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陛下に、文をしたためましょう。

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 どうして皇帝陛下は、後宮にいらして下さらないのかしら。

 リーファは、唇を指先で舐めながらジッと鏡を眺めた。

 人に可憐だと褒めそやされる、真っ白な髪に赤い瞳の容姿。
 体つきや顔立ちは歳のわりに『我ながら幼い』とも思うが、成人してからこっち、婚姻の誘いが絶えない程度には優れている、らしいのに。

 そんな外見も、彼の方がお見えにならなければ全く意味のないものだ。

「本日はどのように過ごされますか?」

 政府の重鎮である父に頼み、後宮に輿入れしたのが一ヶ月ほど前。
 一緒に後宮に入った、長年面倒を見てくれている侍従のサイラが発した言葉に、リーファは目を向けながら答える。

「そうね……恋文でも書こうかしら?」
「陛下にですか?」
「私が、他の誰に書くと言うの?」

 サイラは歳が五つ離れている。
 自分とは違い、烏の濡羽と呼ばれる紫黒の髪と褐色の肌を持ち、涼しげな目元の美貌、メリハリの効いた色気のある肢体の彼女は、静々と微笑んだ。

「リーファ様は、本当に皇帝陛下がお好きですね」
「当然よ。あれほど知性に優れて、お優しい方がどこにいると言うの?」

 リーファは腰に手を当てて、ぷぅ、と頬を膨らませる。

「はしたないですよ」
「貴女の前でくらい、いいじゃない」

 皇帝陛下が即位して、もうすぐ五年になる。
 しかし後宮には美女が揃っているというのに、世継ぎどころか正妃の話も出ない、という有様。

 聞くところによると、そもそも後宮に足をお運びにならないと聞いて、リーファはいても立ってもいられなくなったのだ。

「理由は分かってるのよ。きっと、どうせ、お高く止まった美女が皇帝陛下の容姿を理由に、無礼な気持ちを抱いているのを察しておられるに違いないわ!」
「……そのことについて、私の口から何かを述べるのは憚られます」

 サイラの苦笑に、リーファは気分を悪くした。

 醜姿の皇帝。
 現帝がそう影で嘲笑されているのを、当然のことながら知っている。

 皇帝陛下は、頭が大きく、手足が短く、糸のような細い目にカエルのように平べったい顔をしているのだ。

 だが。

「あの方は、お目見えの輿に乗ったご自身を賊が狙い、とっさに前に出た私を剣で裂いた時……真っ先に身を案じて下さったのよ」

 警護の者達が賊を始末し、ざわめく衆人環視の中。
 誰も、輿の花として大外で舞っていた幼いリーファの命など、気にもしていなかったのに。

『無事に在れ。朕のような者を飾る祝いの花のまま手折られ、散ってはならぬ』

 真にこちらの身を案ずる声音。

 近づき、高貴の衣が血に汚れるのも厭わず、抱き上げ、配下に指示して宮廷で治療を施してくれた。

 そのおかげで、リーファは一命を取り止めたのだ。

 それまで、あの方に通り一遍以上の興味はなかった。
 父は重鎮だが、権を過分に欲する人柄でもなく、輿入れの話など全く出なかったから。

「ねぇ、知ってる? 陛下の詠む詩の美しさを。あの方が治水と法治にどれほどの熱意を傾けて、民に尽くしておられるのかを」

 陛下は賢帝だ。
 父以外の重鎮たちは誰も褒めそやさないが、話を聞くと本当に、劇的なほどに民の暮らしぶりは良くなったのだ。

「そうしたお話は、もう何年も耳にタコが出来るほどに聞かされておりますよ」
「皆が知っていれば、世継ぎの大切さを誰よりも知っておられるはずの陛下が、後宮に来ないなんてことがあるわけないでしょ!?」

 リーファは、その事実の悔しさに身震いする。

「ご聡明な方だもの。あれほど瑞々しく美しい詩を詠むのだから、人の気持ちにもお聡いのよ。……誰が自分を嫌う者の元へ、好んで赴きたいと思うの」

 抱かれたくない、と感じていることが分かる相手に、夜這いなど。

「だから私が来たのよ! なのに! ご尊顔を見ることも叶わないとは思わないじゃない!」
「リーファ様のお気持ちはわたくしめには十分伝わっております。後はその熱い想いを、陛下への恋文にしたためて下さいませ。今、紙と筆を用意いたしますから」

 クスクスと笑いながら、サイラが部屋を出て行く。

「絶対陛下にお目通りするわ。後宮に入った以上、来てもらわければ会えないしね!」

 袖をまくりながら、リーファは意気込み……それから毎日、文を送った。

『月下美人の庭で、私はいつまでもお待ち申し上げております』

 そんな言葉を〆にリーファは陛下に興味を持っていただけそうな毎日の事柄を記す。
 時に文の中で詩を詠み、好ましい楽のことを語り、陛下はどう思われますかと投げかける。

