47 / 49
第2章、悪夢と狂気の中で
47、フェニキア文字とヘブライ文字(2)
しおりを挟む
私はニコラス先生から手渡された本の最初のページを開いた。左側に大きな牛の絵が描いてある。写本のように挿絵に色がついているのではなく、黒いペンで簡単に描かれた絵である。
「これは牛の絵ですね」
「その通り。フェニキア文字、ヘブライ文字でアレフは雄牛という意味である。紀元前の地中海世界では雄牛は財産として大切に扱われ、ギリシャ神話では雄牛が出てくる話がいくつもある」
「ゼウスが雄牛に姿を変えたり、牛の頭を持ったミノタウロスという怪物が出てきたり・・・」
子供用に書かれたギリシャ神話の本の内容を思い出した。少し前の時代なら子供がギリシャ神話の本を手にすることなどなかったと思われるが、印刷された安い本が出回るようになり、修道院の図書館にも置いてあった。
「でも、ギリシャ神話というのはあれは全部作り話ですよね。神が雄牛に変身したり、牛の頭を持った化け物が出て来るというのはあり得ないですから」
「あり得ない話であるが、地中海世界では長い間牛は神聖視されていた。だからこそギリシャ神話という形でいくつもの物語が残り、そしてフェニキア文字の最初の文字アレフは牛を表現している」
「フェニキア文字のアレフはアルファベットのAを横に倒して真ん中の線が飛び出たような形をしています。でもヘブライ文字のアレフはフェニキア文字のアレフとはあまり似ていないし、雄牛の形にも見えません」
「文字というのは使われる中で次々と形を変えていく。ヘブライ文字やアラビア文字、それから私達が使っているアルファベットも文字の形を見てフェニキア文字での形や意味を想像するのは難しい。だが、フェニキア文字とヘブライ文字を並べて比べれば、その文字がどのように生まれて変化したかがよくわかる」
私は雄牛の絵の横にあるフェニキア文字のアレフとヘブライ文字のアレフを指でなぞってみた。書き順がわかるように文字の横に小さな字で数字と矢印が書いてある。
「子供の時の私もそうやって字をなぞって覚えた。そこに書いてあるヘブライ文字は線文字と言って、活字体で使われる飾り文字とは少し違っている。5歳の子供でも簡単に書けるように線文字でお手本を書き、書き順も書いて自分が仕事で忙しい時は私が1人で勉強できるように工夫した教科書を作ってくれた。叔父は多くを語る人ではなかった。だが私はその本で多くのことを学んだ」
最初のページの雄牛の絵の部分にはいくつもの染みがついていた。ニコラス先生は子供の時に泣きながらこの本のページをめくり、絵の上に涙が零れ落ちた。それでも何度も何度も指で字をなぞり、次第に心は落ち着き、涙も乾いていった。この手作りの本が先生の悲しみをしっかり受け止めていた。
「ベートという文字は家という意味がある。簡単ではあるが、その絵は家を表している」
「フェニキア文字のベートは帆を張った小さな船のようですね」
「なるほど、そういうことか。そうか、わかったぞ!」
ニコラス先生の顔が急に輝いた。
「どうしたのですか?」
「子供の時の私は、フェニキア文字のベートは家を意味しているのになぜこんな形をしているのか不思議だったが、ミゲル、君の言葉を聞いてやっとわかった。フェニキア人は交易の民だった。船で地中海に乗り出し新しい街へとたどり着いた。フェニキア人にとって船は交通手段になっているだけでなく、生活の場でもあり、立派な船は代々続く財産にもなった。もちろん地上の家も大切な財産だが、船も同じように大切にされ、その形が文字になったに違いない」
「そう言われて見れば、ヘブライ文字のベートも船に人が乗っているようにも見えますね。でもヘブライ文字のところにはベートの横にもう1つ文字がありヴェートと書いてあります」
「ヴェートはフェニキア文字にはなく、ヘブライ文字にだけある。ベートに似ているが、この文字はbではなくvの発音をする」
「フェニキア文字にはなく、ヘブライ文字にだけある文字があるのですね」
私はフェニキア文字のベートをなぞった。そこに描いてあるのは小さな家だったが、私は海に浮かぶたくさんの船を思い浮かべた。もちろん私はこの時まで海を見たことは1度もなかった。でも前にニコラス先生に案内された図書館の上にある秘密の部屋には本だけでなくたくさんの絵や彫像もごちゃ混ぜに置いてあった。カルロス先生が異端審問官に貴重な本を没収されないようにと考えて、わざと整理をしないでいろいろな年代のものを集めて置いているらしい。私はフェリペやアルバロと一緒に秘密の部屋に案内され、そこに置いてある絵もみせてもらった。その中には海や船を描いたものもたくさんあった。芸術的に価値ある絵とは思えなかったが、それでも子供が海や船について理解するには十分な絵だった。青い海とたくさんの小さな白い船が思い浮かんだ。
「世界は私達が考えているよりも遥かに大きく、そして長い歴史を持っている。私はフェニキア文字やヘブライ文字を通じてそのことを君に伝えたい」
「これは牛の絵ですね」
「その通り。フェニキア文字、ヘブライ文字でアレフは雄牛という意味である。紀元前の地中海世界では雄牛は財産として大切に扱われ、ギリシャ神話では雄牛が出てくる話がいくつもある」
「ゼウスが雄牛に姿を変えたり、牛の頭を持ったミノタウロスという怪物が出てきたり・・・」
子供用に書かれたギリシャ神話の本の内容を思い出した。少し前の時代なら子供がギリシャ神話の本を手にすることなどなかったと思われるが、印刷された安い本が出回るようになり、修道院の図書館にも置いてあった。
