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(7)なぞる指先
しおりを挟む数日も経てば、屋敷での生活にもようやく少しだけ、感覚が馴染んできたように思えた。初めて足を踏み入れた日とは違い、空気の重さや匂い、時間の流れ方に至るまで、心のどこかで受け入れる準備が整ったからなのかもしれない。
「リア。今日のお食事はどうですか」
「はい、美味しいです。ありがとうございます」
「おい。レオンハルトを甘やかすな」
「えっ」
「この肉、どう考えても焼きすぎだろうが」
食事は――最初の数日は正直、喉を通すのに覚悟が必要だったのも事実だった。けれど、あの日を境に、皿の上に乗る食材の扱いが変わった。見慣れぬ獣の肉でも、熱が通されて焼き目がつき、何かしらの香辛料で味付けされているだけでまったく違う。野菜にしても、生で出された時の戸惑いに比べれば、加熱されて彩りよく盛り付けられているだけで安心できた。
「ギル、今日は仕事何時まで掛かんだ?」
「夜まで掛かる。手ェ空いたら、まとめにだけ来い」
「了解! なるべく早く行くわ!」
あとは、もっと話ができたらいい。すぐに打ち解けられるわけではないし、今の自分の立場がどこにあるかを忘れることもない。だけど少しでも、互いを知ることができたなら。
そう思いながら、リアは今日も、出された食事に対して黙々と手を動かしていた。
昼間、屋敷の中はどこもかしこも忙しない空気が流れていた。各々がそれぞれ役割を持って動いていて、誰もが自然と足早になっている。竜族の世界の中で、何をどこまで理解できているかといえば、その大半はまだ手探りだ。日中の時間帯は特に、リアに出来ることは少なかった。
「話せなくて悪いなぁ、なんかあったら呼んでくれ」
「大丈夫だよ。部屋で大人しくしてるね」
申し訳なさそうに眉を下げるエルマーを見ると、こちらまで悲しくなってくる。だから時間を持て余す時には、部屋にある書物に目を通すようにしていた。
棚に並べられた分厚い本の背表紙は、どれも流れるような曲線を描く文字で書かれていて、それが竜族特有のものだということは分かっても意味はさっぱり分からない。文字が読めなければ言葉も分からないのは当然で、もし何かあったときに、自分一人ではどうにも出来ないという不安が常に付きまとう。
「一応、こっちの方が読みやすいかな。何なら、今度絵本でも貸してもらった方がいいかも……」
それでも、手を動かさなければ前には進めない。そう思って今日も書物を開いてみたが、数行進んでは眉をひそめ、頭を抱えてため息をつくという繰り返しだった。
気分転換が必要だった。
「はぁ……あ、そうだ」
ふと立ち上がり、扉を開いて、屋敷の外へと足を向ける。向かったのは、裏手にある中庭――石畳の道が整えられ、いくつもの花壇が広がる、美しく手入れの行き届いた場所。花壇の傍らには、小さな噴水の音が静かに響いていた。
咲いている花の名前は知らないが、いくつかは見たことのある種類だった。色とりどりの花弁が風にそよぎ、陽光にきらめいている様子は、どこか人間の世界の庭園を思い出させる。
「うわ、気持ちいい……」
その場に腰を下ろし、膝の上に本を開いた。もちろん、相変わらず内容は理解出来ない。だが、紙の手触りやインクの匂いに集中していると、ほんの少しだけ現実から離れられる気がして、頁を捲る指は止まらなかった。
唸るような小さな声を漏らしながら、何度目かの行き詰まりに眉をひそめていると――
「てめぇ、一人で出歩くなっつってんだろうが……!」
苛立ち混じりの低い声が、空気を切るように背後から響いた。肩がびくりと跳ね、振り返れば、そこにはギルフォードの姿があった。髪は少し乱れ、額にはうっすらと汗がにじんでいる。どうやら仕事の途中で屋敷に戻ってきたらしく、偶然リアの後ろ姿を見つけて、中庭まで追ってきたようだ。
「で、でも……別に敷地内を散歩したくらいで、何も……」
気まずさを紛らわせるようにそう返してみたものの、ギルフォードの真っ直ぐな視線に思わず言葉が詰まる。黙ったまま、リアが視線をそらして地面を見つめていると、彼は深いため息を吐いた。
「全員が全員、人間を良く思ってるわけじゃねぇんだよ。そんくらいバカでも分かんだろ」
吐き捨てるようなその言葉には、苛立ちだけではない、何か別のものが混じっていた。言い方は乱暴でも、その奥にあるものを感じ取ろうとするほどに、リアの胸の内は複雑に揺れる。脅しのように聞こえなくもないその一言が、なぜか、自分を守ろうとしているようにも思えてしまうのは、きっと気のせいではない。
理解したいと思った。少しでも、彼らの中に近づきたいと願ったその気持ちが、また別の形で胸を締めつける。
「……ごめんなさい。もっと気をつけます」
ぽつりと落としたその言葉に、ギルフォードは何も言わず、一瞬だけ視線をそらした。
「分かったんならいい」
ギルフォードはため息交じりに呟くと、そのまま中庭の石畳に直接尻をつけ、少しだけ背をもたれさせるようにして、リアの隣に腰を下ろした。
「……?」
唐突なその動きに、屋敷に戻ろうとしていたリアは小さく首を傾げた。視線が思わずギルフォードの横顔を追う。けれど彼は、特にこちらを見ることもなく、無表情のまま言った。
