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第二夜 酒も女も金も男も
戻ってくるって信じてる 1
しおりを挟む繁華街の隅にある地下カフェに、千隼はいた。
奥の席で、他の客に背を向けるように座っている。来たときに頼んだコーヒーは、とっくに冷めきっていた。
どれくらいの時間がたったのか、千隼自身もわからない。背後から聞こえる声は入れ代わり立ち代わり、店員は気を遣っているのか声をかけようとしない。
ふと、肩に手を置かれた。
「お兄さん。こんな時間になにしてんの? 暇なら一緒にサンドイッチでも食べない?」
甘いムスクの香りが漂う。千隼は顔を上げた。
どんな女性も落ちるほど美しい顔面。
律が、キレイにほほ笑みながら見下ろしている。千隼の反応がないからか、ふざけるように口角を上げた。
「それとも、年下はお嫌いで?」
「え……?」
千隼は目をぱちくりとさせ、腕時計を確認した。
「あ、え、ウソ……。もうこんな時間?」
すでに早朝に近い時間になっている。律はデリヘル事務所での仕事をとっくに終えていた。
「俺、今からご飯なんで。相席しても?」
千隼が返事をする前に、律は正面に座った。店員が「いつものですよね」と確認程度に尋ねてくる。
「彼の分も一緒に」
「あ、いいよ、俺は」
「どうせなにも食べてないんでしょ? 俺はおなか空いてるんで付き合ってくださいよ」
「あ……うん、わかった」
店員はうなずき、すぐに厨房へオーダーを入れた。
「行きつけ、なの?」
「はい」
律の表情は、普段どおりの不愛想に戻っていた
「この時間は毎日ここにいます」
「そっか。静かで、良い場所だよね。Aquariusとは全然違って」
千隼がコーヒーを手に取り、口に運ぼうとしたときだった。店員が二人のもとにホットココアを持ってくる。
「あ……」
断ろうとする千隼より先に、律が言う。
「この時間にコーヒーはやめといたほうがいいですよ。それとも、甘いものは苦手とか?」
「……いや、そんなことはないよ。ありがとう」
律はココアに口をつけるものの、すぐに「あちっ」と離した。その姿に、千隼はほほ笑みながらコーヒーを置く。
しばらくすると、店員が料理を運んできた。二人の前に置かれた皿には、大きなサンドイッチが二種類のっている。
とんかつとキャベツがたっぷり入ったサンドイッチと、生ハムとトマト、クリームチーズがはみ出ているサンドイッチ。
この時間に食べるには、ボリュームがある。自身の皿を見下ろし、千隼は苦笑した。
「結構、食べるんだね、律くん」
「ですね」
律は生ハムトマトのほうを持ち上げた。口をつける前に、神妙な顔で声を出す。
「千隼さんが早退した理由、俺とお客さまのトラブルに巻き込まれたってことにしてるんですけど。それで大丈夫そうですか?」
「え? そんなことになってんの? ああ、どうりで……女性たちの反応が落ち着いてると思った」
申し訳なさげのため息が、千隼の口から漏れる。
「ごめんね、大変だったでしょ?」
「いや、俺は他に指名のお客さんいたんで、別に。でも他のホストたちは大変そうでしたね。まあ、それがあいつらの仕事なんで気にしなくていいですよ」
律は、それ以上話を続けなかった。見た目に反し、両手でちみちみと食べ始める。
千隼も律に合わせるようサンドイッチを手に取り、口をつけた。
気まずい沈黙が、続く。
お互いに、彼女のことも、ホストクラブでのことも触れようとしない。千隼は義務のように咀嚼を続け、喉の奥へ押し込んでいく。
口の中がカラになると、ぎこちなく声を発した。
「さすがに、もうお店には行けなくなっちゃったな」
律は口についたクリームチーズをなめとり、千隼を見すえる。
千隼は眉尻を下げて続けた。
「あんな大ごとになっちゃったし。みんなに合わせる顔がないよ」
穏やかで、生気のない声だ。律は食べながら、あくまでも淡々と返した。
「俺は、千隼さんに残っていてほしいですけどね」
食らいつこうとした千隼の動きが、止まる。目を見開き、ぎこちなく口角を上げた。
「え~? ほんとに?」
「だって、千隼さんが抜けた分の仕事を店長が俺に押し付けてくるかもしれないじゃないですか。そんなのごめんです」
「……はは。律くんらしいな」
再びちみちみと食べ進める律を、千隼は薄い笑みで見すえた。
サンドイッチに視線を落とす律は、無心で食べ進めている。律がものを食べている姿を見るのは、何気にこれが初めてだった。
「ほんとうは、わかってたんだ」
律は咀嚼しながら千隼を見る。
もう、千隼は律から目をそらそうとしない。
「きっと、これからを一緒にはいられないって。でも、一緒にいたいっていう気持ちも大きくて」
律に気を遣わせないよう、笑っている。
「うぬぼれてたのもあったんだろうな。きっと、大丈夫だって。俺だから、受け入れてくれるって。彼女の言うことをなんでも聞いて――喜ばせるようなことはすすんでやったんだからって」
千隼の目から、涙が一粒、零れ落ちた。
「あ、あれ……?」
必死にぬぐうものの、次から次へと頬を伝う。律は千隼の涙に、なにも言わなかった。
千隼の唇は、震えている。無理やりにでも笑って、続けようとした。
「でも、彼女、ディナー中に律くんのこと」
「大丈夫ですよ、わかってるんで」
強く、穏やかな声だった。千隼をまっすぐに見つめるその目も、堂々としている。
「わざわざ思い出す必要もないです」
その優しさに、千隼はうなずいた。
「うん……。あれが、現実なんだ。俺が頑張ったからって、彼女の価値観が変わるわけじゃなかった」
流れる涙を手でぬぐう。
「わかってたんだ。でも、覚悟がなかった。メンタルがやられて仕事を辞めたってこと、彼女には責めてほしくなかった。責めてくるって、わかってたから、言えなかったんだ……」
話すこともためらうような、苦々しい記憶。自分でも汚点だと思っている。彼女に触れてほしくないがために、彼女を頼ることすら考えなかった。
ずっと隠し続けて一緒にいることなんて、できるはずもないのに。
「彼女に言われなくてもわかってるよ。俺は、仕事も責任も放棄したんだ。会社から、逃げたんだ。……自分でも、クソみたいな人間だってわかってる」
涙交じりの声色は、徐々に重くなる。
「大企業で給料もよくて、続ければ出世の可能性もあったのに……。どんなにつらくても、辞めるべきじゃなかった」
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理性的な律の声に、小さくうなずいた。
「だって、それでも耐えられる人は、いるんだから。……俺は、それが無理だったから、辞めるしかなかった……」
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