 終われば琴を爪弾き、舞いを踊り、お茶と菓子の類いを用意して朝から晩まで、可能な限りを庭で過ごした。

 そうして一月が経った頃。
 夕刻も近い時間に『陛下が後宮に足を運ばれた』と、サイラから報告があった。

※※※
 
 祝いの時以外には来ぬ、と評判の皇帝陛下の出迎えに、侍従達が慌ただし動く中。
 
 リーファは明るい気持ちで、席を立ち、彼が来るのを待っていた。
 やがて複数の足音と喧騒が、庭の方に近づいてくる。

 そうして姿を見せた陛下は……相変わらずお変わりはないようだった。

 歳を多少は食っているはずなのだが、あいも変わらずずんぐりむっくりとした容姿と、あまり似合っているとは言い難い高貴の衣。

 それでも、所作の端々に洗練されたものを感じたリーファは、満面の笑顔でそのお姿を眺めた後にゆっくりと頭を下げる。

「お待ち申し上げておりました、皇帝陛下!」

 リーファは頭を上げたが、なぜかジッと立ち尽くしたまま、何も言わない陛下に首をかしげる。

「陛下、お座りになられませんか?」

 声が弾むのを抑えきれないまま東屋の席を勧めると、彼は黙ったまま動き、浅く腰かける。

「私の文を、ご覧下さいましたか?」

 ニコニコと問いかけると、陛下は小さく頷かれる。

「文の中に記した何が、陛下のお心の琴線を震わせることが出来たのでしょう? やはりお詩でしょうか? 陛下の詠まれるものに比べれば、拙くてお恥ずかしい限りでございますけれど」

 すると、皇帝陛下はゆっくりと目線を上げて下さり、リーファと目が合う。
 糸のように細い目の奥に、深い知性の色と、どことなく不安げなものを感じながら、口を開くのを待った。

「……そなたは」
「はい」
「なぜ一月もの間、文を?」

 その言葉に、リーファは目をぱちくりと瞬く。

「もちろん、陛下にお目通りをして、こうして言葉を交わす為にございますよ」
「何ゆえに」

 陛下は本当に不思議がっているようだった。
 そして続いた言葉に、リーファは驚き、息が詰まった。


「そなたは、賊に襲われた、あの時の幼子であろう……?」


 覚えていてくれた。

 驚きが去ると、徐々に喜びがこみ上げてくる。

 陛下は、覚えていて下さった。

「その節は……誠に、ありがとうございました……」

 嬉しいのに、声が震えそうになる。
 そして、涙がこぼれそうになる。

「こうして、お顔を拝見してお礼を述べることも、以前は、叶いませんでした……」

 年頃になった婚姻前の子女は、夜会以外で皇居に赴くことが出来なかったから。

「その為に、後宮に?」

 陛下は驚かれ、糸目が少しだけ開いた。
 その奥にある瞳は鮮やかな緑で、思いの外美しく夕暮れの日の光を照り返している。

 しかしリーファは、そっと袖口で涙を拭いながら、首を横に振った。

「いいえ。いいえ。目的の一つではありましたけれど、決して、それだけではございません」
「では、何ゆえ?」

 おそらくは、女性との会話には慣れないのだろう。
 まるで片言のように言葉を繰り返すが、その声音はこちらへの気遣いで溢れていた。

「私は、陛下の、そのお人柄に惹かれたのでございます。決して、派手ではなくとも、素晴らしい民への想いや、ご自身の優しさを、私は存じ上げておりますから」

 リーファは、それから様々なことを話し続けた。
 陛下がこちらに興味を持ち、少しずつ緊張が解きほぐれて行くのが分かる。

「……そなたは、決して強要されたわけでも、朕の権が目当てでもないのだな」
「左様にございます、陛下」

 日も完全に暮れかけてきたので、リーファは伝える。

「今日はもう、お仕舞いにいたしましょう。私はずっとここにおりますので、いつでもおいで下さい。そして宜しければ私を愛妾としていただければ、幸いにございます」
「……正妃ではなく、か?」

 戸惑ったような陛下に、リーファは晴れやかに笑みを返す。

「はい。私は、陛下と共に在ることの他に、陛下の魅力を後宮の者たちに伝え、相応しい正妃となれる方を、見極めに来たのです!」
「……?」
 
 本日三度めの驚きを見せた陛下に、申し訳ないと思いながらも、リーファは言葉を重ねる。

 叶うことならば、彼に添い遂げるために、ここで尽くしたいと思ってはいたが……それを出来ない理由は、告げなければならなかった。

「あの時の怪我がもとで、私は、子を授かることの出来ぬ体にございますから!」
 
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