「別に、ここに来んなとは言ってねぇ。勝手に一人になんなっつってんだよ」
「……あ、そっか。そうですね」
その言葉に、リアの胸が緩んだ。叱られたことに変わりはないはずなのに、不思議と温かい気持ちになる。けれど、それ以上どう返すのが正解なのかが分からず、ただ続けるように「ありがとうございます」と応えて、落ち着かないまま視線を彷徨わせた。
ギルフォードはその様子を一瞥すると、リアの膝の上に開かれた本に目を落とす。
「それ、何読んでんだ」
「あ、いえ。全然読めてないんです。ただ、勉強になればいいなと思って」
少しばつが悪そうに言いながら、リアは書物の端を指先でつまむ。するとギルフォードは、ふっと短く笑い声を洩らした。馬鹿にするような笑い方ではなかった。むしろ、驚きと呆れが混じったような、優しさの滲む音だった。
「はぁ? 読めねーのにそのチョイスかよ。それ、歴史の本だぞ。しかも割と堅ぇやつ」
「えっ、そうなんですか!? 確かに難しいなとは思ってましたけど……」
うろたえるリアに、ギルフォードは「ったく」と苦笑しながらも、手元の本にぐいと指を伸ばした。
「ほら、ここ。これが“あ”だ。んで、これが“い”。人間の文字だと、こういう感じに対応してんだよ」
指先でページの隅を軽く叩きながら、ギルフォードは、ゆっくりと、しかし案外丁寧に教えてくれる。低くてよく通る声は落ち着いていて、リアの胸の奥に柔らかく響いた。
「“あ”、に……“い”……えっと、じゃあ、こっちは……?」
「“う”だな。形が似てっけど、違ぇからよく見ろ。書き順はこう」
「すごい……!」
自然と顔が綻び、感嘆の声がこぼれる。リアが思わずギルフォードの顔を至近距離で見上げると、ギルフォードはまたほんの僅かに眉を引き攣らせた。目の前の無防備な人間の女に、少し苛立ったらしい。
そして次の瞬間、彼の顔に一転して鬼のような表情が浮かぶ。
「おい。お前、ちゃんと聞いてんのか!?」
「ひゃっ、はいっ! 聞いてますっ!」
「俺が教えたからには、読めるようになんねえと許さねえからな。じゃなきゃ、このまま千年分の歴史語んぞ」
「そ、それはちょっと……!」
「なら真面目に聞け」
小さく頭を抱えながらも、リアは吹き出すのをこらえて俯いた。怒られているはずなのに、まるで兄に世話を焼かれているかのような空気がそこにはあった。横目でちらりとギルフォードを見ると、彼の指は、また丁寧に頁をなぞっている。
本当、不器用な人。
けれどその不器用さが、少しずつリアの胸の中に居場所を作っていく。
「……ありがとうございます」
小さく呟いたその言葉に、ギルフォードは小さく肩を竦めただけだった。
「礼は、読めるようになってからにしろ」
「……はい!」
結局、ギルフォードは時間ぎりぎりまで、リアの隣に腰を下ろし続けていた。指先が擦れる音と、二人のやりとりの声が、中庭にやわらかく溶けていった。
◇
風が心地よく吹き抜ける中庭の、少し離れた木陰。その下で、エルマーとレオンハルトが肩を並べて立っていた。
二人とも手に小さな荷物を持っていて、どうやら屋敷内から庭を抜けて倉庫に向かう途中だったらしい。けれど視線は、すっかり途中で足を止めたまま、石畳の上に座り込んでいるギルフォードとリアに向いていた。
ギルフォードは眉間に皺を寄せて、何やら本を指差しながら捲し立てている。その隣で、リアが一生懸命に頷きながら、ノートのようなものに小さく文字をなぞっているのが見えた。
「……あれ、まさか本気で教えてんのか?」
「みたいだね。珍しい、ギルが人に何かを教えるなんて」
エルマーが肩をすくめると、レオンハルトは口元に手を添えて珍しくも笑った。
「素直じゃねえなぁ」
「だね」
「でも、ああいうの、いいよな」
「……何が?」
「ギルってほら、不器用っつーか、言葉足りねえじゃん。だけど、ああやってリアの隣に座ってるの見ると……なんか、ちゃんと受け入れようとはしてんだなって思える」
エルマーの穏やかな声に、レオンハルトはふっと笑いながら頷いた。
「で、あれでリアが読み書き覚えたら、ギルも満更でもない顔するんじゃね?」
「しそう。内心喜んでるくせに、絶対顔には出さないやつ」
「マジで可愛げがあるんだか、ないんだか……」
ふたりの笑い声が木陰に溶ける。その間も、中庭ではギルフォードの低く通る声と、リアの「はい!」という返事が交互に響いていた。
「――おい! “か”はそうじゃねえっつったろ!」
「え、え? どこが違うんですか?」
「ここ。この線が縦一本多いんだよ、よく見ろ!」
「もう一回書きます……! すみません!」
そんなやり取りを聞きながら、エルマーはクスクスと肩を震わせる。レオンハルトが、小さく吹き出しながら呟いた。
「なんか、ずっと怒鳴ってる」
「まあ、ギルなりの……『馴染めるように』ってやつじゃねえの」
エルマーの言葉に、レオンハルトは静かに目を細めた。
「うん。応援したくなる」
そう言って、二人は軽く荷物を持ち直して歩き出した。リアとギルフォードの姿が、少しずつ視界の隅に遠ざかっていく。それでも、あの不思議な距離感と流れるやわらかい空気が、しばらくの間、二人の胸の中にじんわりと残っていた。
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