……? どうして、こんな時間に……」
 由美が体を起こし、驚愕の表情を浮かべる。早紀も目を覚まし、怯えたように母親にしがみついた。
​「時間がないんです。説明は後でします」
 日下部は焦りながら言った。
「相沢さんが……ご主人が、命がけで守ろうとしたものが、ここにあるんです」
​ 彼は早紀の方を見た。
「早紀ちゃん、ごめんね。そのクマさん、ちょっとだけ貸してくれるかな? パパの大事なものが、隠されているかもしれないんだ」
​ 早紀は激しく首を振った。
「やだ! これ、パパなの! パパといっしょなの!」
 彼女はぬいぐるみをさらに強く抱きしめ、泣き出してしまった。
​ 日下部は苦渋の表情を浮かべた。無理やり奪うことはできない。だが、ここで手間取れば、権藤の命が危ない。
「早紀、お願いだ。パパを……パパの無念を晴らすために必要なんだ!」
​ その時、由美が動いた。
 彼女は震える手で、早紀の頭を優しく撫でた。
「早紀、大丈夫よ。日下部さんは、パパのお友達よ。パパのために、頑張ってくれてるの」
「……でも……」
「クマさんは、すぐに返してくれるわ。ね?」
​ 母親の言葉に、早紀は少しだけ力を緩めた。
 日下部はその隙を見逃さず、そっと、しかし素早くぬいぐるみを引き抜いた。
​「……ごめん、必ず返すから!」
 泣き叫ぶ早紀の声に胸を痛めながら、日下部はぬいぐるみの首輪を調べた。
 銀色のロケットチャーム。指先でこじ開けると、中には小さなマイクロSDカードが収まっていた。
​「あった……!」
 これが、相沢さんが命と引き換えに残した真実。
 日下部はそれを慎重にポケットにしまった。
​「奥さん、すぐにここを離れてください。奴らが戻ってくるかもしれない」
「えっ……?」
「着の身着のままでいい、実家でもどこでも、安全な場所へ!」
​ 日下部はそう言い残し、再び窓から闇夜へと飛び出した。
 権藤の安否が気がかりだった。あの老体で、プロの追跡をどれだけかわせるか。
「死ぬなよ、ジジイ……!」
 彼は雨の中、合流地点へと疾走した。
​ 私は、限界を迎えていた。
 ここはどこだ? 入り組んだ路地を逃げ回るうちに、方向感覚を失っていた。
 呼吸はヒューヒューと音を立て、口の中は鉄の味で満たされている。視界は霞み、足が鉛のように重い。
​ 背後の足音が近づいてくる。
 奴らは車を捨て、徒歩で追ってきたのだ。若い男が二人。体力差は歴然だ。
​ 私はよろめきながら、行き止まりの資材置き場に逃げ込んだ。
 積み上げられた材木の影に身を隠し、荒い息を殺す。
 頼む、見つからないでくれ。あと少し、あと少しだけ時間を稼げれば……。
​ だが、運命は非情だった。
 コツ、コツ、とゆっくりとした足音が近づいてくる。
 懐中電灯の光が、雨に濡れた資材置き場を舐めるように照らし出す。
​「……出てこいよ、権藤さん」
 聞こえてきたのは、あの雀荘で聞いた声。
 桐島だ。
​「まさかアンタが囮になるとはな。相棒はどうした? あの家にか?」
 奴はすべてお見通しだった。
 私は覚悟を決めた。もう逃げられない。
​ 私はゆっくりと、材木の影から姿を現した。
 雨に打たれ、肩で息をする老いた刑事。その姿は、さぞ滑稽だろう。
「……へっ、何の用だ、ヤクザ屋さんよ」
 私は精一杯の虚勢を張って、ニヤリと笑ってみせた。
​ 桐島の背後から、もう一人の男が現れた。手にはサイレンサー付きの拳銃が握られている。
「残念だよ、権藤さん」
 桐島が冷酷な目で私を見下ろした。
「アンタは大人しく死んでりゃよかったんだ。『名誉の殉職』ってやつでな。余計な真似をするから、こうなる」
​ 男が銃口を私に向けた。
 死の恐怖が背筋を駆け上がる。二度目の死。今度こそ、本当の終わりだ。
 だが、私の心は不思議と静かだった。
​ 日下部、成功したか?
 証拠は手に入れたか?
 なら、俺の役目はここまでだ。
​「……最後に一つ、教えてくれ」
 私は、相沢としての、そして権藤としての最後の問いを口にした。
「あの夜……俺は、あいつを撃ったのか?」
​ 桐島は怪訝な顔をした。
「は? 何ボケたこと言ってんだ。アンタはただ、見てただけだろうが。震え上がって、腰を抜かしてな」
​ 見ていた、だけ。
 その言葉に、私は深い安堵のため息をついた。
 そうか。権藤、お前は撃ってはいなかったんだな。ただの臆病な共犯者だったんだな。
 それなら、まだ救いはある。
​ 私は天を仰いだ。雨が顔を打つ。
「……そうか。よかった」
 私は静かに目を閉じた。
​ 乾いた発砲音が、雨音を引き裂いた。
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