「でも、ギリシャ神話というのはあれは全部作り話ですよね。神が雄牛に変身したり、牛の頭を持った化け物が出て来るというのはあり得ないですから」
「あり得ない話であるが、地中海世界では長い間牛は神聖視されていた。だからこそギリシャ神話という形でいくつもの物語が残り、そしてフェニキア文字の最初の文字アレフは牛を表現している」
「フェニキア文字のアレフはアルファベットのAを横に倒して真ん中の線が飛び出たような形をしています。でもヘブライ文字のアレフはフェニキア文字のアレフとはあまり似ていないし、雄牛の形にも見えません」
「文字というのは使われる中で次々と形を変えていく。ヘブライ文字やアラビア文字、それから私達が使っているアルファベットも文字の形を見てフェニキア文字での形や意味を想像するのは難しい。だが、フェニキア文字とヘブライ文字を並べて比べれば、その文字がどのように生まれて変化したかがよくわかる」
私は雄牛の絵の横にあるフェニキア文字のアレフとヘブライ文字のアレフを指でなぞってみた。書き順がわかるように文字の横に小さな字で数字と矢印が書いてある。
「子供の時の私もそうやって字をなぞって覚えた。そこに書いてあるヘブライ文字は線文字と言って、活字体で使われる飾り文字とは少し違っている。5歳の子供でも簡単に書けるように線文字でお手本を書き、書き順も書いて自分が仕事で忙しい時は私が1人で勉強できるように工夫した教科書を作ってくれた。叔父は多くを語る人ではなかった。だが私はその本で多くのことを学んだ」
最初のページの雄牛の絵の部分にはいくつもの染みがついていた。ニコラス先生は子供の時に泣きながらこの本のページをめくり、絵の上に涙が零れ落ちた。それでも何度も何度も指で字をなぞり、次第に心は落ち着き、涙も乾いていった。この手作りの本が先生の悲しみをしっかり受け止めていた。
「ベートという文字は家という意味がある。簡単ではあるが、その絵は家を表している」
「フェニキア文字のベートは帆を張った小さな船のようですね」
「なるほど、そういうことか。そうか、わかったぞ!」
ニコラス先生の顔が急に輝いた。
「どうしたのですか?」
「子供の時の私は、フェニキア文字のベートは家を意味しているのになぜこんな形をしているのか不思議だったが、ミゲル、君の言葉を聞いてやっとわかった。フェニキア人は交易の民だった。船で地中海に乗り出し新しい街へとたどり着いた。フェニキア人にとって船は交通手段になっているだけでなく、生活の場でもあり、立派な船は代々続く財産にもなった。もちろん地上の家も大切な財産だが、船も同じように大切にされ、その形が文字になったに違いない」
「そう言われて見れば、ヘブライ文字のベートも船に人が乗っているようにも見えますね。でもヘブライ文字のところにはベートの横にもう1つ文字がありヴェートと書いてあります」
「ヴェートはフェニキア文字にはなく、ヘブライ文字にだけある。ベートに似ているが、この文字はbではなくvの発音をする」
「フェニキア文字にはなく、ヘブライ文字にだけある文字があるのですね」
私はフェニキア文字のベートをなぞった。そこに描いてあるのは小さな家だったが、私は海に浮かぶたくさんの船を思い浮かべた。もちろん私はこの時まで海を見たことは1度もなかった。でも前にニコラス先生に案内された図書館の上にある秘密の部屋には本だけでなくたくさんの絵や彫像もごちゃ混ぜに置いてあった。カルロス先生が異端審問官に貴重な本を没収されないようにと考えて、わざと整理をしないでいろいろな年代のものを集めて置いているらしい。私はフェリペやアルバロと一緒に秘密の部屋に案内され、そこに置いてある絵もみせてもらった。その中には海や船を描いたものもたくさんあった。芸術的に価値ある絵とは思えなかったが、それでも子供が海や船について理解するには十分な絵だった。青い海とたくさんの小さな白い船が思い浮かんだ。
「世界は私達が考えているよりも遥かに大きく、そして長い歴史を持っている。私はフェニキア文字やヘブライ文字を通じてそのことを君に伝えたい」
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
**俺、東大院生の実験対象にされてた。**同居している美人家庭教師のやばい秘密
まさき
青春
俺は今、東大院生の実験対象になっている。
ある雨の夜、アパートの前にずぶ濡れの美女が立っていた。
「家庭教師です。住まわせてください」
突然すぎる申し出に困惑しながらも、なぜか断れなかった。
桐島咲楽、東大大学院生。成績は天才、料理は壊滅的、距離感はおかしい。毎日転ぶ、焦がす、なぜか距離が近い。そのくせ授業は鬼のように丁寧で、俺のことを誰よりもよく見ていた。
偏差値42だった俺の成績は、気づけば上がっていた。でも、それより気になることがある。
咲楽さんが、研究ノートに何かを書いている。「被験者」という文字が、見えた気がした。
距離が近いのは、データのためか。褒めてくれるのは、実験のためか。でも、あの顔は。あの声は。
「データじゃなくて、私がそう思っています」
嘘をついているような顔じゃなかった。
偏差値42の俺に、東大院生の美女が押しかけてきた。ドタバタな毎日の中で、俺の心臓が休まる暇がない。これはドキドキなのか、心配なのか。それとも、もう恋なのか。
不器用な天才と、鈍感な高校生の、やばい同居生活。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる